Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 251

ページ: 251

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (戊午の大獄と小野湖山)                    四百七十四 【本文】       て幕府(ばくふ)反対(はんたい)の気焔(きえん)が揚(あが)れる大勢(たいせい)であるから関白(くわんぱく)と雖(いへど)も如何(いかゞ)ともすることが出来(でき)ず下手(へた)をすれば却(かへつ)て己(おの)れ       の位置(ゐち)が危(あぶな)いような事情(じぜう)と相成(あひな)るのであるから之(これ)が救済(きうさい)の必要上(ひつえうぜう)からも益(ます〳〵)間部下総守(まなべしもをさのかみ)の上京(ぜうけう)は一日       も速(すみやか)でなければならぬ事(こと)に立至(たちいた)つたのである       トコロでイヨ〳〵新所司代(しんじよしだい)の酒井若狭守(さかゐわかさのかみ)は八月 下旬(げじゆん)を以(もつ)て上洛(ぜうらく)の途(と)に就(つ)いたのであるが長野(ながの)は先(ま)づ其(そ)       の入京(にうけう)以前(いぜん)に充分(じうぶん)京都(けうと)に於(お)ける現況(げんけう)を通(つう)じて置(お)く必要(ひつえう)があると云(い)ふので自(みづか)ら桑名(くわな)まで潜行(せんこう)して共(とも)に画(かく)       策(さく)する処(ところ)があつたと云(い)ふ事(こと)であるが朝廷(てうてい)に於(おい)ても亦(ま)た之(これ)に向(むかつ)て対抗策(たいこうさく)を密議(みつぎ)し九 条関白(ぜうくわんぱく)を初(はじ)め久我(くが)、       廣橋(ひろはし)、萬里小路(までのこうぢ)等(ら)の伝奏(でんそう)と其他(そのた)の公卿(くげ)との間(あひだ)に種々(しゆ〴〵)紛雑(ふんざつ)せる事情(じぜう)もあつたのであるが帰(き)する処(ところ)は前(まへ)に       申述(まうしの)ぶる如(ごと)く幕府(ばくふ)反対(はんたい)の気勢(きせい)は実(じつ)に盛(さかん)なものであつたが之(これ)には彼(か)の志士(しゝ)等(ら)の入説(にうせつ)奔走(ほんそう)が甚(はなはだ)しく効(こう)を奏(そう)       したものである而(しか)して結局(けつきよく)は幕府(ばくふ)にありて如何(いか)なる所見(しよけん)があつても之(これ)を天聴(てんてう)に達(たつ)することは望(のぞ)むべから       ざるの気運(きうん)に遭遇(そうぐう)せむとするに至(いた)つたのであるから今度(このたび)上洛(ぜうらく)の大任(たいにん)を負(お)へる間部下総守(まなべしもをさのかみ)の任務(にんむ)と云(い)ふ       ものは実(じつ)に重大(ぢうだい)なる事(こと)であつたが着々(ちやく〳〵)此(この)勢(いきほひ)で進行(しんかう)するに於(おい)ては其(その)終局(しうきよく)と云(い)ふものが到底(とうてい)普通(ふつう)の事(こと)では       落着(らくちやく)せざるのも止(やむ)を得(え)ざるの趨勢(すうせい)で此(この)戊午(つちのへうま)の大獄(たいごく)と云(い)ふものゝ起(おこ)つたのも実(じつ)に余儀(よぎ)なき次第(しだい)ともな 《割書:梅田源次郎|等の奔走》  すべきである当時(たうじ)京都(けうと)に於(おい)て極(きは)めて奔走(ほんそう)尽力(じんりよく)せる処士(しよし)の内(うち)で最(もつと)も勢力(せいりよく)のあつたのは彼(か)の梅田源次郎(うめだげんじらう)な       どであつたが此(この)人(ひと)は名(な)を定明(さだあき)号(ごふ)を雲浜(うんひん)と云(い)つて元(も)と若狭(わかさ)小浜(こはま)の酒井氏(さかゐし)の臣(しん)であつたのである然(しか)るに其(その)       後(ご)京都(けうと)に出(い)でゝ儒(じゆ)を業(げふ)とし門生(もんせい)も少(すく)なくなかつたのであるが山崎闇斎(やまざきあんさい)の流(りう)を汲(く)みて深(ふか)く心(こゝろ)を皇室(こうしつ)に傾(かた)       むけ且(か)つ幕府(ばくふ)の外人(がいじん)に親昵(しんじつ)するを喜(よろこ)ばず自(みづか)ら気節(きせつ)を負(お)ひて国事(こくじ)に奔走(ほんそう)する処(ところ)があつたので何時(いつ)しか其(その)       言説(げんせつ)が青蓮院宮(せいれんゐんのみや)、鷹司公(たかつかさこう)などに達(たつ)するを得(え)て遂(つひ)には堂上(どうぜう)の間(あひだ)に重(おも)きを置(お)かるゝに至(いた)つたのであるトコ       ロで安政(あんせい)五 年(ねん)幕府(ばくふ)が条約(ぜうやく)の調印(てうゐん)を専断(せんだん)したので一 層(そう)彼(かれ)は之(これ)に憤慨(ふんがい)し屡々(しば〴〵)親王(しんわう)公卿(くげ)の間(あひだ)に建言(けんげん)したので 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       あつたが実(じつ)は前(まへ)に申述(まうしの)べた三 家(け)若(もし)くは大老(たいろう)に上京(ぜうけう)を命(めい)ぜられたるのも元(もと)は彼等(かれら)の主張(しゆてう)であつたのであ       るそれのみならず幕府(ばくふ)に賜(たま)はりし勅書(ちよくしよ)の中(なか)にも彼等(かれら)が建白(けんぱく)した文章(ぶんせう)に拠(よ)られた処(ところ)があつたと云(い)ふ位(くらひ)で       あるから如何(いか)に彼等(かれら)の力(ちから)が堂上(どうぜう)に及(およ)むだかは思(おも)ひやられるのであるが御承知(ごせうち)の頼(らい)三 樹(き)三 郎(らう)、梁川星厳(やながはせいげん)       、安藤石見介(あんどういはみのすけ)、吉田松陰(よしだせうゐん)、浮田(うきた)一 恵(けい)、僧(そう)月照(げつせう)などゝ云(い)ふ人々(ひと〴〵)は其(その)同志(どうし)で其(その)中(なか)でも主(おも)なるものであつた       のである而(しか)も之(これ)等(ら)の人々(ひと〴〵)が着々(ちやく〴〵)諸公卿(しよくげ)の家司(かし)、小林民部権大輔(こばやしみんぶごんだいう)、三 国大学(ごくだいがく)、高橋兵部大輔(たかはしへうぶだいふ)、金田伊織(かなだいおり)       などゝ云(い)ふ人々(ひと〴〵)等(ら)と気脈(きみやく)を通(つう)じて奔走(ほんそう)したので之(これ)が或場合(あるばあひ)には朝議(てうぎ)をも傾(かたむ)くる程(ほど)の潜勢力(せんせいりよく)があつたの       である       然(しか)るに新所司代(しんしよしだい)の酒井若狭守(さかゐわかさのかみ)は梅田(うめだ)から云(い)ふと旧主(きうしゆ)であるから梅田(うめだ)は若狭守(わかさのかみ)が所司代(しよしだい)に任(にん)ぜらるゝや       書(しよ)を同藩(どうはん)の坪内孫兵衛(つぼうちまごべえ)に送(おく)つて京都(けうと)の状勢(ぜうせい)を告(つ)げたのである然(しか)るに彼(かれ)が深(ふか)く闇斎流(あんさいりう)の学(がく)を奉(ほう)ずる結果(けつくわ)       は井伊大老(いゐたいらう)が条約(ぜうやく)調印(てうゐん)の行為(こうゐ)を以(もつ)て偏(ひとへ)に逆賊的(ぎやくぞくてき)行動(こうどう)となし甚(はなはだ)しく之(これ)を非難(ひなん)したのであるトコロで何時(いつ)       しか此(この)事(こと)が長野主膳(ながのしゆぜん)の耳(みゝ)に這入(はい)る事(こと)になつたから堪(たま)らない廟堂(べうどう)異議(いぎ)の根源(こんげん)か蓋(けだ)し彼等(かれら)にある事(こと)は忽(たちま)ち       其(その)看破(かつぱ)する処(ところ)となつたのである 《割書:幕府と水戸|藩との乖離》  之(こ)れのみならず水戸藩(みとはん)の人々(ひと〴〵)は前(まへ)にも申述(まうしの)べたる如(ごと)き事情(じぜう)であつたから益(ます〳〵)幕府(ばくふ)に反対(はんたい)の意志(いし)を抱(いだ)け 《割書:益甚しきを|加ふ》  るようになつたのは勿論(もちろん)の事(こと)であるが彼(か)の詔勅(せいちよく)下賜(かし)の如(ごと)きも亦(ま)た元(もと)水戸藩(みとはん)の士(し)で当時(たうじ)薩藩(さつはん)に仕(つか)へて居(を)       る彼(か)の日下部伊(くさかべい)三 次(じ)並(ならび)に水戸藩(みとはん)の京都(けうと)留守居役(るすゐやく)鵜飼吉左衛門(うかいきちざえもん)及(およ)び其(その)子(こ)幸吉(ゆきよし)等(ら)の周旋(しうせん)によつたものであ       るとの事(こと)であるモツトモ之(これ)には尚(な)ほ種々(しゆ〴〵)の事情(じぜう)もあつたのであるが之(これ)等(ら)は帰(き)する処(ところ)愈々(いよ〳〵)幕府(ばくふ)の憎悪(ぞうを)を       増(ま)さしむる事(こと)となつたのである然(しか)るにかゝる場合(ばあひ)又々(また〳〵)水戸(みと)の人々(ひと〴〵)が京都(けうと)に向(むか)つて運動(うんどう)した斉昭(なりあき)謹慎(きんしん)免(めん)       除(ぢよ)の勅命(ちよくめい)の事(こと)に関(くわん)しても先(ま)づ井伊大老(いゐたいろう)に一 撃(げき)を加(くわ)ふるの必要(ひつえう)があると云(い)ふので之(これ)を江戸(えど)の邸(やしき)に申送(まうしおく)つ 【欄外】    豊橋市史談  (戊午の大獄と小野湖山)                    四百七十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十四 【本文】 て幕府反対の気炎が上がった大勢であるから、関白と言えどもいかがともすることができず、下手をすれば却って己れの位置が危ないような事情と相成るのであるから、これが救済の必要上からも益々間部下総守の上京は一日も速やかでなければならぬことに立ち至ったのである。 ところでいよいよ新所司代の酒井若狭守は八月下旬をもって上洛の途に就いたのであるが、長野は先ずその入京以前に充分京都における現況を通じて置く必要があるということで、自ら桑名まで潜行して共に画策するところがあったということであるが、朝廷においてもまたこれに向かって対抗策を密議し、九条関白をはじめ久我、廣橋、萬里小路等の伝奏とその他の公卿との間に種々紛雑せる事情もあったのであるが、帰するところは前に申し述べるごとく幕府反対の気勢は実に盛んなものであったが、これには彼の志士等の入説奔走が甚だしく効を奏したものである。 そして結局は幕府にあっていかなる所見があってもこれを天聴に達することは望むべからざるの気運に遭遇せんとするに至ったのであるから、今度上洛の大任を負える間部下総守の任務というものは実に重大なることであったが、着々この勢いで進行するにおいてはその終局というものが到底普通のことでは落着せざるのも止むを得ざるの趨勢で、この戊午の大獄というもののおこったのも実に余儀なき次第ともなすべきである。 梅田源次郎等の奔走 当時京都において極めて奔走尽力せる処士の内で最も勢力のあったのは彼の梅田源次郎などであったが、この人は名を定明、号を雲浜といって元と若狭小浜の酒井氏の臣であったのである。然るにその後京都に出でて儒を業とし門生も少なくなかったのであるが、山崎闇斎の流を汲みて深く心を皇室に傾け、かつ幕府の外人に親昵するを喜ばず、自ら気節を負いて国事に奔走するところがあったので、いつしかその言説が青蓮院宮、鷹司公などに達することを得て遂には堂上の間に重きを置かるるに至ったのである。 ところで安政五年幕府が条約の調印を専断したので一層彼はこれに憤慨し、屡々親王公卿の間に建言したので 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 あったが、実は前に申し述べた三家若しくは大老に上京を命じられたのも元は彼等の主張であったのである。それのみならず幕府に賜わりし勅書の中にも彼等が建白した文章に拠られたところがあったというくらいであるから、いかに彼等の力が堂上に及んだかは思いやられるのであるが、ご承知の頼三樹三郎、梁川星巌、安藤石見介、吉田松陰、浮田一蕙、僧月照などという人々はその同志でその中でも主なるものであったのである。 しかもこれ等の人々が着々諸公卿の家司、小林民部権大輔、三国大学、高橋兵部大輔、金田伊織などという人々等と気脈を通じて奔走したので、これがある場合には朝議をも傾くる程の潜勢力があったのである。 然るに新所司代の酒井若狭守は梅田から言うと旧主であるから、梅田は若狭守が所司代に任ぜらるるや書を同藩の坪内孫兵衛に送って京都の状勢を告げたのである。然るに彼が深く闇斎流の学を奉ずる結果は、井伊大老が条約調印の行為をもって偏に逆賊的行動となし甚だしくこれを非難したのである。 ところでいつしかこの事が長野主膳の耳に這入ることになったから堪らない。廟堂異議の根源か蓋し彼等にあることは忽ちその看破するところとなったのである。 幕府と水戸藩との乖離益甚しきを加ふ これのみならず水戸藩の人々は前にも申し述べたるごとき事情であったから益々幕府に反対の意志を抱けるようになったのはもちろんのことであるが、彼の詔勅下賜のごときもまた元と水戸藩の士で当時薩藩に仕えている彼の日下部伊三次並びに水戸藩の京都留守居役鵜飼吉左衛門及びその子幸吉等の周旋によったものであるとのことである。もっともこれには尚お種々の事情もあったのであるが、これ等は帰するところ愈々幕府の憎悪を増さしむることとなったのである。 然るにかかる場合また水戸の人々が京都に向かって運動した斉昭謹慎免除の勅命の事に関しても、先ず井伊大老に一撃を加うるの必要があるということで、これを江戸の邸に申し送つ 【欄外】 豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 474 **Main Text:** The general trend was extremely anti-shogunate sentiment rising up, so even the Regent could do nothing about it, and if handled poorly, his own position would be in danger. Therefore, for the necessity of resolving this situation, Manabe Shimōsa-no-kami's journey to Kyoto became all the more urgent. So finally the new Kyoto Deputy Sakai Wakasa-no-kami set out for Kyoto in late August, but Nagano felt it necessary to first thoroughly understand the current situation in Kyoto before his arrival there, so he secretly traveled as far as Kuwana to strategize together. However, the court was also secretly plotting countermeasures against this, and there were various complicated circumstances between Regent Kujō and the court messengers Kuga, Hirohashi, Madenokōji and other court nobles. But ultimately, as mentioned before, the anti-shogunate sentiment was truly vigorous, and this was greatly aided by the persuasive efforts and activities of those loyalist activists. In the end, the situation reached a point where no matter what views the shogunate held, there was no hope of them reaching the Emperor's ears. Therefore the mission of Manabe Shimōsa-no-kami, who bore the great responsibility of traveling to Kyoto this time, was truly momentous. But with things steadily proceeding in this direction, it was inevitable that the conclusion could not be settled through ordinary means, and the occurrence of this Ansei Purge must be considered truly unavoidable circumstances. **The Activities of Umeda Genjirō and Others** Among the activists who worked most extensively in Kyoto at that time, the most influential was Umeda Genjirō. This man's given name was Sadaaki and his pen name was Unpin, and he was originally a retainer of the Sakai clan of Obama in Wakasa Province. Later he came to Kyoto and made Confucian learning his profession, acquiring many disciples. Following the school of Yamazaki Ansai, he devoted his heart deeply to the imperial house and disapproved of the shogunate's friendly relations with foreigners. Possessing strong principles, he worked actively in national affairs, and eventually his arguments reached Prince Shōren'in and Lord Takatsukasa, finally gaining importance among the court nobles. When the shogunate arbitrarily signed treaties in Ansei 5 (1858), he became even more indignant about this and frequently made proposals to the imperial princes and court nobles. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (on Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper. **Main Text:** In fact, the previous demand for the Three Houses or the Great Elder to come to Kyoto was originally their proposal. Moreover, even in the imperial edict granted to the shogunate, there were parts based on documents they had submitted, showing how much their influence had reached the court nobles. The well-known Rai Mikisaburō, Yanagawa Seigan, Andō Iwami-no-suke, Yoshida Shōin, Ukita Ikkei, and the monk Gesshō were among their comrades and the principal figures among them. Moreover, these people steadily worked through connections with various court nobles' retainers—Kobayashi Minbu-gon-dayū, Mikuni Daigaku, Takahashi Hyōbu-dayū, Kanada Iori and others—so they had underlying influence sufficient to sway court deliberations in some cases. However, since the new Kyoto Deputy Sakai Wakasa-no-kami was Umeda's former lord, when Wakasa-no-kami was appointed as Kyoto Deputy, Umeda sent a letter to Tsubouchi Magobee of the same domain informing him of the situation in Kyoto. But as a result of his deep devotion to the Ansai school of learning, he regarded Great Elder Ii's act of signing treaties as purely treasonous behavior and severely criticized it. When this somehow came to the ears of Nagano Shuzen, it was intolerable. It immediately became clear to him that the source of court opposition was probably these people. **The Growing Rift Between the Shogunate and Mito Domain** Not only this, but the people of Mito domain, given the circumstances described earlier, naturally came to hold increasingly anti-shogunate sentiments. Even the granting of imperial edicts was accomplished through the mediation of Kusakabe Isaji, originally a Mito retainer then serving Satsuma domain, along with Mito's Kyoto representative Ukai Kichizaemon and his son Yukiyoshi. Of course there were various other circumstances involved, but these ultimately served to increase the shogunate's hatred even more. In such circumstances, regarding the matter of an imperial command for the lifting of Nariaki's house confinement, which Mito people had lobbied for in Kyoto, they felt it necessary to first strike a blow against Great Elder Ii, so they sent word to the Edo residence... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 475