← 前のページ
ページ 260 / 382
次のページ →
翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄) 四百九十二
【本文】
に就(つい)て学(まな)むだのであるが伴信友(ばんのぶとも)等(ら)は勿論(もちろん)天下(てんか)知名(ちめい)の国学者(こくがくしや)とは益々(ます〳〵)親交(しんかう)が加(くは)はつたのである何(なん)にして
も勤勉(きんべん)篤学(とくがく)の人(ひと)で其(その)創立(さうりつ)にかゝる羽田文庫(はだぶんこ)中(ちう)に残(のこ)つて居(を)る書物(しよもつ)の中(なか)にも同(どう)一の書物(しよもつ)に文化(ぶんくわ)十二 年(ねん)から
書(か)き入(い)れを初(はじ)めて明治(めいぢ)五 年(ねん)まで続(つゞ)いて居(を)ると云(い)ふものがある程(ほど)で其(その)間(あひだ)四十 何年(なんねん)と云(い)ふ長(なが)い間(あひだ)殆(ほとん)ど寸(すん)
毫(ごう)の余地(よち)もなきまでに一々 考証(かうせう)の結果(けつくわ)を記入(きにふ)して紙面(しめん)はまるで赤黒(せきこく)の細文字(さいもんじ)で埋(うづま)つて居(を)ると云(い)ふ始末(しまつ)
である敬雄(たかを)は羽田文庫(はだぶんこ)を其(その)庭内(ていない)に起(おこ)したのは嘉永(かえい)元年(がんねん)の事(こと)であるが其(その)蔵書(ざうしよ)は漸(やうや)く積(つ)むで一万三百六十
有(いう)余巻(よかん)に及(およ)び多(おほ)く国典(こくてん)を蒐集(しう〳〵)したのであるが頗(すこぶ)る珍書(ちんしよ)奇籍(きせき)が少(すくな)からぬのである其(その)中(なか)には三 条大納言実(でうだいなごんさね)
萬(つむ)寄附(きふ)の類聚国史(るいしうこくし)三十 巻(かん)御注孝経(おんちうかうけう)一 巻(かん)水戸前中納言斉昭(みとぜんちうなごんなりあき)寄附(きふ)の破邪集(はじやしう)を初(はじ)め各地(かくち)の名流(めいりう)から寄贈(きそう)され
た書物(しよもつ)が少(すくな)くないのである又(ま)た文庫(ぶんこ)の正面(せうめん)に掲(かゝ)げられたる扁額(へんがく)は三 条実萬(でうさねつむ)の書(か)かれたもので其(その)後(のち)有栖(ありす)
川宮殿下(がはのみやでんか)の御染筆(ごせんぴつ)も下賜(かし)になつたのである其(その)文庫(ぶんこ)の書物(しよもつ)は近来(きんらい)或(ある)事情(じぜう)で散乱(さんらん)せむとしたので最(もつと)も心(こゝろ)あ
るものゝ心配(しんぱい)した処(ところ)であつたが幸(さいはひ)に今(いま)其(その)大部分(だいぶぶん)は有栖川宮殿下(ありすがはのみやでんか)の扁額(へんがく)と共(とも)に豊橋市(とよはしし)図書館(としよかん)に保存(ほぞん)せ
らるゝに至(いた)つたのは誠(まこと)に喜(よろこ)ぶべき事(こと)であると信(しん)ずるのである何(なん)にせよ此(この)当時(たうじ)に於(おい)て之(こ)れだけの事業(じげふ)を
起(おこ)したと云(い)ふ事(こと)は容易(ようい)ならざる事(こと)であつたのであるが敬雄(たかを)の友人(いうじん)中(ちう)で此(この)事業(じげふ)を助(たす)けたものは吉田(よしだ)の地(ち)
のみにても頗(すこぶ)る多数(たすう)あつたのであるソレは今日(こんにち)も尚(な)ほ敬雄(たかを)自筆(じひつ)の書籍目録(しよせきもくろく)に一々 其(その)書物(しよもつ)の寄附者(きふしや)の名(な)
が書(か)いてあるので大(おほい)に当時(たうじ)の事情(じぜう)が分(わか)るように思(おも)はれる就中(なかんづく)彼(か)の佐野蓬宇(さのほうう)の如(ごと)きは最(もつと)も此(この)事業(じげふ)を助(たす)け
たる有力者(いうりよくしや)で是非共(ぜひとも)伝(つた)へねばならぬ人(ひと)であると思(おも)ふ
佐野蓬宇 佐野蓬宇(さのほうう)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く吉田本町(よしだほんまち)の市人(しじん)で萬屋(よろづや)と云(い)ふ饅頭屋(まんぢうや)の主人(しゆじん)であつたが此(この)饅頭(まんぢう)は吉田(よしだ)の饅頭(まんぢう)と
云(い)つて一 時(じ)は東海道(とうかいでう)の名物(めいぶつ)に数(かぞ)へられて居(を)つたのである蓬宇(ほうう)は文化(ぶんくわ)六 年(ねん)十月十四日の生(うまれ)で幼名(えうめい)を英之(えいの)
助(すけ)と云(い)ひ後(のち)に権右衛門(ごんうゑもん)、権(ごん)三 郎(らう)などゝ称(せう)したが諱(いみな)を深寧(しんねい)号(ごう)を呉井園蓬宇(ごせいゑんほうう)と云(い)つたのである後(のち)問屋(とんや)年寄(としより)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百六十七号附録 (大正二年九月十六日発行)
【本文】
役(やく)などを勤(つと)めた人(ひと)であるが幼(えう)より俳諧(はいかい)を好(この)むで「沙原(すなはら)に亀(かめ)の穴(あな)ほる霞(かすみ)かな」の句(く)があつたのは其(その)十四
歳(さい)の時(とき)であつたと伝(つた)へられて居(を)る当時(たうじ)青々処卓池(せい〳〵しよたくち)が之(これ)を見(み)て奇(き)となし引(ひい)て門人(もんじん)となしたのであるが嘗(かつ)
て中山美石(なかやまびせき)に就(つい)て学(まな)むだ事もある然(しか)るに其(その)後(のち)羽田野敬雄(はだのたかを)に就(つい)て国学(こくがく)を修(をさ)めたのであるが即(すなは)ち羽田文庫(はだぶんこ)
創立(さうりつ)の当時(たうじ)は最(もつと)も私財(しざい)を投(とう)じて之(これ)を助(たす)けたもので今(いま)も其(その)寄附(きふ)にかゝる書物(しよもつ)は実(じつ)に多数(たすう)に上(のぼ)つて居(を)るの
である元来(がんらい)敬雄(たかを)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)ぶる如(ごと)く篤実(とくじつ)なる国学者(こくがくしや)で勤勉力行自彊(きんべんりきかうじけう)して止(や)まざる人(ひと)であつ
敬雄と志士 たが実(じつ)は隠(かく)れたる中心(ちうしん)からの勤王家(きんわうか)であつたのである従(したがつ)て蓬宇(ほうう)も亦(ま)た熱心(ねつしん)なる勤王家(きんわうか)で常(つね)に敬雄(たかを)を
助(たすけ)たのであるが此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから敬雄(たかを)蓬宇(ほうう)等(ら)が交遊(かうゆう)した当時(たうじ)の所謂(いはゆる)志士(しし)と云(い)ふものは実(じつ)に多数(たすう)
であつて其(その)頃(ころ)竊(ひそ)かに東西(とうざい)に奔走(ほんそう)せし処(ところ)の志士(しし)なるものは其(その)途次(とじ)必(かなら)ず敬雄(たかを)の家(いへ)を訪(と)ふて少(すくな)きは一日二日
多(おほ)きは何(なん)ケ月(げつ)と云(い)ふ間(あひだ)厄介(やつかい)になつたのである其(その)中(なか)でも藤森恭助(ふぢもりけうすけ)、福羽美静(ふくはびせい)などゝ云(い)ふ人(ひと)は最(もつと)も親密(しんみつ)で
あつたのであるが其後(そののち)廟堂(べうどう)に立(た)たれた人(ひと)の中(なか)でも恐(おそら)くは此(この)家(いへ)の厄介(やくかい)になられた方(かた)が決(けつ)して少(すくな)くないと
云(い)ふ事を信(しん)ずるのである私(わたくし)はツイ此(この)十日 程(ほど)前(まへ)大和(やまと)の法隆寺(ほうりうじ)で廿 余年振(よねんぶり)で北畠治房男(きたはたはるふさだん)に御目(おめ)にかゝつ
たのであるが此(この)時(とき)も矢張(やはり)敬雄翁(たかををう)の話(はなし)が出(で)て文庫(ぶんこ)の保存(ほぞん)などに就(つい)ても話頭(わとう)に上(のぼ)つたが其(その)直話(ぢきわ)によるに当(たう)
年(ねん)の十津川浪士(とつがはらうし)なる北畠男(きたはたけだん)の如(ごと)きも維新前(ゐしんぜん)は屡々(しば〴〵)敬雄(たかを)の家(いへ)に往来(わうらい)せられたもので誠(まこと)に親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)であ
つたと云(い)ふ事である尚(な)ほ少(すこ)しく時代(じだい)は違(ちが)ふが今(いま)の陸軍大将(りくぐんたいせう)大久保春野(おほくぼはるの)氏(し)の如(ごと)きも矢張(やはり)其(その)少時(せうじ)は敬雄(たかを)の
処(ところ)に寄寓(きぐう)して勉学(べんがく)せられたものであると云(い)ふのは面白(おもしろ)い話(はなし)であると思(おも)ふ然(しか)るに敬雄(たかを)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも
申述(まをしの)ぶる如(ごと)く真正(しんせい)の国学者肌(こくがくしやはだ)で何処迄(どこまで)も己(おの)れの本務(ほんむ)たる神職(しんしよく)に忠実(ちうじつ)なる人(ひと)であつたのみならず且(か)つ小(せう)
心(しん)翼々(よく〳〵)の風(ふう)があつたから中心(ちうしん)に勤王(きんわう)の志想(しさう)を抱(いだ)き多数(たすう)の志士(しゝ)を庇護(ひご)援助(ゑんじよ)したるにも拘(かゝは)らず自(みづか)らは大刀(たいたう)
を横(よこ)たへて志士(しゝ)の群(むれ)に入(い)ると云(い)ふまでには行(ゆ)かなかつたのである之(これ)が幸(さいはひ)に当時(たうじ)の嫌疑(けんぎ)を免(まぬが)れ奇禍(きくわ)に
【欄外】
豊橋市史談 (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄) 四百九十三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十二
【本文】
について学んだのであるが、伴信友等はもちろん、天下に知られた国学者とはますます親交が深まったのである。なんにしても勤勉で学問に篤い人で、その創立にかかる羽田文庫中に残っている書物の中にも、同一の書物に文化十二年から書き入れを始めて明治五年まで続いているというものがあるほどで、その間四十何年という長い間、ほとんど寸分の余地もないまでに一々考証の結果を記入して、紙面はまるで赤黒の細文字で埋まっているという始末である。敬雄は羽田文庫をその庭内に起こしたのは嘉永元年のことであるが、その蔵書は次第に積んで一万三百六十余巻に及び、多く国典を蒐集したのであるが、頗る珍書奇籍が少なくないのである。その中には三条大納言実万寄附の『類聚国史』三十巻、『御注孝経』一巻、水戸前中納言斉昭寄附の『破邪集』を始め、各地の名流から寄贈された書物が少なくないのである。また文庫の正面に掲げられた扁額は三条実万の書かれたもので、その後有栖川宮殿下の御染筆も下賜になったのである。その文庫の書物は近来ある事情で散乱しようとしたので、最も心ある者の心配したところであったが、幸いに今その大部分は有栖川宮殿下の扁額と共に豊橋市図書館に保存されるに至ったのは誠に喜ぶべきことであると信ずるのである。なんにせよこの当時においてこれだけの事業を起こしたということは容易ならざることであったのであるが、敬雄の友人中でこの事業を助けた者は吉田の地のみにても頗る多数あったのである。それは今日も尚敬雄自筆の書籍目録に一々その書物の寄付者の名が書いてあるので、大いに当時の事情が分かるように思われる。就中、かの佐野蓬宇のごときは最もこの事業を助けた有力者で、是非とも伝えねばならぬ人であると思う。
佐野蓬宇 佐野蓬宇はご承知のように吉田本町の市人で、万屋という饅頭屋の主人であったが、この饅頭は吉田の饅頭といって一時は東海道の名物に数えられていたのである。蓬宇は文化六年十月十四日の生まれで、幼名を英之助といい、後に権右衛門、権三郎などと称したが、諱を深寧、号を呉井園蓬宇といったのである。後に問屋年寄
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百六十七号附録(大正二年九月十六日発行)
【本文】
役などを勤めた人であるが、幼より俳諧を好んで「砂原に亀の穴掘る霞かな」の句があったのはその十四歳の時であったと伝えられている。当時青々処卓池がこれを見て奇となし、引いて門人となしたのであるが、嘗て中山美石について学んだこともある。しかるにその後羽田野敬雄について国学を修めたのであるが、即ち羽田文庫創立の当時は最も私財を投じてこれを助けた者で、今もその寄付にかかる書物は実に多数に上っているのである。元来敬雄という人は前にも申し述べるように篤実なる国学者で、勤勉力行し自ら強めて止まざる人であった
敬雄と志士 が、実は隠れたる中心からの勤王家であったのである。従って蓬宇もまた熱心なる勤王家で常に敬雄を助けたのであるが、このようなわけであるから敬雄、蓬宇等が交遊した当時のいわゆる志士というものは実に多数であって、その頃ひそかに東西に奔走したところの志士なる者は、その途次必ず敬雄の家を訪うて、少なきは一日二日、多きは何ヶ月という間厄介になったのである。その中でも藤森恭助、福羽美静などという人は最も親密であったのであるが、その後朝廷に立たれた人の中でも恐らくはこの家の厄介になられた方が決して少なくないということを信ずるのである。私はつい十日ほど前、大和の法隆寺で二十余年振りで北畠治房男にお目にかかったのであるが、この時も矢張り敬雄翁の話が出て、文庫の保存などについても話題に上ったが、その直話によると、当年の十津川浪士なる北畠男のごときも維新前は屡々敬雄の家に往来されたもので、誠に親密の間柄であったということである。なお少しく時代は違うが、今の陸軍大将大久保春野氏のごときも矢張りその少時は敬雄のところに寄寓して勉学されたものであるというのは面白い話であると思う。しかるに敬雄という人は前にも申し述べるように真正の国学者肌で、どこまでも己れの本務たる神職に忠実なる人であったのみならず、かつ小心翼々の風があったから、中心に勤王の志想を抱き多数の志士を庇護援助したるにもかかわらず、自らは大刀を横たえて志士の群れに入るというまでには行かなかったのである。これが幸いに当時の嫌疑を免れ、奇禍に
【欄外】
豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十三
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 492
**Main Text:**
...devoted himself to these studies, and his close relationships with renowned national learning scholars throughout the country, including Ban Nobutomo and others, grew ever stronger. He was without question a diligent and deeply scholarly person, and among the books remaining in the Hada Library that he founded, there are some where he began making notations in 1815 (Bunka 12) and continued until 1872 (Meiji 5). For over forty years, he filled virtually every available space with the results of his textual research, leaving the pages completely covered in red and black fine script. Takao established the Hada Library in his garden in 1848 (Kaei 1), and its collection gradually grew to over 10,360 volumes, mostly consisting of national classics, with quite a few rare and unusual books. Among them were the "Ruijū Kokushi" (Classified National History) in 30 volumes donated by Senior Counselor Sanjō Sanemitsu, the "Imperial Commentary on the Classic of Filial Piety" in 1 volume, the "Haja-shū" (Collection Against Heresy) donated by former Middle Counselor Tokugawa Nariaki of Mito, and many other books presented by distinguished figures from various regions. The plaque displayed at the front of the library was written by Sanjō Sanemitsu, and later His Imperial Highness Prince Arisugawa also bestowed his calligraphy. The library's books recently faced the threat of dispersal due to certain circumstances, which greatly concerned those who cared about them, but fortunately the majority of them, along with Prince Arisugawa's plaque, have now come to be preserved in the Toyohashi City Library, which I believe is truly a cause for celebration. In any case, undertaking such a project in those times was no easy matter, but among Takao's friends who assisted this enterprise, there were quite a large number even from Yoshida alone. This can be understood from the book catalog in Takao's own hand that still exists today, which lists the names of donors for each individual book, greatly illuminating the circumstances of that time. Among them, Sano Hōu was particularly one of the most influential supporters of this enterprise and is certainly a person who must be remembered.
**Sano Hōu:** As you know, Sano Hōu was a townsman of Yoshida Honmachi and the owner of a manjū (steamed bun) shop called Yorozuya. These manjū were called "Yoshida manjū" and were once counted among the famous products of the Tōkaidō. Hōu was born on the 14th day of the 10th month of 1809 (Bunka 6). His childhood name was Einosuke, and he later took the names Gon'emon and Gonzaburō. His formal name was Shinnei and his literary name was Goseien Hōu. He later served as a wholesale dealer elder...
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper No. 4467 Supplement (Published September 16, 1913)
**Main Text:**
...and other positions. From his youth he enjoyed haikai poetry, and it is said that he composed the verse "In the sandy field / a turtle digs its burrow / in the spring haze" when he was fourteen years old. At that time, Seiseisho Takuchi saw this and considered it remarkable, taking him as a disciple. He also once studied under Nakayama Biseki. Later, however, he studied national learning under Hatano Takao, and indeed when the Hada Library was founded, he was among those who most generously contributed his private wealth to support it, and the books donated by him still number in the many hundreds today. Takao was, as I mentioned before, a sincere national learning scholar and a person of diligent practice and self-improvement...
**Takao and the Loyalist Patriots:** ...but in fact he was a hidden central figure in the loyalist movement. Consequently, Hōu was also an ardent loyalist who constantly supported Takao. Because of this situation, the so-called "patriots" who associated with Takao, Hōu and others were truly numerous, and those patriots who secretly traveled east and west during that time invariably visited Takao's house during their journeys, staying as guests for periods ranging from one or two days to several months. Among them, people like Fujimori Kyōsuke and Fukuba Bisei were particularly close, and I believe that among those who later rose to positions in the government, there were certainly not a few who had been guests in this house. Just ten days ago, I met Baron Kitabatake Harufusa at Hōryūji Temple in Yamato for the first time in over twenty years, and even then the conversation turned to the venerable Takao, including discussion of the library's preservation. According to his direct account, even Baron Kitabatake, who was among the Totsukawa rōshi of that year, frequently visited Takao's house before the Restoration, and they were truly intimate friends. Also, though the period is somewhat different, it is interesting to note that the current Army General Ōkubo Haruno also lodged at Takao's place during his youth to pursue his studies. However, Takao was, as I mentioned before, a true national learning scholar through and through, a person who was utterly faithful to his primary duty as a Shinto priest, and moreover possessed a cautious and careful temperament. Though he harbored loyalist aspirations in his heart and protected and assisted many patriots, he never went so far as to take up the sword and join the ranks of the patriots himself. This fortunately allowed him to avoid suspicion at the time and escape calamity...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 493