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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 275

ページ: 275

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【欄外】    豊橋市史談  (補遺 羽田野敬雄に就て)                    五百廿二 【本文】       も和(わ)漢(かん)蘭(らん)の学(がく)を初(はじ)め天文(てんぶん)、測量(そくれう)、地理(ちり)、数学(すうがく)、航海(かうかい)、造船(ざうせん)などに一 芸(げい)一 能(のう)のあるものは之(これ)を求(もと)めて藩(はん)       主(しゆ)の依嘱(いしよく)に答(こた)へむとする決心(けつしん)であつたので其(その)事(こと)は歴々(れき〳〵)として此(この)請書(うけしよ)の中(なか)に見得(みえ)らるゝのであるが此(この)方(はう)       針(しん)は蓋(けだ)し吉田藩(よしだはん)が一 層(そう)門戸(もんこ)を開放(かいほう)して人材(じんざい)を登用(とうよう)するの端緒(たんちよ)となつたものである即(すなは)ち前(まへ)にも申述(まをしの)べた       る如(ごと)く文久(ぶんきう)三 年(ねん)の春(はる)に至(いた)り幕閣(ばくかく)の禁(きん)が稍々(やゝ)馳(ゆる)むに及(およ)び彼(か)の小野湖山(をのこざん)を幽閉中(ゆうへいちう)より引(ひ)き立(た)てゝ直(たゞ)ちに之(これ)       を藩校(はんかう)の教授(けふじゆ)に任(にん)じたなどは大(おほい)に此(この)方針(はうしん)と対照(たいせう)して私(わたくし)は趣味(しゆみ)ある事(こと)と思(おも)つて居(を)るのである 《割書:慶喜慶永等|大に幕政を|改革せむと|す》  サテ信古(のぶひさ)は其(その)年(とし)の九月二日を以(もつ)て江戸(えど)を発(はつ)しイヨ〳〵大阪(おほさか)に赴任(ふにん)したのであるが当時(たうじ)幕閣(ばくかく)に於(おい)ては前(まへ)       にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く慶喜(よしひさ)、慶永(よしなが)が将軍(せうぐん)の後見職(こうけんしよく)並(ならび)に政事総裁(せいぢさうさい)となりて時局(じきよく)に方(あた)つたので先(ま)づ最初(さいしよ)に       幕政(ばくせい)の大改革(だいかいかく)を行(おこな)はむとしたのである而(しか)して其(その)第(だい)一 着手(ちやくしゆ)として山陵(さんれう)の修補(しうほ)に関(くわん)する事(こと)を定(さだ)め又(ま)た諸侯(しよこう)       の参勤交代(さんきんこうたい)に就(つい)ても改(あらた)むる事(こと)があり其他(そのた)種々(しゆ〴〵)に企画(きくわく)する処(ところ)があつたのであるが彼(か)の三 事策(じさく)に従(したがつ)てイ       ヨ〳〵将軍(せうぐん)上洛(じやうらく)の事(こと)をも決定(けつてい)したのであるモツトモ之(これ)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の議論(ぎろん)もあつた事(こと)であるが此(この)上洛(じやうらく)       説(せつ)の主張者(しゆてうしや)は即(すなは)ち松平慶永(まつだひらよしなが)で長藩(てうはん)も亦(ま)た極(きは)めて希望(きばう)したる処(ところ)であつたのである而(しか)も慶永(よしなが)の期(き)する処(ところ)は      之(これ)を以(もつ)て公武合体(こうぶがつたい)の動機(どうき)を作(つく)らむと考(かんが)へたのであつたが如何(いかん)せん事(こと)は全く(まつた)志(こゝろざし)と違(たが)つて其(その)極(きよく)慶永(よしなが)自身(じしん)       さへ遂(つひ)に其(その)渦中(くわちう)から逃(に)げ出(だ)すような事(こと)になり将軍(せうぐん)の上洛(じやうらく)は会(また〳〵)以(もつ)て政権(せいけん)の発動地(はつどうち)を江戸(えど)から京都(けうと)に移(い)       転(てん)したと云(い)ふ事実(じゞつ)となり終(をは)つたのは之(これ)も亦(ま)た幕府(ばくふ)の衰勢(すいせい)止(やむ)を得(え)ざる次第(しだい)であつたのである        ●補遺(●●) 羽田野敬雄(●●●●●)に(●)就(●)て(●)         此際(このさい)羽田野敬雄(はだのたかを)の事に就(つい)て之迄(これまで)申述(まをしの)べたる外(ほか)に尚(なほ)少(すこ)しく御話(おはなし)して置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふから茲(こゝ)に         補遺(ほゐ)として付(つ)け加(くは)へたいと思(おも)ふ         敬雄(たかを)の本名(ほんめい)は前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く佐可喜(さかき)である併(しか)し自身(じしん)には栄木(さかき)又(また)は栄樹(さかき)などゝ書(か)い 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         た而(しか)して敬雄(たかを)は其(その)名乗(なのり)であつた又(また)其(その)生年月(せいねんがつ)は寛政(かんせい)十 年(ねん)二月十四日である事が判明(はんめい)したから之(これ)も茲(こゝ)         に重複(ちようふく)を顧(かへりみ)ず申述(まをしの)べて置(お)く          トコロで私(わたくし)が茲(こゝ)に申述(まをしの)べたいのは佐可喜(さかき)が勤王(きんわう)の事蹟(じせき)である佐可喜(さかき)が夙(つと)に勤王家(きんわうか)であつた事は今(いま)          尚(な)ほ古老(こらう)の能(よ)く記憶(きをく)して居(を)る処(ところ)であるが殊(こと)に安政(あんせい)戌午(ぼご)の大獄(たいごく)以来(いらい)は益其(ます〳〵)精神(せいしん)を発揮(はつき)して居(を)るので          ある彼(か)の小野湖山(をのこざん)が其(その)大獄(たいごく)に坐(ざ)して吉田(よしだ)に幽閉(ゆうへい)せられたる事(こと)は前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述(まをしの)べた如(ごと)くである          が其(その)禁(きん)が稍々(やゝ)弛(ゆる)むに従(したがつ)て佐可喜(さかき)は常(つね)に湖山(こざん)と相(あひ)往来(わうらい)し意気(いき)最(もつと)も相(あひ)投(たう)じたものである当時(たうじ)東西(とうざい)に          奔走(ほんさう)せる志士(しゝ)に対(たい)し佐可喜(さかき)が窃(ひそ)かに批護(ひご)を加(くは)へたのは容易(ようい)ならぬ事であるがそれのみならず屡(しば〴〵)          江戸(えど)に上(のぼ)りて天下(てんか)の動静(どうせい)を観察(くわんさつ)し同志(どうし)に報告(ほうこく)して其(その)計画(けいくわく)を助(たす)けた事が少(すくな)くない惜(おし)い事には其(その)当時(たうじ)          の往復文書(わうふくぶんしよ)と云(い)ふものは今(いま)多(おほ)く焼(や)き棄(す)てゝ仕舞(しま)つて残存(ざんぞん)して居(を)るものが甚(はなは)だ少(すくな)くないが左(さ)に掲(かゝ)ぐ          るものゝ如(ごと)きは頗(すこぶ)る其(その)当時(たうじ)の消息(せうそく)が分(わか)ると思(おも)ふから少(すこ)しく冗長(ぜうてう)には渉(わた)るが一々 左(さ)に抄録(しようろく)する事に          する           残暑甚敷候得共皆様弥御多福被為揃珍重奉存候小生方も各無事罷在候御安心可被下候今日はた           より申受旁一寸御たより仕候先日は入御念候御手紙被下辱拝見いたし候            一、疾々御聞及も可有之跡月廿一日浜松様御再勤御加判の上座被為蒙仰候由実ニ驚入候次第ニ            御座候打つゞき            《割書:印幡佐御普請御差留ニ付|跡調へ為御用被差遣候》            《割書:東海道府中其外御普請御差留ニ|跡調へ為御用被差遣候》            《割書:侍従ニ被任|御本丸御普請惣奉行》  【欄外】    豊橋市史談  (補遺 羽田野敬雄に就て)                    五百廿三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(補遺 羽田野敬雄について)                    五百二十二 【本文】 も和漢蘭の学を始め天文、測量、地理、数学、航海、造船などに一芸一能のあるものはこれを求めて藩主の依嘱に答えようとする決心であったのでその事は歴々としてこの請書の中に見ることができるのであるが、この方針は蓋し吉田藩が一層門戸を開放して人材を登用するの端緒となったものである。即ち前にも申し述べたように文久三年の春に至り幕閣の禁が稍々緩むに及び、彼の小野湖山を幽閉中より引き立てて直ちにこれを藩校の教授に任じたなどは大いにこの方針と対照して私は趣味ある事と思っているのである。 さて信古はその年の九月二日をもって江戸を発し、いよいよ大阪に赴任したのであるが、当時幕閣においては前にも申し述べたように慶喜、慶永が将軍の後見職並びに政事総裁となりて時局に当たったので、先ず最初に幕政の大改革を行おうとしたのである。そしてその第一着手として山陵の修補に関する事を定め、また諸侯の参勤交代についても改める事があり、その他種々に企画する処があったのであるが、彼の三事策に従っていよいよ将軍上洛の事をも決定したのである。もっともこれについては種々の議論もあった事であるが、この上洛説の主張者は即ち松平慶永で長藩もまた極めて希望したる処であったのである。しかも慶永の期する処はこれをもって公武合体の動機を作ろうと考えたのであったが、如何せん事は全く志と違って、その極慶永自身さえ遂にその渦中から逃げ出すような事になり、将軍の上洛は会って政権の発動地を江戸から京都に移転したという事実となり終わったのは、これもまた幕府の衰勢止むを得ざる次第であったのである。 ●補遺 羽田野敬雄について この際羽田野敬雄の事について、これまで申し述べたる外になお少しく御話しして置く必要があると思うから、ここに補遺として付け加えたいと思う。 敬雄の本名は前にも一寸申し述べて置いた如く佐可喜である。しかし自身には栄木または栄樹などと書 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其の該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 た。そして敬雄はその名乗りであった。またその生年月は寛政十年二月十四日である事が判明したからこれもここに重複を顧みず申し述べて置く。 ところで私がここに申し述べたいのは佐可喜が勤王の事蹟である。佐可喜が夙に勤王家であった事は今なお古老のよく記憶している処であるが、殊に安政戌午の大獄以来は益々その精神を発揮しているのである。彼の小野湖山がその大獄に坐して吉田に幽閉されたる事は前章に詳しく申し述べた如くであるが、その禁が稍々弛むに従って佐可喜は常に湖山と相往来し意気最も相投じたものである。当時東西に奔走せる志士に対し佐可喜が窃かに庇護を加えたのは容易ならぬ事であるが、それのみならず屡々江戸に上りて天下の動静を観察し同志に報告してその計画を助けた事が少なくない。惜しい事にはその当時の往復文書というものは今多く焼き棄てて仕舞って残存しているものが甚だ少ないが、左に掲ぐるもののようなものは頗るその当時の消息が分かると思うから少しく冗長には渉るが一々左に抄録する事にする。 残暑甚敷候得共皆様弥御多福被為揃珍重奉存候小生方も各無事罷在候御安心可被下候今日はたより申受旁一寸御たより仕候先日は入御念候御手紙被下辱拝見いたし候 一、疾々御聞及も可有之跡月廿一日浜松様御再勤御加判の上座被為蒙仰候由実ニ驚入候次第ニ御座候打つゞき 《割書:印幡佐御普請御差留ニ付跡調へ為御用被差遣候》 《割書:東海道府中其外御普請御差留ニ跡調へ為御用被差遣候》 《割書:侍従ニ被任御本丸御普請惣奉行》 【欄外】 豊橋市史談(補遺 羽田野敬雄について)                    五百二十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Supplement: Regarding Hatano Takao) 522 **Main Text:** ...those with even a single skill or talent in Japanese, Chinese, or Dutch learning, as well as astronomy, surveying, geography, mathematics, navigation, shipbuilding, etc., should be sought out to fulfill the lord's requests. This determination is clearly evident in this written acceptance. This policy indeed became the beginning of Yoshida Domain's further opening its doors and promoting talented individuals. As I mentioned before, when the shogunal restrictions somewhat relaxed in the spring of Bunkyu 3, they immediately elevated Ono Kozan from house arrest and appointed him as a school instructor - I find this quite interesting as it contrasts greatly with this policy. Now, Nobutaka departed Edo on September 2nd of that year and finally took up his post in Osaka. At that time in the shogunal council, as I mentioned before, Yoshinobu and Yoshinaga had become the shogun's guardian and chief of political affairs respectively, dealing with the current crisis. They first attempted to carry out major reforms of shogunal government. As their first step, they established matters concerning the repair of imperial mausoleums, made changes regarding the daimyo's alternate attendance system, and planned various other measures. Following the Three-Point Policy, they finally decided on the shogun's journey to Kyoto. Of course there were various arguments about this, but the advocate of this Kyoto journey theory was Matsudaira Yoshinaga, and Choshu Domain also greatly hoped for it. Moreover, Yoshinaga's expectation was to create an opportunity for court-bakufu cooperation, but unfortunately things went completely contrary to his intentions. In the end, even Yoshinaga himself eventually fled from that whirlpool, and the shogun's journey to Kyoto resulted in the fact that the center of political power shifted from Edo to Kyoto - this too was an inevitable consequence of the bakufu's declining influence. **● Supplement: Regarding Hatano Takao** At this point, I think it necessary to discuss a bit more about Hatano Takao beyond what I have already mentioned, so I would like to add this as a supplement. Takao's real name, as I briefly mentioned before, was Sakaki. However, he personally wrote it as Sakaegi or Sakaki, and... **Margin:** Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of Sanyo Newspaper. **Main Text:** ...Takao was his formal name. Also, his birth date has been determined to be February 14th, Kansei 10, so I will mention this here as well, regardless of repetition. What I want to discuss here is Sakaki's loyalist activities. That Sakaki was an early loyalist is still well remembered by elderly people, but especially since the Ansei Purge of 1858-59, he increasingly demonstrated this spirit. As I described in detail in the previous chapter, Ono Kozan was imprisoned in Yoshida due to that purge, but as the restrictions gradually relaxed, Sakaki regularly visited Kozan and they found their spirits most compatible. At that time, Sakaki's secret protection of loyalist activists traveling east and west was no small matter, but beyond that, he frequently went up to Edo to observe the movements throughout the realm and report to his comrades, helping their plans on many occasions. Unfortunately, most of the correspondence from that time has been burned and discarded, with very few surviving documents, but items like those listed below reveal much about the situation of that time, so although somewhat lengthy, I will transcribe them one by one below. "Though the lingering heat is severe, I trust that everyone continues in good health and fortune, which I consider most precious. Everyone here is also well, so please be at ease. Today I received word from so-and-so and write briefly to inform you. The other day I received your thoughtful letter and read it with humble gratitude. First, you may have already heard quickly, but on the 21st of last month, Lord Hamamatsu was commanded to resume service and take the senior position among the councilors, which was truly surprising. In addition: - He was sent on official business to investigate the aftermath of the suspension of construction work at Inba - He was sent on official business to investigate the aftermath of the suspension of construction work on the Tokaido at Fuchu and other places - He was appointed as courtier and general supervisor of Honmaru construction" **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Supplement: Regarding Hatano Takao) 523