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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 255

ページ: 255

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【欄外】    豊橋市史談  (戊午の大獄と小野湖山)                    四百八十二 【本文】 《割書:連累者の鞠|問と其処罸》  関与(くわんよ)したのは寺社奉行(じしやぶげふ)勘定奉行(かんぜうぶげふ)並(ならび)に大目付(おほめつけ)小目付(こめつけ)の人々(ひと〴〵)であつたのである然(しか)るに寺社奉行(じしやぶげふ)の板倉周防(いたくらすほうの)       守(かみ)勘定奉行(かんぜうぶげふ)の佐々木信濃守(さゝきしなのゝかみ)等(ら)は成(な)るべく穏和(おんわ)の方針(はうしん)を以(もつ)て之(これ)を裁断(さいだん)せむとする意見(いけん)を持(もつ)て居(を)つたが之(これ)       に反(はん)して町奉行(まちぶげふ)の石谷因幡守(いしやゐんばのかみ)は飽迄(あくまで)も彼等(かれら)の密謀(みつばう)を摘発(てきはつ)して異心(いしん)あるものを処罰(しよばつ)せむとしたのである       トコロで井伊大老(ゐゝたいろう)は此(かく)の如(ごと)く内輪(うちわ)の意見(いけん)が不(ふ)一 致(ち)であつてかゝる事(こと)が外間(がいけん)に知(し)れた時(とき)には必(かなら)ずや水戸(みと)       藩士(はんし)などの乗(ぜう)ずる処(ところ)となるであろうかく相成(あいなつ)ては如何(いか)なる事(こと)を引(ひ)き起(おこ)すかも分(わか)らないと云(い)ふ意見(いけん)で遂(つひ)       に和泉守(いづみのかみ)をして周防守(すほうのかみ)信濃守(しなのゝかみ)の両人(れうにん)を免職(めんしよく)し之(これ)に代(か)ゆるに寺社奉行(じしやぶげふ)松平伯耆守(まつだいらはうきのかみ)町奉行(まちぶげふ)池田播磨守(いけだはりまのかみ)を以(もつ)       てせしめたのであるかゝる有様(ありさま)であつたから此(この)取調(とりしらべ)と云(い)ふものは頗(すこぶ)る厳刻(げんこく)に渉(わた)つたので四月の末(すへ)に至(いた)       つて遂(つひ)に水戸(みと)の老臣(らうしん)安藤帯刀(あんどうたてわき)を初(はじ)め大竹儀兵衛(おほたけぎべえ)、茅根伊予之助(かやねいよのすけ)等(ら)も鞠問(きくもん)を受(う)くることと相成(あひな)つたのであ       る之(これ)より先(さ)き近衛家(このえけ)の老女(ろうぢよ)村岡(むらをか)を初(はじ)め鷹司家(たかつかさけ)の家司(かじ)牧式部少輔(まきしきぶせうゆ)等(ら)も相次(あひつい)で京都(けうと)から東送(とうそう)されて来(き)たの       であるが朝廷(てうてい)に於(お)かせられても昨年(さくねん)の末(すゑ)攘夷猶予(ぜういゆうよ)の御沙汰(ごさた)があると同時(どうじ)に朝臣(てうしん)の一 部(ぶ)を譴責(けんせき)すべき事(こと)       を認(みと)められたものと見(み)へて其(その)事(こと)に関(くわん)し幕府(ばくふ)の内意(ないゝ)を御下問(ごかもん)に相成(あひな)つたのであつたが其(その)結果(けつくわ)とも見(み)るべ       きものか先(ま)づ此(この)年(とし)の二月十七日に至(いた)つて青蓮院宮(せいれんゐんのみや)は謹慎(きんしん)となり三月に至(いた)つて近衛(このえ)鷹司(たかつかさ)諸公(しよこう)は退引(たいゐん)し四       月廿二日 遂(つひ)に鷹司公(たかつかさこう)父子(ふし)並(ならび)に近衛(このえ)三 条(ぜう)諸公(しよこう)の落飾(らくしよく)を許可(きよか)せられ東坊城聰長(ひがしぼうぜうそうてう)卿(けう)の永蟄居(ながちつきよ)と相成(あひな)つたのであ       ある此(かく)の如(ごと)く事態(じたい)は進行(しんかう)してイヨ〳〵八月の廿七日に至(いた)り幕府(ばくふ)の連累者(れんるいしや)の処罰(しよばつ)を発表(はつぺう)したのであるが       此(この)大獄(たいごく)の根本(こんぽん)とも云(い)ふふべき水戸(みと)の斉昭(なりあき)は水戸(みおと)に於(おい)て永蟄居(ながちつきよ)を命(めい)せられ彼(か)の岩瀬肥後守(いはせひごのかみ)川路左衛門尉(かはぢさえもんのぜう)      の如(ごと)き所謂(いはゆる)幕末(ばくまつ)の外交家(がいかうか)までも其(その)余波(よは)を受(う)けて褫職奪封(ちしよくだつほう)の上(うへ)蟄居(ちつきよ)を命(めい)ぜらるゝに至(いた)つたのである蓋(けだ)し       之(これ)等(ら)の人々(ひと〴〵)は一寸(ちよつと)前(まへ)にも申述(まうしの)べたる如(ごと)く嘗(かつ)て健儲(けんちよ)の事(こと)に就(つい)て所謂(いはゆる)一 橋派(ばしは)であつた結果(けつくわ)であるように思(おも)       ふのである而(しか)して水戸藩士(みとはんし)を初(はじ)め諸(しよ)浪士(らうし)等(ら)にありては鵜飼幸吉(うかひこうきち)の梟首(けうしゆ)を初(はじ)めとして或(あるい)は切腹(せつぷく)又(また)は斬罪(ざんざい) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       に処(しよ)せられたのであるが配流(はいりう)又(また)は放逐(はうちく)せられたものも亦(ま)た五十三 人(にん)に及(およ)むだのである只(た)だ諸士(しよし)浪士(ろうし)の       魁首(かいしゆ)とも目(もく)されたる人(ひと)の中(なか)で梅田源次郎(うめだげんじろう)日下部伊(くさかべい)三 次(じ)の二 人(にん)は獄中(ごくちう)に死(し)し梁川星嚴(やながはせいがん)は梅田(うめだ)の捕縛(ほばく)せら       るゝに先(さきた)つ事(こと)僅(わづか)に三日 病(やまひ)の為(ため)に死去(しきよ)したのであるが当時(たうじ)幕吏(ばくり)は其(その)妻(つま)紅蘭(こうらん)を捕(とら)へて訊問(じんもん)する処(ところ)があつた       のである然(しか)るに紅蘭(こうらん)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く才気(さいき)の勝(すぐ)れたる女(をんな)であつたから幕吏(ばくり)も遂(つひ)に追及(ついきう)することが出来(でき)なく 小野湖山  て之(これ)を放(はな)つに至(いた)つたのであるが私(わたし)が此処(こゝ)に御話(おはなし)したいと思(おも)ふ彼(か)の小野湖山(をのこざん)も亦(ま)た此(この)大獄(たいごく)の連累者(れんるいしや)で而(しか)       も梁川星嚴(やながはせいがん)の門人(もんじん)であつたのである       サテ湖山(こざん)は元来(がんらい)近江国(あふみのくに)東浅井郡(ひがしあさゐぐん)高畑村(たかはたむら)の郷士(がうし)で文化(ぶんくわ)十一 年(ねん)の生(うまれ)であるが本姓(ほんせい)は横山(よこやま)で名(な)を巻(げん)と云(い)ひ後(のち)       に至(いたつ)て姓(せい)を小野(をの)と改(あらた)め名(な)を長愿(てうげん)と云(い)つたが字(あざな)は洞翁(どうおう)で湖山(こざん)は即(すなは)ち其(その)号(がう)である而(しか)して高畑村(たかはたむら)と云(い)ふのは       此(この)吉田藩(よしだはん)の分封地(ぶんはうち)の内(うち)で吉田藩(よしだはん)は其処(そこ)に一 万石(まんごく)許(ばか)りの領地(れうち)があつたのである当時(たうじ)郡代(ぐんだい)として吉田藩士(よしだはんし)      から宮脇忠左衛門(みやわきちうざえもん)と云(い)ふ人(ひと)が行(い)つて居(を)つたのであるが湖山(こざん)は少壮(せうそう)の頃(ころ)から学(がく)を好(この)み最初(さいしよ)江戸(えど)に出(い)でゝ       梁川星嚴(やながはせいがん)の門(もん)に遊(あそ)むだのである然(しか)るに其(その)才鋒(さいほう)は忽(たちま)ち儕輩(さいはい)を圧(あつ)して名(な)をなしたのであるが後(のち)星嚴(せいがん)に従(したがつ)て       京都(けうと)に来(きた)り又(ま)た藤森恭助(ふじもりけうすけ)等(ら)を初(はじ)め深(ふか)く当時(たうじ)の志士(しゝ)と交(まじは)つたものであるソコで遂(つひ)に戊午(みづのえうま)【つちのえうま】の大獄(たいごく)に羅(ら)せら       れたのであるが其(その)捕縛(ほばく)されたのは恐(おそら)くは九月(安政(あんせい)五 年(ねん))の廿二日であつたことと思(おも)ふ之(これ)は全(まつた)く私(わたし)の考(かんがへ)で       あつて確(たしか)ではないのであるが此(この)日(ひ)は京都(けうと)に於(おい)て鷹司家(たかつかさけ)一 条家(ぜうけ)等(ら)の家臣(かしん)を初(はじ)め多数(たすう)の志士(しゝ)が捕(とら)へられた       日(ひ)である実(じつ)は私(わたし)は湖山先生(こざんせんせい)の生前(せいぜん)に御目(おめ)に懸(かゝ)つて其(その)経歴談(けいれきだん)を承(うけたまは)る考(かんがへ)で上京(ぜうけう)の際(さい)故(こ)松井譲(まつゐゆずる)氏(し)の紹介(せうかい)を       得(え)た処(ところ)が恰(あたか)も湖山先生(こざんせんせい)は千 葉県(ばけん)へ避寒(へきかん)されて不在(ふざい)であられると云(い)ふ事(こと)であつたから止(やむ)を得(え)ず一 度(たび)帰国(きこく) 湖山の幽閉 したが其(その)後(ご)上京(ぜうけう)して御尋(おたづね)しても尚(な)ほ避寒地(へきかんち)から皈京(きけふ)がないと云(い)ふ事(こと)で遺憾(いかん)ながら又々(また〳〵)拝顔(はいがん)をせずに皈(き)       国(こく)したのであつた然(しか)るに思(おも)ひきや湖山先生(こざんせんせい)は其(その)まゝ避寒地(へきかんち)にあつて発病(はつべう)九十七 歳(さい)を一 期(き)として其(その)四月 【欄外】    豊橋市史談  (戊午の大獄と小野湖山)                    四百八十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百八十二 【本文】 連累者の鞠問と其処罰 関与したのは寺社奉行・勘定奉行並びに大目付・小目付の人々であった。然るに寺社奉行の板倉周防守、勘定奉行の佐々木信濃守等は成るべく穏和の方針を以てこれを裁断しようとする意見を持っていたが、これに反して町奉行の石谷因幡守は飽くまでも彼等の密謀を摘発して異心あるものを処罰しようとしたのである。 ところで井伊大老はこのように内輪の意見が不一致であって、かかる事が外間に知れた時には必ずや水戸藩士などの乗ずる処となるであろう、こう相成っては如何なる事を引き起こすかも分からないという意見で、遂に和泉守をして周防守・信濃守の両人を免職し、これに代えるに寺社奉行松平伯耆守、町奉行池田播磨守を以てさせたのである。かかる有様であったから、この取調べというものは頗る厳刻に渉ったので、4月の末に至って遂に水戸の老臣安藤帯刀を初め大竹儀兵衛、茅根伊予之助等も鞠問を受けることと相成ったのである。これより先き、近衛家の老女村岡を初め鷹司家の家司牧式部少輔等も相次いで京都から東送されて来たのであるが、朝廷におかれても昨年の末攘夷猶予の御沙汰があると同時に朝臣の一部を譴責すべき事を認められたものと見えて、その事に関し幕府の内意を御下問に相成ったのであったが、その結果とも見るべきものか、先ずこの年の2月17日に至って青蓮院宮は謹慎となり、3月に至って近衛・鷹司諸公は退引し、4月22日遂に鷹司公父子並びに近衛・三条諸公の落飾を許可され、東坊城聰長卿の永蟄居と相成ったのである。このように事態は進行していよいよ8月の27日に至り、幕府の連累者の処罰を発表したのであるが、この大獄の根本とも言うべき水戸の斉昭は水戸において永蟄居を命せられ、彼の岩瀬肥後守・川路左衛門尉の如き所謂幕末の外交家までもその余波を受けて褫職奪封の上蟄居を命ぜられるに至ったのである。蓋しこれ等の人々は一寸前にも申し述べた如く、嘗て健儲の事について所謂一橋派であった結果であるように思うのである。而して水戸藩士を初め諸浪士等にありては鵜飼幸吉の梟首を初めとして或いは切腹又は斬罪 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博識なる知識と不屈の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年余り、今やその稿略ぼ成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 に処せられたのであるが、配流又は放逐せられたものもまた53人に及んだのである。ただ諸士・浪士の魁首とも目されたる人の中で梅田源次郎・日下部伊三次の二人は獄中に死し、梁川星巌は梅田の捕縛されるに先立つこと僅かに3日、病のために死去したのであるが、当時幕吏はその妻紅蘭を捕えて訊問するところがあったのである。然るに紅蘭は御承知の如く才気の優れたる女であったから、幕吏も遂に追及することができなくてこれを放つに至ったのであるが、私がここに御話ししたいと思う彼の小野湖山もまたこの大獄の連累者で而も梁川星巌の門人であったのである。 小野湖山 さて湖山は元来近江国東浅井郡高畑村の郷士で文化11年の生まれであるが、本姓は横山で名を巻と言い、後に至って姓を小野と改め名を長愿と言ったが、字は洞翁で湖山は即ちその号である。而して高畑村というのはこの吉田藩の分封地の内で、吉田藩はその処に一万石ばかりの領地があったのである。当時郡代として吉田藩士から宮脇忠左衛門という人が行っていたのであるが、湖山は少壮の頃から学を好み、最初江戸に出でて梁川星巌の門に遊んだのである。然るにその才鋒は忽ち儕輩を圧して名をなしたのであるが、後星巌に従って京都に来り、また藤森恭助等を初め深く当時の志士と交わったものである。そこで遂に戊午の大獄に羅せられたのであるが、その捕縛されたのは恐らくは9月(安政5年)の22日であったことと思う。これは全く私の考えであって確かではないのであるが、この日は京都において鷹司家・一条家等の家臣を初め多数の志士が捕えられた日である。実は私は湖山先生の生前に御目に懸かってその経歴談を承る考えで上京の際、故松井譲氏の紹介を得たところが、恰も湖山先生は千葉県へ避寒されて不在であられるということであったから、止むを得ず一度帰国 湖山の幽閉 したが、その後上京して御尋ねしても尚お避寒地から帰京がないということで、遺憾ながら又々拝顔をせずに帰国したのであった。然るに思いがけや湖山先生はそのまま避寒地にあって発病、97歳を一期としてその4月 【欄外】 豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百八十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 482 **Main Text:** **Interrogation and Punishment of Accomplices** Those involved included officials from the Temples and Shrines Magistrate, Finance Magistrate, and Great Inspectors and Lesser Inspectors. However, while Itakura Suō-no-kami of the Temples and Shrines Magistrate and Sasaki Shinano-no-kami of the Finance Magistrate held the opinion of judging these matters with as moderate a policy as possible, Town Magistrate Ishiya Inaba-no-kami opposed this, seeking to thoroughly expose their conspiracies and punish those with treasonous hearts. Great Elder Ii believed that such internal disagreement, if it became known externally, would surely be exploited by Mito domain retainers and others, potentially causing unforeseeable consequences. He ultimately had Izumi-no-kami dismiss both Suō-no-kami and Shinano-no-kami, replacing them with Temples and Shrines Magistrate Matsudaira Hōki-no-kami and Town Magistrate Ikeda Harima-no-kami. Given these circumstances, the investigations became extremely severe, and by the end of April, even Mito senior retainers including Andō Tatewaki, Ōtake Gihee, and Kayane Iyonosuke were subjected to interrogation. Previously, figures including Muraoka, the elderly lady-in-waiting of the Konoe family, and Maki Shikibu-shōyū, house administrator of the Takatsukasa family, had been successively sent east from Kyoto. The court also seemed to recognize the need to censure some court officials simultaneously with the decree postponing foreign expulsion at the end of the previous year, asking the shogunate's private opinion on this matter. As a result, on February 17th of this year, Prince Shōren'in was placed under house confinement, in March the Konoe and Takatsukasa lords withdrew, and on April 22nd the Takatsukasa father and son along with the Konoe and Sanjō lords were permitted to enter Buddhist orders, while Lord Higashibōjō Sōchō was placed under permanent house confinement. With events proceeding thus, on August 27th the shogunate announced the punishment of accomplices. Mito's Nariaki, who could be called the root of this great purge, was ordered to permanent house confinement in Mito, and even distinguished late-Edo diplomats like Iwase Higo-no-kami and Kawaji Saemon-no-jō were affected by the aftermath, being stripped of office and domains and ordered into confinement. This likely resulted from their previous association with the so-called Hitotsubashi faction regarding the heir issue. Among Mito retainers and various rōnin, some faced execution by exposure like Ukai Kōkichi, while others were ordered to commit seppuku or were executed. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kirokū has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper. **Main Text:** were punished, while 53 people were exiled or banished. However, among the leaders of the retainers and rōnin, Umeda Genjirō and Kusakabe Isaji died in prison, and Yanagawa Seigan died of illness just three days before Umeda's arrest. At that time, the shogunate officials arrested and interrogated his wife Kōran. However, as Kōran was a woman of exceptional talent as you know, the officials ultimately could not pursue her further and released her. The Ono Kozan I wish to discuss here was also an accomplice in this great purge and a disciple of Yanagawa Seigan. **Ono Kozan** Kozan was originally a village samurai from Takahata village in Higashi-Asai district, Ōmi Province, born in Bunka 11 (1814). His original surname was Yokoyama and his given name was Gen, but later he changed his surname to Ono and his name to Chōgen, with the courtesy name Dōō; Kozan was his literary name. Takahata village was within the branch domain territory of Yoshida domain, where Yoshida domain held about 10,000 koku of land. At that time, a Yoshida domain retainer named Miyawaki Chūzaemon served as district administrator. Kozan loved learning from his youth and initially went to Edo to study under Yanagawa Seigan. His brilliant talent immediately surpassed his peers and he gained recognition. Later he followed Seigan to Kyoto and formed deep relationships with contemporary patriots including Fujimori Kyōsuke. Thus he was ultimately caught up in the Ansei Purge, likely arrested on September 22nd (Ansei 5). This is entirely my conjecture and not certain, but this was the day when numerous patriots including retainers of the Takatsukasa and Ichijō families were arrested in Kyoto. Actually, I had planned to meet Kozan-sensei while he was alive to hear about his experiences, and when going to Kyoto I obtained an introduction from the late Matsui Yuzuru, but Kozan-sensei happened to be away in Chiba Prefecture for the winter, so I reluctantly returned home once. **Kozan's Confinement** Later when I went to Kyoto again to visit him, he still had not returned from his winter retreat, so regrettably I returned home again without meeting him. Unexpectedly, Kozan-sensei fell ill while still at his winter retreat and passed away at the age of 97 that April. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 483