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【欄外】
豊橋市史談 (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任) 五百二十
【本文】
すべしと云(い)ふのであつた又(ま)た島津久光(しまづひさみつ)も其後(そのご)出立(しゆつたつ)に当(あた)り暇乞(いとまごひ)の為(ため)に一橋邸(ひとつばしてい)を訪(おと)つた時(とき)に慶永(よしなが)も同席(どうせき)の
処(ところ)で種々(しゆ〴〵)の注文(ちうもん)を述(の)べたが矢張(やはり)其中(そのなか)に此節(このせつ)命(めい)ぜられたる京都所司代(けうとしよしだい)松平伯耆守(まつだひらはうきのかみ)は人気(にんき)に相(あひ)拘(かゝは)るやに懸(け)
念(ねん)するから今(いま)一 応(おう)評議(へうぎ)の上(うへ)人選(じんせん)に就(つい)ては叡慮(えいりよ)を伺(うかゞ)はれたいものであるとの意(い)を談(だん)じ之(これ)に付(つ)け加(くは)へて大(おほ)
坂城代(さかじやうだい)も右同断(みぎどうだん)であると云(い)ふ事(こと)を云(い)つて居(を)るのであるかゝる訳(わけ)で当時(たうじ)信古(のぶひさ)は詮勝(のりかつ)の子(こ)であると云(い)ふ処(ところ)
から尊攘党(そんぜうたう)には甚(はなは)だ善(よ)く思(おも)はれて居(ゐ)なかつたものと信(しん)ぜられる然(しか)るに此(この)信古(のぶひさ)罷免(ひめん)に関(くわん)する意見(いけん)に就(つい)て
は慶喜(よしひさ)、慶永(よしなが)は共(とも)に応諾(おうだく)しなかつたので其後(そのご)別段(べつだん)の事(こと)もなく信古(のぶひさ)は大坂城代(おほさかじやうだい)を勤続(きんぞく)したのであるが前(ぜん)
章(せう)段々(だん〴〵)と申述(まをしの)べたる如(ごと)き時世(じせい)に方(あた)つて而(しか)も枢要(すうえう)なる職(しよく)に就(つ)いた事(こと)であるから信古(のぶひさ)は勿論(もちろん)藩(はん)の重臣(ぢうしん)等(ら)が
苦心(くしん)は少(すくな)からなかつた事と察(さつ)するのである当時(たうじ)国老(こくろう)としては前(まへ)にも屡々(しば〴〵)申述(まをしの)べたる彼(か)の西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)
が随行(ずゐかう)したのであつたが此人(このひと)は実(じつ)に一 代(だい)の名臣(めいしん)で此人(このひと)ありしが故(ゆゑ)に幸(さいはひ)に此(この)重任(ぢうにん)を仕遂(しと)げ得(え)たりと申(まをし)て
もよい程(ほど)であると信(しん)ずるが御承知(ごせうち)の児島閑牕(こじまかんそう)も亦(ま)た大検仕(だいけんし)の役(やく)から御破損役(ごはそんやく)となりて随行(ずゐかう)したのであ
る而(しか)して閑牕(かんそう)も亦(ま)た頗(すこぶ)る信古(のぶひさ)の恃(たの)む処(ところ)となつたものと思(おも)はれるが其年(そのとし)即(すなは)ち文久(ぶんきう)二 年(ねん)の六月十四日まだ
《割書:児島閑牕の|御内命請書》 大坂(おほさか)赴任(ふにん)の少(すこ)し前(まへ)ではあるが其(その)信古(のぶひさ)に上(たてま)つた御内命(ごないめい)御請(おうけ)と云(い)ふものが今(いま)も同家(どうけ)に残(のこ)つて居(を)るのであ
る之(これ)を熟覧(じゆくらん)すれば当時(たうじ)に於(お)ける信古(のぶひさ)と閑牕(かんそう)との関係(くわんけい)も分(わか)るが又(ま)た藩情(はんぜう)の何分(なにぶん)も推測(すゐそく)さるゝと思(おも)ふトコ
ロで其(その)請書(うけしよ)なるものは長(なが)いものであるが大要(たいえう)を摘(つま)めばソレは五月の廿九日に閑牕(かんそう)は急(きふ)に信古(のぶひさ)の密旨(みつし)を
《割書:信古の人材|登用》 受(う)けて実(じつ)に感奮(かんふん)に堪(た)へないと云(い)ふので差出(さしだ)した書付(かきつけ)であるが元来(がんらい)信古(のぶひさ)の意志(いし)と云(い)ふものは先(ま)づ職禄(しよくろく)の
世襲(せしふ)と云(い)ふ事は必(かなら)ずしも悪(わる)い事ではないが又(ま)た之(これ)が上下(ぜうげ)壅塞(ようざい)の因(もと)ともなり政教不振(せいけふふしん)の源(みなもと)ともなるも
のである殊(こと)に方今(はうこん)の時勢(じせい)に当(あた)つて祖先(そせん)源三位(げんさんみ)が天朝(てんてう)に対(たい)する忠勤(ちうきん)並(ならび)に伊豆守信綱(いづのかみのぶつな)が公儀(こうぎ)に対(たい)する忠努(ちうむ)
を思(おも)ひ此(この)二 公(こう)の遺志(ゐし)を並(なら)び継(つ)いで遺業(ゐげふ)を再興(さいこう)せむとするに就(つい)ては宜(よろ)しく撰挙(せんきよ)の道(みち)を開(ひら)き殊(こと)に草莽(さうもう)に伏(ふく)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千五百十三号附録 (大正二年十一月十一日発行)
【本文】
在(ざい)して居(を)る賢能(けんのう)並(ならび)に英雄(えいゆう)の士(し)で幸(さいはひ)に各藩(かくはん)の遺(のこ)して用(もち)ゐざるものを採用(さいよう)する必要(ひつえう)があると信(しん)ずるモツ
トモ其中(そのなか)でも只(たゞ)に賢能(けんのう)の士(し)と云(い)ふのは之(これ)を用(もち)ゐざれば田夫野人(でんぷやじん)で終(をは)るに過(す)ぎぬものもあるが所謂(いはゆる)草莽(さうもう)
に伏在(ふくざい)せる英雄(えいゆう)の士(し)にありては之(これ)を収(をさ)むるものがなければ即(すなは)ち蜂起(ほうき)の徒(と)唱乱(せうらん)の賊(ぞく)ともなるべきである
から之等(これら)のものを収用(しうよう)して其(その)処(ところ)を得(え)せしむると云(い)ふ事(こと)は独(ひと)り一 藩(はん)の政教(せいけう)並(ならび)に武威(ぶゐ)を振張(しんてう)するのみなら
ず天下(てんか)の騒乱(さうらん)をも防(ふせ)ぐべき一 端(たん)となるものであるから此(この)事(こと)に就(つい)て竊(ひそか)に計画(けいくわく)すべきであるが其(その)衝(しよう)に当(あた)る
ものは或(あるひ)は朝夕(ちやうせき)左右(さゆう)に顧問(こもん)となり時(とき)としては遊学(ゆうがく)に托(たく)して遠遊(えんゆう)し総(すべ)て秘告(ひこく)を隠然冥々(ゐんぜんめい〳〵)の中(うち)に尽(つく)し微忠(びちう)
を自然(しぜん)曖昧(あいまい)の間(あひだ)に成(な)さしむる事であるからと云(い)ふので此(この)任(にん)を閑牕(かんさう)に委(ゆだ)ぬると云(い)ふのが大主旨(だいしゆし)であるソ
コで閑牕(かんさう)は一と通(とほ)りは之(これ)を辞退(じたい)した様子(やうす)であるが再度(さいど)の上意(じようい)であるので遂(つひ)に之(これ)を御受(おうけ)するに至(いた)つたの
である因(よつ)て其(その)事情(じぜう)から続(つゞ)いて己(おの)れの意見(いけん)をも論(ろん)じて上書(じようしよ)したのであるが其(その)中(なか)にも人材(じんざい)の登用(とうよう)に就(つい)て大(おほい)
に論(ろん)ずる処(ところ)があつて昔(むかし)孔明(こうめい)は三 顧(こ)の後(のち)に出(い)でゝ仕(つか)へたが楠公(なんこう)は一 夢(む)に感(かん)じて即(すなは)ち命(めい)に応(おう)じた之(これ)は和漢(わかん)
の異道(ゐどう)であるが元来(がんらい)捨身思君(しやしんしくん)と云(い)ふ事(こと)が我国(わがくに)の大義(たいぎ)であると云(い)ふような事(こと)も書(か)いてある又(ま)た人臣(じんしん)を大(たい)
別(べつ)すると忠臣(ちうしん)と謀主(ばうしゆ)との二つであるが中(なか)には忠臣(ちうしん)にして謀主(ばうしゆ)を兼(か)ぬる者(もの)と謀主(ばうしゆ)にして忠臣(ちうしん)を兼(か)ぬるも
のとがある忠臣(ちうしん)と云(い)ふのは其(その)君(きみ)あるを知(し)つて他(た)の君(きみ)あるを知(し)らざるもので能(よ)く其(その)君(きみ)と安危存亡(あんきぞんばう)を終始(しうし)
するものである然(しか)るに謀主(ばうしゆ)に至(いた)つては天下(てんか)を家(いへ)とし諸侯(しよこう)を友(とも)とするものであるから之(これ)を善用(ぜんよう)すれば留(とゞ)
り善用(ぜんよう)せざれば走(はし)ると云(い)ふようなものである例(たと)へば大石良雄(おほいしよしを)の如(ごと)きは忠臣(ちうしん)であつて謀主(ばうしゆ)を兼(か)ぬるもの
であるが先(さき)に云(い)ふ諸葛孔明(しよかつこうめい)の如(ごと)きは謀主(ばうしゆ)であつて忠臣(ちうしん)となるものであるとコンな事(こと)も云(い)ふてあるので
ある要(えう)するに之(これ)に依(よつ)て見(み)ると当時(たうじ)信古(のぶひさ)は頻(しき)りに人材(じんざい)を需(もと)むる事(こと)に急(きう)で且(か)つ深(ふか)く閑牕(かんさう)に信頼(しんらい)して居(を)られ
た事(こと)が分(わか)るのである而(しか)も閑牕(かんさう)の意見(いけん)も亦(ま)た勉(つと)めて得易(えやす)からざるの忠臣(ちうしん)謀主(ばうしゆ)兼備(けんび)の人(ひと)を得(え)むは勿論(もちろん)苟(いやしく)
【欄外】
豊橋市史談 (井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の大坂城代就任) 五百廿一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百二十
【本文】
すべしということであった。また島津久光もその後出立に当たり暇乞いのために一橋邸を訪れた時に慶永も同席のところで種々の注文を述べたが、やはりその中にこの度命じられた京都所司代松平伯耆守は人気に関わるように懸念するから、今一応評議の上人選については叡慮を伺われたいものであるとの意を談じ、これに付け加えて大坂城代も右同断であるということを言っているのである。こういう訳で当時信古は詮勝の子であるところから尊攘党には甚だよく思われていなかったものと信じられる。然るにこの信古罷免に関する意見については慶喜、慶永は共に応諾しなかったのでその後別段のこともなく信古は大坂城代を勤続したのであるが、前章段々と申し述べたような時世に当たって而も枢要な職に就いたことであるから、信古はもちろん藩の重臣等の苦心は少なからなかった事と察するのである。当時国老としては前にも屡々申し述べた彼の西村治右衛門が随行したのであったが、この人は実に一代の名臣でこの人ありしが故に幸いにこの重任を仕遂げ得たりと申してもよい程であると信ずるが、御承知の児島閑牕もまた大検仕の役から御破損役となりて随行したのである。そして閑牕もまた頗る信古の恃む処となったものと思われるが、その年即ち文久二年の六月十四日まだ大坂赴任の少し前ではあるが、その信古に上った御内命御請というものが今も同家に残っているのである。これを熟覧すれば当時における信古と閑牕との関係も分かるが、また藩情の何分も推測されると思うところで、その請書なるものは長いものであるが大要を摘めば、それは五月の二十九日に閑牕は急に信古の密旨を受けて実に感奮に堪えないということで差し出した書付であるが、元来信古の意志というものは先ず職禄の世襲ということは必ずしも悪いことではないが、またこれが上下壅塞の因ともなり政教不振の源ともなるものである。殊に方今の時勢に当たって祖先源三位が天朝に対する忠勤並びに伊豆守信綱が公儀に対する忠努を思い、この二公の遺志を並び継いで遺業を再興せむとするについては宜しく撰挙の道を開き、殊に草莽に伏
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千五百十三号附録 (大正二年十一月十一日発行)
【本文】
在している賢能並びに英雄の士で幸いに各藩の遺して用いざるものを採用する必要があると信ずる。もっともその中でも只に賢能の士というのはこれを用いざれば田夫野人で終るに過ぎぬものもあるが、所謂草莽に伏在せる英雄の士にありてはこれを収むるものがなければ即ち蜂起の徒唱乱の賊ともなるべきであるから、これ等のものを収用してその処を得せしむるということは独り一藩の政教並びに武威を振張するのみならず天下の騒乱をも防ぐべき一端となるものであるから、この事について窃かに計画すべきであるが、その衝に当たるものは或いは朝夕左右に顧問となり時としては遊学に託して遠遊し、総て秘告を隠然冥々の中に尽し微忠を自然曖昧の間に成さしむる事であるからということで、この任を閑牕に委ぬるというのが大主旨である。そこで閑牕は一通りはこれを辞退した様子であるが再度の上意であるので遂にこれを御受するに至ったのである。因ってその事情から続いて己れの意見をも論じて上書したのであるが、その中にも人材の登用について大いに論ずる処があって、昔孔明は三顧の後に出でて仕えたが楠公は一夢に感じて即ち命に応じた。これは和漢の異道であるが元来捨身思君ということが我国の大義であるというような事も書いてある。また人臣を大別すると忠臣と謀主との二つであるが、中には忠臣にして謀主を兼ぬる者と謀主にして忠臣を兼ぬるものとがある。忠臣というのはその君あるを知って他の君あるを知らざるもので能くその君と安危存亡を終始するものである。然るに謀主に至っては天下を家とし諸侯を友とするものであるからこれを善用すれば留り善用せざれば走るというようなものである。例えば大石良雄の如きは忠臣であって謀主を兼ぬるものであるが、先に言う諸葛孔明の如きは謀主であって忠臣となるものであるとこんな事も言ってあるのである。要するにこれによって見ると当時信古は頻りに人材を需むる事に急で且つ深く閑牕に信頼していられた事が分かるのである。而も閑牕の意見もまた勉めて得易からざるの忠臣謀主兼備の人を得むはもちろん苟
【欄外】
豊橋市史談(井伊大老遭害後における天下の大勢並びに信古の大坂城代就任) 五百二十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 520
**Main Text:**
...should be dismissed. Also, when Shimazu Hisamitsu later visited the Hitotsubashi residence to take his farewell before departure, with Yoshinaga also present, he made various demands. Among them he stated that the newly appointed Kyoto Deputy Matsudaira Hoki-no-kami seemed to be problematic in terms of public sentiment, so he wished that after further deliberation, imperial will should be consulted regarding personnel selection. In addition to this, he said the same applied to the Osaka Castle Keeper. For this reason, at that time Nobutaka, being the son of Norikatsu, was not well regarded by the loyalist expulsion party. However, regarding the opinion about dismissing Nobutaka, both Yoshinobu and Yoshinaga declined to agree, so thereafter there was no particular incident and Nobutaka continued to serve as Osaka Castle Keeper. But given that he assumed such a crucial position during the turbulent times I have described in previous chapters, I imagine that both Nobutaka and the domain's senior retainers faced considerable difficulties. As chief retainer at that time, the aforementioned Nishimura Jiuemon accompanied him. This man was truly a distinguished minister of his generation, and I believe it could be said that it was fortunate they had him that they were able to fulfill this important responsibility. The well-known Kojima Kanso also accompanied them, having been transferred from his role as chief inspector to repair magistrate. Kanso also became someone Nobutaka relied upon greatly. On June 14th of that year, Bunkyu 2, still a little before taking up the Osaka post, there remains in the same family a document called "Written Acceptance of Secret Orders" submitted to Nobutaka. Careful examination of this reveals the relationship between Nobutaka and Kanso at that time, and I think it also allows us to infer much about the domain's situation. This written acceptance is quite long, but to summarize the main points: it was a document Kanso submitted on May 29th, saying he was truly overcome with emotion upon suddenly receiving Nobutaka's secret instructions. Essentially, Nobutaka's intention was that while hereditary stipends and positions are not necessarily bad, they can also become causes of stagnation between high and low ranks and sources of decline in government and education. Particularly in the current times, thinking of ancestor Minamoto Sanmi's loyal service to the Imperial Court and Izu-no-kami Nobuna's devoted efforts for the shogunate, and wishing to carry on both these lords' intentions and revive their legacy, it would be proper to open paths for selection and promotion, especially to recruit capable and heroic men who lie hidden among the grass and undergrowth...
**Margin:**
Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership, 48 Konya-machi, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyo Newspaper Issue 4513 Supplement (Published November 11, Taisho 2 [1913])
**Main Text:**
...and heroes among those talented men whom other domains have overlooked and failed to employ. Of course, among these, merely capable men might end up as nothing more than farmers and rustics if not employed, but the so-called heroic men hidden in the grass and undergrowth, if there is no one to recruit them, could become insurgents and rebels causing disorder. Therefore, recruiting these men and allowing them to find their proper place would not only strengthen one domain's government and military prestige but also serve as a means of preventing disorder throughout the realm. This matter should be secretly planned, and those who bear this responsibility might sometimes serve as advisors morning and evening, sometimes travel far under the pretext of study, always fulfilling secret missions in hidden and obscure ways, accomplishing their subtle loyalty through natural and ambiguous means. This is the main purpose of entrusting this task to Kanso. Kanso initially appeared to decline this responsibility, but as it was a second command from above, he finally accepted it. Consequently, he continued to present his own opinions along with these circumstances in a written memorial. In this there was much discussion about the recruitment of talent, noting that long ago Zhuge Liang emerged to serve after three visits, while Kusunoki Masashige responded to the call after being moved by a single dream. These represent different paths of Japan and China, but essentially the principle of "sacrificing oneself while thinking of one's lord" is the great duty of our country, and similar points were written. Also, retainers can be broadly divided into two types: loyal retainers and strategists. Among these are those who are loyal retainers who also serve as strategists, and strategists who also serve as loyal retainers. A loyal retainer is one who knows only his own lord and knows no other lord, who can share safety and danger, survival and destruction with his lord to the end. However, strategists consider the realm as their home and feudal lords as their friends, so if employed well they will remain, but if not employed well they will leave. For example, Oishi Yoshio was a loyal retainer who also served as a strategist, while the aforementioned Zhuge Liang was a strategist who became a loyal retainer - such things are also written. In essence, from this we can see that at that time Nobutaka was urgently seeking talent and placed deep trust in Kanso. Moreover, Kanso's opinion was also to strive to obtain men who combined the rare qualities of both loyal retainer and strategist, and even if...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The General Situation After Senior Councilor Ii's Assassination and Nobutaka's Appointment as Osaka Castle Keeper) 521