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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 262

ページ: 262

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【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百九十六 【本文】       由来記(ゆらいき)の如(ごと)きは世(よ)を益(えき)した事が少(すくな)くない又(ま)た三河国古蹟考(みかはのくにこせきかう)、触穢私考(しよくゑしかう)、見聞集(けんぶんしふ)、机上日記(きぜうにつき)、栄木園雑(さかきゑんざつ) 《割書:三河古蹟考|の書》  集(しふ)など幾(いく)十 巻(かん)と云(い)ふものがある就中(なかんづく)三河国古蹟考(みかはのくにこせきかう)の如(ごと)きは考証該博(かうせうがいはく)で嘗(かつ)て其(その)原本(げんほん)は内務省(ないむせう)の地理局(ちりきよく)へ       借(か)り上(あ)げられたまゝ紛失(ふんしつ)したるも幸(さいはひ)に謄本(とうほん)が残(のこ)つて居(を)るので大(おほい)に世(よ)の参考(さんかう)となつて居(を)る次第(しだい)である       敬雄(たかを)は維新號(ゐしんご)逸早(いちはや)く皇学所(くわうがくしよ)の講官(かうくわん)を命(めい)ぜられて京都(けうと)に出(い)でたが後(のち)職(しよく)を辞(じ)して国(くに)に帰(かへ)り明治(めいぢ)六 年(ねん)権大講(ごんだいかう)       義(ぎ)に補(ほ)せられ同(どう)十四 年(ねん)権少教正(ごんせうけふせい)に補(ほ)せられたが前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く明治(めいぢ)十五 年(ねん)六月一日を以(もつ)て病歿(びようぼつ)       したのである辞世(じせい)の歌(うた)とも云(い)ふべきものに         今日までは神のまに〳〵世をそ経し                まからん後も神のまに〳〵       と云(い)ふのがある之(これ)を見(み)ても如何(いか)に其(その)現世(げんせい)に超越(てうゑつ)せるものがありしかを思(おも)ふべきであるソコで又(ま)た蓬宇(ほうう) 蓬宇の日記 の事であるが此(この)人(ひと)も亦(ま)た蓬宇連句帳(ほううれんくてう)三十 巻(かん)を初(はじ)め著書(ちよしよ)がある特(とく)に其(その)日記(につき)と云(い)ふものは実(じつ)に見事(みごと)なるも       ので之等(これら)の書物(しよもつ)は今(いま)幸(さいはひ)に羽田文庫(はだぶんこ)から豊橋市図書館(とよはしゝとしよかん)に伝(つた)はつて居(を)るのである此人(このひと)は晩年(ばんねん)俳諧(はいくわい)を以(もつ)て       名(な)を天下(てんか)に知(し)られ寡慾清淡(かよくせいだん)明治廿八年一月十三日 年(とし)八十七を以(もつ)て豊橋百花園(とよはしひゃくくわゑん)の寓居(ぐうきよ)に病歿(びやうぼつ)したのであ       る尚(な)ほ湖山(こざん)に就(つい)て此処(こゝ)に一 言(げん)して置(お)きたいのは其(その)詩集(ししふ)である之(これ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く実(じつ)に沢山(たくさん)あるも       ので之(これ)を見(み)ると其(その)時代(じだい)々々の思想(しさう)も分(わか)り又(ま)た他(た)との関係(くわんけい)も能(よ)く分(わか)る事であるが今(いま)一々 列挙(れつきよ)し難(がた)いから       追々(おひ〳〵)申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)である併(しか)し湖山(こざん)がまだ廿三四 歳(さい)の時(とき)其(その)師(し)星厳(せいがん)の許(ゆるし)を得(え)て江戸(えど)御玉(おたま)が池(いけ)で門戸(もんこ)を開(ひら)       いた事があるが其時(そのとき)には未(いま)だ一 向(かう)門人(もんじん)がなかつたのであるソコで一 時(じ)其家(そのいへ)を払(はら)つて其(その)先輩者(せんぱいしや)の藤森弘(ふぢもりこう)       (恭助(きようすけ))庵(あん)と共(とも)に水戸(みと)に遊(あそ)むだ事がある其時(そのとき)西山(にしやま)を詠(え)じた詩(し)の中(なか)に        飛沖雲霄潜在淵、且将筆研楽余年、述懐梅里先生博、卜地桃源洞裏天、士習民風到今美、山花野草 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百七十四号附録    (大正二年九月二十三日発行) 【本文】        及時研、的知遺訓厳然在、麟趾振々世出賢       と云(い)ふのがあるが之(これ)は湖山(こざん)が少年時代(せうねんじだい)に於(お)ける思想(しさう)を見(み)るべきであると思(おも)ふから此処(こゝ)に紹介(せうかい)するので       ある 《割書:小野湖山に|就て補正》   ●補正(●●) 小野湖山(●●●●)に(●)就(●)て(●)         小野湖山(をのこざん)の伝記(でんき)に就(つい)ては前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く今日(こんにち)まで余(あま)り纏(まとま)つて調査(てうさ)されたるものがなかつ         たのであるソレと云(い)ふのも湖山(こざん)と云(い)ふ人(ひと)は誠(まこと)に自分(じぶん)の履歴(りれき)を物語(ものがた)るのを喜(よろ)ばなかつたので之(これ)も一         原因(げんゐん)であつたと思(おも)ふソコで私(わたくし)は幸(さいはひ)に当時(たうじ)まだ湖山(こざん)在生中(ぞんせいちう)であつたから拝顔(はいがん)して真情(しんぜう)を打明(うちあ)け其(その)容(ゆる)         さるゝ限(かぎ)りは直接(ちよくせつ)に履歴(りれき)を聴(き)いて置(お)きたいと思(おも)つて居(を)つたのである然(しか)るに之(これ)も前(まへ)にも申述(まをしの)べたるが         如(ごと)く全(まつた)く其(その)意(い)を果(はた)すことが出来(でき)なかつたと云(い)ふ次第(しだい)で私(わたくし)の落胆(らくたん)は大方(おほかた)ならなかつたのであるが併(しか)し          幸(さいはひ)に湖山(こざん)と交遊(かうゆう)せられた処(ところ)の諸君(しよくん)の中(なか)で残(のこ)つて居(を)る方(かた)があり又(ま)た其(その)子(こ)正弘君(まさひろくん)も存生(ぞんせい)であられる         から段々(だん〴〵)に之等(これら)の方々(かた〴〵)に会(あ)つて其(その)話(はなし)を聴(き)きたいと望(のぞ)むだのであるかゝる訳(わけ)であつたから私(わたくし)は今(いま)此(この)         章(せう)に於(おい)ては湖山(こざん)と戊午(ぼご)の大獄(たいごく)並(ならび)に羽田野敬雄(はだのたかを)等(ら)との関係(くわんけい)の大要(たいえう)だけを申述(まをしの)べて置(お)いてそれから追(おひ)         追(おひ)話(はなし)の時代(じだい)が進(すゝ)むに従(したが)つて其(その)伝記(でんき)をも申述(まをしの)べて行(ゆ)く考(かんがへ)であつたのであるモツトモ此(この)戊午(ぼご)の大獄(たいごく)や         羽田野敬雄(はだのたかを)等(ら)との関係(くわんけい)を述(の)べるに就(つい)ても一 応(おう)は故老(こらう)の方(かた)に問(と)ひたいものであると思(おも)つて先日来(せんじつらい)種(しゆ)         種(じゆ)の方々(かた〴〵)に伺(うかゞ)つて見(み)たのであるトコロが何(なに)を云(い)ふにも既(すで)に当時(たうじ)から五十 年余(ねんよ)を経過(けいくわ)して居(を)る事で         あるので諸君(しよくん)の云(い)はるゝ事が大体(だいたい)に於(おい)ては一 致(ち)するが其(その)時代(じだい)や細節(さいせつ)などに至(いた)ると実(じつ)に区々(くゝ)であつ         て捕捉(ほそく)するに苦(くるし)むだのである特(とく)に湖山(こざん)が此(この)吉田(よしだ)に幽閉(ゆうへい)さるゝ前(まへ)の履歴(りれき)に就(つい)ては殆(ほとん)ど之(これ)を知(し)つて居(を)         らるゝ人(ひと)がない何分(なにぶん)は聞(き)いて居(を)らるゝ方(かた)がなにではないが能(よ)く〳〵之(これ)を推(お)して見(み)るとドウも確実(かくじつ) 【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百九十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十六 【本文】 由来記のようなものは世を益した事が少なくない。また三河国古蹟考、触穢私考、見聞集、机上日記、栄木園雑集など何十巻というものがある。なかでも三河国古蹟考のようなものは考証が該博で、かつてその原本は内務省の地理局へ借り上げられたまま紛失したが、幸いに写本が残っているので大いに世の参考となっている次第である。 敬雄は維新後逸早く皇学所の講官を命じられて京都に出たが、後に職を辞して国に帰り、明治六年権大講義に補せられ、同十四年権少教正に補せられたが、前にも申し述べたように明治十五年六月一日をもって病没したのである。辞世の歌ともいうべきものに  今日までは神のままに世を過ごし   死んだ後も神のままに というのがある。これを見てもいかにその現世に超越したものがあったかを思うべきである。そこでまた蓬宇のことであるが、この人もまた蓬宇連句帳三十巻をはじめ著書がある。特にその日記というものは実に見事なもので、これらの書物は今幸いに羽田文庫から豊橋市図書館に伝わっているのである。この人は晩年俳諧をもって名を天下に知られ、寡欲清淡で、明治廿八年一月十三日、年八十七をもって豊橋百花園の住居にて病没したのである。 なお湖山について、ここに一言しておきたいのはその詩集である。これは諸君もご承知のように実に沢山あるもので、これを見るとその時代時代の思想も分かり、また他との関係もよく分かることであるが、今一々列挙し難いから追々申し述べる考えである。しかし湖山がまだ二十三、四歳の時、その師星厳の許しを得て江戸お玉が池で門戸を開いたことがあるが、その時にはまだ一向門人がなかったのである。そこで一時その家を払って、その先輩者の藤森弘(恭助)庵と共に水戸に遊んだことがある。その時西山を詠じた詩の中に 飛沖雲霄潜在淵、且将筆研楽余年、述懐梅里先生博、卜地桃源洞裏天、士習民風到今美、山花野草 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百七十四号附録(大正二年九月二十三日発行) 【本文】 及時研、的知遺訓厳然在、麟趾振々世出賢 というのがあるが、これは湖山が少年時代における思想を見るべきであると思うから、ここに紹介するのである。 《小野湖山について補正》 ●補正 小野湖山について 小野湖山の伝記については前章にも申し述べたように、今日まであまりまとまって調査されたものがなかったのである。それというのも湖山という人は誠に自分の履歴を物語るのを喜ばなかったので、これも一原因であったと思う。そこで私は幸いに当時まだ湖山存生中であったから、お会いして真情を打ち明け、その許される限りは直接に履歴を聴いておきたいと思っていたのである。しかるにこれも前にも申し述べたように、全くその意を果たすことができなかったという次第で、私の落胆は大方ならなかったのであるが、しかし幸いに湖山と交遊されたところの諸君の中で残っている方があり、またその子正弘君も存生であられるから、段々にこれらの方々に会ってその話を聴きたいと望んだのである。かかる訳であったから、私は今この章においては湖山と戊午の大獄並びに羽田野敬雄等との関係の大要だけを申し述べておいて、それから追々話の時代が進むに従ってその伝記をも申し述べていく考えであったのである。もっともこの戊午の大獄や羽田野敬雄等との関係を述べるについても一応は故老の方に問いたいものであると思って、先日来種々の方々に伺って見たのである。ところが何を言うにも既に当時から五十年余を経過していることであるので、諸君の言われることが大体においては一致するが、その時代や細節などに至ると実に区々であって捕捉するに苦しんだのである。特に湖山がこの吉田に幽閉される前の履歴については殆どこれを知っておられる人がない。何分は聞いておられる方がないのではないが、よくよくこれを推して見るとどうも確実 【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 496 **Main Text:** Works like his "Yuraiki" (Record of Origins) benefited society considerably. He also wrote many tens of volumes including "Mikawa Province Historical Sites Investigation," "Personal Thoughts on Ritual Defilement," "Collection of Things Seen and Heard," "Desktop Diary," and "Miscellaneous Collection from Sakaki Garden." Among these, works like "Mikawa Province Historical Sites Investigation" were particularly thorough in their scholarly research. The original manuscript was once borrowed by the Geography Bureau of the Ministry of Home Affairs and was lost, but fortunately a copy remains, serving as a great reference for the world. After the Restoration, Takao was quickly appointed as a lecturer at the Imperial Academy and went to Kyoto, but later resigned his position and returned home. In 1873 (Meiji 6) he was appointed as an assistant chief lecturer, and in 1881 (Meiji 14) as an assistant minor instructor, but as I mentioned earlier, he died of illness on June 1, 1882 (Meiji 15). A poem that could be called his death verse goes: Until today I have lived according to the gods' will, And after death too, according to the gods' will. Seeing this, one should understand how much he had transcended this present world. Now regarding Hōu, this person also wrote books including thirty volumes of "Hōu's Linked Verse Collection." His diary in particular is truly magnificent, and these books have fortunately been passed down from the Hada Library to the Toyohashi City Library. In his later years he became known throughout the land for his haikai poetry, lived a life of few desires and simple tastes, and died of illness at his residence in Toyohashi's Hyakkuen on January 13, 1895 (Meiji 28) at the age of eighty-seven. I would like to say a word here about Kozan's poetry collections. As you all know, there are truly many of these, and by reading them one can understand the thoughts of each era and also understand well his relationships with others. Since it is difficult to list them all now, I plan to discuss them gradually. However, when Kozan was still twenty-three or twenty-four years old, with his master Seigan's permission, he once opened a school at Otamagaike in Edo, but at that time he had no students at all. So he temporarily closed the house and went to visit Mito together with his senior, Fujimori Kō (Kyōsuke) An. At that time, among the poems he composed about Mount Nishiyama was: "Flying through clouds and sky, diving deep into the abyss, for now I shall enjoy my remaining years with brush and inkstone. Reflecting on the broad learning of Master Bairi, I divine this place as heaven within a Peach Blossom Spring cave. The customs of scholars and people remain beautiful to this day, mountain flowers and wild grasses..." **Margin:** Publisher and Printing House: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Konyachō, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4474 Supplement (Published September 23, 1913/Taishō 2) **Main Text:** "...studied in timely fashion. Clearly knowing that the inherited teachings remain stern, talented people continue to emerge generation after generation." I introduce this here because I believe it shows Kozan's thoughts during his youth. **《Corrections Regarding Ono Kozan》** ●Corrections: Regarding Ono Kozan Regarding Ono Kozan's biography, as I mentioned in the previous chapter, there has been very little comprehensive research conducted to this day. This is because Kozan was truly someone who did not like to talk about his own personal history, which I believe was one cause of this situation. Therefore, since I was fortunate that Kozan was still alive at that time, I wanted to meet with him, open my heart sincerely, and listen directly to his personal history as much as he would allow. However, as I also mentioned before, I was completely unable to fulfill this intention, and my disappointment was considerable. But fortunately, among the gentlemen who had friendships with Kozan, some remain, and his son Masahiro is also still living, so I hoped to gradually meet with these people and listen to their stories. For these reasons, in this chapter I had planned to outline only the main points of the relationships between Kozan and the Bogo Incident and Hatano Takao and others, and then gradually discuss his biography as the narrative progresses through time. Of course, even to discuss the Bogo Incident and his relationships with Hatano Takao and others, I thought I should first consult with elderly people, so I have recently inquired with various individuals. However, since over fifty years have already passed since that time, while what the gentlemen say generally agrees in broad terms, when it comes to specific dates and details, their accounts vary considerably, making it difficult to piece together. In particular, regarding Kozan's personal history before he was confined in Yoshida, there is hardly anyone who knows about it. It's not that there aren't people who have heard something, but when examining it carefully, it doesn't seem very reliable... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 497