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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 250

ページ: 250

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【欄外】    豊橋市史談  (戊午の大獄と小野湖山)                    四百七十二 【本文】       のありと云(い)ふべきである            ◉戊午の大獄と小野湖山       前章(ぜんせう)に申述(まうしの)べたる如(ごと)き事情(じぜう)で安政(あんせい)五 年(ねん)六月廿日 幕府(ばくふ)に於(おい)て拠(よんどこ)なき事情(じぜう)に差迫(さしせま)つて米国(べいこく)との条約(でうやく)に調(てう)       印(いん)する事(こと)に立至(たちいた)つたのであるが勿論(もちろん)まだ之(これ)に対(たい)する勅許(ちよくきよ)は得(え)られなかつたのであるソコで此(この)事(こと)に関(くわん)し       ては大老(たいろう)たる井伊掃部頭(いゐかもんのかみ)が自(みづか)ら其(その)全責任(ぜんせきにん)を負(お)ふの決心(けつしん)を以(もつ)て其(その)間(あひだ)に立(た)つに至(いた)つたのであるが只(たゞ)一 篇(ぺん)の       奉書(はうしよ)を以(もつ)て其(その)事(こと)を具申(ぐしん)しただけで置(お)く訳(わけ)には行(ゆ)かぬのは勿論(もちろん)であるから幕府(ばくふ)よりは新任(しんにん)老中(らうちう)の間部詮(まなべのり)       勝(かつ)を上京(ぜうけう)せしむる事(こと)と成(な)つたのである然(しか)るに京都(けうと)に於(おい)ても先(さ)きの奉書(ほうしよ)によりて議論(ぎろん)は益(ます〳〵)沸騰(ふつてう)し其(その)結(けつ) 《割書:間部詮勝の|上京》  果(くわ)朝旨(てうし)を伝(つた)へて三 家(け)又(また)は大老(たいらう)の上京(ぜうけう)を促(うなが)したのであるが其頃(そのころ)将軍(せうぐん)の病気(びやうき)は愈(いよ〳〵)重(おも)く何時(いつ)変事(へんじ)があるか分(わか)       らないので到底(とうてい)大老(たいらう)の上京(ぜうけう)を容(ゆる)さぬのは勿論(もちろん)であるから幕府(ばくふ)は実情(じつぜう)を京都(けうと)に具(ぐ)して前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)く間部(まなべ)老(ろう) 《割書:将軍家定薨|去》  中(ちう)の上京(ぜうけう)を見(み)る事(こと)となつたのであるが其(その)出発(しゆつぱつ)に先(さきだ)ち将軍(せうぐん)家定(いへさだ)は遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたので自然(しぜん)詮勝(のりかつ)の上(ぜう)       京(けう)も延引(えんいん)することと成(な)つたのである       トコロで京都(けうと)の形勢(けいせい)であるが青蓮院宮(せいれんゐんのみや)を初(はじ)めとし三 条前内府(ぜうさきのないふ)、鷹司太閤(たかつかさたいこう)、近衛左府(このえさふ)、中山(なかやま)、正親町(おゝぎまち)の       両大納言(れうだいなごん)等(ら)の諸(しよ)公卿(くけう)は大(おほい)に幕府(ばくふ)の専断(せんだん)を以(もつ)て条約(でうやく)に調印(てういん)せしを憤(いきどほ)り之(こ)れ正(まさ)に違勅(ゐちよく)の処置(しよち)なりとして日(にち)       夜(や)協議(けふぎ)する処(ところ)があつたのである然(しか)るに独(ひと)り九 条関白(ぜうかんぱく)のみは所謂(いはゆる)朝廷(てうてい)と幕府(ばくふ)との懸橋(かけはし)となりて其間(そのあひだ)に斡(あつ)       旋(せん)する処(ところ)少(すくな)からざりしので他(た)の公卿(くけう)からは一 方(かた)ならず排斥(はいせき)され既(すで)に其(その)位置(いち)さへも危(あやふ)からむとする情態(ぜうたい) 《割書:水戸並に幕|府に勅諚を|下賜せらる》  であつたのである而(しか)して其(その)間(あひだ)には容易(ようい)ならざる混雑(こんざつ)が伴(ともな)つたのであるが八月七日の頃(ころ)に至(いた)つて朝廷(てうてい)よ       り水戸中納言(みとちうなごん)へ勅諚(ちよくぜう)を賜(たまは)るべきことに朝議(てうぎ)が一 決(けつ)したのである其(その)要旨(えうし)は幕府(ばくふ)の有司(ゆうし)等(とう)は将軍(せうぐん)の聡明(そうめい)を掩(おほ) 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百四十七号附録    (大正二年八月十四日発行) 【本文】       ひ専断(せんだん)を以(もつ)て皇国(わうこく)の重事(じうじ)たる条約(ぜうやく)に調印(てういん)し事(こと)終(をわ)りて後(のち)奏上(そうぜう)したるが如(ごと)きは実(じつ)に軽率(けいそつ)の取計(とりはか)らひである       此(かく)の如(ごと)きは仮令(たとへ)外夷(がいゐ)の事(こと)は姑(しばら)く措(お)くとするも国内(こくない)の治乱(ぢらん)に対(たい)して如何(いかゞ)あらむかと叡慮(えいりよ)を悩(なや)まさるゝ処(ところ)       である因(よつ)て公武(こうぶ)の実情(じつぜう)を尽(つ)くし東西合体(とうざいがつたい)して永久安全(えいきうあんぜん)の策(さく)を講(かう)ぜん為(た)め三 家(け)大老(たいらう)の上京(ぜうけう)を促(うなが)したが尾(び)       水(すゐ)両家(れうけ)は謹慎中(きんしんちう)との事(こと)である元来(がんらい)之(これ)は如何様(いかよう)の罪(つみ)であるか分(わか)らぬが目下(もくか)外交(がいかう)の事(こと)あるに方(あた)つて却(かへ)つて       此(かく)の如(ごと)きの事(こと)で柳営(りうえい)の羽翼(うよく)を殺(そ)ぐが如(ごと)きは人心(じんしん)の帰向(きこう)如何(いかゞ)とも思召(おぼしめ)さるゝ処(ところ)である曩(さき)に三 家(け)以下(いか)諸侯(しよこう)       の衆議(しうぎ)を聞(き)かむと望(のぞ)まれしも強(あなが)ちに外夷(がいゝ)の事(こと)のみではない内憂(ないゆう)があつては猶更(なほさら)であるから此(この)上(うへ)尚(な)ほ大(たい)       老(らう)閣老(かくろう)は勿論(もちろん)三 家(け)初(はじ)め諸侯(しよこう)と共(とも)に群議(ぐんぎ)を凝(こ)らし結局(けつきよく)国内(こくない)静謐(せいいつ)公武(こうぶ)一 致(ち)以(もつ)て内(うち)を整(とゝの)へ外侮(がいぶ)を防(ふせ)ぐの策(さく)を       講(こう)ずべしと云(い)ふにあつたのである而(しか)して水戸(みと)は諸侯(しよこう)の筆頭(ひつとう)であるから水戸(もと)からして此(この)事(こと)を家門(かもん)初(はじ)め諸(しよ)       侯(こう)へ通達(つうだつ)して共(とも)に会議(くわいぎ)を開(ひら)くようにと云(い)ふのであつたが之(これ)には九 条関白(ぜうくわんぱく)は不服(ふふく)であつたのであるソコ       で遂(つひ)に近衛(このえ)鷹司(たかつかさ)一 条(ぜう)二 条(ぜう)三 条(ぜう)等(ら)の諸卿(しよけう)のみ連署(れんしよ)してイヨ〳〵八月八日を以(もつ)て水戸(みと)に賜(たまわ)らむとしたが併(しか)       し之(これ)を秘密(ひみつ)にするのは宜(よろ)しくないと云(い)ふので後(のち)二日を経(へ)て同様(どうよう)の勅書(ちよくしよ)を幕府(ばくふ)へも下(くだ)されたのであるソ       コで水戸中納言(みとちうなごん)は直(たゞ)ちに奉勅(ほうちよく)の請書(せいしよ)を進(すゝ)め之(これ)と同時(どうじ)に老中(ろうちう)に対(たい)して其(その)取計(とりはから)ひ方(かた)に就(つい)て協議(けうぎ)したのであ       るが結局(けつきよく)閣老(かくろう)方(かた)に於(おい)ては凝議(ぎようぎ)の上(うへ)水戸(みと)に対(たい)しては三 家(け)三 卿(けう)の外(ほか)には其(その)伝達(でんたつ)を止(とゞ)めしめ朝廷(てうてい)に対(たい)しては       将軍(せうぐん)の喪(も)に会(くわい)し忌服中(きふくちう)踟蹰(ちうゆう)して居(を)つた訳(わけ)であるが不日(ふじつ)間部下総守(まなべしもをさのかみ)が上京(ぜうけう)の上(うへ)委細(いさい)は奏上(そうぜう)する筈(はづ)である       との意(い)を答奏(とうそう)したのである       之(これ)より先(さ)き井伊大老(いゐたいろう)の謀臣(ばうしん)で諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)である彼(か)の長野主膳(ながのしゆぜん)は大老(たいろう)からの旨(むね)を含(ふく)みて上京(ぜうけう)し種々(しゆ〴〵)京(けう)       都(と)にあつて奔走(ほんそう)する処(ところ)があつたのであるが殊(こと)に九 条関白(ぜうくわんぱく)の臣(しん)島田左近(しまださこん)とは兼(かね)て親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)であるから       此(この)人(ひと)によりて段々(だん〴〵)関白(くわんぱく)に対(たい)しても入説(にうせつ)する処(ところ)があつたのである然(しか)るに当時(たうじ)は前(まへ)に申述(まうしの)べたる如(ごと)く極(きは)め 【欄外】    豊橋市史談  (戊午の大獄と小野湖山)                    四百七十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十二 【本文】 のがあると言うべきである。 ◉戊午の大獄と小野湖山 前章に申し述べたような事情で、安政五年六月二十日、幕府においてよんどころない事情に差し迫って米国との条約に調印することに立ち至ったのであるが、もちろんまだこれに対する勅許は得られなかったのである。そこでこのことに関しては大老たる井伊掃部頭が自ら全責任を負う決心をもってその間に立つに至ったのであるが、ただ一篇の奉書をもってその事を具申しただけで置くわけにはいかぬのはもちろんであるから、幕府よりは新任老中の間部詮勝を上京させることとなったのである。 間部詮勝の上京 然るに京都においても先の奉書によって議論は益々沸騰し、その結果朝旨を伝えて三家また は大老の上京を促したのであるが、その頃将軍の病気はいよいよ重く、いつ変事があるか分からないので到底大老の上京を許さぬのはもちろんであるから、幕府は実情を京都に具して前述のごとく間部老中の上京を見ることとなったのであるが、 将軍家定薨去 その出発に先立ち将軍家定は遂に薨去と相成ったので、自然詮勝の上京も延引することとなったのである。 ところで京都の形勢であるが、青蓮院宮をはじめとし三条前内府、鷹司太閤、近衛左府、中山、正親町の両大納言等の諸公卿は大いに幕府の専断をもって条約に調印せしを憤り、これ正に違勅の処置なりとして日夜協議するところがあったのである。然るに独り九条関白のみは所謂朝廷と幕府との懸橋となりて、その間に斡旋するところ少なからざりしので、他の公卿からは一方ならず排斥され、既にその位置さえも危うからんとする情態であったのである。 水戸並に幕府に勅諚を下賜せらる そしてその間には容易ならざる混雑が伴ったのであるが、八月七日の頃に至って朝廷より水戸中納言へ勅諚を賜るべきことに朝議が一決したのである。その要旨は、幕府の有司等は将軍の聡明を掩 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百四十七号附録(大正二年八月十四日発行) 【本文】 い専断をもって皇国の重事たる条約に調印し、事終りて後奏上したるがごときは実に軽率の取計らいである。このようなことは仮令外夷のことは暫く措くとするも、国内の治乱に対していかがあらんかと叡慮を悩ませるところである。よって公武の実情を尽くし東西合体して永久安全の策を講ぜんため、三家大老の上京を促したが、尾水両家は謹慎中とのことである。 元来これはいかようの罪であるか分からぬが、目下外交のことあるに方って却ってこのようなことで柳営の羽翼を殺ぐがごときは、人心の帰向いかがとも思召されるところである。曩に三家以下諸侯の衆議を聞かんと望まれしも、強ち外夷のことのみではない。内憂があっては猶更であるから、この上尚お大老閣老はもちろん三家はじめ諸侯と共に群議を凝らし、結局国内静謐公武一致をもって内を整え外侮を防ぐの策を講ずべし、ということであったのである。 そして水戸は諸侯の筆頭であるから、水戸からしてこの事を家門はじめ諸侯へ通達して共に会議を開くようにということであったが、これには九条関白は不服であったのである。そこで遂に近衛・鷹司・一条・二条・三条等の諸卿のみ連署していよいよ八月八日をもって水戸に賜わんとしたが、併しこれを秘密にするのは宜しくないということで、後二日を経て同様の勅書を幕府へも下されたのである。 そこで水戸中納言は直ちに奉勅の請書を進め、これと同時に老中に対してその取計らい方について協議したのであるが、結局閣老方においては凝議の上、水戸に対しては三家三卿の外にはその伝達を止めさせ、朝廷に対しては将軍の喪に会し忌服中踟蹰していた訳であるが、不日間部下総守が上京の上委細は奏上する筈である、との意を答奏したのである。 これより先き井伊大老の謀臣で諸君もご承知である彼の長野主膳は、大老からの旨を含んで上京し、種々京都にあって奔走するところがあったのであるが、殊に九条関白の臣島田左近とは兼て親密の間柄であるから、この人によって段々関白に対しても入説するところがあったのである。然るに当時は前に申し述べたるごとく極め 【欄外】 豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 472 **Main Text:** should be said to exist. ◉The Ansei Purge and Ono Kozan Under the circumstances described in the previous chapter, on June 20th of Ansei 5 (1858), the shogunate found itself compelled by unavoidable circumstances to sign the treaty with America, but of course imperial permission for this had not yet been obtained. Therefore, regarding this matter, Great Elder Ii Kammon-no-kami found himself in the position of taking full responsibility upon himself, but of course it would not do to leave matters with just submitting a single memorial explaining the situation, so the shogunate decided to send newly appointed Senior Councilor Manabe Noriatsu to Kyoto. **Manabe Noriatsu's Journey to Kyoto** However, in Kyoto as well, the previous memorial had caused debate to boil over even more intensely, and as a result imperial orders were transmitted urging the Three Houses or the Great Elder to come to Kyoto. But at that time the shogun's illness was becoming increasingly serious and no one knew when something might happen, so it was of course impossible to permit the Great Elder to travel to Kyoto. Therefore the shogunate explained the actual situation to Kyoto and arranged for Senior Councilor Manabe to make the journey as described above. **The Death of Shogun Iesada** However, prior to his departure, Shogun Iesada finally passed away, so naturally Noriatsu's journey to Kyoto was also postponed. Now, regarding the situation in Kyoto, the various court nobles including Prince Shōren'in, Former Interior Minister Sanjō, Grand Minister Takatsukasa, Minister of the Left Konoe, and the Great Counselors Nakayama and Ōgimachi were greatly angered by the shogunate's arbitrary signing of the treaty and considered this precisely a violation of imperial orders, holding consultations day and night. However, only Regent Kujō served as a bridge between the court and the shogunate, working considerably to mediate between them, and for this he was severely ostracized by the other court nobles, with even his position becoming precarious. **Imperial Edicts Granted to Mito and the Shogunate** During this period considerable turmoil ensued, but around August 7th the court decided to grant an imperial edict to the Mito Middle Counselor. The gist was that the shogunate officials had concealed the shogun's wisdom and **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4,447 Supplement (Published August 14, Taishō 2 [1913]) **Main Text:** acted arbitrarily to sign treaties on matters of great importance to the imperial nation, then reported after the fact, which was truly a reckless way of handling things. Even setting aside foreign barbarian matters for the moment, such actions caused imperial concern about how they might affect domestic order and disorder. Therefore, to exhaust the true situation of court and military and achieve eastern and western unity to devise policies for permanent security, they urged the Three Houses and Great Elder to come to Kyoto, but the Owari and Mito houses were under house confinement. Originally it was unclear what crime this represented, but at present when foreign affairs were pressing, to thus clip the wings of the shogunate was a matter of concern regarding where people's hearts would turn. Previously they had hoped to hear the collective opinions of the Three Houses and other daimyo, and this was not solely about foreign barbarians—with domestic troubles it was even more necessary. Therefore, the Great Elder and Senior Councilors should of course gather with the Three Houses and other daimyo to concentrate group deliberation and ultimately devise policies to maintain domestic tranquility and court-military unity to organize internally and defend against foreign insults. Since Mito was the head of the daimyo houses, Mito should transmit this matter to the collateral houses and other daimyo to convene conferences together. However, Regent Kujō was displeased with this. Therefore finally only the nobles Konoe, Takatsukasa, Ichijō, Nijō, Sanjō and others signed jointly to grant this to Mito on August 8th, but thinking it improper to keep this secret, two days later a similar edict was also sent down to the shogunate. Therefore the Mito Middle Counselor immediately submitted a written acceptance of the imperial edict, and simultaneously consulted with the Senior Councilors about how to handle the matter. Ultimately, after deliberation, the Senior Councilors decided that regarding Mito, transmission should be limited to the Three Houses and Three Court Nobles, and regarding the court, they were in mourning for the shogun and hesitating during the mourning period, but soon Manabe Shimōsa-no-kami would travel to Kyoto and report details, which was the gist of their reply. Prior to this, the well-known retainer and advisor to Great Elder Ii, Nagano Shuzen, had traveled to Kyoto with instructions from the Great Elder and worked extensively there in various ways. He was particularly close to Shimada Sakon, a retainer of Regent Kujō, and through this person gradually made various persuasive arguments to the Regent as well. However, at that time, as previously mentioned, the situation was extreme **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 473