Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 257

ページ: 257

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百八十六 【本文】       に最(もつと)も注意(ちうい)すべき事(こと)は其(その)頃(ころ)既(すで)に青年(せいねん)有為(いうゐ)の人々(ひと〴〵)の間(あひだ)には後(のち)に所謂(いはゆる)公武合体論(こうぶがつたいろん)なるものが萌芽(ほうが)して居(を)つ       た事(こと)である此(この)議論(ぎろん)は当時(たうじ)或(ある)一 部(ぶ)の人々(ひと〴〵)の間(あひだ)には頗(すこぶ)る研究(けんきう)せられて居(を)つた様子(やうす)であるが兎(と)に角(かく)かゝる思(し)       想(そう)を持(も)つて居(を)る吉田藩(よしだはん)の青年(せいねん)が前(まへ)にも申述(まうしの)べたる如(ごと)く所謂(いはゆる)南朝正統論(なんてうせいたうろん)を骨子(こつし)として勤王(きんわう)排幕(はいばく)の思想(しそう)に       満(み)ちて居(を)つた処(ところ)の小野湖山(をのこざん)を屡(しば〳〵)其(その)幽居(ゆうきよ)に訪(と)つて互(たがひ)に議論(ぎろん)を上下(ぜうげ)したのであるから今日(こんにち)から此(この)事(こと)を思(おも)       ひ見(み)ると当時(たうじ)を追懐(ついくわい)して何(なん)とも言(い)へぬ趣味(しゆみ)を感(かん)ずるのである然(しか)るに次第(しだい)に此(この)湖山(こざん)の意見(いけん)と云(い)ふものは       藩中(はんちう)の青年(せいねん)を化(くわ)したもので桜田(さくらだ)の変(へん)後(ご)幕政(ばくせい)の変動(へんどう)せるに従(したが)ひ湖山(こざん)の幽閉(ゆうへい)も自然(しぜん)の間(あひだ)に解(と)けたようにな 《割書:湖山時習館|に教鞭を執|る》  つて公然(こうぜん)と云(い)ふ訳(わけ)ではないが其後(そのご)湖山(こざん)は藩校(はんかう)時習館(じしうかん)に出(いで)て子弟(してい)に教授(けうじゆ)するようになつたのである前(まへ)に       も申述(まうしの)べたる関根(せきね)六三 郎(らう)の如(ごと)きは痴堂(ちどう)と号(がう)した人(ひと)であるが湖山(こざん)門人(もんじん)中(ちう)での有数(ゆうすう)なる人(ひと)と成(な)つたのであ       る此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で湖山(こざん)が学風(がくふう)と云(い)ふものは自(みづか)ら此(この)吉田(よしだ)の地(ち)に注入(ちうにう)せられたのであるが之(これ)が又(ま)た当時(たうじ)一 方(ぽう)       に伝(つた)はれる国学者(こくがくしや)の議論(ぎろん)と相待(あひま)つて独(ひと)り藩中(はんちう)のみならず寧(むし)ろ市人(しじん)の或部分(あるぶゞん)に向(むかつ)て一 種(しゆ)尊王(そんわう)の思想(しそう)を鼓(こ)       吹(すゐ)するに至(いた)つたのである              ⦿吉田に於ける国学者と羽田野敬雄 《割書:吉田に於け|る国学者》  吉田(よしだ)に於(お)ける国学者(こくがくしや)に就(つい)ては前章(ぜんせう)にも少(すこ)しく申述(まをしの)べたる処(ところ)があつたのであるが私(わたくし)は先(ま)づ鈴木土佐(すゞきとさ)を以(もつ)       て最初(さいしよ)の人(ひと)となして差支(さしつかへ)ないと思(おも)ふのである此(この)人(ひと)は前(まへ)にも既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く白山社(はくさんしや)の神職(しんしよく)で梁(やな)       満呂(まろ)と云(い)つた人(ひと)であるが享保(けうほ)十六年の産(うまれ)で文化(ぶんくわ)十四年八十七 歳(さい)を以(もつ)て死去(しきよ)したのであるが天明(てんめい)四年 其(その)       五十四 歳(さい)の時(とき)に本居宣長(もとおりのりなが)の門(もん)に入(い)つた事(こと)は宣長(のりなが)の門人名簿(もんじんめいぼ)に明(あきらか)なる事である而(しか)して宣長(のりなが)とは勿論(もちろん)加(か)       茂真淵(もまぶち)谷川士清(たにかはしせい)などゝ最(もつと)も親交(しんかう)のあつたもので其(その)往復(おうふく)した文書(ぶんしよ)は今(いま)も子孫(しそん)の処(ところ)に保存(ほぞん)されて居(を)る次第(しだい) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       であるが此(この)人(ひと)の自記(じき)したものなどによつて見(み)ても頗(すこぶ)る勤倹家(きんけんか)で且(か)つ勧化救済(かんくわきんざい)と云(い)ふような事には尽力(じんりよく)       したものと信(しん)ぜられる又(ま)た其(その)子(こ)の陸奥(むつ)と云(い)ふ人(ひと)も寛政(かんせい)元年(がんねん)に宣長(のりなが)の門(もん)に入(い)つたのであるが此(この)人(ひと)は名(な)を       重野(しげの)と云(い)ひ明和(めいわ)三 年(ねん)を以(もつ)て生(うま)れ天保(てんぽう)四年に没(ぼつ)したのである此(この)人(ひと)は又(ま)た伴信友(ばんのぶとも)平田篤胤(ひらたあつたね)並(ならび)に鐵胤(かねたね)などゝ       親交(しんかう)があつたので其(その)往復(おうふく)文書(ぶんしよ)が矢張(やはり)幸(さいはひ)に子孫(しそん)の家(いへ)に保存(ほそん)してあるのは実(じつ)に愉快(ゆくわい)なる事である思(おも)ふ要(えう)       するに此(この)父子(ふし)は孰(いづ)れも篤行家(とくかうか)で太田錦城(おほたきんじやう)も嘗(かつ)て吉田(よしだ)在住(ざいぢう)中(ちう)常(つね)に陸奥(むつ)と交遊(かうゆう)したが左(さ)の事(こと)を記(しる)して一 絶(ぜつ)       を贈(おく)つた程(ほど)である        予来三河、所交人士凡百許人矣、独喜鈴木生温潤敦朴今世所希観也、為是薫然心酔、乃作一絶贈之       之(これ)によりて見(み)るも略(ほゞ)其(その)人物(じんぶつ)が分(わか)るように思(おも)はるゝのであるが其(その)頃(ころ)此(この)吉田(よしだ)に於(おい)て尚(な)ほ宣長(のりなが)の門人(もんじん)となつ       たものは其他(そのた)にも三四 人(にん)もあつたのであるが之(これ)は既(すで)に前章(ぜんせう)に於(おい)て申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)くである其(その)後(のち)此(この)地(ち)       に於(お)ける国学(こくがく)と云(い)ふものは一 般(ぱん)に風潮(ふうてう)につれて次第(しだい)に盛(さかん)になる傾向(けいかう)を以(もつ)て進(すゝ)むだのであるが松平信順(まつだひらのぶより)       の如(ごと)きは自(みづか)ら其(その)妾(せう)金井(かねゐ)氏(し)並(ならび)に老女(らうぢよ)中川(なかがは)氏(し)と共(とも)に宣長(のりなが)の孫(そん)大平(おほひら)の門人(もんじん)となつたのであるモツトモ当時(たうじ)は       前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く中山美石(なかやまびせき)と云(い)ふ人(ひと)があつて此(この)人(ひと)は長(なが)い間(あひだ)信順(のぶより)にも侍(ぢ)し又(ま)た時習館(じしふくわん)の教授(けふじゆ)として       藩士(はんし)中(ちう)でも相当(そうたう)に用(もち)ゐられたのであるが元来(がんらい)此(この)人(ひと)が大平(おほひら)の門人(もんじん)で而(しか)も同門(どうもん)の中(なか)でも最(もつと)も重(おも)きをなして 岩上登波子 居(を)つたのである其(その)他(た)此頃(このごろ)は女流(ぢよりう)としても岩上登波子(いはかみとはこ)の如(ごと)き傑出(けつしゆつ)したもの出(い)でたのであるが此(この)登波子(とはこ)       と云(い)ふ人(ひと)は元(も)と遠江(とほとふみ)浜松(はままつ)の井上侯(ゐのうえこう)の藩医(はんゐ)馬目玄鶴(うまめげんかく)と云(い)ふ人(ひと)の女(ぢよ)で幼名(えうめい)を宇免(うめ)と云(い)つたのであるが安永(あんえい)       九年正月十日の生(うまれ)で寛政(かんせい)六年の十二月 年(とし)十五の時(とき)に此(この)吉田藩士(よしだはんし)の岩上(いはかみ)九 兵衛(へゑ)俊隆(としたか)と云(い)ふ人(ひと)の処(ところ)へ嫁(か)し       たのである然(しか)るに不幸(ふかう)にして夫(をつと)俊隆(としたか)は文化(ぶんくわ)四年九月十八日 年(とし)三十七で病没(びやうぼつ)したので登波子(とはこ)は其(その)時(とき)二十       八 歳(さい)であつたが一 女(ぢよ)一 男(だん)があつたのであるトコロが此(この)男児(だんぢ)は程(ほど)なく夭死(ようし)したのであるから止(やむ)を得(え) 【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百八十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百八十六 【本文】 ここで最も注意すべきことは、その頃既に青年有為の人々の間には後にいわゆる公武合体論なるものが萌芽していたことである。この議論は当時ある一部の人々の間には頗る研究されていた様子であるが、とにかくこのような思想を持っている吉田藩の青年が、前にも申し述べたように、いわゆる南朝正統論を骨子として勤王排幕の思想に満ちていた小野湖山を、しばしばその幽居に訪うて互いに議論を戦わせたのであるから、今日からこのことを思い見ると、当時を追懐して何ともいえぬ趣味を感ずるのである。しかるに次第にこの湖山の意見というものは藩中の青年を感化したもので、桜田の変後、幕政の変動するに従い、湖山の幽閉も自然の間に解けたようになって、公然というわけではないが、その後湖山は藩校時習館に出て子弟に教授するようになったのである。前にも申し述べた関根六三郎のような人は痴堂と号した人であるが、湖山門人中での有数なる人となったのである。このような訳で湖山が学風というものは自ら此の吉田の地に注入されたのであるが、これがまた当時一方に伝わる国学者の議論と相まって、独り藩中のみならず、むしろ市人のある部分に向って一種尊王の思想を鼓吹するに至ったのである。 【湖山時習館に教鞭を執る】 ⦿吉田における国学者と羽田野敬雄 【吉田における国学者】 吉田における国学者については前章にも少しく申し述べたところがあったのであるが、私は先ず鈴木土佐を以て最初の人となして差支えないと思うのである。この人は前にも既に申し述べて置いたように白山社の神職で、梁満呂といった人であるが、享保16年の生まれで文化14年87歳を以て死去したのであるが、天明4年、その54歳の時に本居宣長の門に入ったことは、宣長の門人名簿に明らかなことである。そして宣長とは勿論、加茂真淵や谷川士清などとも最も親交があったもので、その往復した文書は今も子孫のところに保存されている次第 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 であるが、この人の自記したものなどによって見ても、頗る勤倹家で、且つ勧化救済ということには尽力したものと信ぜられる。またその子の陸奥という人も寛政元年に宣長の門に入ったのであるが、この人は名を重野といい、明和3年を以て生まれ、天保4年に没したのである。この人はまた伴信友、平田篤胤並びに鉄胤などと親交があったので、その往復文書が矢張り幸いに子孫の家に保存してあるのは実に愉快なることである。思うに要するに、この父子はいずれも篤行家で、太田錦城も嘗て吉田在住中常に陸奥と交遊したが、左のことを記して一絶を贈った程である。 「予来三河、所交人士凡百許人矣、独喜鈴木生温潤敦朴今世所希観也、為是薫然心酔、乃作一絶贈之」 これによって見るも略その人物が分かるように思われるのであるが、その頃この吉田において尚お宣長の門人となったものは、その他にも三四人もあったのであるが、これは既に前章において申し述べて置いたようくである。その後この地における国学というものは、一般に風潮につれて次第に盛んになる傾向を以て進んだのであるが、松平信順のような人は自ら、その妾金井氏並びに老女中川氏と共に宣長の孫大平の門人となったのである。もっとも当時は前章に申し述べたように中山美石という人があって、この人は長い間信順にも侍し、また時習館の教授として藩士中でも相当に用いられたのであるが、元来この人が大平の門人で、しかも同門の中でも最も重きをなしていたのである。その他、この頃は女流としても岩上登波子のような傑出したものが出たのであるが、この登波子という人は元と遠江浜松の井上侯の藩医馬目玄鶴という人の女で、幼名を宇免といったのであるが、安永9年正月10日の生まれで、寛政6年の12月、年15の時にこの吉田藩士の岩上九兵衛俊隆という人のところへ嫁したのである。しかるに不幸にして夫俊隆は文化4年9月18日、年37で病没したので、登波子はその時28歳であったが、一女一男があったのである。ところがこの男児は程なく夭死したのであるから、止むを得 【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百八十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 486 **Main Text:** The most noteworthy point here is that by this time, the so-called "Court-Shogunate Unity Theory" (kōbu gattai ron) was already beginning to sprout among promising young men. This theory appears to have been extensively studied among certain groups at the time. In any case, the young men of Yoshida domain who held such thoughts frequently visited the confinement quarters of Ono Kozan, who was filled with pro-imperial, anti-shogunate ideology based on what was called Southern Court legitimacy theory as I mentioned earlier, and engaged in mutual debates. When I think about this today, I feel an indescribable fascination in recalling those times. Gradually, however, Kozan's opinions influenced the young men of the domain, and after the Sakurada Incident, as the shogunate politics underwent changes, Kozan's confinement was naturally lifted. Though not officially announced, Kozan subsequently began teaching students at the domain school Jishūkan. People like Sekine Rokusaburō, whom I mentioned earlier, who went by the name Chidō, became one of the prominent figures among Kozan's disciples. In this way, Kozan's scholarly style was naturally infused into this land of Yoshida. Combined with the arguments of National Learning scholars that were spreading at the time, this came to inspire a kind of pro-imperial thought not only within the domain but also among certain segments of the townspeople. **Kozan Takes Up Teaching at Jishūkan** ⦿ National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao **National Learning Scholars in Yoshida** Regarding National Learning scholars in Yoshida, I touched upon this subject briefly in the previous chapter, but I think I can safely consider Suzuki Tosa as the first such figure. This person, as I mentioned earlier, was a Shinto priest at Hakusan Shrine who was called Yanagi Maro. Born in Kyōhō 16 (1731) and dying in Bunka 14 (1817) at age 87, he entered Motoori Norinaga's school in Tenmei 4 (1784) at age 54, which is clear from Norinaga's disciple registry. He maintained close relationships not only with Norinaga but also with Kamo no Mabuchi and Tanigawa Kotosuga, and the correspondence they exchanged is still preserved by his descendants. **Margin:** Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the draft nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (on Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper. **Main Text:** Based on his own writings and other sources, he was quite frugal and diligent, and believed to have devoted himself to charitable work and relief efforts. His son, called Mutsu, also entered Norinaga's school in Kansei 1 (1789). This person's name was Shigeno, born in Meiwa 3 (1766) and died in Tenpō 4 (1833). This person also had close relationships with Ban Nobutomo, Hirata Atsutane, and Kanetane, and it is truly delightful that their correspondence is fortunately preserved in his descendants' house. In essence, both father and son were people of virtuous conduct. Even Ōta Kinshiro, who frequently associated with Mutsu during his residence in Yoshida, recorded the following and presented a poem: "Since coming to Mikawa, I have associated with about a hundred people, but I am particularly pleased with Suzuki's gentle and honest nature, rarely seen in this world. Being deeply moved and intoxicated by this, I composed a poem to present to him." From this, we can roughly understand his character. At that time, there were three or four other people in Yoshida who became Norinaga's disciples, as I mentioned in the previous chapter. Subsequently, National Learning in this area generally followed the trend and progressed with an increasingly flourishing tendency. People like Matsudaira Nobuyori became disciples of Ōhira, Norinaga's grandson, along with his concubine Kanai and elderly lady-in-waiting Nakagawa. Of course, at that time, as I mentioned in the previous chapter, there was a person called Nakayama Biseki who served Nobuyori for a long time and was employed considerably among the domain retainers as a professor at Jishūkan. Originally, this person was Ōhira's disciple and held the highest position among his fellow students. Additionally, around this time, an outstanding woman emerged: Iwakami Tohako. This Tohako was originally the daughter of Umame Genkaku, a domain physician serving Lord Inoue of Hamamatsu in Tōtōmi Province. Her childhood name was Ume, and she was born on January 10, An'ei 9 (1780). In December of Kansei 6 (1794), at age 15, she married Iwakami Kyūbei Toshitaka, a retainer of Yoshida domain. Unfortunately, her husband Toshitaka died of illness on September 18, Bunka 4 (1807) at age 37, so Tohako was 28 at the time. She had one daughter and one son, but this son died young, so inevitably... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 487