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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 263

ページ: 263

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【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百九十八 【本文】         に行(ゆ)かぬのである此(この)上(うへ)は其子(そのこ)正弘(まさひろ)君(くん)に伺(うかゞ)つて見(み)るより外(ほか)には致(いた)し方(かた)がないと思(おも)つて居(を)つたのであ         つたが何分(なにぶん)遠隔(ゑんかく)の地(ち)に住(す)まつて居(を)られる事であるから其(その)機(き)を得難(えがた)いのである余義(よぎ)なく此(この)章(せう)に於(おい)て         は之(これ)まで私(わたくし)が諸方(しよはう)から聴(き)き得(え)た事と出来(でき)るだけの証拠(せうこ)とによつて大要(たいえう)を申述(まをしの)べ然(しか)る後(のち)前(まへ)にも申述(まをしの)         べたる如(ごと)く次第々々(しだい〴〵)に詳(くは)しき事をも研究(けんきう)して見(み)たいと思(おも)ふ処(ところ)から前章(ぜんせう)には不完全(ふくわんぜん)ながら誤(あやまり)なき         ものと認(みと)めたるものだけを摘(つま)むで申述(まをしの)べて置(お)いた考(かんがへ)である然(しか)るに此(この)筆記(ひつき)を読(よ)まれてから段々(だん〴〵)と教(けふ)         示(じ)を賜(たま)はる方(かた)もあり又(ま)た大河戸挺秀(おほかはどていしう)師(し)の如(ごと)きは態々(わざ〴〵)小宅(せうたく)を訪(こ)はれて湖山(こざん)に関(くわん)する其(その)記憶(きおく)を物語(ものがた)ら        れた程(ほど)で其(その)懇情(こうぜう)は誠(まこと)に謝(しや)するに余(あまり)ある次第(しだい)である元来(がんらい)挺秀(ていしう)師(し)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く関根痴堂(せきねちどう)の門人(もんじん)であ         られたが痴堂(ちどう)が慶応(けいおう)元年(がんねん)正月二十日を以(もつ)て藩(はん)から兵学修行(へいがくしうげふ)を命(めい)ぜられ其(その)年(とし)の二月十二日 江戸(えど)に出(しゆつ)         立(たつ)したので痴堂(ちどう)の紹介(せうかい)を以(もつ)て湖山(こざん)の門(もん)に入(い)られたのであるそれから湖山(こざん)が此(この)吉田(よしだ)に在住(ざいぢう)して居(を)ら         れた間(あひだ)と云(い)ふものは常(つね)に其家(そのいへ)に通(かよ)つて教授(けふじゆ)を受(う)けられたのであるから慶応(けいおう)以後(いご)の事に就(つい)ては其(その)記(き)         臆(おく)が特(とく)に明(あきらか)であられると思(おも)ふ(湖山(こざん)が全家(ぜんか)を挙(あ)げて東京(かうけう)に移住(いぢう)せしは明治(めいぢ)五 年(ねん)二月である之等(これら)         の事は詳(くは)しく後(のち)に申述(まをしの)ぶる筈(はづ)である)ソコで湖山(こざん)に関(くわん)する調査(てうさ)上(ぜう)に就(つい)て与(あた)へられたる助言(じよげん)は誠(まこと)に         有益(いうえき)であつたので私(わたくし)は此際(このさい)一 層(そう)其(その)調査(てうさ)を進(すゝ)めて見(み)る考(かんがへ)を起(おこ)すに至(いた)つたのであるが其(その)進行(しんかう)に従(したがつ)て         色々(いろ〳〵)と新(あたら)しい事実(じゞつ)をも発見(はつけん)しそれが為(ため)に前(ぜん)申述(まをしの)べてある事の中(なか)でも二三の訂正(ていせい)を要(えう)する点(てん)が生(せう)じ         たので此処(こゝ)に補正(ほせい)として此(この)章(せう)に必要(ひつえう)なる部分(ぶゞん)を申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したのである又(ま)た此(この)事(こと)に関(くわん)しては         小野杜堂(をのとどう)翁(おう)からも有益(いうえき)なる御話(おはなし)を承(うけたまは)つた事が少(すく)なくないので前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる事 並(ならび)に此処(こゝ)に申述(まをしの)         ぶることの中(なか)でも同翁(どうおう)の注意(ちうい)になつたことも少(すくな)くないのであるから之(これ)亦(ま)た此処(こゝ)に申述(まをしの)べて感謝(かんしや)する次(し)         第(だい)である 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際       【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【左頁】         サテ湖山(こざん)の出生地(しゆつせいち)に就(つい)ては前(ぜん)申述(まをしの)べた如(ごと)くであるが其(その)家(いへ)は郷士(ごうし)ではなく医師(ゐし)であつたと云(い)ふ説(せつ)が         ある之(これ)は確実(かくじつ)なる調査(てうさ)を遂(と)げぬので此処(こゝ)には先(ま)づ一 説(せつ)として申述(まをしの)べて置(お)くに留(とゞ)める而(しか)して初(はじめ)の名(な)         は通称(つうせう)横山仙助(よこやませんすけ)で名(な)を巻(くわん)と云(い)つたことは前(ぜん)申述(まをしの)べた如(ごと)くで諸説(しよせつ)が一 致(ち)するソコで此(この)戊午(ぼご)の大獄(たいごく)に関(くわん)         係(けい)して吉田(よしだ)に幽閉(ゆうへい)さるヽまでは如何(いか)なる行動(かうどう)をなした人(ひと)であるかと云(い)ふ事に就(つい)ては実(じつ)に諸説(しよせつ)紛々(ふん〳〵)         とも云(い)ふべき状態(ぜうたい)であるが之(これ)は其(その)当時(たうじ)の関係(くわんけい)文書(ぶんしよ)類(るい)は後(のち)に至(いた)つて悉(こと〴〵)く焼(や)いて仕舞(しま)つたのであるの         と湖山(こざん)自(みづか)らは勉(つと)めて当時(たうじ)の履歴(りれき)を語(かた)らぬようにしたのが原因(げんゐん)であると信(しん)ずる併(しか)し其中(そのなか)に就(つい)て最(もつと)も         信(しん)ずべく又(ま)た要(えう)を得(え)て居(を)ると思(おも)はれるのが湖山消閑集(こざんせうかんしう)に於(お)ける中村敬宇(なかむらけいう)の序文(ぢよぶん)である此(この)湖山消閑(こざんせうかん)         集(しう)と云(い)ふ書物(しよもつ)は明治(めいぢ)十三 年(ねん)頃(ころ)の出版(しゆつぱん)で湖山(こざん)の詩(し)だの紀行(きかう)だのを集(あつ)めたものであるが其(その)巻頭(くわんとう)に敬宇(けいう)        の序文(ぢよぶん)があるのであるモツトモ此(この)序文(ぢよぶん)は湖山(こざん)近稿(きんかう)と云(い)ふ書物(しよもつ)の為(ため)に書(か)かれたのを此(この)消閑集(せうかんしう)の初(はじめ)に         加(くは)へたものと思(おも)はれるが其(その)序文(ぢよぶん)中(ちう)に          湖山先生不喜以詩称、而詩人之名不能免焉、酒酣嘗謂余曰、吾少年離郷、覊食江都、貧無貲、          不能従良師、又欲入大学交海内俊髦、而不果、有志干経世実用之学、而未有所成、蹉跎歳月竊          以自嘆、会洋舶入港、幕政不振、慷慨憂国通霄不眠、遂主張尊攘之説、奔走尽力、或上書時相          或与朋友論天下事、或作詩規諷一世、或為名士訟冤、遂以此得罪、屢危其身、而亦終不悔也         と云(い)ふことが書(か)いてあるのである之(これ)は此(この)序文(ぢよぶん)にも見(み)ゆる如(ごと)く湖山(こざん)が直接(ちよくせつ)に敬宇(けいう)に話(はな)された事を敬宇(けいう)         が其(その)まヽに書(か)いたもので而(しか)も湖山(こざん)自著(じちよ)の巻頭(くわんとう)に掲(かゝ)げたのであるから湖山(こざん)も亦(ま)た之(これ)を承認(せうにん)せられた         訳(わけ)であると思(おも)ふ而(しか)して尚(なほ)少(すこ)しく此事(このこと)を詳(くは)しく書(か)いたものは蒲生重章(がまふしげあき)の偉人伝(ゐじんでん)であるが之(これ)には湖山(こざん)         に関(くわん)する伝記(でんき)を狂狂先生伝(けう〳〵せんせいでん)と記(しる)してあるのである狂狂(けう〳〵)は湖山(こざん)がズツト始(はじめ)から余程(よほど)の晩年(ばんねん)まで屡々(しば〴〵) 【欄外】    豊橋市史談  (吉田に於ける国学者と羽田野敬雄)               四百九十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十八 【本文】 確実なところがないのである。この上はその子正弘君に伺って見るより他には致し方がないと思っていたが、何分遠隔の地に住まっておられることであるから、その機会を得難いのである。やむを得ずこの章においては、これまで私が諸方から聞き得たことと、できるだけの証拠とによって大要を申し述べ、然る後前にも申し述べたように、次第次第に詳しいことをも研究して見たいと思うところから、前章には不完全ながら誤りなきものと認めたもののみを摘んで申し述べておいた考えである。 しかるにこの筆記を読まれてから段々と教示を賜る方もあり、また大河戸挺秀師のような方はわざわざ小宅を訪われて湖山に関するその記憶を物語られた程で、その懇情は誠に謝するにあまりある次第である。元来挺秀師はご承知のように関根痴堂の門人であられたが、痴堂が慶応元年正月二十日をもって藩から兵学修行を命じられ、その年の二月十二日江戸に出立したので、痴堂の紹介をもって湖山の門に入られたのである。それから湖山がこの吉田に在住しておられた間というものは、常にその家に通って教授を受けられたのであるから、慶応以後のことについてはその記憶が特に明らかであられると思う(湖山が全家を挙げて東京に移住したのは明治五年二月である。これらのことは詳しく後に申し述べる筈である)。 そこで湖山に関する調査上について与えられた助言は誠に有益であったので、私はこの際一層その調査を進めてみる考えを起こすに至ったのであるが、その進行に従って色々と新しい事実をも発見し、それがために前申し述べてある事の中でも二三の訂正を要する点が生じたので、ここに補正としてこの章に必要なる部分を申し述べることに致したのである。またこのことに関しては小野杜堂翁からも有益なる御話を承った事が少なくないので、前章に申し述べたこと並びにここに申し述べることの中でも同翁の注意になったことも少なくないのであるから、これまたここに申し述べて感謝する次第である。 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿ほぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【左頁】 さて湖山の出生地については前申し述べた如くであるが、その家は郷士ではなく医師であったという説がある。これは確実な調査を遂げぬので、ここには先ず一説として申し述べておくに留める。そして初めの名は通称横山仙助で、名を巻といったことは前申し述べた如くで、諸説が一致する。 そこでこの戊午の大獄に関係して吉田に幽閉されるまでは、いかなる行動をなした人であるかということについては、実に諸説紛々ともいうべき状態であるが、これはその当時の関係文書類は後に至ってことごとく焼いてしまったのであるのと、湖山自らは努めて当時の履歴を語らぬようにしたのが原因であると信ずる。 しかしその中について最も信ずべく、また要を得ていると思われるのが『湖山消閑集』における中村敬宇の序文である。この『湖山消閑集』という書物は明治十三年頃の出版で、湖山の詩だの紀行だのを集めたものであるが、その巻頭に敬宇の序文があるのである。もっともこの序文は『湖山近稿』という書物のために書かれたのを、この『消閑集』の初めに加えたものと思われるが、その序文中に 「湖山先生は詩をもって称せられるのを喜ばず、しかし詩人の名を免れることができない。酒に酔った時、かつて私に語って言うには、『吾少年にして郷を離れ、江戸に身を寄せたが、貧しく資がなく、良師に従うことができず、また大学に入って海内の俊髦と交わりたいと欲したが、果たせなかった。経世実用の学に志があったが、成すところがなく、歳月を無為に過ごして密かに自嘆していた。たまたま外国船が入港し、幕政が振るわず、慷慨憂国して夜通し眠れず、ついに尊王攘夷の説を主張し、奔走尽力し、あるいは時の大臣に上書し、あるいは朋友と天下の事を論じ、あるいは詩を作って一世を規諷し、あるいは名士のために冤罪を訟い、ついにこのことで罪を得て、屡々その身を危うくしたが、また終に悔いることもなかった』」 ということが書いてある。これはこの序文にも見えるように、湖山が直接に敬宇に話されたことを敬宇がそのまま書いたもので、しかも湖山自著の巻頭に掲げたのであるから、湖山もまたこれを承認された訳であると思う。 そしてなお少しくこのことを詳しく書いたものは蒲生重章の『偉人伝』であるが、これには湖山に関する伝記を「狂狂先生伝」と記してあるのである。狂狂は湖山がずっと初めから余程の晩年まで屡々 【欄外】 豊橋市史談(吉田における国学者と羽田野敬雄) 四百九十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 498 **Main Text:** ...doesn't seem reliable. Under these circumstances, I thought there was no other way but to inquire with his son Masahiro, but since he lives in a distant place, it is difficult to find an opportunity to meet him. Having no other choice, in this chapter I have outlined the main points based on what I have been able to learn from various sources and whatever evidence I could find, and then, as I mentioned before, I planned to gradually research more detailed matters. Therefore, in the previous chapter, though incomplete, I selected and discussed only what I considered to be without error. However, after people read these notes, some have gradually provided instruction, and people like Master Ōkawado Teishū even went so far as to visit my humble residence and relate their memories concerning Kozan—such kindness is truly beyond what I can adequately thank them for. Originally, as you know, Master Teishū was a disciple of Sekine Chidō, but when Chidō was ordered by the domain to study military science on January 20, Keiō 1 (1865) and departed for Edo on February 12 of that year, Teishū entered Kozan's school through Chidō's introduction. From then on, during the entire period when Kozan resided in Yoshida, he constantly attended Kozan's house to receive instruction, so I believe his memory of events after the Keiō period is particularly clear. (Kozan moved his entire household to Tokyo in February of Meiji 5 (1872). I plan to discuss these matters in detail later.) Therefore, the advice given regarding research on Kozan was truly beneficial, and I came to think of advancing this research further on this occasion. As the investigation progressed, I discovered various new facts, and consequently, two or three points among what I had previously stated required correction, so I have decided to present here as corrections the parts necessary for this chapter. Also, regarding this matter, I have received many beneficial stories from Elder Ono Todō, so among both what I stated in the previous chapter and what I state here, much was brought to my attention by this same elder, and I therefore acknowledge this here with gratitude. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his broad knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City History for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesday) and presented to readers of the Sanyō Newspaper **Left Page:** Now, regarding Kozan's birthplace, it is as I stated before, but there is a theory that his family were not rural samurai but physicians. Since I have not completed reliable research on this, I will mention it here only as one theory for now. That his original name was the common name Yokoyama Sensuke and his given name was Kan, as I stated before, is agreed upon by all theories. Now, regarding what kind of activities this person engaged in before being confined in Yoshida in connection with the Bogo Incident, the situation can truly be described as one of various conflicting theories. I believe this is because the related documents from that time were later completely burned, and because Kozan himself made efforts not to speak of his personal history from that period. However, among these accounts, what seems most credible and to the point is the preface by Nakamura Keiū in the "Kozan Leisure Collection." This book called "Kozan Leisure Collection" was published around Meiji 13 (1880) and is a collection of Kozan's poems and travel writings, with Keiū's preface at the beginning. Most likely, this preface was written for a book called "Kozan's Recent Writings" and was added to the beginning of this "Leisure Collection," but in that preface it states: "Master Kozan does not like to be called a poet, yet he cannot escape the name of poet. When drunk with sake, he once told me: 'In my youth I left my hometown and took lodging in Edo, but being poor with no resources, I could not follow good teachers, and though I wanted to enter a university and associate with the brilliant minds of the realm, I could not achieve this. I had ambitions in practical statecraft studies but accomplished nothing, passing the months and years in vain while secretly lamenting my situation. When foreign ships entered the harbor and the shogunate government was weak, I was filled with passionate concern for the country and could not sleep through the night. Finally I advocated the theory of imperial reverence and expelling foreigners, running about and exerting all my efforts—sometimes submitting memorials to ministers of state, sometimes discussing national affairs with friends, sometimes composing poems to criticize and admonish the world, sometimes pleading cases for wronged prominent men. Through these activities I incurred guilt, repeatedly endangering myself, yet I never felt regret.'" This is written exactly as Kozan directly told Keiū, as can be seen in this preface, and since it was placed at the beginning of Kozan's own work, I believe Kozan also approved of it. Something that describes this matter in slightly more detail is Gamō Shigeaki's "Biographies of Great Men," which records the biography related to Kozan under the title "Biography of Master Kyōkyō." Kyōkyō was a name that Kozan frequently used from the very beginning until quite late in his life... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (National Learning Scholars in Yoshida and Hatano Takao) 499