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【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百七十六
【本文】
たが此(この)密書(みつしよ)が折悪(おりあし)く幕吏(ばくり)の手(て)に入(い)つたので幕府(ばくふ)の水藩(すゐはん)を悪(にく)むことは益(ます〳〵)其(その)度(ど)を高(たか)めたる次第(しだい)である此(かく)の
如(ごと)く水藩(すゐはん)の士(し)は勿論(もちろん)彼(か)の王室家(わうしつけ)と称(せう)する処士(しよし)の人々(ひと〴〵)が重(かさ)ね〳〵幕府(ばくふ)の政策(せいさく)に対(たい)し反対(はんたい)拒桿(きよかん)せんとした
る事実(じゞつ)が漸(やうや)く曝露(ばくろ)せるのみならず之(これ)は何時(いつ)でもある事(こと)であるがそれ等(とう)の人々(ひと〴〵)の中(なか)には又(ま)た決(けつ)して真面(まじ)
目(め)なる人(ひと)のみでない頗(すこぶ)る例(れい)の放縦無頼(はうじうぶらい)の徒(と)も加(くわ)はりて漫(みだ)りに尊王(そんわう)の仮面(かめん)を被(かふむ)り天下(てんか)の惑乱(わくらん)を喜(とろこ)ぶよう
な事(こと)も少(すくな)からぬ訳(わけ)であると云(い)ふので此際(このさい)幕府(ばくふ)としては止(やむ)を得(え)ず其(その)所信(しよしん)を行(おこの)ふ上(うへ)に於(おい)て次第(しだい)に其(その)英断(えいだん)を
も行(おこな)はざるべからざるの仕儀(しぎ)に立(た)ち至(いた)らしめたものとなさねばならぬのである
此(こゝ)に於(おい)てか間部下総守(まなべしもをさのかみ)は九月三日を以(もつ)て江戸(えど)を発(はつ)し木曽路(きそぢ)を経(へ)て上京(ぜうけう)したのであるが其(その)未(いま)だ着京(ちやくけう)せざ
るに先(さきだ)ち京都(けうと)に於(おい)ては又々(また〳〵)一 波瀾(はらん)を生(せう)じたのであるそれと云(い)ふのは廟堂(べうどう)に於(お)ける政治(せいぢ)の中心点(ちうしんてん)は関白(かんぱく)
《割書:九条関白の|辞職》 職(しよく)であるが時(とき)の関白(くわんぱく)九 条公(ぜうこう)は既(すで)に屡々(しば〳〵)申述(まうしの)べたるが如(ごと)く朝幕親和(てうばくしんわ)の主義(しゆぎ)を抱持(ほうぢ)せる人(ひと)であるから絶対(ぜつたい)
に幕府(ばくふ)に反対(はんたい)する人々(ひと〴〵)から云(い)へば至極(しごく)都合(つがふ)が悪(わる)いのであるソコで幕府(ばくふ)反対派(はんたいは)が意(い)のごとく挙動(きよどう)せんとす
るには先(ま)づ此(この)要職(えうしよく)を己(おの)れ等(ら)の掌中(たうちう)に収(おさ)むる必要(ひつえう)があると云(い)ふので遂(つひ)に九月の朔日(ついたち)及(およ)び二日に於(おい)て其(その)辞(じ)
職(しよく)を九 条公(ぜうこう)に勧告(かんこく)したのであるソコで止(やむ)を得(え)ず九 条公(ぜうこう)は遂(つひ)に関白職(くわんぱくしよく)を辞(じ)するに至(いた)つたのであるが此(この)
情報(ぜうはう)は直(たゞ)ちに島田左近(しまださこん)から長野(ながの)を経(へ)て江戸(えど)に報知(ほうち)せられたので之(これ)を聞(き)きたる井伊大老(いゐたいろう)の驚駭(けうがい)は一 方(かた)な
らなかつたのである
《割書:井伊大老等|閣中の決心》 事態(じたい)既(すで)に此(かく)の如(ごと)き形勢(けいせい)と相成(あひな)つたのであるから大老(たいろう)を初(はじ)め閣中(かくちう)の人々(ひと〴〵)は深(ふか)く心(こゝろ)に決(けつ)する所(ところ)があつたの
で其(その)十一日を以(もつ)て上京(ぜうけう)の途(と)にある間部下総守(まなべしもをさのかみ)に向(むか)つて一 書(しよ)を送(おく)り京都(けうと)の形勢(けいせい)を報(ほう)ずると同時(どうじ)に閣老(かくろう)の
決心(けつしん)をも申送(まうしおく)つたのである即(すなは)ち九 条関白(ぜうくわんぱく)は仮令(たとへ)辞表(じへう)を提出(ていしゆつ)されたとてまだ退職(たいしよく)と定(さだ)まつた訳(わけ)ではない
から此(この)際(さい)国家(こくか)の安危(あんき)に関(くわん)する重大事(ぢうだいじ)は何処(どこ)までも九 条関白(ぜうくわんぱく)の力(ちから)によつて天聴(てんてう)に達(たつ)し幕府(ばくふ)に於(おい)ては決(けつ)し
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百四十三号附録 (大正二年八月十九日発行)
【本文】
て天朝(てんてう)を蔑視(べつし)し徒(いたづ)らに勅許(ちよくきよ)を待(ま)たずして条約(でうやく)に調印(てういん)した訳(わけ)でないと云(い)ふ実情(じつぜう)を明(あきらか)にせねばならぬ兎(と)
に角(かく)それまでは是非共(ぜひとも)九 条公(でうこう)の留任(りうにん)を計(はか)る必要(ひつよう)があるのであるが其(その)為(ため)には勢(いきほひ)止(やむ)を得(え)ず京中(けうちう)の浪士(らうし)等(ら)
を捕縛(ほばく)しても敵勢(てきせい)を挫(くぢ)かねばならぬと決意(けつい)したものと思(おも)はれる此(この)時(とき)京都(けうと)の方(はう)に於(おい)ても先着(せんちやく)の新所司代(しんしよしだい)
酒井若狭守(さかゐわかさのかみ)は四日 朝(あさ)既(すで)に伝奏(でんそう)から九 条関白(でうくわんぱく)辞職(じしよく)の事(こと)を聴(き)き且(か)つ近衛(このゑ)を大臣(たいじん)に関白(くわんぱく)宣下(せんげ)の内慮(ないりよ)がある旨(むね)
にて之(これ)を幕府(ばくふ)へ伝達(でんたつ)するよう達(たつ)せられたのであるソコで酒井若狭守(さかゐわかさのかみ)は之(これ)を江戸(えど)に報(ほう)ずると同時(どうじ)に旅中(りよちう)
にある間部下総守(まなべしもをさのかみ)にも其(その)事(こと)を急報(きふほう)し之(これ)には己(おの)れの意見(いけん)をも申添(まをしそ)へたのであるが之(これ)を受取(うけと)りたる下総守(しもをさのかみ)
も其(その)意見(いけん)は矢張(やはり)同様(どうやう)であつて兎(と)に角(かく)此(この)新関白(しんくわんぱく)宣下(せんげ)に関(くわん)しては出来(でき)る限(かぎ)り幕府(ばくふ)よりの返答(へんたう)を延引(えんゐん)して其(その)
間(あひだ)に事(こと)を処理(しより)するより外(ほか)には致方(いたしかた)がないと云(い)ふのであつたが之(これ)は蓋(けだ)し井伊大老(いゐたいらう)とも一 致(ち)したものと信(しん)
ぜられるのである
《割書:梅田源次郎|の捕縛》 之(これ)より先(さ)き彼(か)の長野主膳(ながのしゆぜん)は一 度(ど)彦根(ひこね)に帰(かへ)り更(さら)に大津(おほつ)に潜在(せんざい)して京都(けうと)の形勢(けいせい)を窺(うかゞ)つて居(を)つたのであるが
五日 夜(よ)に至(いた)つて島田左近(しまださこん)が秘密(ひみつ)に来会(らいくわい)して段々(だん〴〵)京都(けうと)の事情(じぜう)を詳(つまびらか)にしドウしても堂上(どうぜう)動擾(どうぜう)の根源(こんげん)と云(い)
ふものは彼(か)の浪士(らうし)等(ら)にあることを確信(かくしん)するに至(いた)つたのであるが其(その)首謀(しゆぼう)とも云(い)ふべきは前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた
る如(ごと)く梅田源次郎(うめだげんじらう)であるから先(ま)づ之(これ)を捕縛(ほばく)する必要(ひつえう)を感(かん)じたのであるソコで之(これ)を酒井所司代(さかゐしよしだい)に勧(すゝ)めた
処(ところ)が若狭守(わかさのかみ)も初(はじ)めは之(これ)に同意(どうい)したのであるが其(その)時(とき)京都(けうと)町奉行(まちぶぎよう)の岡部土佐守(をかべとさのかみ)は既(すで)に近衛公(このゑこう)が内覧(ないらん)の宣旨(せんじ)
を受(う)けられたのであるのに其(その)家(いへ)に出入(でいり)する梅田(うめだ)を捕縛(ほばく)するとしたならば却(かへつ)て紳縉(しんしん)の激昂(げきこう)を来(きた)しはせぬ
かとの念(ねん)を抱(いだ)いて捕縛猶予(ほばくいうよ)の事(こと)を若狭守(わかさのかみ)に談(だん)じたのであるソコで若狭守(わかさのかみ)も大(おほい)に躊躇(ちうちよ)する様子(やうす)があつた
のであるが之(これ)を聞(き)きたる長野(ながの)は大津(おほつ)にありて当時(たうじ)来会(らいくわい)せる酒井(さかゐ)の謀臣(ぼうしん)三浦(みうら)七 兵衛(べゑ)に向(むか)つて極論(きよくろん)する処(ところ)
があつて結局(けつきよく)所司代(しよしだい)が緩慢(くわんまん)であるならば自分(じぶん)は彦根(ひこね)の手兵(しゆへい)を以(もつ)ても之(これ)を捕縛(ほばく)すべしとまで申出(まをしい)でたの
【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百七十七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十六
【本文】
たが、この密書が折悪しく幕吏の手に入ったので、幕府の水藩を憎むことは益々その度を高めた次第である。このように水藩の士はもちろん、彼の王室家と称する処士の人々が重ね重ね幕府の政策に対し反対拒否せんとした事実が漸く曝露したのみならず、これはいつでもあることであるが、それ等の人々の中にはまた決して真面目な人のみでない、頗る例の放縦無頼の徒も加わって、みだりに尊王の仮面を被り天下の惑乱を喜ぶようなことも少なからぬ訳であるというので、この際幕府としては止むを得ず、その所信を行う上において次第にその英断をも行わざるべからざるの仕儀に立ち至らしめたものとなさねばならぬのである。
ここにおいてか、間部下総守は九月三日をもって江戸を発し木曽路を経て上京したのであるが、その未だ着京せざるに先立ち、京都においてはまた一波瀾を生じたのである。それというのは廟堂における政治の中心点は関白職であるが、時の関白九条公は既に屡々申し述べたるがごとく朝幕親和の主義を抱持せる人であるから、絶対に幕府に反対する人々から言えば至極都合が悪いのである。
九条関白の辞職
そこで幕府反対派が意のごとく挙動せんとするには、先ずこの要職を己等の掌中に収める必要があるということで、遂に九月の朔日及び二日において、その辞職を九条公に勧告したのである。そこで止むを得ず九条公は遂に関白職を辞するに至ったのであるが、この情報は直ちに島田左近から長野を経て江戸に報知されたので、これを聞いた井伊大老の驚愕は一方ならなかったのである。
井伊大老等閣中の決心
事態既にこのような形勢と相成ったのであるから、大老をはじめ閣中の人々は深く心に決するところがあったので、その十一日をもって上京の途にある間部下総守に向って一書を送り、京都の形勢を報ずると同時に閣老の決心をも申し送ったのである。すなわち九条関白は仮令辞表を提出されたとてまだ退職と定まった訳ではないから、この際国家の安危に関する重大事は何処までも九条関白の力によって天聴に達し、幕府においては決し
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百四十三号附録(大正二年八月十九日発行)
【本文】
て天朝を蔑視し徒らに勅許を待たずして条約に調印した訳でないという実情を明らかにせねばならぬ。兎に角それまでは是非とも九条公の留任を図る必要があるのであるが、その為には勢い止むを得ず京中の浪士等を捕縛しても敵勢を挫かねばならぬと決意したものと思われる。
この時京都の方においても先着の新所司代酒井若狭守は四日朝既に伝奏から九条関白辞職の事を聴き、かつ近衛を大臣に関白宣下の内慮がある旨にて、これを幕府へ伝達するよう達せられたのである。そこで酒井若狭守はこれを江戸に報ずると同時に旅中にある間部下総守にもその事を急報し、これには己れの意見をも申し添えたのであるが、これを受け取った下総守もその意見は矢張り同様であって、兎に角この新関白宣下に関しては出来る限り幕府よりの返答を延引して、その間に事を処理するより外には致し方がないというのであったが、これは蓋し井伊大老とも一致したものと信ぜられるのである。
梅田源次郎の捕縛
これより先き、彼の長野主膳は一度彦根に帰り更に大津に潜在して京都の形勢を窺っていたのであるが、五日夜に至って島田左近が秘密に来会して段々京都の事情を詳らかにし、どうしても堂上動擾の根源というものは彼の浪士等にあることを確信するに至ったのであるが、その首謀とも言うべきは前に一寸申し述べたるごとく梅田源次郎であるから、先ずこれを捕縛する必要を感じたのである。
そこでこれを酒井所司代に勧めた処が、若狭守も初めはこれに同意したのであるが、その時京都町奉行の岡部土佐守は既に近衛公が内覧の宣旨を受けられたのであるのに、その家に出入する梅田を捕縛するとしたならば、却って紳士の激昂を来しはせぬかとの念を抱いて、捕縛猶予の事を若狭守に談じたのである。そこで若狭守も大いに躊躇する様子があったのであるが、これを聞いた長野は大津にありて当時来会せる酒井の謀臣三浦七兵衛に向って極論するところがあって、結局所司代が緩慢であるならば自分は彦根の手兵をもってもこれを捕縛すべしとまで申し出たの
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十七
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 476
**Main Text:**
However, this secret letter unfortunately fell into the hands of shogunate officials, which further intensified the shogunate's hatred of Mito domain. In this way, not only had the facts of Mito retainers and those activists calling themselves "imperial loyalists" repeatedly opposing shogunate policies been gradually exposed, but as always happens in such situations, among these people there were not only sincere individuals but also quite a few of the usual dissolute and lawless types who arbitrarily donned the mask of imperial loyalty and delighted in creating confusion throughout the realm. Therefore, the shogunate felt compelled to gradually take decisive action in pursuing its convictions.
At this point, Manabe Shimōsa-no-kami departed Edo on September 3rd and traveled to Kyoto via the Kisoji route. But before his arrival in Kyoto, another upheaval occurred there. The center of political power in the court was the position of Regent, and the current Regent Kujō held the principle of court-shogunate harmony as mentioned repeatedly before, making him extremely inconvenient for those absolutely opposed to the shogunate.
**Kujō Regent's Resignation**
Therefore, for the anti-shogunate faction to act as they wished, they first needed to bring this key position under their control. So finally on September 1st and 2nd, they advised Kujō to resign from his position. Consequently, Kujō was compelled to resign from the regency. This information was immediately reported to Edo via Shimada Sakon through Nagano, and Great Elder Ii's shock upon hearing this was immeasurable.
**The Resolve of Great Elder Ii and the Cabinet**
With the situation having reached this state, Great Elder Ii and the other cabinet members resolved deeply in their hearts. On the 11th, they sent a letter to Manabe Shimōsa-no-kami, who was en route to Kyoto, reporting the situation in Kyoto while also conveying the cabinet's determination. Namely, even though Regent Kujō had submitted his resignation, his retirement was not yet finalized, so in this critical matter concerning national security, they must by all means use Kujō's influence to reach the Emperor's ears and clarify that the shogunate had never shown contempt for the imperial court or arbitrarily signed treaties without waiting for imperial permission.
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership, 48 Konyamachi, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzo, Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper No. 4443 Supplement (Published August 19, Taishō 2 [1913])
**Main Text:**
In any case, until then it was absolutely necessary to arrange for Kujō's continued service, but to achieve this they were compelled to resolve that they must crush the enemy forces even if it meant arresting the rōshi activists in Kyoto.
At this time in Kyoto, the newly arrived Kyoto Deputy Sakai Wakasa-no-kami had already heard from the court messengers on the morning of the 4th about Regent Kujō's resignation, and was told that there was imperial intention to appoint Konoe as minister with regent proclamation, and was instructed to convey this to the shogunate. So Sakai Wakasa-no-kami reported this to Edo while also urgently informing Manabe Shimōsa-no-kami, who was traveling, adding his own opinion. Shimōsa-no-kami's opinion upon receiving this was essentially the same—that regarding this new regent proclamation, they should delay the shogunate's response as much as possible and handle the matter in the meantime, as there was no other way to proceed. This presumably aligned with Great Elder Ii's thinking as well.
**The Arrest of Umeda Genjirō**
Earlier, Nagano Shuzen had returned to Hikone and was then staying secretly in Ōtsu, observing the situation in Kyoto. On the night of the 5th, Shimada Sakon came secretly to meet with him and gradually clarified the circumstances in Kyoto. They became convinced that the source of court agitation was definitely these rōshi activists, and their ringleader was Umeda Genjirō, as briefly mentioned earlier, so they felt it necessary to arrest him first.
When this was recommended to Kyoto Deputy Sakai, Wakasa-no-kami initially agreed. However, Kyoto Town Magistrate Okabe Tosa-no-kami had concerns that since Lord Konoe had already received the imperial decree for nairan (preliminary review), arresting Umeda, who frequented his residence, might provoke the indignation of the nobility. So he discussed postponing the arrest with Wakasa-no-kami, who showed considerable hesitation. Hearing this, Nagano, while in Ōtsu, engaged in heated argument with Sakai's advisor Miura Shichibei, who had come to meet him, ultimately declaring that if the Kyoto Deputy was being lenient, he would arrest Umeda even using Hikone troops.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 477