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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 261

ページ: 261

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【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百九十四 【本文】 《割書:湖山と敬雄|との交通》  罹(かゝ)らなかつた訳(わけ)であつたと思(おも)ふのである此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)であつたから湖山(こざん)が此(この)吉田(よしだ)在住中(ざいぢうちう)は敬雄(たかを)等(ら)と意(い)       気(き)相投(あひとう)じて深(ふか)く交遊(かうゆう)したのである当時(たうじ)湖山(こざん)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く此(この)吉田(よしだ)に幽閉(ゆうへい)せられて居(を)つたもの       であるが桜田(さくらだ)の変(へん)後(ご)次第(しだい)に其(その)禁(きん)も弛(ゆる)められて程(ほど)なく其頃(そのころ)今(いま)の八 町(てう)にあつた処(ところ)の大手(おほて)長屋(ながや)と称(せう)する長屋(ながや)       の中(なか)の一 棟(むね)へ移(うつ)されたが初(はじめ)の中(うち)はまだ御徒目付(おかちめつけ)が一 人(にん)づゝ宿直(しゆくちよく)して居(を)つて士族(しぞく)以外(いぐわい)には面会(めんくわい)を許(ゆる)さな       かつたものである然(しか)るに之(これ)も段々(だん〴〵)と弛(ゆる)むで遂(つひ)には誰(たれ)にも自由(じゆう)に面談(めんだん)が出来(でき)るようになり後(のち)には今(いま)の西(にし)       八 町(てう)の南側(みなみがは)で今日(こんにち)も尚(なほ)往来(わうらい)に沿(そ)ふて松(まつ)の大木(たいぼく)が一 本(ぽん)立(た)つて居(を)るアノ家(いへ)に移(うつ)つたのである而(しか)して妻子(さいし)を       も迎(むか)ふることを許(ゆる)さるゝに至(いた)つたのであるが其頃(そのころ)湖山(こざん)は其(その)寓居(ぐうきよ)を松聲幽居(せうせいゆうきよ)と号(がう)し又(ま)た自(みづか)ら晏斉(あんさい)と号(がう)して 楠公の祭祀 居(を)つたのである又(ま)た当時(たうじ)其(その)庭内(ていない)に楠公(なんこう)の祠(ほこら)を設(まを)けて之(これ)を祀(ま)つて居(を)つたものであるが此(この)湖山(こざん)幽居(ゆうきよ)の禁(きん)が       弛(ゆる)むと同時(どうじ)に先(ま)づ之(これ)と交(まじはり)を通(つう)じたのが即(すなは)ち敬雄(たかを)等(ら)であつて共(とも)に尊王倒幕(そんわうたうばく)の主義(しゆぎ)を唱(とな)へ意気(いき)極(きは)めて相(あひ)投(たう)       合(がふ)したものであるソコで維新後(ゐしんご)湖山(こざん)がイヨ〳〵上京(ぜうけう)するに方(あた)つても其(その)楠公(なんこう)の祠(ほこら)は之(これ)を敬雄(たかを)に委托(ゐたく)した       ので敬雄(たかを)は市中(しちう)に於(お)ける有志(いうし)の醵金(きよきん)を募(つの)つて之(これ)が維新(ゐぢ)を計(はか)り己(おの)れの庭園内(ていゑんない)に移(うつ)して奉祀(ほうし)したものであ       る之(これ)には湖山(こざん)自書(じしよ)の碑(ひ)も伴(ともな)つて居(を)るのであるが此(この)祭祀(さいし)は先年(せんねん)まで其(その)有志者(いうししや)が相(あひ)集(あつま)つて敬雄(たかを)の庭内(ていない)で行(おこな)       はれて私(わたくし)の如(ごと)きも幼少(えうせう)の頃(ころ)より亡父(はうふ)の後(のち)を受(う)けて毎年(まいねん)それに列(れつ)した事であつた然(しか)るに今(いま)は故(ゆえ)あつて       市東(しとう)の桜岡(さくらをか)に移(うつ)さるゝ事に相成(あひな)つたので之(これ)は将来(せうらい)に向(むか)つて大(おほい)に注意(ちうゐ)を喚起(くわんき)して置(お)くべき事であると思(おも)       ふ其他(そのた)湖山(こざん)敬雄(たかを)等(ら)が相計(あひはか)つて孝子義僕(かうしぎぼく)の表彰(へうせう)をなし及(およ)び国風(こくふう)の振興(しんこう)に努(つと)めた事などは沢山(たくさん)あるのであ       る之(これ)は孰(いづ)れ後章(ごうせう)に於(おい)て段々(だん〴〵)申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)であるから一々 此処(こゝ)には御話(おはなし)をすることは止(とゞ)めるのであるが要(えう)       するに之(これ)等(ら)の人々(ひと〴〵)のなしたる事が我(わが)吉田(よしだ)の士風(しふう)に影響(えいけう)した事は誠(まこと)に容易(ようい)ならざりしものであると言(い)は       ねばならぬ尚(な)ほ此処(こゝ)に少(すこ)しく申述(まをしの)べて置(お)かねばならぬと思(おも)ふのは此(この)吉田(よしだ)市人(しじん)と湖山(こざん)との関係(くわんけい)であるが 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       湖山(こざん)の幽閉(ゆうへい)が弛(ゆる)むで誰(たれ)にでも面会(めんくわい)の出来(でき)ることとなつた時(とき)市人(しじん)の中で逸早(いちはや)く之(これ)と交(まじわり)を求(もと)めたのは医師(いし)の 湖南拙庵  湖南拙庵(こみなみせつあん)と云(い)ふ人(ひと)である此(この)人(ひと)は幼名(えうめい)を武夫(たけを)と云(い)つて父(ちゝ)は矢張(やはり)拙庵(せつあん)と云(い)つた人(ひと)であるが元(も)と下総(しもふさ)の人(ひと)で       之(これ)も医者(いしや)であつたのである然(しか)るに長崎(ながさき)へ修行(しうぎよう)に行(ゆ)く途中(とちう)此(この)吉田(よしだ)に落(お)ち着(つ)いて遂(つひ)に一 家(か)をなしたが之(これ)が       中々(なか〳〵)の学者(がくしや)で太田晴軒(おほたせいけん)とは親交(しんかう)を結(むす)むだものであるトコロで其(その)子(こ)の武夫(たけを)も亦(ま)た父(ちゝ)に継(つ)いでの学者(がくしや)で父(ちゝ)       の逝去(せいきよ)後(ご)其(その)名(な)をも継(つ)いで拙庵(せつあん)と称(せう)したが漢学(かんがく)や詩作(しさく)の弟子(でし)は市人(しじん)の間(あひだ)に沢山(たくさん)あつたものである彼(か)の大(おほ)       澤賢(ざはけん)二 博士(はかせ)だの故(こ)鈴木麟(すゞきりん)三、原田萬久(はらだまんきう)、長尾(ながを)三九二 諸氏(しよし)の如(ごと)きも亦(ま)た漢学(かんがく)の稽古(けいこ)に通(かよ)つたものである       が此(この)拙庵(せつあん)は深(ふか)く湖山(こざん)を慕(した)つて第一にも交(まじわり)を求(もと)めたものであるモツトモ之(これ)は初(はじ)め詩人(しじん)としての交際(かうさい)であつ       たが兎(と)に角(かく)之(これ)が此(この)吉田(よしだ)の市人(しじん)と湖山(こざん)との連絡(れんらく)を通(つう)ずる端緒(たんちよ)と相成(あひな)つたのであるトコロで其(その)頃(ころ)東西(とうざい)に往(わう)       来(らい)せる勤王(きんわう)の志士(しゝ)と云(い)ふものは必(かなら)ず湖山(こざん)の幽居(ゆうきよ)を訪(と)つたものであるが之(これ)を助(たす)けて此(この)志士(しゝ)等(ら)を庇護(ひご)した       のは矢張(やはり)敬雄(たかを)や蓬宇(ほうう)などで其他(そのた)の市人(しじん)も亦(ま)た次第(しだい)に之(これ)に接近(せつきん)するに至(いた)つたのである即(すなは)ち曩(さき)に逝去(せいきよ)され       たる兼子魚典翁(かねこなのりをう)や今(いま)も存生中(ぞんせいちう)である長尾華陽(ながをくわよう)、小野杜堂(をのとどう)などと云(い)ふ人々(ひと〴〵)は絶(た)へず湖山(こざん)並(ならび)に敬雄(たかを)の家(いへ)に       出入(しゆつにう)して其(その)費用(ひよう)に関(くわん)する方面(はうめん)をも援助(ゑんじよ)したものである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから前(まへ)に申述(まをしの)べたる楠公(なんこう)の       祭典(さいてん)には之(これ)等(ら)の有志(いうし)は皆々(みな〳〵)湖山(こざん)の邸(てい)に集(あつま)つたものであるが敬雄(たかを)が明治(めいぢ)二 年(ねん)其(その)七十二 歳(さい)の時(とき)に其(その)祠前(しぜん)に       詠(よ)むだ左(さ)の歌(うた)があるのである           小野湖山翁(をのこざんをう)の家地(いへち)の楠正成卿(くすのきまさしげけう)の霊社(れいしや)によみたてまつる         久壽木のくすしき御名は天の下に             はなたち花のたちわたりつゝ       而(しか)して話(はなし)は再(ふたゝ)び敬雄(たかを)の事になるが敬雄(たかを)には又(ま)た色々(いろ〳〵)の著書(ちよしよ)があるのである其(その)中(なか)でも飢饉(ききん)の心得(こゝろゑ)、養蠶(やうざん) 【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百九十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十四 【本文】 《湖山と敬雄との交流》 災難にかからなかった理由であったと思うのである。このような次第であったから、湖山がこの吉田在住中は敬雄等と意気投合して深く交遊したのである。当時湖山は前にも申し述べたように、この吉田に幽閉されていた者であるが、桜田門の変後次第にその禁も緩められて、程なくその頃今の八町にあった大手長屋と称する長屋の中の一棟へ移されたが、初めの内はまだお徒目付が一人ずつ宿直していて、士族以外には面会を許さなかったものである。しかるにこれも段々と緩んで、遂には誰にも自由に面談ができるようになり、後には今の西八町の南側で、今日も尚往来に沿って松の大木が一本立っているあの家に移ったのである。そして妻子をも迎えることを許されるに至ったのであるが、その頃湖山はその住居を松声幽居と号し、また自ら晏斎と号していたのである。 楠公の祭祀 また当時、その庭内に楠公の祠を設けてこれを祀っていたものであるが、この湖山幽居の禁が緩むと同時に、先ずこれと交わりを通じたのが即ち敬雄等であって、共に尊王倒幕の主義を唱え、意気極めて相投合したものである。そこで維新後湖山がいよいよ上京するに当たっても、その楠公の祠はこれを敬雄に委託したので、敬雄は市中における有志の醵金を募ってこれが改修を計り、己れの庭園内に移して奉祀したものである。これには湖山自筆の碑も伴っているのであるが、この祭祀は先年まで、その有志者が相集まって敬雄の庭内で行われて、私のごときも幼少の頃より亡父の後を受けて毎年それに列した事であった。しかるに今は故あって市東の桜岡に移されることに相成ったので、これは将来に向って大いに注意を喚起しておくべき事であると思う。その他湖山、敬雄等が相計って孝子義僕の表彰をなし、及び国風の振興に努めた事などは沢山あるのである。これはいずれ後章において段々申し述べる考えであるから、一々ここにはお話をすることは止めるのであるが、要するにこれ等の人々のなした事が我が吉田の士風に影響した事は誠に容易ならざるものであったと言わねばならぬ。なおここに少しく申し述べておかねばならぬと思うのは、この吉田市人と湖山との関係であるが、 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際... 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す。 【本文】 湖山の幽閉が緩んで誰にでも面会のできることとなった時、市人の中で逸早くこれと交わりを求めたのは医師の 湖南拙庵 湖南拙庵という人である。この人は幼名を武夫といって、父は矢張り拙庵といった人であるが、元と下総の人で、これも医者であったのである。しかるに長崎へ修行に行く途中、この吉田に落ち着いて遂に一家をなしたが、これが中々の学者で太田晴軒とは親交を結んだものである。ところでその子の武夫もまた父に継いでの学者で、父の逝去後、その名をも継いで拙庵と称したが、漢学や詩作の弟子は市人の間に沢山あったものである。かの大沢謙二博士だの、故鈴木麟三、原田万久、長尾三九二諸氏のごときもまた漢学の稽古に通ったものであるが、この拙庵は深く湖山を慕って第一にも交わりを求めたものである。もっともこれは初め詩人としての交際であったが、とにかくこれがこの吉田の市人と湖山との連絡を通ずる端緒と相成ったのである。ところでその頃東西に往来せる勤王の志士というものは必ず湖山の幽居を訪ったものであるが、これを助けてこの志士等を庇護したのは矢張り敬雄や蓬宇などで、その他の市人もまた次第にこれに接近するに至ったのである。即ち曩に逝去されたる兼子魚典翁や、今も存生中である長尾華陽、小野杜堂などという人々は絶えず湖山並びに敬雄の家に出入して、その費用に関する方面をも援助したものである。このような訳であったから、前に申し述べたる楠公の祭典には、これ等の有志は皆々湖山の邸に集ったものであるが、敬雄が明治二年、その七十二歳の時に、その祠前に詠んだ左の歌があるのである。 小野湖山翁の家地の楠正成卿の霊社によみたてまつる 久寿木の くすしき御名は 天の下に  はなたち花の たちわたりつつ そして話は再び敬雄のことになるが、敬雄にはまた色々の著書があるのである。その中でも飢饉の心得、養蚕 【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 494 **Main Text:** **《Relations between Kozan and Takao》** ...escaped such calamities. Because of these circumstances, during Kozan's residence in Yoshida, he formed a close friendship with Takao and others, finding their spirits completely in harmony. At that time, Kozan was confined in Yoshida as I mentioned before, but after the Sakuradamon Incident, his restrictions were gradually relaxed, and before long he was moved to one building of what was called the Ōte Nagaya (Main Gate Row Houses) located in what is now Hatchō. Initially, a foot-soldier inspector still kept watch overnight, and meetings were permitted only with samurai class members. However, this too gradually relaxed until eventually anyone could meet with him freely. Later he was moved to a house on the south side of what is now Nishi-Hatchō, where even today a large pine tree still stands along the street. He was eventually permitted to bring his wife and children to live with him. During that time, Kozan called his residence "Shōsei Yūkyo" (Pine Voice Hermitage) and styled himself "Ansai." **Ritual Worship of Kusunoki Masashige:** Also at that time, he established a shrine to Kusunoki Masashige (Nankō) in his garden and worshipped there. When the restrictions on Kozan's confinement were relaxed, among the first to establish relations with him were Takao and others, who together advocated the principles of imperial loyalty and overthrowing the shogunate, finding their spirits extremely compatible. Therefore, when Kozan finally departed for Kyoto after the Restoration, he entrusted this shrine of Kusunoki to Takao. Takao raised funds from volunteers in the city, arranged for its renovation, moved it to his own garden, and continued the worship. This included a stone monument in Kozan's own calligraphy. Until recent years, these volunteers would gather in Takao's garden to conduct this ceremony, and even someone like myself, following in my late father's footsteps from childhood, participated in it every year. However, now for certain reasons it has been moved to Sakuraoka in the eastern part of the city, which I believe is something that deserves great attention for the future. There were many other instances where Kozan, Takao and others collaborated to honor filial sons and loyal servants, and to promote national customs. Since I plan to discuss these matters gradually in later chapters, I will refrain from going into detail about them here one by one. However, it must be said that the influence these people had on the moral atmosphere of our Yoshida was truly considerable. I believe I should also mention something here about the relationship between the townspeople of Yoshida and Kozan. **Margin:** Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to the compilation of Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper. **Main Text:** When Kozan's confinement was relaxed and anyone could meet with him, among the townspeople, the first to quickly seek relations with him was a physician named **Kominami Setsuan:** This man's childhood name was Takeo, and his father was also called Setsuan. He was originally from Shimōsa Province and was also a doctor. However, on his way to Nagasaki for medical training, he settled in Yoshida and established a household there. He was quite a scholar and formed a close friendship with Ōta Seiken. His son Takeo was also a scholar following his father, and after his father's death, he inherited the name and was called Setsuan. He had many disciples in Chinese learning and poetry composition among the townspeople. People like Dr. Ōsawa Kenji, the late Suzuki Rinzō, Harada Mankyū, and Nagao Sankuzō also attended his Chinese learning classes. This Setsuan deeply admired Kozan and was foremost in seeking relations with him. This was initially a relationship between poets, but in any case, this became the starting point for establishing connections between the townspeople of Yoshida and Kozan. During that time, the imperial loyalist patriots who traveled east and west invariably visited Kozan's hermitage, and those who helped and protected these patriots were people like Takao and Hōu, while other townspeople also gradually drew closer to this cause. People like the late Kaneko Nanori and those still living such as Nagao Kayō and Ono Todō constantly visited the homes of both Kozan and Takao, providing assistance including financial support. Because of these circumstances, for the Kusunoki festival ceremonies I mentioned earlier, all these volunteers would gather at Kozan's residence. There is a poem that Takao composed in front of the shrine in 1869 (Meiji 2) when he was seventy-two years old: Composed and respectfully offered at the sacred shrine of Lord Kusunoki Masashige on the grounds of the venerable Ono Kozan's residence: The miraculous name of Kusuki Spreads throughout the land below heaven Like scattered flowers drifting across And the discussion returns again to Takao, who also wrote various books. Among them were works on preparing for famines, sericulture... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 495