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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 272

ページ: 272

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【欄外】    豊橋市史談  (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任)  五百十六 【本文】       のであるが最初(さいしよ)に安藤閣老(あんどうかくらう)等(ら)の抱(いだ)いて居(を)つた希望(きぼう)と云(い)ふものは全(まつた)く水泡(すゐほう)に帰(き)して公武間(こうぶかん)の円満(ゑんまん)は遂(つひ)に       之(これ)によりて調和(てうわ)を見(み)ることが出来(でき)なかつたのである初(はじ)め朝廷(てうてい)に於(お)かせられては和宮降嫁(かづのみやかうか)を勅允(ちよくゐん)になると       同時(どうじ)に幕府(ばくふ)に対(たい)して此(かく)の如(ごと)く公武(こうぶ)一 和(わ)を図(はか)る上(うへ)は外夷(ぐわいゐ)を掃攘(さうぜう)すべしと云(い)ふ御注文(ごちうもん)があつたのであるが       幕府(ばくふ)は又(ま)た之(これ)に対(たい)して何分(なにぶん)内(うち)が整(とゝの)はなければ外征(ぐわいせい)も仕難(しがた)き訳(わけ)であるから片時(かたとき)も早(はや)く公武合体(こうぶがつたい)一 和(わ)の旨(むね)       を天下(てんか)に表(あら)はし国内(こくない)人心(じんしん)の一 致(ち)を致(いた)させた上(うへ)で偏(ひとへ)に外夷(ぐわいゐ)防禦(ばうぎよ)に二 念(ねん)なく志(こゝろざ)し攘夷(ぜうゐ)の計策(けいさく)をも運(めぐ)らさ       せ度(たし)との儀(ぎ)にて此度(このたび)の御縁談(ごゑんだん)は誠(まこと)にの大幸(たいかう)に存(ぞん)ずるとの意(い)を申上(まをしあ)げたのである之(これ)で此(この)縁談(ゑんだん)は無事(ぶじ)に整(とゝの)つ       たのであるが当時(たうじ)幕府(ばくふ)に於(おい)ては偏(ひとへ)此(この)縁談(ゑんだん)を成功(せいこう)せしむるの念慮(ねんりよ)に急(いそい)であつたが為(ため)に云(い)はば心(こゝろ)にもな       い攘夷(ぜうゐ)の奉答(ほうたう)を申上(まをしあ)げたのである之(これ)も幸(さいはひ)に公武(こうぶ)の一 和(わ)さへ出来(でき)れば其後(そのご)は何(なん)とでも始末(しまつ)の付(つ)けようが       あるであろうと云(い)ふ軽信(けいしん)から起(おこ)つた事であるが其(その)考(かんがへ)は全(まつた)く事実(じじつ)に於(おい)て反対(はんたい)の結果(けつくわ)を現(あら)はしたので結(けつ)       局(きよく)自縄自縛(じじようじばく)の姿(すがた)に陥(おちゐ)つたのは是非(ぜひ)もない次第(しだい)であつたのである即(すなは)ちかゝる事が却(かへつ)て一 層(そう)攘夷熱(ぜうゐねつ)を盛(さかん)な       らしめた訳(わけ)で益(ます〳〵)尊攘党(そんぜうたう)の気焔(きえん)を高(たか)めしめた次第(しだい)であるが兎(と)に角(かく)前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く井伊大老(ゐいたいらう)は善(よ)       かれ悪(あし)かれ果断(くわだん)の性(せい)を以(もつ)て其(その)位置(ゐち)と所信(しよしん)とを恃(たの)み徳川(とくがは)二百 余年来(よねんらい)の積威(せきゐ)を挟(さしはさ)むで厳然(げんぜん)として天下(てんか)に望(のぞ)       むだ感(かん)があつたので一 時(じ)は鎮圧(ちんあつ)の政策(せいさく)が見事(みごと)に功(こう)を奏(さう)せむとしたのであつたが之(これ)が中途(ちうと)にして挫折(ざせつ)す       るの運命(うんめい)に遭遇(さうぐう)した上(うへ)は其(その)資望(しばう)に於(おい)ても勢力(せいりよく)に於(おい)ても又(ま)た自身(じしん)の上(うへ)からも井伊(ゐい)に及(およ)ぶべき後継者(こうけいしや)はな       いのであるかゝる場合(ばあひ)に漫(みだ)りに志士(しゝ)を激昂(げきこう)せしむるが如(ごと)きは寧(むし)ろ不得策(ふとくさく)であると云(い)ふ考(かんがへ)から其後(そのご)の       幕閣(ばくかく)は只管(ひたすら)平和(へいわ)の政策(せいさく)を取(と)らむとしたのである然(しか)るに此(かく)の如(ごと)き場合(ばあひ)には之(これ)が決(けつ)して成功(せいこう)すべき政策(せいさく)で       はないので却(かへつ)て幕府(ばくふ)は威権(ゐけん)を失墜(しつつゐ)し政権(せいけん)の中心(ちうしん)は次第(しだい)に京都(けうと)に移転(いてん)するような形勢(けいせい)と相成(あひな)つたのであ 《割書:水戸斉昭の|薨去》  るが此処(こゝ)に又(ま)た一つの変動(へんどう)とも云(い)ふべきのは水戸斉昭(みとなりあき)の薨去(こうきよ)である斉昭(なりあき)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く之迄(これまで)一 方(ぱう)の旗(はた) 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百二号附録     (大正二年十月廿八日発行) 【本文】      頭(がしら)で云(い)はば幕府(ばくふ)の一 敵国(てきこく)として天下(てんか)の重望(ぢうばう)を負(を)つて居(を)つたのであるが之(これ)が井伊大老(ゐいたいらう)の遭害(さうがい)に後(おく)るゝ事(こと)       約(やく)半年(はんとし)即(すなは)ち万延(まんえん)元年(がんねん)の八月十五日を以(もつ)て病(やまひ)の為(ため)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたのである元来(がんらい)斉昭(なりあき)が天下(てんか)に重(おも)きをな       した所以(ゆゑん)は其(その)下(しも)に戸田忠太夫(とだちうだいふ)、藤田東湖(ふぢたとうこ)などと云(い)ふ俊傑(しゆんけつ)の士(し)があつて之(これ)を補翼(ほよく)したので大(おほい)に与(あづか)つて力(ちから)       ありし事(こと)であるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く安政(あんせい)二 年(ねん)の大地震(おほぢしん)に揃(そろ)ひも揃(そろ)つて此(この)戸田(とだ)、藤田(ふぢた)の二 人(にん)が暴死(ばうし)したので       爾来(じらい)水戸藩(みとはん)は其(その)挙動(きよどう)が甚(はなは)だ統(とう)一を欠(か)き動(やゝ)もすれば疎暴(そばう)の嫌(きらひ)があつたので次第(しだい)に識者(しきしや)からは同情(どうぜう)を欠(か)く       ようになつたのである併(しか)しながらまだ〳〵斉昭(なりあき)存生中(ぞんせいちう)は如何(いか)ようにも天下(てんか)に重(おも)きを以(もつ)て任(にん)じて居(を)つた       のであるが今度(このたび)其(その)薨去(こうきよ)に就(つい)ては一 藩(ぱん)は忽(たちま)ち統率者(とうそつしや)を失(うしな)ひて徒(いたづ)らに内部(ないぶ)の党争(とうさう)を之(こ)れ事(こと)とし紛糾(ふんきう)極(きはま)りな 《割書:薩長二藩漸|く勢力を張|る》  き処(ところ)から従(したが)つて興望(こうばう)の中心(ちうしん)を失(うしな)ひて全(まつた)く其(その)勢力(せいりよく)は失墜(しつつゐ)するに至(いた)つたのである此時(このとき)に当(あた)つて次第(しだい)に勢力(せいりよく)       を中央(ちうおう)に張(は)つて来(き)たのは彼(か)の長藩(てうはん)と薩藩(さつはん)で之(これ)が結局(けつきよく)政治(せいぢ)中心(ちうしん)をして漸(やうや)く京都(けうと)以西(いせい)に移(うつ)らしめむとする       一 大(だい)原因(げんゐん)と相成(あひな)つたのである       元来(がんらい)幕末(ばくまつ)から維新(ゐしん)にかけての事情(じぜう)を研究(けんきう)するには先(ま)づ薩長(さつてう)二 藩(はん)の内情(ないぜう)をも研究(けんきう)すべき必要(ひつえう)がある事と       思(おも)ふが如何(いかん)せむ此処(こゝ)にはそれ等(ら)の事(こと)までをも申述(まをしの)べて居(を)るべき余裕(よゆう)はないのであるから止(やむ)を得(ゑ)ず之(これ)は       略(りやく)するの外(ほか)はないと思(おも)ふが要(えう)するに万延(まんえん)元年(がんねん)から其(その)翌(よく)文久(ぶんきう)元年(がんねん)にかけては所謂(いはゆる)志士(しゝ)の横行(わうかう)は益(ます〳〵)甚(はなはだ)       しく東(ひがし)では水戸浪士(みとらうし)が中心(ちうしん)となつて常野(ぜうや)の間(あひだ)を騒(さは)がし西(にし)には薩長(さつてう)の志士(しゝ)が主(しゆ)となつて彼方(かなた)此方(こなた)に奔走(ほんそう)       し種々(しゆ〴〵)なる計画(けいくわく)をすると云(い)ふ訳(わけ)で之(これ)が又(ま)た江戸(えど)にも入(い)り込(こ)むで互(たがひ)に気脈(きみやく)を通(つう)じ或(あるひ)は外国(ぐわいこく)の使臣(ししん)を殺(ころ)し       或(あるひ)は公使館(こうしくわん)を襲撃(しふげき)し実(じつ)に其(その)騒擾(さうぜう)と云(い)ふものは底止(ていし)する処(ところ)を知(し)らざる有様(ありさま)であつたのである御承知(ごせうち)の大(おほ)       久保(くぼ)、木戸(きど)、西郷(さいごう)などと云(い)ふ後(のち)に維新(ゐしん)の三 傑(けつ)とも云(い)はるゝ人々(ひと〴〵)も此(この)頃(ころ)は矢張(やはり)志士(しゝ)の間(あひだ)を奔走(ほんそう)して頗(すこぶ)る       画策(くわくさく)する所(ところ)があつたものであるが此(かく)の如(ごと)き間(あひだ)に如何(いか)なる処(ところ)から起(おこ)つたものか安藤閣老(あんどうかくらう)は畏(おそ)れ多(おほ)くも廃(はい) 【欄外】    豊橋市史談  (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任)  五百十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百十六 【本文】 のであるが、最初に安藤閣老らが抱いていた希望というものは全く水泡に帰して、公武間の円満は遂にこれによって調和を見ることができなかったのである。初め朝廷においては和宮降嫁を勅許になると同時に幕府に対してこのように公武一和を図る上は外夷を掃攘すべしという御注文があったのであるが、幕府はまたこれに対して何分内が整わなければ外征も仕し難い訳であるから片時も早く公武合体一和の旨を天下に表し国内人心の一致を致させた上で専ら外夷防御に二念なく志し攘夷の計策をも巡らせたしとの儀にて、この度の御縁談は誠に大幸に存ずるとの意を申し上げたのである。これでこの縁談は無事に整ったのであるが、当時幕府においては専らこの縁談を成功させる念慮に急であったがために言わば心にもない攘夷の奉答を申し上げたのである。これも幸いに公武の一和さえできればその後は何とでも始末の付けようがあるであろうという軽信から起こった事であるが、その考えは全く事実において反対の結果を現したので結局自縄自縛の姿に陥ったのは止むを得ない次第であったのである。すなわちかかる事が却って一層攘夷熱を盛んならしめた訳で益々尊攘党の気炎を高めさせた次第であるが、とにかく前にも申し述べた如く井伊大老は善かれ悪かれ果断の性をもってその地位と所信とを頼み徳川二百余年来の積威を挟んで厳然として天下に臨んだ感があったので一時は鎮圧の政策が見事に功を奏さんとしたのであったが、これが中途にして挫折する運命に遭遇した上はその資望においても勢力においてもまた自身の上からも井伊に及ぶべき後継者はないのである。かかる場合に妄りに志士を激昂させるが如きは寧ろ不得策であるという考えからその後の幕閣は只管平和の政策を取らんとしたのである。然るにこのような場合にはこれが決して成功すべき政策ではないので却って幕府は威権を失墜し政権の中心は次第に京都に移転するような形勢となったのであるが、ここにまた一つの変動とも言うべきのは水戸斉昭の薨去である。斉昭は御承知の如くこれまで一方の旗 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百二号附録(大正二年十月二十八日発行) 【本文】 頭で言わば幕府の一敵国として天下の重望を負っていたのであるが、これが井伊大老の遭害に後れること約半年すなわち万延元年の八月十五日をもって病のために薨去となったのである。元来斉昭が天下に重きをなした所以はその下に戸田忠太夫、藤田東湖などという俊傑の士があってこれを補翼したので大いに与って力ありし事であるが、御承知の如く安政二年の大地震に揃いも揃ってこの戸田、藤田の二人が暴死したので爾来水戸藩はその挙動が甚だ統一を欠きややもすれば疎暴の嫌いがあったので次第に識者からは同情を欠くようになったのである。しかしながらまだまだ斉昭存生中はいかようにも天下に重きをもって任じていたのであるが今度その薨去については一藩は忽ち統率者を失い徒らに内部の党争をこれ事とし紛糾極まりなき処から従って興望の中心を失い全くその勢力は失墜するに至ったのである。この時に当たって次第に勢力を中央に張って来たのは彼の長藩と薩藩でこれが結局政治中心をして漸く京都以西に移らしめんとする一大原因となったのである。 元来幕末から維新にかけての事情を研究するには先ず薩長二藩の内情をも研究すべき必要がある事と思うがいかんせんここにはそれらの事までをも申し述べているべき余裕はないのであるから止むを得ずこれは略するの外はないと思うが、要するに万延元年からその翌文久元年にかけては所謂志士の横行は益々甚だしく東では水戸浪士が中心となって常野の間を騒がし西には薩長の志士が主となって彼方此方に奔走し種々なる計画をするという訳でこれがまた江戸にも入り込んで互いに気脈を通じ或いは外国の使臣を殺し或いは公使館を襲撃し実にその騒擾というものは底止する処を知らざる有様であったのである。御承知の大久保、木戸、西郷などという後に維新の三傑とも言われる人々もこの頃は矢張志士の間を奔走して頗る画策する所があったものであるがこのような間にいかなる処から起こったものか安藤閣老は畏れ多くも廃 【欄外】 豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 516 **Main Text:** However, the hopes that Senior Councilor Ando and others had initially harbored came to nothing, and harmony between court and shogunate could ultimately not be achieved through this marriage. Initially, when the court granted imperial permission for Princess Kazunomiya's marriage, there was simultaneously an imperial order to the shogunate that if they were to pursue court-shogunate unity in this manner, they must expel the foreign barbarians. The shogunate responded that since external campaigns would be difficult without internal order, they wished to quickly announce the intent of court-shogunate cooperation to the realm, achieve unity of the people's hearts, and then devote themselves wholeheartedly to defense against foreign barbarians and devise strategies for expulsion, considering this marriage proposal to be truly fortunate. This arranged the marriage successfully, but at that time the shogunate was so eager to make this marriage succeed that they gave what could be called an insincere response about expelling foreigners. This arose from the naive belief that once court-shogunate unity was achieved, they could somehow manage everything afterward, but their thinking produced completely opposite results in reality, inevitably leading them into a situation of being bound by their own actions. Such circumstances actually intensified anti-foreign fervor even more, increasingly heightening the ardor of the loyalist expulsion party. In any case, as I mentioned before, Senior Councilor Ii, for better or worse, relied on his decisive nature, his position and convictions, backed by the accumulated authority of the Tokugawa over more than two hundred years, and seemed to face the realm with stern authority, so for a time his suppression policies appeared to work magnificently. But when this met the fate of being frustrated midway, there was no successor who could match Ii in prestige, power, or personal capacity. In such circumstances, needlessly provoking the loyalist activists would be rather counterproductive, so the subsequent shogunal cabinet tried to adopt exclusively peaceful policies. However, in such situations this was by no means a policy that could succeed, and instead the shogunate lost its authority and the center of political power gradually shifted toward Kyoto. Here another change that should be mentioned is the death of Mito Nariaki. As you know, Nariaki had been a leader of one faction, **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4502 Supplement (Published October 28, Taisho 2) **Main Text:** bearing the great expectations of the realm as what could be called an enemy state of the shogunate. But he died of illness on August 15th of Man'en 1, about six months after Senior Councilor Ii's assassination. Originally, the reason Nariaki carried such weight in the realm was that he had exceptional men like Toda Chudayu and Fujita Toko under him who assisted him, which contributed greatly to his influence. But as you know, these two men, Toda and Fujita, both died suddenly in the great earthquake of Ansei 2, and since then Mito Domain's actions lacked unity and tended toward rash violence, gradually losing the sympathy of informed people. However, while Nariaki was still alive, he continued to bear great responsibility in the realm. But with his death this time, the domain immediately lost its leader and became solely concerned with internal factional struggles, leading to extreme confusion and thus losing the center of their hopes and completely losing their influence. At this time, it was the Choshu and Satsuma domains that gradually extended their power to the center, and this ultimately became a major cause for the political center to gradually shift westward to Kyoto. Originally, to study the circumstances from the end of the shogunate through the Restoration, I think it would be necessary to first study the internal situations of the Satsuma and Choshu domains, but unfortunately there is no room here to discuss such matters, so I must reluctantly omit them. In summary, from Man'en 1 through the following Bunkyu 1, the so-called rampaging of loyalist activists became increasingly severe: in the east, Mito ronin were central in disturbing the Hitachi and Shimotsuke regions, while in the west, Satsuma and Choshu activists mainly rushed about here and there making various plans. These also infiltrated Edo, communicating with each other, sometimes killing foreign envoys or attacking legations, creating truly endless disturbances. The well-known figures like Okubo, Kido, and Saigo, who would later be called the three great men of the Restoration, were at this time also rushing about among the activists and scheming considerably. During such times, from what source it arose I know not, but Senior Councilor Ando most regrettably planned to depose... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 517