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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 273

ページ: 273

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【欄外】    豊橋市史談  (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任)  五百十八 【本文】 《割書:坂下門外の|変》  帝(てい)の考(かんがへ)があると云(い)ふ風説(ふうせつ)が伝(つた)はつたのである之(これ)等(ら)の事も亦(ま)た一の原因(げんゐん)となつて文久(ぶんきう)二 年(ねん)正月十五日 安(あん)       藤閣老(どうかくらう)は登城(とうじやう)の際(さい)坂下門外(さかしたもんぐわい)に於(おい)て浪士(らうし)の為(ため)に襲撃(しふげき)せらるゝに至(いた)つたのである然(しか)るに幸(さいはひ)にも腰(こし)に傷(きづ)を受(う)       けただけで身(み)を以(もつ)て免(まぬが)るゝ事が出来(でき)たのであるが併(しか)し此(かく)の如(ごと)き事があつた以上(いぜう)は色々(いろ〳〵)困難(こんなん)の事情(じぜう)が起(おこ)       つて安藤閣老(あんどうかくらう)も遂(つひ)に其(その)素志(そし)を達(たつ)する事(こと)能(あた)はずして程(ほど)なく罷免(ひめん)せらるゝに至(いた)り之(これ)と前後(ぜんご)して本多忠民(ほんだたゞたみ)、       水野忠精(みづのたゞよし)、板倉勝静(いたくらかつきよ)などが老中(らうちう)の列(れつ)に入(い)つたが内外(ないぐわい)の人心(じんしん)は益(ます〳〵)恟々(けう〳〵)として疑懼(ぎぐ)の念(ねん)を抱(いだ)き到底(たうてい)幕政(ばくせい)       を振張(しんてう)することなどは出来(でき)よう訳(わけ)もなく只(た)だ〳〵因循姑息(ゐんじゆんこそく)一 日(にち)を緩(ゆる)ふするに過(す)ぎない情況(ぜうけう)となつたので 《割書:勅使大原三|位並に島津|久光等の東|下》  ある此(こゝ)に於(おい)てか世(よ)は益(ます〳〵)尊攘党(そんぜうたう)の跋扈(ばつこ)となり京都(けうと)に於(おい)ては遂(つひ)に勅使(ちよくし)として大原三位(おほはらさんみ)の東下(とうか)を計画(けいくわく)せら       るゝに至(いた)つたのであるが勿論(もちろん)此(この)事情(じけん)に就(つい)ては御話(おはなし)すれば色々(いろ〳〵)の事があるのである併(しか)し其(その)大要(たいえう)のみを申(まをし)       述(の)ぶれば当時(たうじ)此(この)勅使(ちよくし)としては岩倉中将(いはくらちうぜう)を下(くだ)さるゝ議(ぎ)があつたのであるが之(これ)は京都(けうと)を去(さ)り難(がた)い事情(じぜう)があ       ると云(い)ふので剛直(がうちよく)第(だい)一の評(へう)のある大原三位重徳(おほはらさんみしげのり)が其(その)命(めい)を拝(はい)する事になつたのである其頃(そのころ)薩藩(さつはん)の島津(しまづ)三 郎(らう)       久光(ひさみつ)は当主(たうしゆ)忠義(たゞよし)が幼少(ようせう)であると云(い)ふので之(これ)に代(かは)つて東勤(とうきん)の許可(きよか)を経(へ)文久(ぶんきう)二 年(ねん)四月を以(もつ)て其(その)途中(とちう)京都(けうと)に       入(い)つたのであるが近衛家(このゑけ)を初(はじ)め京紳(けうしん)の間(あひだ)に遊説(ゆうぜい)斡旋(あつせん)する処(ところ)があり勅命(ちよくめい)を得(え)て過激(くわげき)の志士(しゝ)を伏見(ふしみ)で鎮制(ちんせい)       した事がある之(これ)が即(すなは)ち彼(か)の有名(いうめい)なる寺田屋事件(てらだやじけん)であるがかゝる場合(ばあひ)に朝廷(てうてい)では時(とき)の閣老(かくらう)久世大和守(くぜやまとのかみ)に       上京(ぜうけう)を命(めい)ぜられたのである然(しか)るに大和守(やまとのかみ)に於(おい)ては此(この)上京(ぜうけう)は大(おほい)に危(あやぶ)まれる処(ところ)があるので辞(じ)を左右(さゆう)に托(たく)し       て上京(ぜうけう)を遷延(せんえん)したのであるから然(しか)らば此方(こちら)より勅使(ちよくし)を下(くだ)すべしと云(い)ふので勅使(ちよくし)東下(とうか)の事は計画(けいくわく)せらる       ゝに至(いた)つたのであるソコで在京中(ざいけうちう)の島津久光(しまづひさみつ)は之(これ)が副使(ふくし)となつて東下(とうか)する事に定(さだ)まつたのであるが幕(ばく)       府(ふ)に於(おい)ては此(この)様子(やうす)を知(し)つて先(さき)の朝命(てうめい)に従(したが)ひ先(ま)づ慶喜(よしひさ)、慶永(よしなが)等(ら)の大赦(たいしや)を行(おこな)ひ五月七日には三 侯(こう)孰(いづ)れも       登営(とえい)して将軍(せうぐん)に謁(えつ)し慶永(よしなが)は爾来(じらい)時々(とき〴〵)登城(とじやう)して政治(せいぢ)の相談(さうだん)に与(あづか)るべきことを命(めい)ぜられたのである而(しか)して久(く) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       世閣老(ぜかくらう)は六月二日 病(やまひ)を以(もつ)て其(その)職(しよく)を免(めん)ぜられたが大原(おほはら)勅使(ちよくし)の一 行(かう)は愈(いよ〳〵)其(その)月(つき)の七日を以(もつ)て着府(ちやくふ)し十日に       登城(とうじやう)があつて親(した)しく将軍(せうぐん)に対顔(たいがん)の上(うへ)勅旨(ちよくし)を伝達(でんたつ)せられたのである其(その)勅旨(ちよくし)と云(い)ふのは諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)       く短(みぢか)くないものであるが其中(そのなか)に有名(いうめい)なる三 事策(じさく)が述(の)べられて居(を)るのである第(だい)一は将軍(せうぐん)親(みずか)ら上洛(ぜうらく)して国(こく)       家(か)を治(おさ)め夷戎(ゐかい)を攘(はら)ひ上(かみ)祖神(そしん)の震怒(しんど)を慰(なぐさ)め下(しも)万民(ばんみん)化育(くわいく)の其(それ)を啓(ひら)くべしと云(い)ふ事で第(だい)二は沿海(えんかい)の大藩(たいはん)五 国(こく)       を五 大老(たいらう)と称(せう)し国政(こくせい)を諮決(しけつ)し海岸(かいがん)の武備(ぶび)を堅固(けんご)にし必(かなら)ず攘夷(ぜうい)の功(こう)を為(な)さしむべしとの意(い)である又(ま)た第(だい)       三は一橋慶喜(ひとつばしよしひさ)を以(もつ)て将軍(せうぐん)を補佐(ほさ)せしめ松平慶永(まつだひらよしなが)を大老職(たいらうしよく)に任(にん)ぜよと云(い)ふ意(い)であるモツトモ幕府(ばくふ)に於(おい)て       は既(すで)に将軍(せうぐん)上洛(ぜうらく)の事と慶喜(よしひさ)、慶永(よしなが)を用(もち)あると云(い)ふ事とは大要(たいえう)内決(ないけつ)して居(を)つたのであるから多少(たせう)の事情(じぜう)       はあつたにしても結局(けつきよく)奉勅(ほうちよく)と決(けつ)して七月一日 将軍(せうぐん)は勅使(ちよくし)に対顔(たいがん)し勅答書(ちよくたうしよ)を呈(てい)するに至(いた)つたのである       併(しか)しながら外部(ぐわいぶ)から之(これ)を見(み)ると今度(こんど)の事柄(ことがら)に就(つい)ては三 事策(じさく)共(とも)孰(いづ)れも幕府(ばくふ)の喜(よろこ)ばざる処(ところ)で何事(なにごと)も其(その)意(い)に       出(い)でたる事ではないが只(た)だ〳〵朝旨(てうし)に迫(せま)られ島津(しまづ)の力(ちから)に恐(おそ)れ拠(よんどころ)なく屈服(くつふく)したものであると云(い)ふよう       な形勢(けいせい)となつたのである且(か)つ此上(このうへ)将軍(せうぐん)が上洛(ぜうらく)するとした処(ところ)で所謂(いはゆる)国是(こくぜ)議定(ぎてい)の為(ため)ではなく攘夷(ぜうい)の方策(はうさく)を       議(ぎ)する為(ため)であると云(い)ふ事(こと)になるので幕府(ばくふ)に取(と)りては愈々(いよ〳〵)威厳(ゐげん)を失墜(しつつゐ)し兼(かね)て困難(こんなん)なる地位(ちゐ)に立(た)つに至(いた)つ 《割書:慶喜後見職|となり慶永|政事総裁と|なる》  た次第(しだい)である兎(と)に角(かく)大勢(たいせい)は慶喜(よしひさ)、慶永(よしなが)を促(うなが)して政局(せいきょく)に当(あた)らしむる事(こと)になつて七月六日 慶喜(よしひさ)は勅使(ちよくし)に謁(えつ)       し将軍(せうぐん)の後見職(こうけんしよく)を拝(はい)し慶永(よしなが)は又(ま)た其(その)月(つき)の九日 政事総裁(せいじそうさい)の職(しよく)に任(にん)ぜられたのである而(しか)して吉田藩主(よしだはんしゆ)信古(のぶひさ) 《割書:信古大坂城|代に任ず》  は此年(このとし)の六月 晦日(みそか)即(すなは)ち慶喜(よしひさ)等(ら)の政局(せいきょく)に当(あた)るのに先(さきだ)つ事(こと)僅(わづか)に壹ケ月 余(よ)と云(い)ふ場合(ばあひ)に松平伯耆守宗秀(まつだひらはうきのかみむねひで)に代(かは)       つて大坂城代(おほさかじやうだい)に任(にん)ぜられ四 品(ひん)に叙(ぢよ)せられたのであるが今度(こんど)東下(とうか)になつた大原三位(おほはらさんみ)は七月廿三日を以(もつ)て       更(さら)に慶喜(よしひさ)、慶永(よしなが)二 人(にん)を其(その)館(やかた)に招(まね)き且(か)つ島津久光(しまづひさみつ)も同席(どうせき)で数件(すうけん)の要求(えうきう)をせられたのである而(しか)も其中(そのなか)の第(だい)       三 要件(えうけん)として大坂城代(おほさかじやうだい)松平伊豆守(まつだひらいづのかみ)(信古)は間部下総守(まなべしもふさのかみ)の子(こ)であるから人心(じんしん)に適(てき)しないそれ故(ゆゑ)之(これ)を罷免(ひめん) 【欄外】    豊橋市史談  (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任)  五百十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百十八 【本文】 帝を廃する考えがあるという風説が伝わったのである。これらの事もまた一つの原因となって文久二年正月十五日、安藤閣老は登城の際坂下門外において浪士のために襲撃されるに至ったのである。然るに幸いにも腰に傷を受けただけで身をもって免れることができたのであるが、しかしこのような事があった以上は色々困難な事情が起こって安藤閣老も遂にその本志を達することができずして程なく罷免されるに至り、これと前後して本多忠民、水野忠精、板倉勝静などが老中の列に入ったが、内外の人心は益々恐々として疑い恐れる念を抱き到底幕政を振張することなどはできようわけもなく、ただただ因循姑息に一日を過ごすにすぎない情況となったのである。ここにおいて世は益々尊攘党の跋扈となり、京都においては遂に勅使として大原三位の東下を計画されるに至ったのであるが、もちろんこの事件については話せば色々な事があるのである。しかしその大要のみを申し述べれば、当時この勅使としては岩倉中将を下される議があったのであるが、これは京都を去り難い事情があるというので剛直第一の評のある大原三位重徳がその命を拝することになったのである。その頃薩摩藩の島津三郎久光は当主忠義が幼少であるというのでこれに代わって東勤の許可を経、文久二年四月をもってその途中京都に入ったのであるが、近衛家をはじめ京都の公卿の間に遊説斡旋するところがあり勅命を得て過激な志士を伏見で鎮制したことがある。これがすなわち彼の有名な寺田屋事件であるが、かかる場合に朝廷では時の閣老久世大和守に上京を命じられたのである。然るに大和守においてはこの上京は大いに危ぶまれるところがあるので辞を左右に託して上京を遷延したのであるから、然らばこちらより勅使を下すべしということで勅使東下の事は計画されるに至ったのである。そこで在京中の島津久光はこれが副使となって東下することに定まったのであるが、幕府においてはこの様子を知って先の朝命に従いまず慶喜、慶永等の大赦を行い、五月七日には三侯いずれも登城して将軍に謁し、慶永は爾来時々登城して政治の相談に与るべきことを命じられたのである。そして久 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博識なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 世閣老は六月二日病をもってその職を免じられたが、大原勅使の一行はいよいよその月の七日をもって着府し十日に登城があって親しく将軍に対面の上勅旨を伝達されたのである。その勅旨というのは諸君も御承知の如く短くないものであるが、その中に有名な三事策が述べられているのである。第一は将軍親ら上洛して国家を治め夷狄を攘い上は祖神の震怒を慰め下は万民化育の基を啓くべしということで、第二は沿海の大藩五国を五大老と称し国政を諮決し海岸の武備を堅固にし必ず攘夷の功を為さしむべしとの意である。また第三は一橋慶喜をもって将軍を補佐させ松平慶永を大老職に任ぜよという意である。もっとも幕府においては既に将軍上洛の事と慶喜、慶永を用いるということとは大要内決していたのであるから、多少の事情はあったにしても結局奉勅と決して七月一日将軍は勅使に対面し勅答書を呈するに至ったのである。しかしながら外部からこれを見ると今度の事柄については三事策共にいずれも幕府の喜ばざるところで、何事もその意に出でた事ではないが、ただただ朝旨に迫られ島津の力に恐れやむを得ず屈服したものであるというような形勢となったのである。かつこの上将軍が上洛するとしたところで所謂国是議定のためではなく攘夷の方策を議するためであるということになるので、幕府にとってはいよいよ威厳を失墜し兼ねて困難な地位に立つに至った次第である。とにかく大勢は慶喜、慶永を促して政局に当たらしめることになって、七月六日慶喜は勅使に謁し将軍の後見職を拝し、慶永はまたその月の九日政事総裁の職に任じられたのである。そして吉田藩主信古は、この年の六月晦日すなわち慶喜等が政局に当たるのに先立つこと僅かに一ヶ月余りという場合に松平伯耆守宗秀に代わって大坂城代に任じられ四品に叙せられたのであるが、今度東下になった大原三位は七月二十三日をもって更に慶喜、慶永二人をその館に招き、かつ島津久光も同席で数件の要求をされたのである。しかもその中の第三要件として大坂城代松平伊豆守(信古)は間部下総守の子であるから人心に適しない、それ故これを罷免 【欄外】 豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 518 **Main Text:** Rumors spread that [Senior Councilor Ando] had plans to depose the Emperor. These matters also became a cause, and on January 15th of Bunkyu 2, Senior Councilor Ando was attacked by ronin outside Sakashita Gate when going to the castle. Fortunately, he was only wounded in the waist and managed to escape with his life, but since such an incident had occurred, various difficult circumstances arose and Senior Councilor Ando ultimately could not achieve his original intentions and was soon dismissed. Around this time, Honda Tadatami, Mizuno Tadayoshi, Itakura Katsutatsu and others joined the ranks of senior councilors, but the hearts of people both within and without became increasingly fearful and suspicious, making it completely impossible to reinvigorate shogunal government. The situation became one of merely passing each day through procrastination and temporizing measures. Under these circumstances, the world increasingly became dominated by the rampage of the loyalist expulsion party, and in Kyoto plans were finally made for Imperial Envoy Ohara Sanmi to go east. Of course, there are many details to this incident if one were to discuss it fully. However, speaking only of the main points, at that time there had been discussion of sending Iwakura Chunagon as this imperial envoy, but since there were circumstances making it difficult for him to leave Kyoto, Ohara Sanmi Shigenori, who had the foremost reputation for integrity, received this command. At that time, Shimazu Saburo Hisamitsu of Satsuma Domain, since the domain lord Tadayoshi was young, received permission to go to Edo in his place, and in the fourth month of Bunkyu 2, he entered Kyoto en route. He engaged in persuasion and mediation among the Konoe family and other Kyoto court nobles, received imperial command, and suppressed radical activists at Fushimi. This was the famous Teradaya Incident. In such circumstances, the court commanded the senior councilor of the time, Kuze Yamato-no-kami, to come to Kyoto. However, since Yamato-no-kami considered this journey to Kyoto very dangerous, he made various excuses and delayed his departure, so it was decided that an imperial envoy should be sent from the capital instead. Thus Shimazu Hisamitsu, who was in Kyoto, was appointed as vice-envoy to go east, but the shogunate, learning of this situation, followed the previous imperial command and first granted amnesty to Yoshinobu, Yoshinaga and others. On May 7th, all three lords went to the castle and had audience with the shogun, and Yoshinaga was commanded to thereafter occasionally visit the castle and participate in political consultations. And Senior Councilor Kuze... **Margin:** Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku, with his vast knowledge and inexhaustible energy, has devoted himself to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his draft nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (on Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper. **Main Text:** ...was relieved of his post due to illness on June 2nd, but Imperial Envoy Ohara's party finally arrived at the capital on the 7th of that month, had audience on the 10th, met personally with the shogun, and transmitted the imperial message. This imperial message, as you all know, was not short, but it contained the famous "Three Policies." The first was that the shogun should personally go to Kyoto, govern the nation, expel the barbarians, above console the wrath of the ancestral gods, and below establish the foundation for nurturing all people. The second was to designate five major coastal domains as the Five Great Elders, consult on national policy, strengthen coastal military preparations, and surely accomplish the work of expelling foreigners. The third was to have Hitotsubashi Yoshinobu assist the shogun and appoint Matsudaira Yoshinaga to the position of Great Elder. Of course, the shogunate had already generally decided internally on the matter of the shogun going to Kyoto and employing Yoshinobu and Yoshinaga, so although there were various circumstances, they ultimately decided to comply with the imperial command, and on July 1st the shogun met with the imperial envoy and presented a written response. However, viewed from outside, regarding this matter all three policies were things the shogunate did not welcome, nothing was according to their wishes, but they were merely pressed by imperial will and feared the power of Shimazu, so they had no choice but to submit - such was the appearance of the situation. Moreover, even if the shogun were to go to Kyoto, it would not be for determining national policy but for discussing strategies for expelling foreigners, so the shogunate increasingly lost prestige and found itself in an even more difficult position. In any case, the general trend was to urge Yoshinobu and Yoshinaga to take charge of government, and on July 6th Yoshinobu had audience with the imperial envoy and accepted the position of shogunal regent, while Yoshinaga was appointed to the office of Chief of Political Affairs on the 9th of that month. Yoshida Domain Lord Nobutaka, on June 30th of this year - just over one month before Yoshinobu and others took charge of government - replaced Matsudaira Hoki-no-kami Munehide as Osaka Castle Keeper and was raised to Fourth Court Rank. Imperial Envoy Ohara Sanmi, who had come east this time, on July 23rd summoned both Yoshinobu and Yoshinaga to his residence, with Shimazu Hisamitsu also present, and made several demands. Moreover, as the third requirement, since Osaka Castle Keeper Matsudaira Izu-no-kami (Nobutaka) was the son of Manabe Shimofusa-no-kami, he was unsuitable to public sentiment, and therefore should be dismissed... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 519