← 前のページ
ページ 27 / 382
次のページ →
翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿六
【本文】
にある棟札(むなふだ)が古白の自筆(じしつ)であると云ふならば面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふ、 此(この)棟札(むなふだ)の文字(もじ)は余(あま)り名筆(めいしつ)では
ないが無邪気(むじやき)な飾(かざ)り気(け)のない豪傑風(ごうけつふう)の書(しよ)であつて中々(なか〳〵)味(あじは)ふべきものがあるのである、 又(ま)た此(この)棟札(むなふだ)にも
《割書:古白平姓を|称す》 平朝臣(たひらのあそん)古白(こはく)とあるが其外(そのほか)にも平姓(たひらせい)を名乗(なの)つた証拠(せうこ)は三四あるので当時(とうじ)此(この)牧野家(まきのけ)が平姓(たひらせい)を名乗(なの)つた事
に付(つい)ては疑問(ぎもん)の様(よう)であるが其頃(そのころ)は所謂(いはゆる)戦国時代(せんこくじだい)で歴史(れきし)や系図(けいづ)の研究(けんきう)は行届(ゆきとゞ)かず其(その)祖先(そせん)が平家(へいけ)の士(し)であ
つた処(ところ)から単純(たんじゆん)に平姓(たひらせい)を称(せう)したものと思(おも)はれる、 其(その)田口氏(たぐちし)で紀姓(きせい)であるなどゝ云ふ事は寛永(かんえい)以後(いご)徳川(とくがは)
古白の墳墓 時代(じだい)に至(いた)つて系図(けいづ)調(しら)べの結果(けつくわ)分(はか)つたものであると信(しん)ずる、 又(ま)た古白(こはく)の墳墓(ふんぼ)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)な説(せつ)があるが
私(わたくし)の知(し)る処(ところ)によると豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)龍拈寺(りうねんじ)前(まへ)の墳墓(ふんぼ)、 宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(だいおんじ)の墳墓(ふんぼ)、 幷(ならび)に仝郡(どうぐん)牧野村(まきのむら)柳貝(やながい)
津(づ)の墳墓(ふんぼ)である、 而(しか)して三 州(しう)吉田記(よしだき)には豊橋市 上伝馬(かみでんま)興徳寺(こうとくじ)に葬(ほうむ)つたものゝ 如(ごと)く記(しる)してあつて新(あたらし)い
方(はう)の牧野家譜(まきのかふ)には赤岩法言寺(あかいわはうげんじ)に葬(ほうむ)ると記(しる)してある此(この)三 州(しう)吉田記(よしだき)と云ふ書物(しよもつ)は吉田呉服町の人で林自見(はやしじけん)
の著(ちよ)であるが此人(このひと)の事に就(つい)てはいづれ後(のち)に至(いたつ)て申上(まうしあ)ぐる考(かんがへ)である然(しか)るに此(この)興徳寺(こうとくじ)には今何(いまなん)にも残(のこ)つ
て居(を)らぬので一の証拠(せうこ)となるものもなく法言寺(はうげんじ)にも更(さら)に其(その)形跡(けいせき)がないのである、 又(ま)た牧野村(まきのむら)柳貝津(やながいづ)の
墳墓(ふんぼ)に就(つい)ては前章(ぜんせう)に評論(へうろん)した如(ごと)くで全(まつた)く別人(べつじん)のものと信(しん)ぜられる而(しか)して大恩寺(だいおんじ)の墳墓(ふんぼ)は後世(こうせい)に至つて
建(た)てたもので古白(こはく)の戒名(かいめう)は慥(たしか)に彫(ほ)り込(こ)むではあるが無論(むろん)当時(とうじ)のものではないのであるが独(ひと)り龍拈寺(りうねんじ)
前(まへ)の墓(はか)に至(いた)つては充分(じんぶん)信(しん)を置(を)くに足(た)るものであると思(おも)ふ併(しか)しながら其(その)時代(じだい)にはまだ龍拈寺(りうねんじ)と云ふもの
は建立(こんりう)されなかつたので寧(むし)ろ寺(てら)の方(はう)が後(あと)に出来(でき)た訳(わけ)になつて居(を)るのである即(すなは)ち寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)に
法名(はうめい)古白(こはく)其(その)地(ち)に葬(ほうむ)る乃(すなは)ち男伝左衛門(だんでんざゑもん)が時(とき)一寺を其辺(そのへん)に造立(ざうりつ)して龍拈寺(りうねんじ)と云ふ今(いま)其(その)墳(つか)を古白墳(こはくつか)と号(ごう)す
とあつて全(まつた)く今日(こんにち)残(のこ)つて居(を)る龍拈寺(りうねんじ)の伝説(でんせつ)とも一 致(ち)するのである従(したがつ)て古白(こはく)の墳墓(ふんぼ)に付(つい)ては私(わたくし)は深(ふか)
戸田金七郎 く此説(このせつ)を信(しん)ずるものである、ソコデ古白(こはく)戦死(せんし)の後(のち)は如何(いか)なる人が今橋城(いまはしぜう)を守(まも)つたかと云ふに戸田金(とだきん)七
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□ □
【左頁】
【本文】
郎(らう)と云ふ人が居(を)つたと云ふことは諸説(しよせつ)の一 致(ち)する処である従(したがつ)て此(この)戸田金(とだきん)七 郎(らう)はどう云ふ人であつて当(とう)
時(じ)今川方(いまがはがた)に属(ぞく)してあつたか又(ま)た松平方(まつだひらがた)に属(ぞく)してあつたかと云(い)ふことが判然(はんぜん)すると自然(しぜん)前(ぜん)述(の)べた古白(こはく)の相(あひ)
手方(てがた)も分(わか)る理(り)であるが遺憾(ゐかん)な事には之(これ)も亦(また)明瞭(めいれう)ならぬのである藩翰譜系図(はんかんふけいづ)には此(この)金七郎を宣成(のぶなり)として
あつて憲光(のりみつ)の二 男(なん)だと書(か)いてあるが吉田城主考(よしだぜうしゆこう)には頗(すこぶ)る精細(せいさい)に考証(こうせう)して小松原(こまつばら)観音寺(くわんおんじ)を初(はじ)め大久保(おほくぼ)の
長興寺(てうこうじ)其他(そのた)高野山(こうやさん)平等院(へいどうゐん)等(とう)の文書(ぶんしよ)に橘(たちばな)七 郎(らう)宣成(のぶなり)と云ふのがあるがそれが此人(このひと)の事に相違(さうゐ)ないと記(しる)し
てある即(すなは)ち結局(けつきよく)は藩翰譜(はんかんふ)と仝論(どうろん)になるのであるが併(しか)し 尚(な)ほ疑問(ぎもん)は存(ぞん) せられて居(を)る然(しか)るに寛政重修諸家(かんせいぢうしうしよか)
譜(ふ)には宣成(のぶしげ)と云ふのは載(の)つて居(を)らぬので却(かへつ)て憲光(のりみつ)の孫(まご)で政光(まさみつ)の子(こ)の康光(やすみつ)が金七郎と云つた事が書(か)いて
ある而(しか)して全久院(ぜんきうゐん)の系図(けいづ)には康光(やすみつ)は政光(まさみつ)の弟(おとゝ)であつて其後(そのあと)を継(つ)いだものゝようになつて居(を)る処(ところ)かある
モツトモ此(この)戸田家(とだけ)に就(つい)ては後章(こうせう)に至(いた)つて詳説(せうせつ)する考(かんがへ)であるが此処(ここ)に以上(いぜう)の事を付説(ふせつ)して参考(さんこう)に資(し)せ
たいと思(おも)ふのである。
⦿牧野成三と吉田の地名
扨(さて)戦死(せんし)の時(とき)古白には一人(ひとり)の男児(だんぢ)があつたが之(これ)が後(のち)に成三(しげかづ)と名乗(なの)つたのて牛久保密談記(うしくぼみつだんき)並(ならび)に寛永系図(かんえいけいづ)に
は落城(らくぜう)の当時(とうじ)僅(わづか)に五歳であつたとしてある又(また)外(ほか)の書物(しよもつ)にも幼少(ようせう)であつたとしてあるが之(これ)が家臣(かしん)の富田(とみた)
某(なにがし)と云ふのに扶(たす)けられて尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に逃(のが)れたのである之(これ)には又(ま)た一人の弟(おとゝ)があつて名(な)を信成(のぶしげ)と云(い)
《割書:牧野成三今|橋城を復す》 つたが成長(せいてう)の後(のち)共(とも)に今橋城(いまはしぜう)を復(ふく)し再(ふたゝ)び之(これ)に拠(よ)つたのである此(この)成三(しげかづ)と云ふ人は初(はじ)め田三と称(とな)へたのであ
牧野信成 るが多病(たびやう)の為(た)め弟(おとゝ)の信成(のぶしげ)を養(やしなつ)て子(こ)となし程(ほど)なく家(いへ)を譲(ゆづ)つて巳(おの)れは傳左衛門(ぜんざゑもん)と改(あらた)め信成(のぶしげ)は更(さら)に田三又
傳蔵と称(せう)した然(しか)るに両人(れうにん)が此(この)今橋城(いまはしぜう)を取(と)り返(かへ)した年月に就(つい)てはどの書物(しよもつ)にも記(しる)してない只(た)だ吉田城主(よしだぜうしゆ)
【欄外】
豊橋市史談 (牧野成三と吉田の地名) 廿七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 二十六
【本文】
にある棟札が古白の自筆であるというならば面白いものであると思う。この棟札の文字は余り名筆では
ないが、無邪気な飾り気のない豪傑風の書であって中々味わうべきものがあるのである。またこの棟札にも
《割書:古白平姓を称す》 平朝臣古白とあるが、その外にも平姓を名乗った証拠は三四あるので、当時この牧野家が平姓を名乗った事
については疑問のようであるが、その頃は所謂戦国時代で歴史や系図の研究は行き届かず、その祖先が平家の士であ
った処から単純に平姓を称したものと思われる。その田口氏で紀姓であるなどということは寛永以後徳川
古白の墳墓 時代に至って系図調べの結果分かったものであると信ずる。また古白の墳墓については種々な説があるが
私の知る処によると豊橋市吉屋龍拈寺前の墳墓、宝飯郡御津村大恩寺の墳墓、並びに同郡牧野村柳貝
津の墳墓である。而して『三州吉田記』には豊橋市上伝馬興徳寺に葬ったもののように記してあって、新しい
方の牧野家譜には赤岩法言寺に葬ると記してある。この『三州吉田記』という書物は吉田呉服町の人で林自見
の著であるが、この人の事についてはいずれ後に至って申し上げる考えである。然るにこの興徳寺には今何にも残っ
ていないので一の証拠となるものもなく、法言寺にも更にその形跡がないのである。また牧野村柳貝津の
墳墓については前章に評論した如くで全く別人のものと信ぜられる。而して大恩寺の墳墓は後世に至って
建てたもので、古白の戒名は確かに彫り込むではあるが無論当時のものではないのであるが、独り龍拈寺
前の墓に至っては充分信を置くに足るものであると思う。併しながらその時代にはまだ龍拈寺というもの
は建立されなかったので、寧ろ寺の方が後に出来た訳になっているのである。即ち『寛政重修諸家譜』に
法名古白。その地に葬る。乃ち男伝左衛門が時、一寺をその辺に造立して龍拈寺という。今その墳を古白塚と号す
とあって全く今日残っている龍拈寺の伝説とも一致するのである。従って古白の墳墓については私は深
戸田金七郎 くこの説を信ずるものである。そこで古白戦死の後は如何なる人が今橋城を守ったかというに戸田金七
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその博大なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際
□ □
【左頁】
【本文】
郎という人がいたということは諸説の一致する処である。従ってこの戸田金七郎はどういう人であって当
時今川方に属していたか、また松平方に属していたかということが判然すると自然前述べた古白の相
手方も分かる理であるが、遺憾な事にはこれもまた明瞭ならぬのである。『藩翰譜系図』にはこの金七郎を宣成として
あって憲光の二男だと書いてあるが、『吉田城主考』には頗る精細に考証して小松原観音寺を初め大久保の
長興寺その他高野山平等院等の文書に橘七郎宣成というのがあるが、それがこの人の事に相違ないと記し
てある。即ち結局は『藩翰譜』と同論になるのであるが、併し尚疑問は存せられている。然るに『寛政重修諸家
譜』には宣成というのは載っていないので、却って憲光の孫で政光の子の康光が金七郎といった事が書いて
ある。而して全久院の系図には康光は政光の弟であってその後を継いだもののようになっている処がある。
もっともこの戸田家については後章に至って詳説する考えであるが、ここに以上の事を付説して参考に資せ
たいと思うのである。
⦿牧野成三と吉田の地名
さて戦死の時古白には一人の男児があったが、これが後に成三と名乗ったので、『牛久保密談記』並びに『寛永系図』に
は落城の当時僅かに五歳であったとしてある。また外の書物にも幼少であったとしてあるが、これが家臣の富田
某というのに扶けられて尾張の知多郡に逃れたのである。これにはまた一人の弟があって名を信成とい
《割書:牧野成三今橋城を復す》 ったが、成長の後共に今橋城を復し再びこれに拠ったのである。この成三という人は初め田三と称えたのであ
牧野信成 るが、多病のため弟の信成を養って子となし、程なく家を譲って己れは伝左衛門と改め、信成は更に田三又
伝蔵と称した。然るに両人がこの今橋城を取り返した年月については、どの書物にも記していない。只だ『吉田城主
【欄外】
豊橋市史談 (牧野成三と吉田の地名) 二十七
英語訳
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (The Death in Battle of Makino Kohaku) 26
【Main text】
if the ridge plate there were in Kohaku's own handwriting, it would be quite interesting. The characters on this ridge plate are not particularly fine calligraphy,
but they are innocent, unadorned writing in a heroic style that has considerable merit to appreciate. Also, on this ridge plate
《Marginal note: Kohaku claimed the Taira surname》 it says "Taira no Ason Kohaku," and there are three or four other pieces of evidence that he used the Taira surname, so there seems to be some question about the Makino family using the Taira surname at that time,
but since that was the so-called Warring States period when research into history and genealogies was not thorough, it appears they simply claimed the Taira surname because their ancestors had been Taira clan retainers. The fact that the Taguchi clan used the Ki surname was, I believe, discovered through genealogical research during the Tokugawa
Kohaku's Tomb era from the Kan'ei period onward. Regarding Kohaku's tomb, there are various theories, but
according to what I know, there are tombs at: the tomb in front of Ryūnenji temple in Yoshiya, Toyohashi city; the tomb at Daionji temple in Mito village, Hoi district; and the tomb at Yanagaizu
in Makino village of the same district. "Sanshū Yoshida-ki" records that he was buried at Kōtokuji temple in Kamidenma, Toyohashi city, while newer
Makino family genealogies record that he was buried at Hōgenji temple in Akaiwa. This book called "Sanshū Yoshida-ki" was written by Hayashi Jiken,
a person from Yoshida's cloth merchant district, but I plan to discuss this person later. However, nothing remains at this Kōtokuji temple today,
so there is no evidence, and Hōgenji temple also shows no traces. The tomb at Yanagaizu in Makino village,
as I discussed in the previous chapter, is believed to belong to a completely different person. The tomb at Daionji temple was built in later times,
and while Kohaku's posthumous Buddhist name is indeed carved in, it is certainly not from that period. However, the tomb in front of Ryūnenji temple
alone seems fully trustworthy. But since Ryūnenji temple had not yet been established at that time,
the temple was actually built later. Indeed, "Kansei Chōshū Shokafu" states:
"Buddhist name Kohaku. Buried in that place. When his son Denzaemon came of age, he built a temple in that vicinity and called it Ryūnenji. Now that tomb is called Kohaku Mound."
This completely matches the traditions of Ryūnenji temple that remain today. Therefore, regarding Kohaku's tomb, I deeply
Toda Kinshichirō believe this theory. Now, regarding who defended Imahashi Castle after Kohaku's death in battle, Toda Kinshichirō
【Margin】
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi city history for over a year, and now as his draft is nearly complete
□ □
【Left page】
【Main text】
was the person, which is agreed upon by all theories. Therefore, if we could clearly determine what kind of person this Toda Kinshichirō was and whether he belonged to the Imagawa side
or the Matsudaira side at that time, we would naturally understand who Kohaku's opponents were, but regrettably, this too remains unclear. "Hankanfu Keizu" identifies this Kinshichirō as
Nobunari and writes that he was Norimitsu's second son, but "Yoshida Castle Lord Study" provides quite detailed research showing that documents from Komatsubara Kannonji temple, Ōkubo's
Chōkōji temple, and other places including Kōyasan Heidōin contain references to Tachibana Shichirō Nobunari, which they record as undoubtedly referring to this person.
This ultimately agrees with "Hankanfu," but questions still remain. However, "Kansei Chōshū Shokafu"
does not include anyone named Nobunari, but instead records that Yasumitsu, grandson of Norimitsu and son of Masamitsu, was called Kinshichirō.
Zenkyūin's genealogy shows Yasumitsu as Masamitsu's younger brother who succeeded him.
I plan to discuss the Toda family in detail in a later chapter, but I want to add these points here for reference.
⦿Makino Shigekazu and the Place Name Yoshida
When Kohaku died in battle, he had one son, who later took the name Shigekazu. "Ushikubo Mitsudanki" and "Kan'ei Keizu"
state that he was only five years old when the castle fell. Other books also say he was very young, and he was helped to escape to Chita district in Owari by a retainer named Tomita.
He had a younger brother named Nobushige, and
《Marginal note: Makino Shigekazu recaptures Imahashi Castle》 after they grew up, they together recaptured Imahashi Castle and again established themselves there. This Shigekazu was initially called Tamikazue but
Makino Nobushige due to poor health, he adopted his younger brother Nobushige as his son and soon transferred the family headship to him, changing his own name to Denzaemon, while Nobushige was later called Tamizō or
Denzō. However, no documents record the year and month when these two recaptured Imahashi Castle. Only "Yoshida Castle Lord
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Makino Shigekazu and the Place Name Yoshida) 27