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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 28

ページ: 28

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【欄外】 豊橋市史談    (牧野成三と吉田の地名)          廿八 【本文】        考(こう)の著者(ちよしや)は之を大永元年(たいえいがんねん)の頃(ころ)であるとして居(を)る私(わたくし)も亦(ま)た大永(たいえい)の初年(しよねん)である事を信(しん)じて疑(うたが)はぬものであ       るが其(その)理由(りゆう)は前(ぜん)にも述(の)べた宗長手記(そうてうしゆき)大永六年三月の条(くだり)に「三河国(みかはのくに)今橋(いまはし)牧野(まきの)田三 彼(かの)父(ちゝ)おほぢより知人(ちじん)に       て国(くに)の境(さかひ)わづらはしきに人多(ひとおほ)く物(もの)の具(ぐ)などして迎(むかひ)にとてこと〴〵しくぞ覚(おぼ)えし此所(ここ)一日 熊谷越後守(くまがひゑちごのかみ)来(きた)り        物語(ものがたり)夜更(よふけ)侍(はべ)りし」とあり又(ま)た大永(たいえい)七年四月の条(くだり)に「今橋(いまはし)牧野(まきの)田三 宿所(しくしよ)一日 興行(こうぎよう)、こゝは古白(こはく)以来(いらい)年々(ねん〳〵)        歳々(さい〳〵)芳恩(ほうおん)の所(ところ)なり興行(こうぎよう)あはれにも昔(むかし)覚(おぼ)えて老屈(らうくつ)を忘(わす)るなるべし、けふ更(さら)に五月まつ花(はな)の宿(やど)りかな」と       ありて憾慨(かんがい)の情(ぜう)が溢(あふ)れて居る之(これ)によつて見(み)ると宗長(そうてう)が年々歳々 此(この)牧野家(まきのけ)に往来(おうらい)せるのは古白(こはく)以来(いらい)の事       で而(しか)も彼(かの)父(ちゝ)おほぢより知人(ちじん)であると云ふ処(ところ)から推及(すゐきう)すると其(その)おほぢと云ふのは古白(こはく)に当(あた)り父(ちゝ)と云ふの       は成三(しげかづ)に当(あた)るので今(いま)は田三信成(でんざうのぶしげ)の代(だい)であると云ふ事(こと)になるのである従(したがつ)て大永(たいえい)六年には既(すで)に信成(のぶしげ)が相(さう)        続(ぞく)して居(を)るのであるから成三(しげかづ)が僅(わづか)三四年で信成に譲(ゆづ)つたものと仮定(かてい)すれが成三(しげかづ)の此(この)城(しろ)を復(ふく)したのは大       永のニ三年に当(あた)るからで恰(あたか)も成三(しげかづ)廿一二歳の時(とき)になるのである序(ついで)だから申述(もうしの)べるが前(まへ)の熊谷越後守(くまがひゑちごのかみ)と 鵜津山   云ふのは宇理(うり)の城守(ぜうしゆ)であるが尚(なほ)宗長(そうてう)日記(につき)大永七年の条(くだり)の続(つゞ)きに「国(くに)の境(さかひ)の城(しろ)鵜津山(うづやま)に至(いた)りぬ此(この)鵜津山(うづやま)       の館(やかた)と云ふは尾張(おはり)三河 信濃(しなの)の境(さかひ)やゝもすれば競望(けうぼう)する族(やから)ありて番衆(ばんしう)日夜(にちや)無油断(ゆだんなき)城(しろ)なり東南北(とうなんぼく)浜名(はまな)の海(うみ)        廻(まは)りて山のあひ〳〵せき入(いり)堀(ほり)いれたる水の如(ごと)く城(しろ)の岸(きし)を廻(まは)る(中略)三ケ国の敵(てき)の境(さかひ)昼夜(ちうや)の太鼓(たいこ)夜番(よばん)の        声(こゑ)寸暇(すんか)なくきこゆ」と書(か)いてあるモツトモ此(この)鵜津山(うづやま)と云ふのは遠江国(とほとふみのくに)の内(うち)で三 河境(かはさかひ)に当(あた)るのである       から三 国(こく)の境(さかひ)とあるのは少(すこ)しく可笑(おか)しく思(おも)はるゝが兎(と)も角(かく)此(この)記事(きじ)は群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)当時(とうじ)に於(お)ける実況(じつけう)が忍(しの)ば       るゝようで面白(おもしろ)く感(かん)ずるのである。 吉田の地名  此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)で牧野成三(まきのしげかづ)は再(ふたゝ)び此今橋城を復(ふく)したのであるがソコで申述(もうしの)べたいのは吉田(よしだ)の地名(ちめい)の事で       あつて私(わたくし)は此(この)吉田(よしだ)の改名(かいめい)を以(もつ)て実(じつ)に大永の初年(しよねん)成三(しげかづ)が此(この)城(しろ)を復(ふく)した当時(とうじ)に於て行(おこな)つたものであると 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百十七号附録   ( 明治四十四年四月二十八日発行 ) 【本文】        確信(かくしん)して疑(うたが)はぬのである即(すなは)ち牛久保密談記(うしくぼみつだんき)に         今橋城(いまはしぜう)古白(こはく)落失(らくしつ)の時 尾張(おはり)に隠(かく)れてをはせし御息(おんそく)今は星霜(せいさう)おし移(うつ)り牧野傳左衛門 三成(かづしげ)と号(ごう)し其子(そのこ)傳蔵(でんざう)         信成(のぶしげ)(実は弟)父子(ふし)時(とき)を待(ま)ち三州に起(おこり)て今橋の城元(しろもと)の如(ごと)く取立(とりたて)吉田(よしだ)と名(なづ)けゝる       とあるのは大(おほい)に参考(さんこう)になるものであると思(おも)ふ又(ま)た三 河聞書(かはきゝがき)の中(なか)にも        大永二壬午牧野傳蔵信成改今橋号吉田       とあるが大永(たいえい)二年には前(まへ)にも述(の)べた通(とほ)り未(いま)だ信成(のぶしげ)の代(だい)ではなく成三(しげかづ)の時でなくてはならぬ併(しか)し今橋を吉       田と改(あらた)めた年代(ねんだい)に就(つい)ては誠(まこと)に同感(どうかん)である蓋(けだ)し之にも古来(こらい)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があつて永正(えいせう)二年 古白(こはく)築城(ちくぜう)の時に改(かい)        名(めい)したのだと云ふものもある又(ま)たズツト後(のち)に至(いた)つて天文(てんもん)の中頃(なかごろ)に今川義元(いまがはよしもと)の命名(めい〳〵)したもので今橋(いまはし)と云       ふ名(な)は「イマワシ」と聞(きこ)ゆるから之(これ)を避(さ)けたものだと云ふ説(せつ)もあるモツトモ前(まへ)の永正二年説は何(なに)も深(ふか)き        根拠(こんきよ)はないのであるが後(のち)の今川義元(いまがはよしもと)改名(かいめい)説(せつ)は一ト通(とほ)り理由(りゆう)のある事で即(すなは)ち大永七年の頃(ころ)にはまだ宗長(そうてう)        手記(しゆき)にも此地(このち)を今橋と書(か)いてある又(また)其後(そのご)天文二年の尊海僧正(そんかいそうぜう)道(みち)の記(き)にも矢張(やはり)今橋の名(な)があるが殊(こと)に天       文十六年の天野文書(あまのぶんしよ)今川義元(いまがはよしもと)感状(かんぜう)の中(なか)に         今橋城(いまはしぜう)小口(こぐち)取寄(とりよせ)候(そうろう)時(とき)了念寺(れうねんじ)え可相移(あひうつるべき)之(の)由(よし)下知(げち)最前(さいぜん)馳入(はせいり)云々(うんぬん)       と云(い)ふことがある而(しか)して之と同年(どうねん)に義元(よしもと)の参謀(さんぼう)雪斎(せつさい)長老(てうらう)から此(この)天野(あまの)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)の中には初(はじ)めて「吉田」       と云ふ名(な)があらはれて居(を)る又(ま)た豊橋市花田 字(あざ)羽田(はだ)の清源寺(せいげんじ)にも義元(よしもと)の寄付状(きふぜう)があつたが矢張(やはり)吉田の名       が記(しる)されて天文(てんぶん)中(ちう)のものであると云ふ処から此(この)吉田(よしだ)の地名(ちめい)は其頃(そのころ)初(はじ)めて現(あら)はれたものであると云ふの       が義元(よしもと)改名(かいめい)説(せつ)の論拠(ろんよき)になるのである併(しか)しながら茲(こゝ)に注意(ちうゐ)を要(えう)するのは豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)の龍拈寺(りうねんじ)と云ふ寺(てら)は 《割書:吉田山龍拈|寺》   寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)にも認(みと)めて居る通り牧野成三(まきのしげかづ)の建立(こうりう)であるが当時(とうじ)より之を吉田山(きちでんさん)と称(せう)して居るのであ 【欄外】 豊橋市史談    (牧野成三と吉田の地名)          廿九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (牧野成三と吉田の地名)          二十八 【本文】       考』の著者はこれを大永元年(1521年)の頃であるとしている。私もまた大永の初年である事を信じて疑わないものであ       るが、その理由は前にも述べた『宗長手記』大永六年三月の条に「三河国今橋牧野田三、彼の父おおじより知人に       て国の境わずらわしきに人多く物の具などして迎えにとて事々しくぞ覚えし。此所一日、熊谷越後守来たり       物語夜更け侍りし」とあり、また大永七年四月の条に「今橋牧野田三宿所一日興行、ここは古白以来年々       歳々芳恩の所なり。興行あわれにも昔覚えて老屈を忘るるなるべし、けふ更に五月まつ花の宿りかな」と       あって感慨の情が溢れている。これによって見ると宗長が年々歳々この牧野家に往来せるのは古白以来の事       で、而も彼の父おおじより知人であるという処から推及すると、そのおおじというのは古白に当たり、父というの       は成三に当たるので、今は田三信成の代であるという事になるのである。従って大永六年には既に信成が相       続しているのであるから、成三が僅か三四年で信成に譲ったものと仮定すれば、成三がこの城を復したのは大       永の二三年に当たるからで、恰も成三二十一二歳の時になるのである。序だから申し述べるが、前の熊谷越後守と 鵜津山   いうのは宇理の城守であるが、尚『宗長日記』大永七年の条の続きに「国の境の城鵜津山に至りぬ。この鵜津山       の館というは尾張三河信濃の境、ややもすれば競望する族ありて番衆日夜無油断城なり。東南北浜名の海       廻りて山の間々せき入り掘り入れたる水のごとく城の岸を廻る(中略)三ヶ国の敵の境昼夜の太鼓夜番の       声寸暇なく聞こゆ」と書いてある。もっともこの鵜津山というのは遠江国の内で三河境に当たるのである       から、三国の境とあるのは少しく可笑しく思われるが、兎も角この記事は群雄割拠当時における実況が忍ば       れるようで面白く感ずるのである。 吉田の地名  このような次第で牧野成三は再びこの今橋城を復したのであるが、そこで申し述べたいのは吉田の地名の事で       あって、私はこの吉田の改名を以って実に大永の初年、成三がこの城を復した当時において行ったものであると 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百十七号附録  (明治四十四年四月二十八日発行) 【本文】       確信して疑わないのである。即ち『牛久保密談記』に        今橋城古白落失の時、尾張に隠れておわせし御息、今は星霜おし移り牧野伝左衛門三成と号し、その子伝蔵        信成(実は弟)父子時を待ち三州に起こりて今橋の城元のごとく取立て吉田と名づけける       とあるのは大いに参考になるものであると思う。また『三河聞書』の中にも        大永二壬午牧野伝蔵信成改今橋号吉田       とあるが、大永二年には前にも述べた通りまだ信成の代ではなく成三の時でなくてはならぬ。併し今橋を吉       田と改めた年代については誠に同感である。蓋しこれにも古来種々の説があって、永正二年古白築城の時に改       名したのだというものもある。またずっと後に至って天文の中頃に今川義元の命名したもので、今橋と       いう名は「イマワシ」と聞こゆるから、これを避けたものだという説もある。もっとも前の永正二年説は何も深き       根拠はないのであるが、後の今川義元改名説は一通り理由のある事で、即ち大永七年の頃にはまだ『宗長       手記』にもこの地を今橋と書いてある。またその後天文二年の『尊海僧正道の記』にもやはり今橋の名があるが、殊に天       文十六年の天野文書今川義元感状の中に        今橋城小口取り寄せ候時、了念寺へ相移るべきの由下知、最前馳せ入り云々       ということがある。而してこれと同年に義元の参謀雪斎長老からこの天野に与えた文書の中には初めて「吉田」       という名があらわれている。また豊橋市花田字羽田の清源寺にも義元の寄付状があったが、やはり吉田の名       が記されて天文中のものであるという処から、この吉田の地名はその頃初めて現れたものであるという       のが義元改名説の論拠になるのである。併しながらここに注意を要するのは豊橋市吉屋の龍拈寺という寺は 《割書:吉田山龍拈寺》  『寛政重修諸家譜』にも認めている通り牧野成三の建立であるが、当時よりこれを吉田山と称しているのであ 【欄外】 豊橋市史談  (牧野成三と吉田の地名)          二十九

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Makino Shigekazu and the Place Name Yoshida)          28 【Main text】       Study" places this around the first year of Taiei (1521). I too believe without doubt that it was in the early years of Taiei,       and my reason is found in the previously mentioned "Sōchō Memoir," in the entry for the third month of Taiei 6, which states: "Mikawa Province Imahashi, Makino Tamizō, who has been an acquaintance since his father and grandfather's time,       when the provincial borders were troublesome, many people came with arms and equipment to welcome him, which seemed quite grand. Staying here one day, Kumagai Echigo no Kami came and       we talked stories until late at night." Also in the entry for the fourth month of Taiei 7: "Imahashi Makino Tamizō's lodging, one day's entertainment. This place has been one of gracious favors year after year       since Kohaku's time. The entertainment was so moving, recalling the past, that it seemed to make one forget old age. Today again, a lodging of May's last flowers."       These passages overflow with deep emotion. From this we can see that Sōchō's annual visits to the Makino family were a tradition since Kohaku's time,       and since he mentions being an acquaintance "since his father and grandfather's time," we can deduce that the grandfather refers to Kohaku and the father       refers to Shigekazu, so now it is the era of Tamizō Nobushige. Therefore, since Nobushige had already succeeded by Taiei 6, if we assume that Shigekazu transferred leadership to Nobushige after only three or four years, then Shigekazu's recapture of this castle would have been in Taiei 2 or 3, exactly when Shigekazu was twenty-one or twenty-two years old. Incidentally, the aforementioned Kumagai Echigo no Kami Uzuyama   was the lord of Uri Castle, and furthermore, in the continuation of "Sōchō Diary" for Taiei 7, it states: "Reached the border castle Uzuyama. This Uzuyama       mansion is at the border of Owari, Mikawa, and Shinano, where there are always competing factions, making it a castle where guard units maintain constant vigilance day and night. From east, south, and north, Lake Hamana       circles around, and like water flowing into mountain valleys and moats, it encircles the castle's banks. (omitted) At the enemy borders of three provinces, drums day and night, night watch       voices are heard without a moment's rest." However, since this Uzuyama is within Tōtōmi Province at the Mikawa border,       calling it a "border of three provinces" seems somewhat odd, but in any case, this account vividly conveys the actual conditions during that era of competing warlords,       which I find quite fascinating. Yoshida Place Name  Thus Makino Shigekazu recaptured Imahashi Castle, but what I want to discuss here is the matter of the place name Yoshida,       and I am convinced without doubt that this renaming to Yoshida was actually carried out in the early years of Taiei, when Shigekazu recaptured this castle. 【Left page】 【Margin】 San'yō Shinpō No. 3717 Supplement  (Published April 28, Meiji 44 [1911]) 【Main text】       Indeed, "Ushikubo Secret Discussions" states:        "When Imahashi Castle was lost by Kohaku, his son who had hidden in Owari, now after years have passed, is known as Makino Denzaemon Shigekazu, and his son Denzō        Nobushige (actually his brother). Father and son waited for their time, rose up in Sanshū, rebuilt Imahashi Castle as before, and named it Yoshida."       This I believe provides excellent reference material. Also in "Mikawa Chronicles":        "Taiei 2, Year of the Water Horse, Makino Denzō Nobushige changed Imahashi's name to Yoshida."       However, in Taiei 2, as I mentioned before, it was not yet Nobushige's era but must have been Shigekazu's time. But I completely agree regarding the period when Imahashi was       renamed to Yoshida. There have been various theories about this from ancient times: some say it was renamed when Kohaku built the castle in Eishō 2. Others say it was much later, around the middle of the Tenbun era, when Imagawa Yoshimoto       named it because "Imahashi" sounded like "Imawashi" (now terrible), so they avoided this name. The earlier Eishō 2 theory has no deep       basis, but the later Imagawa Yoshimoto renaming theory has reasonable grounds. Namely, around Taiei 7, "Sōchō's       Memoir" still refers to this place as Imahashi. Also, the later "Priest Sonkai's Travel Record" from Tenbun 2 still uses the name Imahashi, but particularly in the Amano documents from Tenbun 16, in Imagawa Yoshimoto's commendation letter:        "When approaching the outer defenses of Imahashi Castle, orders were given to move to Ryōnenji temple, and [soldiers] rushed in immediately, etc."       And in the same year, in documents given to this Amano by Yoshimoto's strategist, Elder Sesshū, the name "Yoshida"       appears for the first time. Also, Seigenji temple in Hanada Aza Hada, Toyohashi city, had a donation certificate from Yoshimoto, which similarly recorded the name Yoshida       and was from the Tenbun period. From this, the argument for Yoshimoto's renaming theory is that the place name Yoshida first appeared around that time. However, what requires attention here is that the temple called Ryūnenji in Yoshiya, Toyohashi city, 《Marginal note: Yoshidasan Ryūnenji》  as acknowledged in "Kansei Chōshū Shokafu," was built by Makino Shigekazu, but from that time it was called Yoshidasan, and 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Makino Shigekazu and the Place Name Yoshida)          29