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【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百七十八
【本文】
であるそれ等(ら)が原因(げんゐん)となつて若狭守(わかさのかみ)も終(つひ)に決心(けつしん)するに至(いた)つたが梅田(うめだ)捕縛(ほばく)の事(こと)は実(じつ)にまだ間部下総守(まなべしもをさのかみ)の
着京(ちやくけう)以前(いぜん)で長野(ながの)の主張(しゆてう)から端(はし)なく戊午(つちのへうま)の大獄(だいごく)は茲(こゝ)に其(その)緒(ちよ)を発(はつ)することと相成(あひな)つたのである
此(こ)の時(とき)に方(あた)り井伊大老(ゐいたいらう)は長野主膳(ながのしゆぜん)の外(ほか)尚(な)ほ二三の細作(さいさく)を京都(けうと)に入(い)らしめて総(すべ)ての動静(どうせい)を探偵(たんてい)せしめた
のであるが彼(か)の浪士(らうし)等(ら)の入説(にふせつ)と云(い)ふものが大(おほい)に朝議(てうぎ)を動(うごか)すに足(た)るべき勢力(せいりよく)である事(こと)を認(みと)めたると同時(どうじ)
に又(ま)た水戸斉昭(みとなりあき)の運動(うんどう)と云(い)ふものが実(じつ)に幕府(ばくふ)反対(はんたい)の気勢(きせい)を高(たか)むるの因(もと)をなすことを知(し)るに至(いた)つたのであ
るモツトモ之(これ)迄(まで)と雖(いへど)も斉昭(なりあき)の挙動(きよどう)が幕府(ばくふ)に対(たい)し極(きは)めて不利(ふり)であることは前章(ぜんせう)以来(いらい)申述(まをしの)べたる如(ごと)くである
が如何(いかん)せむ其(その)内容(ないよう)を京都(けうと)まで知(し)らしむる事になれば結局(けつきよく)は関東(くわんとう)の内訌(ないこう)を世間(せけん)に暴露(ばくろ)することになるので
其(その)不利(ふり)なること之(これ)より大(だい)なるはなき次第(しだい)であるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては多少(たせう)其(その)消息(せうそく)を知(し)りたりとするも止(やむ)を得(え)
ず隠忍(いんにん)以(もつ)て今日(こんにち)に至(いた)つた次第(しだい)であるがイヨ〳〵今日(こんにち)の如(ごと)き情勢(ぜうせい)と相成(あひな)つて殊(こと)に九
条関白(でうくわんぱく)辞職後(じしよくご)と云(い)ふ
《割書:幕府斉昭を|朝廷に弾劾|す》 ものは誰(たれ)一 人(にん)幕府(ばくふ)の為(ため)に弁(べん)ずる人(ひと)がないと云(い)ふような状況(ぜうけふ)と相成(あひな)つては幕府(ばくふ)たるものも到底(たうてい)此(この)まゝに
打捨(うちす)て置(お)く訳(わけ)には行(ゆ)かないと云(い)ふ処(ところ)から遂(つひ)に九月十三日を以(もつ)て公然(こうぜん)朝廷(てうてい)に向(むか)つて斉昭(なりあき)の態度(たいど)に就(つい)て訴(うつた)
ふる処(ところ)があつたのである而(しか)して其(その)要旨(えうし)とする処(ところ)は斉昭(なりあき)は建儲(けんちよ)の事(こと)が失敗(しつぱい)に終(をは)つたのを深(ふか)く啣(つぐ)みて故意(こい)
に幕政(ばくせい)を非難(ひなん)し幕府(ばくふ)は外夷(ぐわいゐ)を恐(おそ)れて朝寬(てうけん)を蔑如(べつによ)したりと讒(ざん)するに其(その)実(じつ)直接(ちよくせつ)当人(たうにん)に就(つい)て其(その)意見(いけん)を聴(き)いて
見(み)れば外交(ぐわいかう)に対(たい)する何等(なんら)の定見(ていけん)なく而(しか)も今日(こんにち)は戦(たゝかひ)を開(ひら)くべき時機(じき)ではないと唱(とな)へて居(を)るにも拘(かゝ)はら
ず反(かへ)つて堂上(どうぜう)の諸(しよ)公卿(くげ)に対(たい)しては巧(たくみ)に議論(ぎろん)を飾(かざ)つて戦(たゝかひ)を主張(しゆてう)するなど其(その)言行(げんかう)全(まつた)く前後(ぜんご)相矛盾(あひむじゆん)するの
である然(しか)るに堂上(どうぜう)の方々(かた〴〵)には深(ふか)く此(この)事情(じぜう)を知(し)られずして容(たやす)く斉昭(なりあき)の偽論(ぎろん)に惑(まど)はさるゝ向(むき)も少(すくな)くないよ
うである此(かく)の如(ごと)き有様(ありさま)にては忽(たちま)ちにして国家(こくか)の争乱(そうらん)を招(まね)き宸襟(しんきん)を安(やす)むし奉(たてまつ)るの時(とき)は之(これ)れあるまじき
次第(しだい)であるから姑(しば)らく斉昭(なりあき)に謹慎(きんしん)を命(めい)じたのであるのに尚(なほ)之(これ)に反省(はんせゐ)する処(ところ)なく愈(いよ〳〵)京都(けうと)に入説(にふせつ)する様(やう)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
子(す)であるのは甚(はなはだ)以(もつ)て心得(こゝろえ)ぬ事(こと)であると云(い)ふ意味(いみ)であつたのである之(これ)は明(あきら)かに幕府(ばくふ)が朝廷(てうてい)に対(たい)する斉(なり)
昭(あき)の弾劾的(だんこうてき)上奏(ぜうそう)とも云(い)ふべきもので幕府(ばくふ)と水戸(みと)との抗争(かうそう)も事(こと)此処(こゝ)に至(いた)つては実(じつ)に其(その)極(きよく)に達(たつ)したもので
あるコー云(い)ふ有様(ありさま)に立至(たちいた)つたのであるから早晩(さうばん)流血(りうけつ)を見(み)るの惨事(さんじ)をも惹起(じやくき)すべき訳(わけ)で所謂(いはゆる)騎虎(きこ)の勢(せい)止(や)
まざるの状況(せうけふ)であつたのである
右(みぎ)の如(ごと)き場合(ばあひ)に当(あた)つて恰(あたか)も其(その)九月の十三日には間部下総守(まなべしもをさのかみ)が美濃(みの)の加納(かのう)に到着(たうちやく)したのであつたが此(この)時(とき)
京都(けうと)に於(おい)て水戸斉昭(みとなりあき)の謹慎(きんしん)を免(めん)じ松平越前守(まつだひらゑちぜんのかみ)を以(もつ)て大老(たいらう)に任(にん)ずべしとの勅語(ちよくご)を下(くだ)されたと云(い)ふ事(こと)を
聞(き)いたのであるモツトモ之(これ)は全(まつた)く誤聞(こぶん)であつたのであるがかゝる場合(ばあひ)にはコー云(い)ふ事(こと)が容易(ようい)ならざる
刺激(しげき)を与(あた)ふるもので此時(このとき)も矢張(やはり)之(これ)を聞(き)きたる下総守(しもをさのかみ)の憤慨(ふんがい)と云(い)ふものは甚(はなはだ)しかつたものであるソコ
《割書:主膳下総守|に会す》 で翌(よく)十四日 下総守(しもをさのかみ)が醒(さめ)ケ井(ゐ)に到着(たうちやく)した夜(よ)大津(おほつ)から潜行(せんかう)せる長野主膳(ながのしゆぜん)に逢(あ)つたのであるが其(その)時(とき)主膳(しゆぜん)は詳(くは)
しく京都(けうと)の状況(ぜうけふ)を語(かた)つた上(うへ)刻下(こくか)の策(さく)としては水戸藩(みとはん)の京都(けうと)留守居(るすゐ)鵜飼(うかひ)父子(ふし)を捕縛(ほばく)して前(まへ)に申述(まをしの)べたる
如(ごと)く彼(か)の八月八日に別勅(べつちよく)を奉(ほう)じて東下(とうか)せし罪(つみ)を正(たゞ)し更(さら)に之(これ)を以(もつ)て近衛(このえ)三 条(でう)等(ら)諸公卿(しよくげ)の膽(きも)をも奪(うば)ふより
外(ほか)にはないと云(い)ふ事を申述(まをしの)べたのであるトコロが之(これ)は直(たゞ)ちに下総守(しもをさのかみ)の納(い)るゝ処(ところ)となつたのであるが下(しも)
《割書:鵜飼父子の|捕縛》 総守(をさのかみ)は十六日 大津(おほつ)に達(たつ)するや否(いなや)京都町奉行(けうとまちぶぎよう)の小笠原長門守(をがさはらながとのかみ)を呼(よ)むで鵜飼父子(うかひふし)召捕(めしとり)の事を密令(みつれい)したので
ある長門守(ながとのかみ)は之(これ)によつて数日後(すうじつご)此(この)両人(れうにん)を奉行所(ぶぎようじよ)へ召喚(せうくわん)したるまゝ遂(つひ)に拘置(こうち)するに至(いた)つたのである
《割書:下総守の入|京》 かくて間部下総守(まなべしもをさのかみ)は其(その)十七日を以(もつ)て入京(にふけう)し妙満寺(みようまんじ)に館(くわん)したが元来(がんらい)此(この)時(とき)幕府(ばくふ)の目的(もくてき)と云(い)ふものは九 条関(でうくわん)
白(ぱく)をして其(その)職(しよく)を失(うしな)はしめず而(しか)して同(どう)公(こう)によりて幕府(ばくふ)の意志(いし)を天聴(てんてう)に達(たつ)し幸(さいはひ)に条約(でうやく)に関(くわん)する勅許(ちよくきよ)をも
得(え)むとするにあつたのである然(しか)るに状勢(ぜうせい)前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであつて其(その)目的(もくてき)と云(い)ふものは普通(ふつう)一ト通(とほ)りの手段(しゆだん)
では行(おこな)はるべからざる実情(じつぜう)であつたのみならず幕府(ばくふ)としては此際(このさい)堂上(どうぜう)に於(お)ける異分子(ゐぶんし)を一 掃(さう)して其(その)根(こん)
【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百七十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十八
【本文】
である。それらが原因となって若狭守も遂に決心するに至ったが、梅田捕縛の事は実にまだ間部下総守の着京以前で、長野の主張から端なく戊午の大獄はここにその緒を発することと相成ったのである。
この時にあたり井伊大老は長野主膳の外なお二三の密偵を京都に入らしめて総ての動静を探偵させたのであるが、彼の浪士等の入説というものが大いに朝議を動かすに足るべき勢力である事を認めたると同時に、また水戸斉昭の運動というものが実に幕府反対の気勢を高むるの因をなすことを知るに至ったのである。もっとも、これまでといえども斉昭の挙動が幕府に対し極めて不利であることは前章以来申し述べた如くであるが、いかんせんその内容を京都まで知らしむる事になれば結局は関東の内紛を世間に暴露することになるので、その不利なること之より大なるはなき次第であるから、幕府においては多少その消息を知りたりとするも止むを得ず隠忍をもって今日に至った次第である。がいよいよ今日の如き情勢と相成って、殊に九条関白辞職後というものは誰一人幕府の為に弁ずる人がないという様な状況と相成っては、幕府たるものも到底このままに打捨て置く訳には行かないという処から、遂に九月十三日をもって公然朝廷に向って斉昭の態度に就いて訴うる処があったのである。
幕府斉昭を朝廷に弾劾す
而してその要旨とする処は、斉昭は建儲の事が失敗に終ったのを深く啣みて故意に幕政を非難し、幕府は外夷を恐れて朝権を蔑如したりと讒するに、その実直接当人に就いてその意見を聴いて見れば外交に対する何等の定見なく、而も今日は戦を開くべき時機ではないと唱えて居るにも拘はらず、反って堂上の諸公卿に対しては巧に議論を飾って戦を主張するなど、その言行全く前後相矛盾するのである。然るに堂上の方々には深くこの事情を知られずして容易く斉昭の偽論に惑わさるる向も少なくないようである。この如き有様にては忽ちにして国家の争乱を招き、宸襟を安んじ奉るの時はこれれあるまじき次第であるから、姑らく斉昭に謹慎を命じたのであるのに、なおこれに反省する処なく愈京都に入説する様
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
子であるのは甚だもって心得ぬ事であるという意味であったのである。これは明らかに幕府が朝廷に対する斉昭の弾劾的上奏とも言うべきもので、幕府と水戸との抗争も事ここに至っては実にその極に達したものである。こういう有様に立ち至ったのであるから、早晩流血を見るの惨事をも惹起すべき訳で、所謂騎虎の勢止まざるの状況であったのである。
右の如き場合に当って恰もその九月の十三日には間部下総守が美濃の加納に到着したのであったが、この時京都において水戸斉昭の謹慎を免じ松平越前守をもって大老に任ずべしとの勅語を下されたという事を聞いたのである。もっともこれは全く誤聞であったのであるが、かかる場合にはこういう事が容易ならざる刺激を与うるもので、この時も矢張これを聞いた下総守の憤慨というものは甚だしかったものである。
主膳下総守に会す
そこで翌十四日下総守が醒ヶ井に到着した夜、大津から潜行せる長野主膳に逢ったのであるが、その時主膳は詳しく京都の状況を語った上、刻下の策としては水戸藩の京都留守居鵜飼父子を捕縛して、前に申し述べた如く彼の八月八日に別勅を奉じて東下せし罪を正し、更にこれをもって近衛三条等諸公卿の膽をも奪うより外にはないという事を申し述べたのである。ところがこれは直ちに下総守の納るる処となったのであるが、
鵜飼父子の捕縛
下総守は十六日大津に達するや否や、京都町奉行の小笠原長門守を呼んで鵜飼父子召捕の事を密令したのである。長門守はこれによって数日後この両人を奉行所へ召喚したるまま遂に拘置するに至ったのである。
下総守の入京
かくて間部下総守はその十七日をもって入京し妙満寺に館したが、元来この時幕府の目的というものは九条関白をしてその職を失わしめず、而して同公によりて幕府の意志を天聴に達し幸に条約に関する勅許をも得んとするにあったのである。然るに状勢前述の如くであって、その目的というものは普通一通りの手段では行わるべからざる実情であったのみならず、幕府としてはこの際堂上における異分子を一掃してその根
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百七十九
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 478
**Main Text:**
These factors ultimately led Wakasa-no-kami to make his decision. The arrest of Umeda actually took place before Manabe Shimōsa-no-kami's arrival in Kyoto, and thus from Nagano's advocacy, the Ansei Purge unexpectedly began to unfold.
At this time, Great Elder Ii dispatched two or three additional spies besides Nagano Shuzen to Kyoto to investigate all activities. He came to recognize that the persuasive activities of these rōshi had sufficient power to greatly influence court deliberations, while also learning that Mito Nariaki's movements were truly the source of rising anti-shogunate sentiment. Of course, as mentioned from previous chapters, Nariaki's conduct had been extremely detrimental to the shogunate, but revealing such details to Kyoto would ultimately expose Kantō internal conflicts to the public, making this the greatest possible disadvantage. Therefore, even though the shogunate was somewhat aware of these circumstances, it had endured patiently until now. However, with the current situation, especially after Regent Kujō's resignation when no one remained to defend the shogunate, the shogunate could no longer let matters stand. Consequently, on September 13th, they formally lodged a complaint with the court regarding Nariaki's conduct.
**The Shogunate's Impeachment of Nariaki to the Court**
The essence of their complaint was that Nariaki, deeply resenting the failure of the heir designation matter, deliberately criticized shogunate policies and slandered the shogunate as fearing foreign barbarians while scorning imperial authority. However, when directly consulting him about his views, he had no fixed opinions on foreign relations and claimed that now was not the time to commence war, yet conversely he skillfully adorned his arguments before the court nobles to advocate for war—his words and actions completely contradicting each other. The court nobles, not deeply understanding these circumstances, seemed easily misled by Nariaki's false arguments. Under such conditions, national turmoil would immediately ensue, making it impossible to ease His Majesty's concerns. Therefore, they had temporarily ordered Nariaki's house confinement, but he showed no reflection and continued his persuasive activities in Kyoto.
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to Sanyō Newspaper readers.
**Main Text:**
This was utterly incomprehensible. This was clearly an impeaching memorial against Nariaki that the shogunate submitted to the court, marking the peak of the conflict between the shogunate and Mito domain. Having reached this state of affairs, tragic bloodshed would inevitably occur soon—truly an unstoppable situation like "riding a tiger."
Under these circumstances, coincidentally on September 13th, Manabe Shimōsa-no-kami arrived in Kanō in Mino province. At this time, he heard that an imperial decree had been issued in Kyoto pardoning Mito Nariaki's confinement and appointing Matsudaira Echizen-no-kami as Great Elder. This was completely false information, but in such circumstances, such reports provided serious provocation, and Shimōsa-no-kami's indignation upon hearing this was indeed severe.
**Shuzen Meets with Shimōsa-no-kami**
On the following 14th, when Shimōsa-no-kami arrived at Samegai that night, he met with Nagano Shuzen, who had secretly come from Ōtsu. Shuzen detailed Kyoto's situation and proposed that the immediate strategy should be to arrest the Mito domain's Kyoto caretakers, the Ukai father and son, punish them for their crime of receiving separate imperial orders on August 8th and departing eastward as previously mentioned, and thereby intimidate court nobles like Konoe and Sanjō. This immediately gained Shimōsa-no-kami's approval.
**Arrest of the Ukai Father and Son**
Upon reaching Ōtsu on the 16th, Shimōsa-no-kami immediately summoned Kyoto Town Magistrate Ogasawara Nagato-no-kami and secretly ordered the arrest of the Ukai father and son. Acting on this, Nagato-no-kami summoned both men to the magistrate's office several days later and ultimately detained them.
**Shimōsa-no-kami's Entry into Kyoto**
Thus Manabe Shimōsa-no-kami entered Kyoto on the 17th and took residence at Myōmanji temple. Originally, the shogunate's objective was to prevent Regent Kujō from losing his position and through him convey the shogunate's will to the Emperor, hopefully obtaining imperial permission for the treaties. However, given the situation as described, this objective could not be achieved through ordinary means. Moreover, the shogunate now needed to sweep away dissident elements in the court and eliminate their foundation.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 479