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【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百八十四
【本文】
十日 遂(つひ)に不帰(ふき)の客(きやく)となられたのであるかゝる次第(しだい)で私(わたし)は遂(つひ)に湖山先生(こざんせんせい)から直接(ちよくせつ)其(その)経歴談(けいれきだん)を聞(き)くことを得(え)
なかつたのは極(きは)めて遺憾(いかん)とするもので其(その)後(ご)も未(いま)だ其(その)令息(れいそく)などに就(つい)て深(ふか)く御尋(おたづね)をする暇(ひま)を得(え)ぬのである
がいづれ折(をり)を以(もつ)て先生(せんせい)の経歴(けいれき)は十 分(ぶん)に取調(とりしら)べた上(うへ)詳(くわ)しき事(こと)は追(お)つて補遺(ほい)として加(くわ)へる考(かんがへ)である
ソコで話(はなし)は又(ま)た前(まへ)に戻(もど)るが結局(けつきよく)湖山(こざん)は裁断(さいだん)の結果(けつくわ)其(その)藩(はん)に於(おい)て禁錮(きんこ)せらるゝ事(こと)と成(な)つて此(この)吉田(よしだ)へ護送(ごそう)せ
られたのであるが之(これ)は安政(あんせい)六 年(ねん)の十月か十一月 頃(ごろ)の事(こと)で湖山(こざん)四十四 歳(さい)の時(とき)であると推測(すいそく)せらるゝ其(その)時(とき)
の状況(ぜうけう)を今日(こんにち)残(のこ)つて居(を)る古老(こらう)に就(つい)て聞(き)くと吉田藩(よしだはん)に於(おい)ては川毛町(かはけてう)に禁錮(きんこ)すべき場所(ばしよ)を設(まう)けたので其(その)構(こう)
造(ぞう)は普通(ふつう)の家屋(かをく)で二タ間(ま)許(ばかり)ある座敷(ざしき)の周囲(しうゐ)へ堅固(けんご)な木柵(もくさく)を周(めぐ)らし所謂(いはゆる)座敷牢(ざしきろう)となしたものであるが最(さい)
初(しよ)は実(じつ)に厳重(げんぢう)で猥(みだ)りに人(ひと)に面会(めんくわい)を許(ゆる)さなかつたものである然(しか)るに次第(しだい)〳〵に此(この)禁(きん)も緩(ゆる)むだので追々(おひ〳〵)藩(はん)
中(ちう)青年(せいねん)の士(し)は其(その)幽室(ゆうしつ)を訪(と)ふて議論(ぎろん)を上下(ぜうげ)するに至(いた)つたのであるが当時(たうじ)吉田藩(よしだはん)に於(お)ける青年(せいねん)の士(し)として
は彼(か)の穂積清軒(ほづみせいけん)は湖山(こざん)幽閉(ゆうへい)の安政(あんせい)六 年(ねん)には恰(あたか)も廿四 歳(さい)でまだ江戸(えど)にあつて阿州(あしう)の藩士(はんし)高畑(たかはた)五 郎(らう)と云(い)ふ
人(ひと)の塾(じゆく)で蘭学(らんがく)の勉強(べんけう)に余念(よねん)なき時(とき)である又(ま)た児島閑牕(こじまかんそう)は三十二 歳(さい)で藩政(はんせい)に対(たい)しては稍(やゝ)其(その)意見(いけん)が行(おこな)はれ
た頃(ころ)であつたが之(これ)等(ら)の人(ひと)は孰(いづ)れも江戸(えど)にあつたのであるソコで此(この)吉田(よしだ)に居(を)つた人(ひと)の中(なか)では関口良(せきぐちれう)、関(せき)
《割書:吉田藩の青|年と湖山》 根(ね)六三 郎(らう)並(ならび)にまだ存命(ぞんめい)である中村道太(なかむらみちた)、三 浦碧水(うらへきすゐ)などゝ云(い)ふ人(ひと)が頭角(とうかく)を現(あら)はさむとして居(を)つたので
あるが之(これ)等(ら)の青年(せいねん)は屡々(しば〴〵)湖山(こざん)の幽居(ゆうきよ)に入(い)つて時事(じゞ)を談(だん)じたものである今(いま)三 浦碧水翁(うらへきすゐおう)などの直話(ぢきわ)を聞(き)く
と湖山(こざん)幽閉(ゆうへい)の当時(たうじ)は頗(すこぶ)る意気軒昂(いきけんこう)たるもので其(その)議論(ぎろん)の根拠(こんきよ)とする処(ところ)は先(ま)づ大日本史(だいにほんし)とか山陽(さんよう)の日本外(にほんがい)
史(し)とか云(い)ふものと同(どう)一 筆法(ひつぱう)にあつて歴史(れきし)の上(うへ)から見(み)ても天下(てんか)の政権(せいけん)が武門(ぶもん)の手(て)にあると云(い)ふのは遺憾(いかん)
であると云(い)ふ論鋒(ろんはう)が常(つね)に現(あら)はれて居(を)つたと云(い)ふ事(こと)であるトコロで之(これ)に対(たい)する吉田藩(よしだはん)青年(せいねん)の意見(いけん)はドウ
であつたかと云(い)ふと人(ひと)によつて多少(たせう)の相違(そうゐ)はあつたであろうが要(えう)するに長(なが)い間(あひだ)武家(ぶけ)の力(ちから)によつて天下(てんか)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百五十五号附録 (大正二年九月二日発行)
【本文】
を治(をさ)めて来(き)たと云(い)ふ隋力(だりよく)は志想(しそう)の上(うへ)にも去(さ)らなかつたもので帰(き)する処(ところ)は当時(たうじ)幕府(ばくふ)に忠実(ちうじつ)なるのを以(もつ)て
結局(けつきよく)勤王(きんわう)の良法(りようはう)となし大政(たいせい)を幕府(ばくふ)の一 手(て)に出(い)でしむるを以(もつ)て尊王治国(そんわうぢこく)の要義(えうぎ)となしたる思想(しそう)は一 般(ぱん)に
流(なが)れて居(を)つたものである殊(こと)に吉田藩(よしだはん)は古来(こらい)から徳川氏(とくがはし)譜代(ふだい)の臣(しん)で且(か)つ当路者(たうろしや)たる間部(まなべ)閣老(かくろう)は藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)
の父(ちゝ)でもあつた処(ところ)から外交(ぐわいかう)に対(たい)しても幕府(ばくふ)の政策(せいさく)が止(やむ)を得(え)ぬのを認(みと)め従(したがつ)て水戸斉昭(みとなりあき)の頑強(がんきよう)なる議論(ぎろん)は
会(たま〳〵)以(もつ)て国家(こくか)に不利(ふり)なるものとなしたように思(おも)はれるのである彼(か)の松平慶永(まつだいらよしなが)の謀臣(ばうしん)中根雪江(なかねゆきえ)が安政(あんせい)五
年(ねん)二月十八日に鷹司(たかつかさ)の家司(かし)三 国大学(こくだいがく)に送(おく)つた書翰(しよかん)の中(なか)にも
今(いま)や朝廷(てうてい)将(まさ)に将軍(せうぐん)の権(けん)を奪(うばは)んとするに急(きう)なり武(ぶ)を外夷(ぐわいゐ)に耀(かゞやか)する遑(いとま)あらず窃(ひそか)に聞(き)く墨夷宰執(ぼくいさいしつ)の上京(ぜうけう)を
聞(きい)て日本将軍(にほんせうぐん)の威権(いけん)なきを歎(たん)ずと夷(い)既(すで)に其(その)威権(いけん)の軽(かる)きを知(し)らば向来(かうらい)何(なに)を以(もつ)て夷情(いぜう)を服(ふく)さん天威(てんい)元(もと)よ
り将軍(せうぐん)を服(ふく)すべしと雖(いへど)も手(て)を将軍(せうぐん)に借(か)らずんば夷狄(いてき)を服(ふく)することは得(え)給(たま)はじ将軍(せうぐん)の宰臣(さいしん)威権(いけん)将軍(せうぐん)に亜(つ)
ぐにあらざれば又(また)三百 諸侯(しよこう)を服従(ふくじう)する事(こと)能(あた)はず今(いま)の廷議覇府(ていぎはふ)の威権(いけん)を空(むなし)くし上洛(ぜうらく)して軍政(ぐんせい)を禁掖(きんえき)に
謀(はか)らん事(こと)を責(せ)め宰臣(さいしん)を棄(す)て諸侯(しよこう)の言(げん)を信(しん)ぜば覇府威柄(はふいへい)を失(うしな)ふて夷狄猩獗(いてきせうけつ)し宰臣(さいしん)権(けん)なくして諸侯(しよこう)横恣(わうし)
なるべし為此(このため)皇国内(わうこくない)に一 大変(だいへん)を萌動(ほうどう)せざる事(こと)を得(え)ざるは必然(ひつぜん)の勢(いきほい)也(なり)雖然(しかりといへども)当今之(とうこんの)計画(けいかく)は吾輩(わがはい)の議(ぎ)
する所(ところ)に非(あら)ず即(そく)今(こん)関東(かんとう)の形勢(けいせい)廷議之(ていぎの)遷延(ぜんえん)に依(よつ)て人心(じんしん)恟々(きよう〳〵)たり内地(ないち)の治(ぢ)を図(はか)る者(もの)は深(ふか)く憂(うれい)とする所(ところ)な
り兄(あに)宜(よろしく)察焉(さつせよ)
と云(い)ふような事(こと)が書(か)いてあるが之(これ)は如何(いか)にも当時(たうじ)に於(お)ける多数(たすう)の人心(じんしん)を写(うつ)し出(だ)して居(を)るように思(おも)ふの
である而(しか)も之(これ)が前(まへ)にも申述(まうしの)べたる如(ごと)く所謂(いはゆる)一 橋派(ばしは)の人(ひと)の手(て)によりて書(か)かれたる書翰(しよかん)であるから一 層(そう)味(あぢは)
ふべきものであると思(おも)ふ実(じつ)は今日(こんにち)から古老(ころう)の言(げん)などを聞(き)いて其(その)当時(たうじ)に於(お)ける吉田藩(よしだはん)の大体(だいたい)の意向(いかう)と云(い)
ふものを考(かんが)へて見(み)ても蓋(けだ)し此(かく)の如(ごと)きの思想(しそう)であつたではなかろうかと推断(すいだん)せらるゝのである併(しか)し此処(このところ)
【欄外】
豊橋市史談 (戊午の大獄と小野湖山) 四百八十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百八十四
【本文】
10日、遂に帰らぬ人となられたのである。こうした次第で私は遂に湖山先生から直接その経歴談を聞くことができなかったのは極めて遺憾とするもので、その後も未だその息子などについて深く御尋ねする暇を得ていないのであるが、いずれ機会を得て先生の経歴は十分に取り調べた上、詳しいことは追って補遺として加える考えである。
そこで話はまた前に戻るが、結局湖山は裁断の結果その藩において禁錮されることとなってこの吉田へ護送されたのであるが、これは安政6年の10月か11月頃のことで、湖山44歳の時であると推測される。その時の状況を今日残っている古老について聞くと、吉田藩においては川毛町に禁錮すべき場所を設けたので、その構造は普通の家屋で二間ばかりある座敷の周囲へ堅固な木柵を巡らし、いわゆる座敷牢としたものであるが、最初は実に厳重で、みだりに人に面会を許さなかったものである。しかるに次第にこの禁も緩むので、追々藩中青年の士はその幽室を訪うて議論を戦わせるに至ったのであるが、当時吉田藩における青年の士としては、かの穂積清軒は湖山幽閉の安政6年には丁度24歳で、まだ江戸にあって阿州の藩士高畑五郎という人の塾で蘭学の勉強に余念ない時である。また児島閑窓は32歳で、藩政に対してはやや その意見が行われた頃であったが、これ等の人はいずれも江戸にあったのである。そこでこの吉田にいた人の中では関口良、関根六三郎並びにまだ存命である中村道太、三浦碧水などという人が頭角を現そうとしていたのであるが、これ等の青年は しばしば湖山の幽居に入って時事を談じたものである。今三浦碧水翁などの直話を聞くと、湖山幽閉の当時は頗る意気軒昂たるもので、その議論の根拠とするところは先ず大日本史とか山陽の日本外史とかいうものと同一筆法にあって、歴史の上から見ても天下の政権が武門の手にあるというのは遺憾であるという論鋒が常に現れていたという事である。ところでこれに対する吉田藩青年の意見はどうであったかというと、人によって多少の相違はあったであろうが、要するに長い間武家の力によって天下
【吉田藩の青年と湖山】
【欄外】
発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百五十五号附録(大正2年9月2日発行)
【本文】
を治めて来たという惰力は思想の上にも去らなかったもので、帰するところは当時幕府に忠実なるを以て結局勤王の良法となし、大政を幕府の一手に出でしむるを以て尊王治国の要義となしたる思想は一般に流れていたものである。殊に吉田藩は古来から徳川氏譜代の臣で、且つ当路者たる間部閣老は藩主信古の父でもあったところから、外交に対しても幕府の政策が止むを得ないのを認め、従って水戸斉昭の頑強なる議論は却って以て国家に不利なるものとなしたように思われるのである。かの松平慶永の謀臣中根雪江が安政5年2月18日に鷹司の家司三国大学に送った書翰の中にも
「今や朝廷将に将軍の権を奪わんとするに急なり。武を外夷に耀かす遑あらず。窃かに聞く、墨夷宰執の上京を聞いて日本将軍の威権なきを歎ずと。夷既にその威権の軽きを知らば、向来何を以て夷情を服さん。天威元より将軍を服すべしと雖も、手を将軍に借らずんば夷狄を服することは得給わじ。将軍の宰臣威権将軍に亜ぐにあらざれば、又三百諸侯を服従する事能わず。今の廷議覇府の威権を空しくし、上洛して軍政を禁掖に謀らん事を責め、宰臣を棄て諸侯の言を信ぜば、覇府威柄を失うて夷狄猩獗し、宰臣権なくして諸侯横恣なるべし。為に皇国内に一大変を萌動せざる事を得ざるは必然の勢なり。雖然、当今の計画は吾輩の議する所に非ず。即今関東の形勢廷議の遷延に依って人心恟々たり。内地の治を図る者は深く憂いとする所なり。兄宜しく察せよ。」
ということが書いてあるが、これは如何にも当時における多数の人心を写し出しているように思うのである。しかもこれが前にも申し述べたる如く、所謂一橋派の人の手によりて書かれたる書翰であるから一層味わうべきものであると思う。実は今日から古老の言などを聞いて、その当時における吉田藩の大体の意向というものを考えて見ても、蓋しこのような思想であったではなかろうかと推断されるのである。しかしここで
【欄外】
豊橋市史談(戊午の大獄と小野湖山) 四百八十五
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 484
**Main Text:**
on the 10th, he finally became one who would never return. For these reasons, I ultimately could not hear his life story directly from Kozan-sensei, which I deeply regret. Even since then, I have not yet had the opportunity to make detailed inquiries about his son and others, but I plan to thoroughly investigate the master's life history when the opportunity arises and add detailed information later as a supplement.
So the story returns to the earlier point: ultimately, as a result of the judgment, Kozan was to be imprisoned in his domain and was escorted to Yoshida. This was around October or November of Ansei 6 (1859), when Kozan was 44 years old. According to surviving elderly residents about the circumstances at that time, Yoshida domain established a place of confinement in Kawage-chō. Its structure was that of an ordinary house with about two tatami rooms, around which a sturdy wooden fence was built, creating what was called a "sitting room prison." Initially it was extremely strict, not permitting casual meetings with people. However, gradually these restrictions loosened, so young domain retainers began visiting his confinement quarters to engage in debates. Among the young retainers of Yoshida domain at that time, Hozumi Seiken was exactly 24 years old during Kozan's confinement in Ansei 6, still in Edo devoting himself to studying Dutch learning at the academy of an Awa domain retainer named Takahata Gorō. Kojima Kansō was 32 years old, at a time when his opinions on domain administration were somewhat being implemented, but these men were all in Edo. Among those who were in Yoshida, people like Sekiguchi Ryō, Sekine Rokusaburō, and the still-living Nakamura Michita and Miura Hekisui were beginning to distinguish themselves. These young men frequently entered Kozan's confinement quarters to discuss current affairs. According to direct accounts from Miura Hekisui and others today, during Kozan's confinement he was quite spirited, and his arguments were based on the same methodology as works like the Dai Nihon-shi and Rai San'yō's Nihon Gaishi, with the consistent argument that it was regrettable from a historical perspective for political power to rest in military hands. Regarding the opinions of Yoshida domain's young men on this matter, while there were probably some differences depending on the individual, fundamentally the inertia of having governed the realm through military power for so long had not departed from their thinking either.
**Young Men of Yoshida Domain and Kozan**
**Margin:**
Publisher and Printing House: Sanyō Printing Partnership, 48 Kōya-chō, Toyohashi City | Editor: Nakanishi Kenzō | Publisher and Printer: Kuno □kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper No. 4,455 Supplement (Published September 2, Taishō 2 [1913])
**Main Text:**
The prevailing thought was that being loyal to the shogunate was ultimately the proper method of serving the emperor, and having all major government come from the shogunate's hands was the essential principle of imperial rule. Particularly since Yoshida domain had been hereditary retainers of the Tokugawa from ancient times, and the current leader Elder Manabe was also the father of domain lord Nobuhisa, they recognized that the shogunate's foreign policy was unavoidable. Consequently, they seemed to regard Mito Nariaki's obstinate arguments as rather detrimental to the nation. In a letter that Matsudaira Yoshinaga's strategist Nakane Yukie sent on February 18, Ansei 5 to Takatsukasa house administrator Mikuni Daigaku, it states:
"Now the court is urgently seeking to seize the shogun's authority. There is no time to display military might to foreign barbarians. I secretly hear that upon hearing of the barbarian ministers' visit to the capital, they lament the Japanese shogun's lack of authority. If the barbarians already know his authority is light, with what shall we subdue barbarian sentiments in the future? Though imperial authority should naturally subdue the shogun, without borrowing the shogun's hand, subduing the barbarians cannot be achieved. Unless the shogun's ministers have authority second only to the shogun, they cannot make the three hundred daimyo submit. Current court discussions seek to empty the military government's authority, demanding that [the shogun] come to the capital to plan military government in the forbidden precincts. If ministers are abandoned and the words of daimyo are trusted, the military government will lose its authority and the barbarians will become rampant; with ministers powerless, the daimyo will become presumptuous. For this reason, it is inevitable that great upheaval will arise within the imperial land. However, current plans are not what we advocate. Right now, due to the court discussions' delays, the situation in Kantō has people's hearts in turmoil. Those planning domestic governance deeply worry about this. Please understand this well."
This seems to truly reflect the sentiments of the majority at that time. Moreover, since this was written by someone from the so-called Hitotsubashi faction as I mentioned earlier, I think it deserves even more attention. Actually, even when listening to what elderly people say today and considering what the general intentions of Yoshida domain were at that time, I deduce that this was likely their way of thinking. However, at this point
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Ansei Purge and Ono Kozan) 485