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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 271

ページ: 271

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【欄外】    豊橋市史談  (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任)  五百十四 【本文】       丈(だけ)に止(とゞ)めて置(お)くが実(じつ)に時(とき)に取(と)つての一 大事件(だいじけん)で天下(てんか)の人心(じん〳〵)を驚動(けうどう)せしめたのである兎(と)に角(かく)幕府(ばくふ)に於(おい)て       は之(これ)が善後(ぜんご)の処置(しよち)に就(つい)て実(じつ)に苦心(くしん)したのは云(い)ふ迄(まで)もない事であるが先(ま)づ井伊(ゐい)の家臣(かしん)を説(と)いて掃部頭(かもんのかみ)の       死(し)を秘(ひ)せしめ且(か)つ衆士(しゆうし)の軽挙(けんきよ)なきように懇諭(こんゆ)する処(ところ)があつたのである而(しか)して佐野竹之助(さのたけのすけ)初(はじ)め之(これ)を襲撃(しうげき)       したる人々(ひと〳〵)は或(あるひ)は傷(きづ)の為(ため)に死(し)し又(また)は自殺(じさつ)し其他(そのた)は多(おほ)く自首(じしゆ)に及(およ)むだが之(これ)等(ら)は翌年(よくねん)の七月に悉(こと〴〵)く斬罪(ざんざい)に       処(しよ)せられたのである又(ま)た掃部頭(かもんのかみ)に対(たい)しては其(その)月(つき)の晦日(みそか)(万延(まんえん)元年(がんねん)三月)を以(もつ)て大老職(たいらうしよく)を免(めん)ずる旨(むね)を発(はつ)       表(ぺう)し之(これ)と同時(どうじ)に水戸慶篤(みとよしあつ)の登城(とじやう)を差止(さしと)めたのであるが其(その)翌日(よくじつ)即(すなは)ち閏(うるふ)三月 朔日(ついたち)には久世大和守廣周(くせやまとのかみひろかね)が老(らう)       中(ちう)再勤(さいきん)となり其(その)十二月 朔日(ついたち)に至(いた)つて此(この)人(ひと)が外国御用取扱(ぐわいこくごようとりあつかひ)を命(めい)ぜられたのである又(ま)た其(その)四月廿八日に       於(おい)て松平和泉守(まつだひらいづみのかみ)は老中(らうちう)免官(めんくわん)となつたのであるが当時(たうじ)閣老中(かくらうちう)の安藤対馬守信正(あんどうつしまのかみのぶまさ)(信睦(のぶむつ))は結局(けつきよく)掃部頭(かもんのかみ)に代(かは)       つて主(おも)に政治(せいぢ)の衝(せう)に当(あた)る事となつたのである然(しか)るに孰(いづ)れも掃部頭(かもんのかみ)に続(つゞ)くべき程(ほど)の辣腕家(らつわんか)とは云(い)へぬ 《割書:松平信古寺|社奉行に任|ず》  ので従(したがつ)て其(その)方針(はうしん)も頗(すこぶ)る緩和(くわんわ)なるに至(いた)つたのである又(ま)た此(この)吉田藩主(よしだはんしゆ)の松平伊豆守信古(まつだひらいづみのかみのぶひさ)は昨(さく)安政(あんせい)六 年(ねん)二月       十三日 寺社奉行(じしやぶぎよう)に任(にん)ぜられたる事をも此処(こゝ)に申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふ             ⦿井伊大老遭害後に於ける天下の大勢              並に信古の大坂城代就任 《割書:安藤対馬守|信正》  前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く井伊大老(ゐいたいらう)遭害(さうがい)の後(のち)を受(う)けて幕政(ばくせい)の衝(せう)に当(あた)つたのは安藤対馬守信正(あんどうつしまのかみのぶまさ)である此(この)人(ひと)は       頗(すこぶ)る材幹(ざいかん)もあり熱心(ねつしん)に其(その)職務(しよくむ)に従(したが)つたのであるが到底(たうてい)井伊大老(ゐいたいらう)の如(ごと)き辣腕家(らつわんか)ではなかつたのである殊(こと)       に何(なに)を云(い)ふにも前(ぜん)申述(まをしの)ぶる如(ごと)く当時(たうじ)天下(てんか)の勢(いきほひ)は恰(あたか)も鼎(かなえ)の沸(わ)くが如(ごと)くで井伊大老(ゐいたいらう)の辣腕(らつわん)は一 時(じ)高圧手段(かうあつしゆだん)       によりて之(これ)を圧倒(あつたう)せむとしたのであるがそれさへ此処(こゝ)に仆(たほ)れたる以上(いぜう)は到底(たうてい)其(その)後(あと)を継(つ)いで前(ぜん)の方針(はうしん)を 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       飽(あく)までも遂行(ついかう)する迄(まで)の辣腕家(らつわんか)のあるべきよしもなく対馬守(つしまのかみ)と雖(いへど)も次第(しだい)に緩和(くわんわ)の手段(しゆだん)を取(と)るに至(いた)つたの       である然(しか)るに其(その)万延(まんえん)元年(がんねん)の五月に普魯西(ふろしあ)の使節(しせつ)が来(き)て新(あらた)に互市通商(ごしつうせう)を請(こ)ひ之(これ)と条約(でうやく)を締結(ていけつ)すると云(い)ふ       ような事があり殊(こと)に其(その)談判委員(だんぱんゐゐん)たる堀織部正(ほりをりべのせう)が自殺(じさつ)したと云(い)ふような事で事体(じたい)は益(ます〳〵)紛糾(ふんきう)したのであ       るが此(この)織部正(をりべのせう)の自殺(じさつ)は其(その)原因(げんゐん)が外交上(ぐわいかうぜう)の事ではなく或(あるひ)は病(やまひ)の為(ため)であつたと認(みと)めらるゝにも拘(かゝ)はらず当(たう)       時(じ)は之(これ)等(ら)の事も一の原因(げんゐん)となつて思(おも)ひも掛(か)けず安藤閣老(あんどうかくらう)は志士(しゝ)の憎悪(ぞうを)を受(う)くるような事になつたのであ       るそれのみならず其頃(そのころ)志士(しゝ)の横行(わうかう)と云(い)ふものは益(ます〳〵)烈(はげ)しくなり屡(しば〳〵)外国人(ぐわいこくじん)を襲撃(しふげき)したのであるが其(その)事(こと)       がある毎(ごと)に幕府(ばくふ)は困難(こんなん)なる談判(だんぱん)を外人(ぐわいじん)から持込(もちこ)まれて其(その)苦(くるし)むだ事は容易(ようい)でなかつたのである其他(そのた)差当(さしあた)       つて幾多(いくた)の外交問題(ぐわいかうもんだい)が横(よこた)はつて居(を)つたので何(なん)とかして之(これ)を切(き)り抜(ぬ)くるには公武(こうぶ)一 和(わ)の方法(はう〳〵)を求(もと)むるよ       り外(ほか)にはないと云(い)ふので安藤閣老(あんどうかくらう)は所謂(いはゆる)公武合体(こうぶがつたい)を策(さく)する必要(ひつえう)から遂(つひ)に皇妹(くわうまい)和宮親子内親王(かづのみやちかこないしんわう)を将軍(せうぐん)家(いへ) 和宮の降嫁 茂(しげ)の処(ところ)へ降嫁(かうか)に相成(あひな)るよう奏請(さうせい)するに至(いた)つたのである元来(がんらい)和宮降嫁奏請(かづのみやかうかさうせい)の事は井伊大老(ゐいたいらう)の時(とき)既(すで)に計画(けいくわく)       せられた事であると聞(き)き及(およ)むで居(を)るがそれには御承知(ごせうち)の如(ごと)く少(すこ)しく内情(ないぜう)もあられたので安藤閣老(あんどうかくらう)等(ら)の       内奏(ないさう)に対(たい)しては万延(まんえん)元年(がんねん)の五月一たび却下(きやくか)せられたのであるトコロが幕府(ばくふ)に於(おい)ては之(これ)に断念(だんねん)せず其後(そののち)       も亦(ま)た熱烈(ねつれつ)に其(その)允許(ゐんきよ)を懇請(こんせう)した為(ため)に六月廿日になつて遂(つひ)に其(その)請(こひ)を勅允(ちよくゐん)せらるゝに至(いた)つたのである然(しか)る       に此(この)事(こと)が程(ほど)なく外(そと)に漏(も)るゝや堂上方(どうぜうがた)に於(おい)ても多少(たせう)の動揺(どうえう)があつたが所謂(いはゆる)志士(しゝ)の間(あひだ)には寧(むし)ろ幕府(ばくふ)を以(もつ)て       皇妹(くわさまい)を強奪(こうだつ)し奉(たてま)つたものとなして其(その)激昂(げきこう)は甚(はなはだ)しきものがあつたのである従(したが)つて安藤閣老(あんどうかくらう)の評判(へうばん)と云(い)ふ       もの益(ます〳〵)志士(しゝ)の間(あひだ)に悪(あ)しく漸(やうや)く其(その)怨(うらみ)を一 身(しん)に集(あつ)むるに至(いた)つたのである       其後(そののち)和宮(かづのみや)は文久(ぶんきう)元年(がんねん)(万延(まんえん)は僅(わづか)に一 年(ねん)のみにして文久(ぶんき)と改元(かいげん)あり)十月廿日に至(いた)つて京都(けうと)を発(はつ)せられ       中仙道(なかせんどう)を経(へ)て御東下(ごとうか)あり翌(よく)二 年(ねん)二月十一日を以(もつ)て愈(いよ〳〵)目出度(めでたく)将軍(せうぐん)家茂(いへしげ)と御婚礼(ごこんれい)の式(しき)を挙(あ)げさせられた 【欄外】    豊橋市史談  (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任)  五百十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百十四 【本文】 だけに留めて置くが、実に時勢にとっての一大事件で天下の人心を驚動させたのである。とにかく幕府においてはこれが善後の処置について実に苦心したのは言うまでもない事であるが、まず井伊の家臣を説いて掃部頭の死を秘密にさせ、かつ衆士の軽挙がないように懇切に諭すところがあったのである。そして佐野竹之助をはじめこれを襲撃した人々は、あるいは傷のために死に、また自殺し、その他は多く自首に及んだが、これらは翌年の七月に悉く斬罪に処せられたのである。また掃部頭に対してはその月の末日(万延元年三月)をもって大老職を免ずる旨を発表し、これと同時に水戸慶篤の登城を差し止めたのであるが、その翌日すなわち閏三月朔日には久世大和守広周が老中再勤となり、その十二月朔日に至ってこの人が外国御用取扱を命ぜられたのである。またその四月二十八日において松平和泉守は老中免官となったのであるが、当時閣老中の安藤対馬守信正(信睦)は結局掃部頭に代わって主に政治の衝に当たることとなったのである。然るにいずれも掃部頭に続くべきほどの辣腕家とは言えないので、従ってその方針も頗る緩和なるに至ったのである。またこの吉田藩主の松平伊豆守信古は昨安政六年二月十三日寺社奉行に任ぜられた事をもここに申し述べて置きたいと思う。       井伊大老遭害後における天下の大勢       並びに信古の大坂城代就任 前章に申し述べた如く、井伊大老遭害の後を受けて幕政の衝に当たったのは安藤対馬守信正である。この人は頗る材幹もあり熱心にその職務に従ったのであるが、到底井伊大老の如き辣腕家ではなかったのである。ことに何を言うにも前申し述ぶる如く、当時天下の勢いはあたかも鼎の沸くが如くで、井伊大老の辣腕は一時高圧手段によりてこれを圧倒せんとしたのであるが、それさえここに倒れた以上は、到底その後を継いで前の方針を 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し[以下判読困難] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 飽くまでも遂行するまでの辣腕家のあるべきよしもなく、対馬守と雖も次第に緩和の手段を取るに至ったのである。然るにその万延元年の五月にプロシアの使節が来て新たに互市通商を請い、これと条約を締結するというような事があり、ことにその談判委員たる堀織部正が自殺したというような事で事体は益々紛糾したのであるが、この織部正の自殺はその原因が外交上の事ではなく、あるいは病のためであったと認められるにもかかわらず、当時はこれらの事も一つの原因となって思いも掛けず安藤閣老は志士の憎悪を受けるような事になったのである。それのみならず、その頃志士の横行というものは益々激しくなり、しばしば外国人を襲撃したのであるが、その事がある毎に幕府は困難なる談判を外人から持ち込まれて、その苦しむこと容易でなかったのである。その他差し当たって幾多の外交問題が横たわっていたので、何とかしてこれを切り抜けるには公武一和の方法を求めるより外にはないというので、安藤閣老はいわゆる公武合体を策する必要から、遂に皇妹和宮親子内親王を将軍家茂のところへ降嫁になるよう奏請するに至ったのである。元来和宮降嫁奏請の事は井伊大老の時既に計画された事であると聞き及んでいるが、それには御承知の如く少しく内情もあったので、安藤閣老らの内奏に対しては万延元年の五月一たび却下されたのである。ところが幕府においてはこれに断念せず、その後もまた熱烈にその允許を懇請したために、六月二十日になって遂にその請いを勅允されるに至ったのである。然るにこの事がほどなく外に漏れるや、堂上方においても多少の動揺があったが、いわゆる志士の間にはむしろ幕府をもって皇妹を強奪し奉ったものとなして、その激昂は甚だしきものがあったのである。従って安藤閣老の評判というものは益々志士の間に悪しく、漸くその怨みを一身に集めるに至ったのである。 その後和宮は文久元年(万延はわずかに一年のみにして文久と改元あり)十月二十日に至って京都を発せられ、中山道を経て御東下あり、翌二年二月十一日をもっていよいよ目出度く将軍家茂と御婚礼の式を挙げさせられた。 【欄外】 豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 514 **Main Text:** I shall stop at just this, but it was truly a major incident for the times that shocked the hearts of people throughout the realm. In any case, it goes without saying that the shogunate greatly struggled with how to handle the aftermath, but first they persuaded Ii's retainers to keep the death of the Kamon-no-kami secret and earnestly advised the samurai against any rash actions. As for Sano Takenosuke and the others who carried out the attack, some died from their wounds, others committed suicide, and most of the rest turned themselves in, but all of these were sentenced to death by beheading in July of the following year. Regarding the Kamon-no-kami, they announced his dismissal from the position of Senior Councilor at the end of that month (March, Man'en 1), and simultaneously banned Mito Yoshiatsu from attending the castle. However, the next day, namely the first day of intercalary March, Kuze Yamato-no-kami Hirokane resumed his position as Senior Councilor, and by the first day of that December, this person was ordered to handle foreign affairs. Also, on April 28th, Matsudaira Izumi-no-kami was dismissed from his position as Senior Councilor, but at that time, among the cabinet ministers, Ando Tsushima-no-kami Nobumasa (Nobutomo) ultimately came to take charge of the main thrust of politics in place of the Kamon-no-kami. However, none could be called strong-armed politicians capable of following in the Kamon-no-kami's footsteps, so consequently their policies became quite moderate. I would also like to mention here that Matsudaira Izumi-no-kami Nobutaka, lord of Yoshida Domain, was appointed as Commissioner of Temples and Shrines on February 13th of last Ansei 6. **The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper** As stated in the previous chapter, it was Ando Tsushima-no-kami Nobumasa who took charge of shogunal administration after Senior Councilor Ii's assassination. This person had considerable talent and worked earnestly at his duties, but he was by no means as strong-armed a politician as Senior Councilor Ii. Particularly, as I mentioned before, the situation throughout the realm at that time was like a boiling cauldron, and Senior Councilor Ii's strong-arm tactics attempted to overwhelm this through high-pressure methods for a time, but since even he had fallen, there was no one capable of continuing the previous policies to their conclusion. **Margin:** Mayor Oguchi Kiroku of Toyohashi City, with his extensive knowledge and inexhaustible energy devoted to compiling the history of Toyohashi City for over a year, now as the manuscript nears completion... [text unclear] **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper. **Main Text:** There was no strong-armed politician capable of thoroughly carrying out the previous policies, and even the Tsushima-no-kami gradually came to adopt moderate measures. However, in May of that Man'en 1, a Prussian envoy came requesting new commercial relations and concluding a treaty, and particularly the fact that the negotiation commissioner Hori Oribe-no-sho committed suicide made matters increasingly complicated. Although this Oribe-no-sho's suicide was recognized as being caused not by diplomatic matters but perhaps by illness, at the time these events became one cause leading unexpectedly to Senior Councilor Ando receiving the hatred of loyalist activists. Moreover, the rampages of loyalist activists became increasingly violent around that time, frequently attacking foreigners, and each time this happened, the shogunate was confronted with difficult negotiations by foreigners, causing no small suffering. With many other diplomatic problems immediately at hand, the only way to overcome these difficulties was to seek methods of court-shogunate unity, so Senior Councilor Ando, needing to implement so-called court-shogunate cooperation, finally petitioned for the marriage of Imperial Princess Kazunomiya Chikako, the emperor's sister, to Shogun Iemochi. Originally, I understand that the petition for Princess Kazunomiya's marriage was already planned during Senior Councilor Ii's time, but as you know, there were some internal circumstances involved, so Senior Councilor Ando's secret petition was once rejected in May of Man'en 1. However, the shogunate did not give up and continued to earnestly request permission thereafter, so on June 20th they finally received imperial approval. But when this matter soon leaked out, there was some unrest even among the court nobles, but among the so-called loyalist activists there was rather severe indignation, viewing the shogunate as having forcibly seized the imperial sister, and their anger was extreme. Consequently, Senior Councilor Ando's reputation became increasingly bad among the loyalist activists, and he gradually came to bear the full brunt of their resentment. Thereafter, Princess Kazunomiya departed Kyoto on October 20th of Bunkyū 1 (Man'en lasted only one year before the era name changed to Bunkyū), traveled eastward via the Nakasendō route, and on February 11th of the following second year, the joyous wedding ceremony with Shogun Iemochi was finally held. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 515