← 前のページ
ページ 254 / 382
次のページ →
翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百八十
【本文】
本的(ほんてき)改革(かいかく)を必要(ひつえう)とせざるべからざるの事情(じぜう)に遭遇(そうぐう)したのである故(ゆゑ)に強(あなが)ちに志士(しし)を捕縛(ほばく)し必(かなら)ずしも一 網(あみ)
に之(これ)を打(う)ち尽(つく)して厳刑峻罰(げんけいしゆんばつ)を用(もち)ゐむとするのが目的(もくてき)ではなかつたのであるが前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く趨(すう)
勢(せい)は事(こと)の進行(しんかう)するに従(したが)つて次第(しだい)に険悪(けんあく)と相成(あひな)つて遂(つひ)には徳川氏(とくがはし)創業(さうげふ)以来(いらい)の大獄(たいこく)をも惹起(じやくき)すに至(いた)つたの
である兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから最初(さいしよ)は梅田(うめだ)並(ならび)に鵜飼父子(うかひふし)を拘置(こうち)し朝臣(てうしん)の反省(はんせう)をも促(うなが)さむとした
《割書:志士続々捕|縛せらる》 のであるが到底(たうてい)それ等(ら)の事(こと)では功(こう)を奏(そう)するの見込(みこみ)がないと云(い)ふ事を見(み)るや遂(つひ)に廿二日に至(いた)つて鷹司家(たかつかさけ)
の家司(かし)小林民部権大輔(こばやしみんぶこんたいう)の捕縛(ほばく)となりそれより一ヶ月(げつ)許(ばかり)の間(あひだ)に彼(か)の日下部伊(くさかべい)三 次(じ)、橋本左内(はしもとさない)、藤森恭助(ふじもりけうすけ)
等(ら)の捕縛(ほばく)をも見(み)るに至(いた)つたのであるモツトモ此(この)際(さい)には間部下総守(まなべしもをさのかみ)と京都所司代(けうとしよしだい)酒井若狭守(さかゐわかさのかみ)との間(あひだ)に意(い)
見(けん)の相違(さうゐ)があり江戸(えど)にある井伊大老(ゐいたいらう)との間(あひだ)にも亦(ま)た多少(たせう)の相違(さうゐ)する処がないではなかつたのであるが
要(えう)するに下総守(しもをさのかみ)の意見(いけん)は井伊大老(ゐいたいらう)と略(ほゞ)同様(どうやう)で其(その)態度(たいど)は次第(しだい)に強硬(けうかう)の方針(ほうしん)に傾(かたむ)き若狭守(わかさのかみ)は常(つね)に緩和(くわんわ)の手(しゆ)
段(だん)に終(をは)らしめむとしたのである然(しか)るに此(この)幕吏(ばくり)の不(ふ)一 致(ち)が又(ま)た公卿(くげ)等(ら)の洞見(どうけん)する処となつて其(その)間(あひだ)には益(ます)
益(ます)事態(じたい)を拡大(こうだい)せしめた事情(じぜう)があつたように信(しん)ぜられるのである
トコロが井伊大老(ゐいたいらう)初(はじ)め間部下総守(まなべしもをさのかみ)等(ら)の此(この)方策(はうさく)は結局(けつきよく)何分(いくぶん)は当面(とうめん)の功(こう)を奏(そう)した訳(わけ)で此(この)間(あひだ)には種々(しゆ〴〵)の混雑(こんざつ)
《割書:九条公の復|職》 もあつたが遂(つひ)には九 条公(でうこう)の関白(くわんぱく)復職(ふくしよく)を見(み)るに至(いた)つたのであるソコで井伊大老(ゐいたいらう)は切(しき)りに下総守(しもをさのかみ)を督励(とくれい)
して条約(でうやく)勅許(ちよくきよ)の事を進行(しんかう)せしめたのであるがサテ之が又(ま)た〳〵六ケ敷(し)き事情(じぜう)と成(な)つて容易(ようい)に結末(けつまつ)が付(つ)
かなかつたのである其(その)内(うち)には又(ま)た前(まへ)に捕縛(ほばく)した志士(しゝ)等(ら)の訊問(きつもん)も追々(おひ〳〵)に進行(しんかう)し其(その)陰謀(ゐんぼう)も段々(だん〴〵)露見(ろけん)に及(およ)む
だので其(その)結果(けつくわ)は又々(また〳〵)捕縛(ほばく)を受(う)けるものが諸方(しよほう)に出来(でき)ると云(い)ふ有様(ありさま)であつたのである而(しか)して此 京都(けうと)に於(おい)
《割書:連累者東送|せらる》 て捕縛(ほばく)したものと江戸(えど)に於(おい)て捕縛(ほばく)したものとの対決(たいけつ)をも要(えう)することがあると云(い)ふので遂(つひ)に之(これ)等(ら)の人々(ひと〴〵)を
江戸(えど)に押送(おうそう)することと相成(あひな)つたのであるがそれが江戸(えど)に到着(たうちやく)したのは十二月十九日で榊原式部大輔(さかきばらしきぶだいう)と松(まつ)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百五十号附録 (大正二年八月二十七日発行)
【本文】
平飛騨守(たいらひだのかみ)とに預(あづ)けられたのである其(その)中(なか)にが御承知(ごせうち)の頼三樹(らいみき)三 郎(らう)の如(ごと)きも之(これ)に加(くわ)はつて居(を)つたのである
が吉田松陰(よしだぜうゐん)も亦(ま)た坐(ざ)して江戸(えど)に押送(おうそう)せらるゝに至(いた)つたのである此(かく)の如(ごと)き大混雑(だいこんざつ)の中(なか)に堂上(どうぜう)に於(おい)ては種(しゆ)
《割書:攘夷猶予の|朝旨下る》 種(〴〵)の紛議(ふんぎ)もあつたのであるが九 条関白(ぜうくわんぱく)の大(だい)なる斡旋(あつせん)もあり結局(けつきよく)十二月廿四日に至(いた)りて間部下総守(まなべしもをさのかみ)より
の奏上(そうぜう)は大体(だいたい)に於(おい)て御採用(ごさいよう)と相成(あひな)ると云(い)ふ始末(しまつ)に至(いた)つたのである併(しか)し此処(こゝ)に大(おほい)に注意(ちうい)すべき事(こと)は当時(たうじ)
外交(がいかう)に対(たい)する方針(はうしん)と云(い)ふものは根本(こんぽん)に於(おい)て既(すで)に朝廷(てうてい)と幕府(ばくふ)とは相違(そうゐ)して居(を)つたのである従(したがつ)て下総守(しもをさのかみ)が
奏上(そうぜう)した主旨(しゆし)も成(な)るべく円満(えんまん)に事(こと)を処(しよ)せむとするの権宜(けんぎ)より勉(つと)めて根本的(こんほんてき)の利害問題(りがいもんだい)は之(これ)を趣(さ)け現今(げんこん)
に於(お)ける我国(わがくに)上下(ぜうげ)の疲憊(ひひ)並(ならび)に武備(ぶび)の廃怠(はいたい)を述(の)べて今(いま)遽(にはか)に外人(がいじん)の要請(えうせい)を峻拒(しゆんきよ)するは実(じつ)に国家(こくか)の存亡(そんぼう)を賭(と)
する大難事(だいなんじ)であることを説明(せつめい)し幸(さいはひ)に後日(ごじつ)国防完備(こくばうくわんび)の暁(あかつき)には何時(いつ)にても叡旨(えいし)を奉戴(ほうたい)して外人(がいじん)を遠(とほ)ざくるは
決(けつ)して難事(なんじ)ではない又(ま)た彼等(かれら)は通商(つうせう)の利(り)を占(し)めむとするのであるから帰(き)する処(ところ)彼等(かれら)に利益(りえき)を与(あた)へない
ようにさへすれば自然(しぜん)彼等(かれら)自身(じしん)から退去(たいきよ)するようになるであろうとの意(ゐ)を敷衍(しきかう)したに過(す)ぎなかつたの
である即(すなは)ち朝旨(てうし)は之(これ)に対(たい)して其(その)止(やむ)を得(え)ざる事情(じぜう)を御氷解(ごへうかい)になつたと云(い)ふ次第(しだい)で云(い)はゞ攘夷猶予(ぜういゆうよ)と相成(あひな)
つた訳(わけ)で一 時(じ)落着(らくちやく)したのであつたがかゝる姑息(こそく)の解決(かいけつ)も当時(たうじ)下総守(しもをさのかみ)は勿論(もちろん)幕閣(ばくかく)の人々(ひと〴〵)に取(と)つては之(これ)が
実(じつ)に九 鼎大呂(ていだいりよ)よりも重(おも)きをなした次第(しだい)であつたのである
サテ右(みぎ)の始末(しまつ)に就(つい)ては御話(おはなし)すべき事(こと)もまだ沢山(たくさん)にある事(こと)と思(おも)ふが此処(こゝ)には矢張(やはり)其(その)大要(たいえう)を申述(まうしの)べて進行(しんかう)
する考(かんがへ)であるから其辺(そのへん)は宜(よろ)しく諸君(しよくん)の了察(れうさつ)を請(こ)ひたい処(ところ)であるが兎(と)に角(かく)以上(いぜう)申述(まうしの)べた如(ごと)き次第(しだい)で一 先(ま)
《割書:下総守の帰|府》 づ下総守(しもをさのかみ)は其(その)上京(ぜうけう)の目的(もくてき)も達(たつ)した訳(わけ)であるから下総守(しもをさのかみ)はイヨ〳〵江戸(えど)に帰(かへ)る事(こと)に成(な)つたのであるが其(その)
出立(しゆつたつ)は翌年(よくねん)即(すなは)ち安政(あんせい)六 年(ねん)の二月二十日で江戸(えど)に帰府(きふ)したのは三月十五日であつたのである然(しか)るに江(え)
戸(ど)に於(おい)ては曩(さき)に東送(とうそう)せられし囚人(しうじん)の吟味(ぎんみ)が行(おこな)はれて居(を)つたのであるが其(その)主任(しゆにん)は老中(らうちう)松平和泉守(まつだいらいづみのかみ)で之(これ)に
【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百八十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百八十
【本文】
本的改革を必要とせざるを得ない事情に遭遇したのである。故に強いて志士を捕縛し必ずしも一網にこれを打ち尽くして厳刑峻罰を用いようとするのが目的ではなかったのであるが、前にも申し述べた如く趨勢は事の進行するに従って次第に険悪と相成って、遂には徳川氏創業以来の大獄をも惹起するに至ったのである。とにかくこのような訳であったから最初は梅田並びに鵜飼父子を拘置し、朝臣の反省をも促そうとした
志士続々捕縛せらる
のであるが、到底それらの事では功を奏する見込みがないということを見るや、遂に22日に至って鷹司家の家司小林民部権大輔の捕縛となり、それより一ヶ月ばかりの間に彼の日下部伊三次、橋本左内、藤森恭助等の捕縛をも見るに至ったのである。もっともこの際には間部下総守と京都所司代酒井若狭守との間に意見の相違があり、江戸にある井伊大老との間にもまた多少の相違する処がないではなかったのであるが、要するに下総守の意見は井伊大老と略同様で、その態度は次第に強硬の方針に傾き、若狭守は常に緩和の手段に終らしめようとしたのである。然るにこの幕吏の不一致がまた公卿等の洞見する処となって、その間には益々事態を拡大せしめた事情があったように信ぜられるのである。
ところが井伊大老初め間部下総守等のこの方策は結局幾分は当面の功を奏した訳で、この間には種々の混雑
九条公の復職
もあったが遂には九条公の関白復職を見るに至ったのである。そこで井伊大老は盛んに下総守を督励して条約勅許の事を進行させたのであるが、さてこれがまたまた難しい事情となって容易に結末が付かなかったのである。その内にはまた前に捕縛した志士等の訊問も追々に進行し、その陰謀も段々露見に及んだので、その結果はまたまた捕縛を受けるものが諸方に出来るという有様であったのである。而してこの京都において
連累者東送せらる
捕縛したものと江戸において捕縛したものとの対決をも要することがあるというので、遂にこれらの人々を江戸に押送することと相成ったのであるが、それが江戸に到着したのは12月19日で榊原式部大輔と松
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百五十号附録 (大正二年八月二十七日発行)
【本文】
平飛騨守とに預けられたのである。その中には御承知の頼三樹三郎の如きもこれに加わって居たのであるが、吉田松陰もまた座して江戸に押送されるに至ったのである。このような大混雑の中に堂上においては種
攘夷猶予の朝旨下る
々の紛議もあったのであるが、九条関白の大なる斡旋もあり、結局12月24日に至りて間部下総守よりの奏上は大体において御採用と相成るという始末に至ったのである。併しここに大いに注意すべき事は、当時外交に対する方針というものは根本において既に朝廷と幕府とは相違して居たのである。従って下総守が奏上した主旨も成るべく円満に事を処そうとするの権宜より努めて根本的の利害問題はこれを避け、現今における我国上下の疲弊並びに武備の廃怠を述べて、今にわかに外人の要請を峻拒するは実に国家の存亡を賭する大難事であることを説明し、幸に後日国防完備の暁には何時にても叡旨を奉戴して外人を遠ざけるは決して難事ではない、また彼等は通商の利を占めようとするのであるから、帰する処彼等に利益を与えないようにさえすれば自然彼等自身から退去するようになるであろうとの意を敷衍したに過ぎなかったのである。即ち朝旨はこれに対してその止むを得ざる事情を御氷解になったという次第で、言わば攘夷猶予と相成った訳で一時落着したのであったが、かかる姑息の解決も当時下総守は勿論幕閣の人々にとってはこれが実に九鼎大呂よりも重きをなした次第であったのである。
さて右の始末については御話しすべき事もまだ沢山にある事と思うが、ここには矢張その大要を申し述べて進行する考えであるから、その辺は宜しく諸君の了察を請いたい処であるが、とにかく以上申し述べた如き次第で一先
下総守の帰府
ず下総守はその上京の目的も達した訳であるから、下総守はいよいよ江戸に帰る事に成ったのであるが、その出立は翌年即ち安政六年の2月20日で、江戸に帰府したのは3月15日であったのである。然るに江戸においては曩に東送されし囚人の吟味が行われて居たのであるが、その主任は老中松平和泉守でこれに
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百八十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 480
**Main Text:**
They encountered circumstances requiring fundamental reforms. Therefore, the purpose was not necessarily to arrest patriots and sweep them all up in one net to apply severe punishments, but as mentioned before, the trend gradually became more dangerous as events progressed, ultimately leading to the greatest purge since the founding of the Tokugawa house. In any case, given these circumstances, they initially detained Umeda and the Ukai father and son, hoping to promote reflection among court officials.
**Patriots Successively Arrested**
However, seeing that these measures had no prospect of success, on the 22nd they arrested Kobayashi Minbu-gon-taiyu, the house administrator of the Takatsukasa family, and within about a month thereafter witnessed the arrests of Kusakabe Isaji, Hashimoto Sanai, Fujimori Kyōsuke, and others. At this time, there were differences of opinion between Manabe Shimōsa-no-kami and Kyoto Deputy Sakai Wakasa-no-kami, and some differences also existed with Great Elder Ii in Edo. Essentially, Shimōsa-no-kami's views were roughly similar to Great Elder Ii's, with his attitude gradually inclining toward hardline policies, while Wakasa-no-kami consistently sought to resolve matters through moderate measures. However, this discord among shogunate officials became apparent to the court nobles, seemingly contributing to further escalation of the situation.
Nevertheless, the strategies of Great Elder Ii and Manabe Shimōsa-no-kami achieved some immediate success. Despite various complications during this period,
**Regent Kujō's Restoration**
they ultimately witnessed the restoration of Regent Kujō to his position. Great Elder Ii then vigorously urged Shimōsa-no-kami to advance the matter of imperial permission for the treaties, but this again became a difficult situation that could not be easily resolved. Meanwhile, interrogations of the previously arrested patriots gradually progressed, and their conspiracies were increasingly exposed, resulting in arrests occurring in various places. Since confrontations between those arrested in Kyoto and those arrested in Edo became necessary,
**Accomplices Sent East**
these individuals were ultimately transported to Edo, arriving on December 19th and placed in the custody of Sakakibara Shikibu-taiyu and Matsu-
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper Issue 4,450 Supplement (Published August 27, Taishō 2)
**Main Text:**
daira Hida-no-kami. Among them was the well-known Rai Mikisaburō, and Yoshida Shōin was also sent to Edo under arrest. Amid this great turmoil, various disputes arose in the court, but through Regent Kujō's significant mediation,
**Imperial Decree Postponing Expulsion of Foreigners**
ultimately on December 24th, Manabe Shimōsa-no-kami's memorial was generally approved. However, what must be greatly noted here is that the fundamental policies regarding foreign relations already differed between the court and the shogunate. Therefore, the essence of Shimōsa-no-kami's memorial, seeking to handle matters as smoothly as possible through expediency, deliberately avoided fundamental issues of interest and described the current exhaustion of the nation's upper and lower classes and neglect of military preparations, explaining that abruptly rejecting foreign demands would truly be a great difficulty risking national survival. He elaborated that fortunately, once national defense was complete in the future, it would not be difficult to distance foreigners at any time following imperial wishes, and since they sought commercial profits, if profits were simply not provided to them, they would naturally withdraw on their own. The imperial decree recognized these unavoidable circumstances, essentially postponing the expulsion of foreigners and achieving temporary settlement. However, for Shimōsa-no-kami and the shogunate officials of the time, even this expedient solution carried more weight than the nine sacred tripods.
There is much more to discuss regarding these developments, but here I intend to present the main points and proceed, so I ask for your understanding in this matter. In any case, for the reasons stated above,
**Shimōsa-no-kami's Return to the Capital**
Shimōsa-no-kami had achieved his purpose in going to Kyoto and thus prepared to return to Edo. His departure was on February 20th of the following year (Ansei 6), and he returned to Edo on March 15th. However, in Edo, examinations of the prisoners previously sent east were being conducted, with Senior Councilor Matsudaira Izumi-no-kami as the supervisor, and
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 481