← 前のページ
ページ 270 / 382
次のページ →
翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (桜田門外の変) 五百十二
【本文】
⦿桜田門外の変
まだ吉田藩(よしだはん)の事情(じぜう)に就(つい)ては御話(おはなし)したい事が沢山(たくさん)にあるのであるが兎(と)に角(かく)先(ま)づ其(その)時代(じだい)の大勢(たいせい)と云(い)ふもの
を概説(がいせつ)してそれから次第(しだい)に細(こま)かい処(ところ)に入(い)る考(かんがへ)であるから前章(ぜんせう)の話(はなし)は此処(こゝ)らに止(とゞ)めて話(はなし)をズツト前(まへ)の
処(ところ)に戻(もど)し当時(たうじ)の大局(たいきよく)に就(つい)て話(はなし)を継続(けいぞく)したく思(おも)ふのである
サテ前(まへ)に申述(まをしの)べたような次第(しだい)で戊午(ぼご)の大獄(たいごく)に於(おい)て所謂(いはゆる)志士(しゝ)の主(おも)なるものは処断(しよだん)せられ攘夷猶予(ぜうゐゆうよ)の詔勅(せうちよく)
があつて結局(けつきよく)朝廷(てうてい)に於(お)かせられても幕府(ばくふ)が条約(でうやく)に調印(てういん)せし事情(じぜう)は諒(れう)とせられたる事となつて一 時落着(じらくちやく)
した訳(わけ)であるが此処(こゝ)に一つ残(のこ)つた問題(もんだい)は彼(か)の八月八日 水戸(みと)に下(くだ)されたる別勅(べつちよく)の一 件(けん)である即(すな)はち水藩(すいはん)
《割書:別勅奉還事|件の紛擾》 に対(たい)して下(くだ)されたる勅旨(ちよくし)は勿論(もちろん)国事憂慮(こくじゆうりよ)の聖旨(せいし)に出(い)でられたる事とは奉察(ほうさつ)するが其為(そのため)に幕府(ばくふ)の権威(けんい)を
損(そん)せられ且(か)つ又(ま)た大政(たいせい)を幕府(ばくふ)に委任(ゐにん)せられある主旨(しゆし)にも違(ちが)ひて将来(せうらい)に向(むか)ひ実(じつ)に打捨(うちす)て置(お)き難(がた)き重大事(ぢうだいじ)
である殊(こと)に此(この)別勅(べつちよく)と云(い)ふものは微賤(びせん)のものゝ手(て)によつて直(たゞ)ちに水戸藩(みとはん)に届(とゞ)き水戸藩(みとはん)に於(おい)ても之(これ)を幕府(ばくふ)
に差出(さしだ)す事をなさず私(ひそか)に光栄(くわうえい)なりとして御受(おうけ)をしたるのは容易(ようい)ならざる事で之(これ)を此侭(このまゝ)に放任(ほうにん)すれば国(こく)
家惑乱(かわくらん)の源(みなもと)となるのは当然(たうぜん)である従(したがつ)て此(この)勅書(ちよくしよ)は水戸藩(みとはん)から幕府(ばくふ)へ差出(さしだ)さしむるのが当然(たうぜん)であると
云(い)ふのが最初(さいしよ)に於(お)ける幕府(ばくふ)の意見(いけん)であつたものと思(おも)はるゝのである勿論(もちろん)水戸慶篤(みとよしあつ)に於(おい)ても初(はじ)めは其(その)意(い)
であつたのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く水戸藩中(みとはんちう)一派(ぱ)の士(し)は之(これ)を肯(がゑん)ぜず極力(きよくりよく)勅書(ちよくしよ)を擁護(えうご)せむとする決心(けつしん)を
示(しめ)したので慶篤(よしあつ)の命令(めいれい)も遂(つゐ)に行(おこな)はれぬ事となり幕府(ばくふ)に於(おい)ても強(しひ)て之(これ)を遂行(つゐかう)せしめむとせば如何(いか)なる変(へん)
事(じ)が出来(でき)るやら測(はか)られざると云(い)ふ処(ところ)から時機(じき)の到(いた)るを待(ま)ちて遷延(せんえん)して居(を)つた次第(しだい)であるがイヨ〳〵今(こん)
度(ど)条約調印問題(でうやくてういんもんだい)も一 段落(だんらく)の形(かたち)と成(な)つたので幕府(ばくふ)に於(おい)ては遂(つゐ)に朝廷(てふてい)に奏(そう)して水戸(みと)をして其(その)勅書(ちよくしよ)を奉還(ほうくわん)せ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百九十六号附録 (大正二年十月廿一日発行)
【本文】
しむるようになさしめむとしたのであるトコロが朝廷(てうてい)に於(おい)ては一 度(ど)降(くだ)し賜(たまは)つた勅書(ちよくしよ)であるからそれを
再(ふたゝ)び返還(へんくわん)せしむると云(い)ふ事は失体(しつたい)であると云(い)ふ説(せつ)が盛(さかん)であつたが安政(あんせい)六 年(ねん)二月の比(ころ)に至(いた)り兎(と)に角(かく)如何(いか)
様(やう)にもして水戸藩(みとはん)に返勅(へんちよく)せしむる事には決(けつ)した模様(もやう)である併(しか)し其(その)手続(てつゞき)としては朝廷(てうてい)から京都所司代(けうとしよしだい)を
経(へ)更(さら)に幕府(ばくふ)によりて其(その)旨(むね)を水戸(みと)に傳(つた)へしめむとする旨(むね)であつたように思(おも)はれる然(しか)るに幕府(ばくふ)に於(おい)てな成(な)
るべく平穏(へいおん)の間(あひだ)に此(この)事(こと)を行(おこな)ひたいので幕府(ばくふ)が其(その)中(なか)に這入(はい)るとすれば必(かなら)ず水戸藩(みとはん)に於(おい)て命(めい)を奉(ほう)せざるも
のがあるのであろう其(その)場合(ばあひ)に寛仮(かんか)する訳(わけ)に行(ゆ)かぬ処(ところ)から或(あるひ)は流血(りうけつ)の惨(さん)を見(み)るに至(いた)るやも知(し)れざるので
あるかくては時局(じきよく)に対(たい)して最(もつと)も下策(げさく)であると云(い)ふので伝奏(でんそう)から所司代(しよしだい)を経(へ)直(たゞ)ちに水藩(すゐはん)に降命(かうめい)せらるゝ
ように希望(きばう)したのであるかゝる事で暫(しばら)く此(この)問題(もんだい)も進行(しんかう)しなかつたのが其(その)十一月に至(いた)つて彼(か)の戊午(ぼご)の連類(れんるい)
として水戸(みと)君臣(くんしん)の処置(しよち)も定(さだ)まつた後(のち)幕府(ばくふ)は更(さら)に奏請(そうせう)する処(ところ)があつて結局(けつきよく)伝奏(でんそう)から所司代(しよしだい)に対(たい)し幕府(ばくふ)を
経(へ)て別勅(べつちよく)を返還(へんくわん)すべきよう水戸藩(みとはん)に伝(つた)へしめらるゝ事になつたのであるソコで十二月十五日 井伊大老(ゐいたいらう)
は向(むか)ふ三日を期(き)して勅書(ちよくしよ)を返還(へんかん)すべき旨(むね)を水戸慶篤(みとよしあつ)に告(つ)ぐるに至(いた)つたが之(これ)が実(じつ)に大変事(だいへんじ)の近因(きんゐん)ともな
すべきもので爾来(じらい)水戸藩(みとはん)と幕府(ばくふ)との間(あひだ)並(ならび)に水戸藩中(みとはんちう)に於(お)ける混雑(こんざつ)を継続(けいぞく)したのであつたが新進気鋭(しん〳〵きえう)の
一 派(ぱ)当時(たうじ)天狗連(てんぐれん)と云(い)はれたる中(なか)の青年(せいねん)等(ら)は遂(つひ)に死(し)を以(もつ)ても勅書(ちよくしよ)を守(まも)らむとする決心(けつしん)を示(しめ)すに至(いた)つたの
であるソコで事は益(ます〳〵)面倒(めんだう)になつて水戸藩内(みとはんない)の紛乱(ふんらん)は其(その)極(きよく)に達(たつ)したと云(い)つてもよい程(ほど)であつたが勅書(ちよくしよ)
は容易(ようい)に返上(へんぜう)の手続(てつゞき)が出来(でき)ないサウコウする内(うち)に彼(か)の桜田(さくらだ)の変(へん)は突発(とつぱつ)したのである即(すなは)ち諸君(しよくん)はすで(すで)に能(よ)
く御承知(ごせうち)である如(ごと)く此(この)時(とき)水戸藩主(みとはんしゆ)を脱(だつ)せる佐野竹之助(さのたけのすけ)等(ら)十七 人(にん)と之(これ)に薩藩(さつはん)の脱走者(だつさうしや)有村治左衛門(ありむらぢさゑもん)が加(くは)
はつて都合(つごふ)十八 人(にん)の士(し)は万延(まんえん)元年(がんねん)(安政(あんせい)は六 年迄(ねんまで)にて万延(まんえん)と改元(かいげん)さる)三月三日 井伊大老(ゐいたいらう)が登城(とじよう)を途(みち)
《割書:桜田門外の|変》 に要(えう)して之(これ)を暗殺(あんさつ)したのである此(この)事(こと)に就(つい)ては御話(おはなし)すべきことも色々(いろ〳〵)あるではあるが今(いま)必要(ひつえう)がないから之(これ)
【欄外】
豊橋市史談 (桜田門外の変) 五百十三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(桜田門外の変) 五百十二
【本文】
桜田門外の変
まだ吉田藩の事情については御話ししたい事が沢山にあるのであるが、とにかくまずその時代の大勢というものを概説してそれから次第に細かいところに入る考えであるから、前章の話はこここらに止めて話をずっと前のところに戻し、当時の大局について話を継続したく思うのである。
さて前に申し述べたような次第で、戊午の大獄において、いわゆる志士の主なるものは処断され、攘夷猶予の詔勅があって、結局朝廷においても幕府が条約に調印した事情は諒解されたこととなって一時落着した訳であるが、ここに一つ残った問題は、かの八月八日水戸に下された別勅の一件である。すなわち水藩に対して下された勅旨は勿論国事憂慮の聖旨に出でられた事とは奉察するが、そのために幕府の権威を損じ、かつまた大政を幕府に委任されてある主旨にも違い、将来に向かい実に打ち捨てておき難い重大事である。ことにこの別勅というものは微賤のものの手によって直ちに水戸藩に届き、水戸藩においてもこれを幕府に差し出すことをなさず、私かに光栄なりとして御受をしたのは容易ならざる事で、これをこのままに放任すれば国家惑乱の源となるのは当然である。従ってこの勅書は水戸藩から幕府へ差し出させるのが当然であるというのが最初における幕府の意見であったものと思われるのである。勿論水戸慶篤においても初めはその意であったのであるが、御承知の如く水戸藩中一派の士はこれを肯んぜず、極力勅書を擁護せんとする決心を示したので、慶篤の命令も遂に行われぬ事となり、幕府においても強いてこれを遂行せしめんとせばいかなる変事が出来るやら測られざるというところから、時機の到るを待ちて遷延していた次第であるが、いよいよ今度条約調印問題も一段落の形と成ったので、幕府においては遂に朝廷に奏して水戸をしてその勅書を奉還せ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百九十六号附録 (大正二年十月廿一日発行)
【本文】
しめるようになさしめんとしたのである。ところが朝廷においては一度降し賜った勅書であるから、それを再び返還せしめるということは失体であるという説が盛んであったが、安政六年二月の頃に至り、とにかくいかようにもして水戸藩に返勅せしめる事には決した模様である。しかしその手続としては朝廷から京都所司代を経、更に幕府によりてその旨を水戸に伝へしめんとする旨であったように思われる。然るに幕府においてなるべく平穏の間にこの事を行いたいので、幕府がその中に入るとすれば必ず水戸藩において命を奉ぜざるものがあるのであろう。その場合に寛仮する訳に行かぬところから或いは流血の惨を見るに至るやも知れざるのである。かくては時局に対して最も下策であるというので、伝奏から所司代を経直ちに水藩に降命せらるるように希望したのである。かかる事で暫くこの問題も進行しなかったのが、その十一月に至って、かの戊午の連類として水戸君臣の処置も定まった後、幕府は更に奏請するところがあって、結局伝奏から所司代に対し、幕府を経て別勅を返還すべきよう水戸藩に伝へしめらるる事になったのである。そこで十二月十五日井伊大老は向こう三日を期して勅書を返還すべき旨を水戸慶篤に告ぐるに至ったが、これが実に大変事の近因ともなすべきもので、爾来水戸藩と幕府との間並びに水戸藩中における混雑を継続したのであったが、新進気鋭の一派、当時天狗連と言われた中の青年等は遂に死を以てても勅書を守らんとする決心を示すに至ったのである。そこで事は益々面倒になって、水戸藩内の紛乱はその極に達したと言ってもよい程であったが、勅書は容易に返上の手続が出来ない。そうこうする内にかの桜田の変は突発したのである。すなわち諸君はすでによく御承知である如く、この時水戸藩主を脱した佐野竹之助等十七人とこれに薩藩の脱走者有村治左衛門が加わって都合十八人の士は、万延元年(安政は六年までにて万延と改元される)三月三日井伊大老が登城の途に要してこれを暗殺したのである。この事については御話しすべきこともいろいろあるではあるが、今必要がないからこれ
【欄外】
豊橋市史談(桜田門外の変) 五百十三
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Incident Outside Sakurada Gate) 512
**Main Text:**
**The Incident Outside Sakurada Gate**
There are still many matters regarding the circumstances of Yoshida Domain that I would like to discuss, but in any case, I first intend to provide an overview of the general trends of that era and then gradually delve into the details. Therefore, I shall stop the previous chapter's discussion here and return the conversation to much earlier events, continuing the discussion about the overall situation of that time.
Now, as I previously explained, in the Bogo Persecution, the main so-called loyalist activists were punished, and with the imperial edict postponing the expulsion of foreigners, the court ultimately came to understand the circumstances under which the shogunate signed the treaties, bringing temporary resolution. However, one remaining problem was the matter of the special edict issued to Mito on August 8th. Indeed, while we can respectfully understand that the imperial message sent to Mito Domain arose from the emperor's sacred concern for national affairs, it damaged the shogunate's authority and also contradicted the principle of delegating political authority to the shogunate, making it a serious matter that could not be left unaddressed for the future. Particularly, this special edict was delivered directly to Mito Domain through lowly intermediaries, and Mito Domain, rather than presenting it to the shogunate, secretly accepted it as an honor—this was no ordinary matter. If this were left unchecked, it would naturally become a source of national confusion. Therefore, it seemed that the shogunate's initial opinion was that this imperial edict should naturally be submitted from Mito Domain to the shogunate. Of course, Mito Yoshiatsu initially had the same intention, but as you know, one faction within Mito Domain refused to consent and showed determination to protect the imperial edict with all their might. Consequently, Yoshiatsu's orders could not be carried out, and the shogunate, recognizing that forcing compliance might lead to unpredictable incidents, waited for the right moment and delayed action. However, when the treaty signing issue finally reached a resolution, the shogunate ultimately petitioned the court to have Mito return the imperial edict.
**Margin:**
Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership, 48 Kon'ya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Supplement to Sanyo Newspaper No. 4,496 (Published October 21, Taisho 2 [1913])
**Main Text:**
However, at court there was a strong opinion that since this was an edict once graciously issued, having it returned again would be improper. But around February of Ansei 6 (1859), it was apparently decided to somehow have Mito Domain return the edict. However, the intended procedure seemed to be that the court would communicate this through the Kyoto Deputy (Shoshidai), and then the shogunate would convey this message to Mito. Yet the shogunate wanted to handle this matter as peacefully as possible, knowing that if the shogunate became involved, there would certainly be those in Mito Domain who would not obey orders. In such a case, since leniency would be impossible, bloodshed might result. This would be the worst policy for the current situation, so they hoped that the imperial messengers would issue commands directly to Mito Domain through the Deputy without shogunate involvement. Due to such circumstances, this problem made no progress for a while. But in November, after the treatment of Mito lord and retainers as associates of the Bogo incident was decided, the shogunate made further petitions, and ultimately it was arranged that the imperial messengers would communicate through the Deputy to have Mito Domain return the special edict via the shogunate. Thus, on December 15th, Senior Councilor Ii informed Mito Yoshiatsu that the imperial edict should be returned within three days. This became a direct cause of the great incident that followed, and from then on, confusion continued both between Mito Domain and the shogunate and within Mito Domain itself. The progressive and spirited faction, known at the time as the "Tengu group," including young men, finally showed determination to protect the imperial edict even unto death. Thus matters became increasingly complicated, and the turmoil within Mito Domain reached its peak. The imperial edict could not easily be returned through proper procedures. While this situation continued, the Sakurada Incident suddenly erupted. As you all well know, at this time seventeen men led by Sano Takenosuke, who had left Mito Domain, joined by Arimura Jisaemon, a deserter from Satsuma Domain—eighteen warriors in total—ambushed and assassinated Senior Councilor Ii on March 3rd of Man'en 1 (Ansei ended with the sixth year, then the era name changed to Man'en) as he was proceeding to the castle. There are various matters to discuss regarding this incident, but as they are not necessary now, I shall—
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Incident Outside Sakurada Gate) 513