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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 26

ページ: 26

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【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿四 【本文】       かと疑(うたが)つた戸田(とだ)の讒言(ざんげん)を信(しん)じて忽(たちま)ち以前(いぜん)に信任(しんにん)した古白(こはく)を攻(せ)むるに至(いた)るとは少(すこ)しく受取(うけと)れぬ話(はなし)である       と思(おも)ふ、シテ見(み)ると前(まへ)に述(の)べた第一 説(せつ)は誤(あやまり)であつて第二の長親逆襲説(ながちかぎやくしせつ)が有理(ゆうり)であるようになるのであ       る、 然(しか)るに之(これ)にも亦(ま)た一つの反証(はんせう)とも見(み)るべきものがあるので当時(とうじ)長親(ながちか)に逆襲(ぎやくしう)などの意気込(いきごみ)のなかつ       た事は矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)初(はじ)め諸書(しよ〳〵)に見(み)ゆる処(ところ)であるが長親(ながちか)は到底(とうてい)勝(か)つことの出来(でき)まいかと心痛(しつう)した戦(たゝかひ)に首尾(しゆび)       よく勝(か)つたので長駆(てうく)なとする考(かんがへ)はなく翼(つばさ)を収(おさ)めて安祥(あんじやう)の城(しろ)に引(ひ)き籠(こも)つた様子(やうす)が見(み)えて居(を)るのである、 岡崎古記  それのみならず岡崎古記(をかざきこき)と云(い)ふ書に「 今川氏親(いまがはうぢちか)は三 河(かは)を従(したが)へん為(た)めに発向(はつこう)し東(ひがし)三 河(かは)の今橋(いまはし)に於(おい)て合戦(かつせん)      あり城主(ぜうしゆ)牧野氏(まきのし)討死(うちじに)し氏親(うぢちか)はそれより猶(なほ)進(すゝん)で西(にし)三 河(かは)に向(むか)ふ之(これ)に依(よつ)て山中妙大寺(やまなかめうだいじ)矢作寺(やはぎじ)所々(しよ〳〵)方々(はう〴〵)にて合(かつ)        戦(せん)あり此時(このとき)桑子村(くわこむら)明源寺(めうげんじ)の扱(あつかひ)にて和談(わだん)になり仝年十一月十五日 桑子村(くわこむら)明源寺(めうげんじ)え今川氏親(いまがはうぢちか)より制札(せいさつ)を出(いだ) 妙源寺文書 され今(いま)に所持(しよじ)す」と云(い)ふ事が記(し)るされて居(を)る、ソコで碧海郡(へきかいぐん)の矢作町(やはぎまち)大字(おほあざ)桑子(くわこ)の妙源寺(めうげんじ)に行(いつ)て見(み)ると        成程(なるほど)永正(えいせう)三 年(ねん)十一月十五日 付(つけ)の制札(せいさつ)がある併(しか)し此(この)制札(せいさつ)には氏親(うぢちか)の名前(なまへ)はなくて只(た)だ花押(くわこう)が一つある丈(だけ)       であるが、 此(この)花押(くわこう)は花押籔(くわこうそう)と云ふ書物(しよもつ)にある氏親(うぢちか)のとは少(すこ)しく違(ちが)ふ点(てん)がないではない併(しか)し決(けつ)して後世(こうせい)       の製作物(せいさくぶつ)ではないと信(しん)ずる、スルト氏親(うぢちか)が此日(このひ)に此処(ここ)に来(きた)つた事は事実(じじつ)であるとせねばならぬ朝野旧(てうやきう)        聞裒稿(ぶんほうこう)幷(ならび)に吉田城主考(よしだぜうしゆこう)は即(すなは)ち此点(このてん)によつて岡崎古記(をかざきこき)の説(せつ)を信(しん)じ所謂(いはゆる)第一 説(せつ)を取(と)つて居(を)るのである、 然(しか)       れ共(ども)之(こ)れも見様(みやう)によつてはコウもなるので即(すなは)ち古白(こはく)が長親(ながちか)の逆襲(ぎやくしう)によつて苦(くるし)められて居(を)ると云ふ事を        氏親(うぢちか)が聞(き)ゐて直(たゞ)ちに駿河(するが)から兵(へい)を率(ひき)ゐて来(きた)つたが長親(ながちか)は既(すで)に引(ひ)き還(かへ)つた後(のち)であつたから其後(そのご)を追(お)つて       十一月の十五日 桑子(くわ)迄(まで)達(たつ)したのである之(これ)でも理屈(りくつ)は合(あ)うのである要(えう)するに此(この)両説(れうせつ)は前(まへ)にも述(の)べたる如(ごと)       く古来(こらい)からの疑問(ぎもん)であるから今新(いまあらた)に確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)を発見(はつけん)するに至(いた)るまでは先(ま)づ不明(ふめい)である只(た)だ私(わたくし)は        説(せつ)としては暫(しばら)く寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)中(ちう)古白(こはく)の譜(ふ)に 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百十二号附録   ( 明治四十四年四月二十一日発行 ) 【本文】         永正(えいせう)三年 伊勢新(いせしん)九 郎(らう)長氏(ながうぢ)今川氏親(いまがはうじちか)に代(かは)り駿遠(すんえん)三及び豆相(づさう)五 箇国(かこく)の兵を率(ひき)ゐて三河国に発向(はつこう)す之の時         今川家(いまがはけ)に属(ぞく)す九月 長親(ながちか)数(すう)十 騎(き)を率(ひき)ゐて吉田城(よしだぜう)を攻(せめ)たまふ十一月三日 城中(ぜうちう)勢(いきほ)ひ屈(くつ)して士率(しそつ)散走(さんさう)し残兵(ざんぺい)         僅(わづか)に六七十人 城(しろ)を出(い)で相戦(あいたゝか)ひこと〴〵く討死(うちじに)す       とあるに従(したが)はむとするものである尚(なほ)参考(さんこう)の為(ため)に第一説に属(ぞく)するものゝ 内(うち)で藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)を掲(かゝ)ぐれば左(さ)       の如(ごと)くである                (牧野氏(まきのし)の条(くだり))          初(はじ)め牧野古白入道(まきのこはくにふどう)今橋の城(しろ)にありて田原(たはら)の戸田(とだ)と心(こゝろ)よからず今川(いまがは)治部大輔(じぶたゆう)氏親(うぢちか)戸田を助(たす)けて今橋(いまはし)の          城(しろ)を攻(せ)む永正(えいせう)三年十一月 城(しろ)破(やぶ)れて牧野入道(まきのにふどう)腹切(はらきつ)て死(し)す城(しろ)をば戸田(とだ)で取(と)りたりける                (戸田氏(とだし)の条(くだり))          其(その)男(だん)弾正忠憲光(だんぜうたゞのりみつ)田原にあり同国(どうこく)今橋(いまはし)の住人(ぢうにん)牧野入道古白(まきのにふどうこはく)と互(たがひ)に地を争(あらそ)ふ今川(いまがは)治部大輔(じぶたゆう)氏親(うぢちか)戸田を助(たす)         く永正(えいせう)三年七月 駿河(するが)の国(くに)を立(たつ)て同き八月二十六日 今橋(いまはし)の城(しろ)に押(おし)よせ攻(せ)め戦(たゝか)ふ事六十余日 牧野(まきの)終(つひ)に打(うち)         まけて切腹(はらきつ)て死(し)す 古白の人物  次(つぎ)に古白(こはく)の人物(じんぶつ)に就(つい)ての話(はなし)であるが元来(がんらい)古白(こはく)と云ふ人は前(まへ)にも述(の)べた如(ごと)く連歌(れんか)の達人(たつじん)で宗長(そうてう)とは余程(よほど)        深(ふか)い交際(こうさい)があつたものである、 然(しか)るに古白(こはく)の書(か)いたものは全(まつた)く何(なん)にも今日に残(のこ)つて居(を)らぬので、 殆(ほとん)ど        其(その)人物(じんぶつ)如何(いかん)を知(し)るの材料(ざいれう)がないと云ふ訳(わけ)である、 只(たゝ)豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)龍拈寺(りうねんじ)に古白(こはく)内室(ないしつ)の画像(ぐわぞう)があるが之(これ)は        其子(そのこ)成三(しげかづ)が納(をさ)めたものに相違(さうゐ)なく思(おも)はるゝので其像(そのぞう)の人品(じんぴん)と云ひ服装(ふくそう)等(とう)から推(お)して当時(とうじ)に於ける牧野(まきの)        氏(し)の位置(ゐち)が中々(なか〳〵)低(ひく)からざりしものであつたことが思(おも)はるゝのである、 而(しか)して若(も)しも豊橋市中八の神明社 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (牧野古白の戦死)          二十四 【本文】      かと疑った戸田の讒言を信じて忽ち以前に信任した古白を攻めるに至るとは少しく受け取れない話である      と思う。してみると前に述べた第一説は誤りであって第二の長親逆襲説が有理であるようになるので      ある。然るにこれにもまた一つの反証とも見るべきものがあるので、当時長親に逆襲などの意気込みのなかっ      た事は矢張り『三河物語』初め諸書に見える処であるが、長親は到底勝つことの出来まいかと心配した戦いに首尾      よく勝ったので、長駆などする考えはなく翼を収めて安祥の城に引き籠った様子が見えているのである。 『岡崎古記』  それのみならず『岡崎古記』という書に「今川氏親は三河を従えんために発向し、東三河の今橋において合戦      あり、城主牧野氏討死し、氏親はそれより猶進んで西三河に向かう。これに依って山中妙大寺、矢作寺、所々方々にて合      戦あり。この時桑子村明源寺の取り扱いにて和談になり、同年十一月十五日桑子村明源寺へ今川氏親より制札を出 『妙源寺文書』 され、今に所持す」ということが記されている。そこで碧海郡の矢作町大字桑子の妙源寺に行ってみると      成程永正三年十一月十五日付の制札がある。併しこの制札には氏親の名前はなくて只だ花押が一つあるだけ      であるが、この花押は『花押藪』という書物にある氏親のとは少しく違う点がないではない。併し決して後世      の製作物ではないと信ずる。すると氏親がこの日にここに来った事は事実であるとせねばならぬ。『朝野旧      聞裒稿』並びに『吉田城主考』は即ちこの点によって『岡崎古記』の説を信じ、所謂第一説を取っているのである。然      れどもこれも見様によってはこうもなるので、即ち古白が長親の逆襲によって苦しめられているということを      氏親が聞いて直ちに駿河から兵を率いて来たが、長親は既に引き返った後であったから、その後を追って      十一月の十五日桑子まで達したのである。これでも理屈は合うのである。要するにこの両説は前にも述べたる如く      古来からの疑問であるから、今新に確実なる証拠を発見するに至るまでは先ず不明である。只だ私は      説としては暫く『寛政重修諸家譜』中古白の譜に 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百十二号付録  (明治四十四年四月二十一日発行) 【本文】      永正三年伊勢新九郎長氏今川氏親に代り駿遠三及び豆相五箇国の兵を率いて三河国に発向す。この時      今川家に属す。九月長親数十騎を率いて吉田城を攻めたまふ。十一月三日城中勢い屈して士卒散走し、残兵      わずかに六七十人、城を出で相戦いことごとく討死す      とあるに従おうとするものである。尚参考のために第一説に属するもののうちで『藩翰譜』の記事を掲げれば左      の如くである               (牧野氏の条)        初め牧野古白入道今橋の城にありて田原の戸田と心よからず。今川治部大輔氏親戸田を助けて今橋の        城を攻む。永正三年十一月城破れて牧野入道腹切って死す。城をば戸田で取りたりける               (戸田氏の条)        その男弾正忠憲光田原にあり。同国今橋の住人牧野入道古白と互いに地を争ふ。今川治部大輔氏親戸田を助        く。永正三年七月駿河の国を立って同き八月二十六日今橋の城に押し寄せ攻め戦ふこと六十余日。牧野終に打ち        負けて切腹して死す 古白の人物 次に古白の人物についての話であるが、元来古白という人は前にも述べた如く連歌の達人で宗長とは余程      深い交際があったものである。然るに古白の書いたものは全く何にも今日に残っていないので、殆ど      その人物いかんを知る材料がないという訳である。只だ豊橋市吉屋龍拈寺に古白内室の画像があるが、これは      その子成三が納めたものに相違なく思われるので、その像の人品といい服装等から推して当時における牧野      氏の位置が中々低からざりしものであったことが思われるのである。而して若しも豊橋市中八の神明社 【欄外】 豊橋市史談  (牧野古白の戦死)          二十五

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (The Death in Battle of Makino Kohaku)          24 【Main text】      would believe Toda's slander and suddenly attack Kohaku, whom he had previously trusted, seems somewhat unacceptable.      I think so. When we consider this, the first theory mentioned earlier appears to be wrong and the second theory of Nagachika's counterattack seems more reasonable.      However, there is also what can be seen as counter-evidence to this, as it appears in "Mikawa Monogatari" and other books that Nagachika had no such aggressive intentions for a counterattack at the time, and having successfully      won a battle he was worried he could never win, he had no thought of pursuing the enemy but folded his wings and withdrew to Anjō Castle. "Okazaki Koki"  Moreover, in a book called "Okazaki Koki" it is recorded that "Imagawa Ujichika advanced to subjugate Mikawa, there was a battle at Imahashi in eastern Mikawa,      the castle lord Makino clan died in battle, and Ujichika then advanced further toward western Mikawa. Due to this, there were battles at various places including Yamanaka Myōdaiji and Yahagiji temples. At this time, through the mediation of Myōgenji temple in Kuwako village, peace was made, and on November 15th of the same year, Imagawa Ujichika issued "Myōgenji Documents" a prohibition tablet to Myōgenji temple in Kuwako village, which they still possess." So when I went to Myōgenji temple in Kuwako, Ōaza, Yahagi town, Hekikai district,      there was indeed a prohibition tablet dated November 15th, Eishō 3rd year. However, this tablet does not have Ujichika's name but only has one monogram seal,      and this monogram differs somewhat from Ujichika's in a book called "Kaōsō," though I believe it is certainly not a later fabrication. Then we must accept that Ujichika came here on this day as fact. "Chōya Kyūbun Hōkō"      and "Yoshida Castle Lord Study" believe the theory in "Okazaki Koki" based on this point and adopt the so-called first theory. However,      depending on how one looks at it, it could also be like this: when Ujichika heard that Kohaku was being troubled by Nagachika's counterattack,      he immediately led troops from Suruga, but since Nagachika had already withdrawn, he pursued him and      reached Kuwako on November 15th. This reasoning also makes sense. In essence, these two theories are, as I mentioned before,      questions from ancient times, so until new reliable evidence is discovered, they remain unclear. I personally      tentatively follow the account in Kohaku's genealogy in "Kansei Chōshū Shokafu" which states: 【Left page】 【Margin】 San'yō Shimbun No. 3712 Supplement  (Published April 21, Meiji 44) 【Main text】      "Eishō 3rd year, Ise Shinkurō Nagauji, representing Imagawa Ujichika, led troops from five provinces of Sunen-San and Tōsō and advanced to Mikawa province. At this time      he served the Imagawa house. In the 9th month, Nagachika led several dozen horsemen to attack Yoshida Castle. On November 3rd, the castle's morale collapsed and soldiers scattered, with remaining troops      of only sixty to seventy men who came out of the castle to fight and all died in battle."      For further reference, among those belonging to the first theory, the account from "Hankanfu" is as follows:               (Makino clan section)        Initially, Makino Kohaku the monk was in Imahashi Castle and did not get along with Toda of Tahara. Imagawa Jibu-dayū Ujichika helped Toda and attacked Imahashi        Castle. In November of Eishō 3rd year, the castle fell and Makino the monk committed seppuku and died. The castle was taken by Toda.               (Toda clan section)        His son Danjō-tadanori Norimitsu was in Tahara. He disputed territory with Makino the monk Kohaku, a resident of Imahashi in the same province. Imagawa Jibu-dayū Ujichika helped Toda.        In July of Eishō 3rd year, he left Suruga province and on August 26th of the same year besieged Imahashi Castle, fighting for over sixty days. Makino was finally defeated        and committed seppuku and died. Kohaku's Character Next regarding Kohaku's character, originally Kohaku was, as I mentioned before, a master of linked verse who had quite      deep relations with Sōchō. However, nothing written by Kohaku remains today, so there are almost      no materials to know what kind of person he was. Only at Ryūnenji temple in Yoshiya, Toyohashi city, there is a portrait of Kohaku's wife, which      was undoubtedly offered by his son Shigekazu, and judging from the dignity and clothing of the figure, we can infer that the position of the Makino      clan at that time was quite high. And if at Shinmei Shrine in Yahashi, Toyohashi city 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (The Death in Battle of Makino Kohaku)          25