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【欄外】
豊橋市史談 (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄) 四百八十八
【本文】
ず分家(ぶんけ)の二 男(なん)を養(やしな)つて嗣(じ)となしたのである元来(がんらい)登波子(とはこ)の実父(じつぷ)玄鶴(げんかく)は芝山持豊卿(しばやまもちとよけう)の門(もん)に入(い)りて和歌(わか)を学(まな)
び又(ま)た宣長(のりなが)の門人(もんじん)ともなつた人(ひと)であつたから登波(とは)も幼少(えうせう)の時(とき)から其(その)薫陶(くんとう)を受(う)けたもので後(のち)大平翁(おほひらをう)の門(もん)
に入(い)り中山美石(なかやまびせき)は勿論(もちろん)同門(どうもん)の人々(ひと〴〵)とも交遊(かうゆう)したのである其(その)著(ちよ)に三 代調類題(だいてうるいだい)六 巻(かん)登波子(とはこ)詠草(よみくさ)三 巻(かん)がある
が三 代調類題(だいてうるいだい)は文政(ぶんせい)四年六月の出版(しゆつぱん)登波子(とはこ)詠草(よみくさ)の方(はう)は文久(ぶんきう)元年(がんねん)七月の出版(しゆつぱん)である而(しか)も此(この)出版(しゆつぱん)に就(つい)ては
矢張(やはり)容易(ようい)ならず苦心(くしん)したものであるとの事であるが登波子(とはこ)は其(その)後(のち)病(やまひ)にかゝつて其(その)年(とし)八十二 歳(さい)で没(ぼつ)した
が尚(な)ほ同門(どうもん)の人(ひと)で御話(おはなし)すべきものも少(すくな)くないのである併(しか)し其(その)中(なか)に就(つい)て最(もつと)も此処(こゝ)に御紹介(ごせうかい)せねばならぬ
羽田野敬雄 と思(おも)ふのは彼(か)の羽田文庫(はだぶんこ)の創設者(さうせつしや)羽田野敬雄(はだのたかを)の事(こと)である
敬雄(たかを)は通称(つうせう)を常陸(ひたち)と云(い)ひ後(のち)栄樹(さかき)と改(あらた)めた人(ひと)であるが羽田神明(はだしんめい)八 幡(まん)両宮(れうぐう)の神職(しんしよく)であつたのである実(じつ)は宝(ほ)
飯郡(ゐぐん)西方村(にしがたむら)山本兵(やまもとへ)三 郎茂義(らうしげよし)と云(い)ふ人(ひと)の第(だい)四 子(し)であつたが後(のち)養(やしな)はれて羽田(はだ)の神官(しんくわん)羽田野上総敬道(はだのかづさたかみち)の嗣(し)と
なつたのである明治十五年六月一日八十五 歳(さい)で死去(しきよ)した人(ひと)であるから之(これ)で推(お)すと寛政(かんせい)十年の生(うまれ)である
と信(しん)ぜられる然(しか)るに福羽美静(ふくはみせい)氏(し)の書(か)かれた敬雄(たかを)の伝記(でんき)によると文政(ぶんせい)十年が其(その)三十一 歳(さい)の時(とき)であつたよ
うに記(しる)してあるソウすると寛政(かんせい)九年の生(うま)れでなくてはならぬ事(こと)になるのであるが同(おな)じ福羽氏(ふくはし)の伝記(でんき)の
中(なか)に矢張(やはり)没年(ぼつねん)は明治十五年で八十五 歳(さい)としてあるのであるから之(これ)は結局(けつきよく)文政(ぶんせい)十年に卅一 歳(さい)としてある
のが三十 歳(さい)となすべき誤(あやまり)でなくてはならぬと思(おも)はるゝのであるそれとも実際(じつさい)は寛政(かんせい)九年の生(うまれ)で没年(ぼつねん)
の八十五 歳(さい)と云(い)ふのが満(まん)の年(とし)で数(かぞ)へ年(とし)では八十六 歳(さい)ではなかつたであろうか此処(こゝ)は私(わたくし)の疑問(ぎもん)として居(を)
る処(ところ)であるサテ敬雄(たかを)は幼少(えうせう)の時(とき)から実(じつ)に書(しよ)を読(よ)む事を好(この)むで暇(ひま)さえあれば之(これ)に耽(ふけ)つて居(を)つたのである
が嘗(かつ)て吉田(よしだ)の某(ばう)商家(せうか)へ預(あづ)けられた事(こと)がある然(しか)るに昼間(ちうかん)は家事(かじ)に追立(おひた)てらるゝ為(ため)に夜(よ)に入(い)つて人(ひと)が寝静(ねしづ)
まるのを待(ま)つて竊(ひそ)かに読書(どくしよ)を初(はじ)めたのであるトコロが或時(あるとき)吉田藩(よしだはん)で一 人(にん)の窃盗(せつたう)を捕(とら)へて其(その)罪状(ざいぜう)を訊問(じんもん)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百六十一号附録 (大正二年九月九日発行)
【本文】
した事(こと)があつたが其(その)窃盗(せつたう)の云(い)ふには嘗(かつ)て吉田(よしだ)の某(ぼう)商家(せうか)へ忍(しの)び入(い)ろうとした処(ところ)が毎夜(まいよ)深更(しんかう)まで熱心(ねつしん)に読(どく)
書(しよ)して居(を)る小僧(こぞう)があるので遂(つゐ)に其(その)目的(もくてき)を果(はた)す事(こと)が出来(でき)なかつたがあれは実(じつ)に感心(かんしん)な小僧(こぞう)であるとコー
申立(まをした)てたのであるソコで藩吏(はんり)が段々(だん〴〵)調査(てうさ)して見(み)ると其(その)小僧(こぞう)と云(い)ふのは実(じつ)に此(この)敬雄(たかを)であつたので此(この)事(こと)が
次第(しだい)に評判(へうばん)になつた処(ところ)からそれが動機(どうき)となつて羽田野家(はだのけ)へ養子(やうし)さるゝに至(いた)つたと云(い)ふ話(はなし)が伝(つた)はつて居(を)
るのである其(その)後(のち)此(この)敬雄(たかを)は前章(ぜんせう)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く矢張(やはり)本居(もとおり)大平(おほひら)の門人(もんじん)と相成(あひな)つたのであるが大(おほ)
平(ひら)に取(と)りては余程(よほど)晩年(ばんねん)の門人(もんじん)であつたのである程(ほど)なく父(ちゝ)の後(あと)を継(つ)いで神職(しんしよく)をも襲(つ)いだが文政(ぶんせい)十 年(ねん)七月
廿一日を以(もつ)て更(さら)に平田篤胤(ひらたあつたね)の門(もん)に入(い)つたのである此(この)時(とき)敬雄(たかを)の読(よ)むだ歌(うた)に
神路(かみぢ)山分(やまわけ)てのほれは天つ日の
《割書:敬雄と平田|篤胤》 ひかりを掩(お)ふ雲(くも)霧(きり)もなし
神路(かみぢ)やまけしき小道(こみち)にまとはすて
たゝひとすちのまみちなりけり
と云(い)ふのがあるが篤胤(あつたね)は深(ふか)く之(これ)を喜(よろこ)むだと云(い)ふ事(こと)である此(この)時(とき)敬雄(たかを)は三十一 歳(さい)(三十歳か)篤胤(あつたね)は五十二
歳(さい)であつたのであるモツトモ敬雄(たかを)はまだ篤胤(あつたね)の門人(もんじん)と相成(あひな)らぬ以前(いぜん)から深(ふか)く之(これ)を尊敬(そんけい)して其(その)教(をしへ)を請(こ)つ
た事(こと)があるのであるが最初(さいしよ)は平田篤胤(ひらだあつたね)の処(ところ)へ手紙(てかみ)を送(おく)つて其(その)取次(とりつ)ぎで篤胤(あつたね)の教(をしへ)を請(こ)つたのである今(いま)残(のこ)
つて居(を)る書翰(しよかん)で左(さ)のものは実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける敬雄(たかを)と篤胤(あつたね)との関係(くわんけい)は勿論(もちろん)相互(さうご)の人格(じんかく)も分(わか)つて面白(おもしろ)いも
のであると思(おも)ふから此処(こゝ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)げる事(こと)にするが文中(ぶんちう)圏点(けんてん)を付(ふ)したる箇所(かしよ)は原本(げんほん)の朱書(しゆがき)の処(ところ)で篤(あつ)
胤(たね)が自筆(じひつ)で加入(かにふ)したものである又(ま)た三 角点(かくてん)を付(ふ)した処(ところ)は篤胤(あつたね)の書(か)き加(くは)へたものと信(しん)ぜられるが勿論(もちろん)此(この)
圏点(けんてん)並(ならび)に三 角点(かくてん)は便宜上(べんぎぜう)私(わたくし)が付(つ)けたので原本(げんほん)にはなきものである而(しか)して此(この)書翰(しよかん)は元(も)と敬雄(たかを)から篤胤(あつたね)
【欄外】
豊橋市史談 (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄) 四百八十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百八十八
【本文】
ず分家の二男を養って跡継ぎとしたのである。元来登波子の実父玄鶴は芝山持豊卿の門に入りて和歌を学び、また宣長の門人ともなった人であったから、登波も幼少の時からその薫陶を受けたもので、後に大平翁の門に入り、中山美石は勿論、同門の人々とも交遊したのである。その著書に『三代調類題』六巻、『登波子詠草』三巻があるが、『三代調類題』は文政4年6月の出版、『登波子詠草』の方は文久元年7月の出版である。しかもこの出版については、やはり容易ならず苦心したものであるとのことであるが、登波子はその後病にかかって、その年82歳で没したが、なお同門の人で話すべきものも少なくないのである。しかしその中について最もここで御紹介せねばならぬと思うのは、かの羽田文庫の創設者羽田野敬雄のことである。
敬雄は通称を常陸といい、後に栄樹と改めた人であるが、羽田神明八幡両宮の神職であったのである。実は宝飯郡西方村の山本兵三郎茂義という人の第四子であったが、後に養われて羽田の神官羽田野上総敬道の跡継ぎとなったのである。明治15年6月1日、85歳で死去した人であるから、これで推すと寛政10年の生まれであると信ぜられる。しかるに福羽美静氏の書かれた敬雄の伝記によると、文政10年が其の31歳の時であったように記してある。そうすると寛政9年の生まれでなくてはならぬことになるのであるが、同じ福羽氏の伝記の中に、やはり没年は明治15年で85歳としてあるのであるから、これは結局文政10年に31歳としてあるのが30歳となすべき誤りでなくてはならぬと思われるのである。それとも実際は寛政9年の生まれで、没年の85歳というのが満の年で、数え年では86歳ではなかったであろうか。ここは私の疑問として残っているところである。さて敬雄は幼少の時から実に書を読むことを好んで、暇さえあればこれに耽っていたのであるが、かつて吉田のある商家へ預けられたことがある。しかるに昼間は家事に追い立てられるため、夜に入って人が寝静まるのを待って密かに読書を始めたのである。ところがある時、吉田藩で一人の窃盗を捕らえて、その罪状を訊問
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百六十一号附録 (大正2年9月9日発行)
【本文】
したことがあったが、その窃盗の言うには、かつて吉田のある商家へ忍び入ろうとしたところが、毎夜深更まで熱心に読書している小僧があるので、ついにその目的を果たすことができなかったが、あれは実に感心な小僧であると、こう申し立てたのである。そこで藩吏が段々調査してみると、その小僧というのは実にこの敬雄であったので、このことが次第に評判になったところから、それが動機となって羽田野家へ養子されるに至ったという話が伝わっているのである。その後この敬雄は、前章にちょっと申し述べて置いたように、やはり本居大平の門人と相なったのであるが、大平にとっては余程晩年の門人であったのである。程なく父の後を継いで神職をも襲いだが、文政10年7月21日を以て更に平田篤胤の門に入ったのである。この時敬雄の詠んだ歌に
神路山分けて登れば天つ日の
光を覆う雲霧もなし
神路山景色小道にまよわずて
ただひと筋の真道なりけり
というのがあるが、篤胤は深くこれを喜んだということである。この時敬雄は31歳(30歳か)、篤胤は52歳であったのである。もっとも敬雄はまだ篤胤の門人と相ならぬ以前から、深くこれを尊敬してその教えを請うたことがあるのであるが、最初は平田篤胤のところへ手紙を送って、その取次ぎで篤胤の教えを請うたのである。今残っている書翰で左のものは、実に当時における敬雄と篤胤との関係は勿論、相互の人格も分かって面白いものであると思うから、ここにその全文を掲げることにするが、文中圏点を付したる箇所は原本の朱書のところで、篤胤が自筆で加入したものである。また三角点を付した処は篤胤の書き加えたものと信ぜられるが、勿論この圏点並びに三角点は便宜上私が付けたので原本にはなきものである。そしてこの書翰は元と敬雄から篤胤
【敬雄と平田篤胤】
【欄外】
豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百八十九
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 488
**Main Text:**
...she inevitably adopted the second son of a branch family as her heir. Originally, Tohako's father Genkaku had entered the school of Lord Shibayama Mochitoyokyō to study waka poetry and had also become a disciple of Norinaga, so Tohako received his influence from childhood. Later she entered the school of Master Ōhira and associated not only with Nakayama Biseki but also with fellow disciples. Her works include "Sandai Chō Ruidai" in six volumes and "Tohako Yomigusa" in three volumes. "Sandai Chō Ruidai" was published in June of Bunsei 4 (1821), while "Tohako Yomigusa" was published in July of Bunkyū 1 (1861). Moreover, regarding these publications, she apparently struggled considerably with them. Tohako later fell ill and died at age 82, but there are still many fellow disciples worth mentioning. However, among them, the one I think must be introduced here is Hatano Takao, the founder of the famous Hata Library.
Takao's common name was Hitachi, later changed to Saeki, and he served as a Shinto priest at both Hata Shinmei and Hachiman shrines. He was actually the fourth son of Yamamoto Heisaburō Shigeyoshi of Nishigata village in Hōi district, but was later adopted and became the heir of Hatano Kazusa Takamichi, a Shinto priest of Hata. Since he died on June 1, Meiji 15 (1882) at age 85, this suggests he was born in Kansei 10 (1798). However, according to the biography of Takao written by Fukuha Misei, it records that Bunsei 10 (1827) was when he was 31 years old. If so, he would have to have been born in Kansei 9 (1797), but the same Fukuha biography also states his death year as Meiji 15 at age 85, so this must be an error where 31 should read 30 in Bunsei 10. Or perhaps he was actually born in Kansei 9, and the age 85 at death refers to his full years, making him 86 in traditional counting. This remains my question. Now, Takao loved reading from childhood and was absorbed in it whenever he had free time. He was once placed with a merchant family in Yoshida. However, since he was kept busy with household duties during the day, he would wait until night when people went to sleep and secretly begin reading. Then one time, Yoshida domain captured a thief and interrogated him about his crimes...
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyō Printing Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper No. 4461 Supplement (Published September 9, Taishō 2 [1913])
**Main Text:**
The thief said that he had once tried to break into a merchant house in Yoshida, but there was a young apprentice who studied earnestly every night until late, so he was unable to accomplish his purpose, but that was truly an admirable young man. When the domain officials gradually investigated, they found that this apprentice was indeed Takao, and this incident gradually became famous, which became the catalyst for his adoption into the Hatano family. Later, this Takao became a disciple of Motoori Ōhira, as I briefly mentioned in the previous chapter, though he was quite a late disciple for Ōhira. He soon inherited his father's position and also took over the Shinto priesthood, but on July 21, Bunsei 10 (1827), he further entered the school of Hirata Atsutane. At this time, Takao composed the following poems:
"Dividing through Kamiji mountain as I climb,
There are no clouds or mist to cover the heavenly sun's light.
The scenery of Kamiji mountain's small path leads without confusion—
It is truly the one straight true way."
Atsutane was said to be deeply pleased with these. At this time, Takao was 31 years old (or 30?), and Atsutane was 52. Of course, even before becoming Atsutane's disciple, Takao had deeply respected him and sought his teachings. Initially, he sent letters to Hirata Atsutane and through intermediaries sought Atsutane's instruction. Among the remaining correspondence, I think the following truly shows the relationship between Takao and Atsutane at the time, as well as their mutual characters, so I will present the full text here. The portions marked with circles in the text are places with vermillion writing in the original, added by Atsutane's own hand. The places marked with triangular points are believed to be additions by Atsutane, though of course these circles and triangular points are added by me for convenience and do not exist in the original. This letter was originally from Takao to Atsutane...
**Takao and Hirata Atsutane**
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 489