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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 29

ページ: 29

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【欄外】 豊橋市史談    (牧野信成等の戦死)          三十 【本文】       る元来(がんらい)此(この)寺(てら)の初祖(しよそ)は休屋宗官和尚(きうやそうかんおせう)と云つて豊橋市 上伝馬(かみでんま)興徳寺(こうとくじ)四代目の僧(そう)であるが爾来(じらい)此(この)興徳寺(こうとくじ)には        住職(ぢうしよく)を置(を)かず龍拈寺(りうねんじ)と兼務(けんむ)の事に定(さだ)められたのである而(しか)して此(この)興徳寺(こうとくじ)は今橋山(こんきようざん)と称(とな)へたものでる此(この)        事実(じじつ)から推(お)して考(かんが)えれば成三(しげかづ)が大永の初年に城(しろ)を復(ふく)した時 地名(ちめい)を吉田と改称(かいせう)し程(ほど)なく父(ちゝ)古白(こはく)の墓辺(ぼへん)に        龍拈寺(りうねんじ)を建立(こんりう)し興徳寺(こうとくじ)がこれ迄の地名(ちめい)によつて今橋山(こんきようざん)と号(ごう)した例(れい)により龍拈寺(りうねんじ)に新地名(しんちめい)を冠(かん)して吉田       山と命(めい)じたものと信(しん)ぜねばならぬのである然(しか)らば宗長(そうてう)手記(しゆき)を初(はじ)め前に述べた様に其後(そのご)の天文(てんぶん)年間(ねんかん)迄(まで)も      今橋の地名(ちめい)を記(しる)した文書(ぶんしよ)が残(のこ)つて居るのは如何(どう)かと云ふ疑問(ぎもん)が起(おこ)るであらうが此事(このこと)に付(つい)ては地名は改(かい)        称(せう)されても尚(なほ)何年(なんねん)かは旧慣(きうかん)によつて通(とほり)のよい名前(なまへ)を呼(よ)ぶのは世間(せけん)には沢山(たくさん)あることで現(げん)に江戸(えど)の地名(ちめい)の       如き旧習(きうしう)の人は何時迄(いつまで)も其名(そのな)を呼(よ)んで居つた事実(じじつ)があるので況(いはん)や当時(とうじ)の如き戦国時代(せんごくじだい)に於ては改名(かいめい)後(ご)       と雖(いへど)も尚(なほ)十年や十五年位は今橋(いまはし)の旧名(きうめい)が用(もち)ゐられたと云(い)ふのは敢(あへ)て怪(あやし)むに足(た)らぬ事(こと)であると思ふ因(よつ)て        前(ぜん)に述(の)べた龍拈寺の事跡(じせき)から考(かんが)へて私(わたくし)は深(ふか)く成三(しげかづ)の時代(じだい)に於て地名(ちめい)の改称(かいせう)があつたのであると云ふこと       を信(しん)ずるものである尚(なほ)之(これ)に就(つい)て龍拈寺に何(なに)かよい文書であると(ぶんしよ)は残(のこ)つて居(を)らぬかと云ふので十 分(ぶん)なる調査(てうさ)を遂(と)       げて見(み)たが此寺(このてら)は過去帳(くわこてう)の孰(いづ)れも元禄(げんろく)以後(いご)のもので記録(きろく)と云ふのも正徳(せうとく)二年 初(はじ)めて松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)が        此地(このち)に来(こ)られた時に書上(かきあげ)たものが最(もつと)も古(ふる)いので吉田城主記(よしだぜうしゆき)位(ぐらゐ)に拠(よ)つたものらしく証拠(せうこ)となるべき点(てん)が        少(すくな)い只(た)だ休屋宗官和尚(きうやそうかんおせう)の遺書(ゐしよ)は貴重(きてう)のものであるが之(これ)は此章(このせう)に関係(かんけい)がないから後(のち)に至(いたつ)て説(と)くこととする             ⦿牧野信成等の戦死        前章(ぜんせう)述(の)べたる如くで牧野成三(まきのしげかづ)が隠居(ゐんきよ)し其(その)弟(おゝと)信成(のぶしげ)が代(かはつ)て吉田城主となつたのは大永(たいえい)五六年の頃(ころ)と推測(すいそく)せ 《割書:牧野氏の勢|力》  らるゝのであるが信成(のぶしげ)相続(さうぞく)の後(のち)は牧野氏(まきのし)の勢力(せいりよく)は次第(しだい)に強大(けうだい)となつて東三河の諸豪傑(しよごうけつ)は皆(みな)其(その)下風(したかぜ)に立(た) 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       つに至(いた)つたのである当時(とうじ)西三河に於(お)ける形勢(けいせい)は如何(いかん)であつたかと云ふに嘗(かつ)て古白(こはく)時代(じだい)にあつた松平長(まつだひらなが)        親(ちか)は最(もつと)も衆望(しうぼう)の帰(き)した人であつたにも拘(かゝは)らず夙(つと)に逃世(とうせい)の志(こゝろざし)があつて剃髪(ていはつ)して道閲(どうえつ)と号(ごう)し其子(そのこ)信忠(のぶたゞ)が        相続(さうぞく)したが此人は多病(たべう)で軍務(ぐんむ)に堪(た)へず人心(じんしん)漸(やうや)く離散(りさん)する処から之(こ)れ亦(ま)た碧海群(へきかいぐん)大浜(おほはま)の称名寺(せうめいじ)に退隠(たいゐん)し       て剃髪(ていはつ)し春夢(しゆんむ)と号(ごう)したのであるソコで其子(そのこ)の清康(きよやす)が其後(そのあと)を襲(つ)いだのであるがそれが恰(あたか)も大永三年四月 松平清康  四日の事で清康(きよやす)は時に年(とし)僅(わづか)に十三であつた此人(このひと)は即(すなは)ち徳川家康(とくがはいへやす)の祖父(そふ)であるが幼(よう)にして胆略(たんりやく)あり武勇(ぶゆう)        絶倫(ぜつりん)で其(その)翌年(よくねん)十四歳の時 曩(さき)に叛(そむ)いて居つた岡崎(をかざき)並(ならび)に山中城(やまなかぜう)を快復(くわいふく)し自身(じしん)は矢張(やはり)安祥(あんぜう)に居つて殆(ほとん)ど西三       河を平定(へいてい)したので恰(あたか)も牧野信成(まきののぶしげ)と東西(とうざい)相対(あひたい)して遂(つひ)に衝突(せうとつ)は免(まぬが)れぬ事になつたのであるソコで清康(きよやす)の方(はう)       から吉田の城に攻寄(せめよ)せて戦争(せんそう)となつたのであるが此(この)戦争(せんそう)は古来(こらい)有名(ゆうめい)のもので豊橋市史(とよはししゝ)の上(うへ)から云ふて 《割書:吉田合戦の|年月》  も大切(たいこう)【ルビママ】なる出来事(できごと)であるが之(これ)が又(ま)た異説(ゐせつ)があつて六ケ敷(し)き研究(けんきう)である即(すなは)ち此(この)戦争(せんそう)の時日(じじつ)は何時(いつ)であつ       たかと云ふに大体(だいたい)に於(おい)て三 説(せつ)に分(わか)れて居(を)るので        一、享禄(けうろく)二年 説(せつ)        二、天文(てんぶん)元年(がんねん)説(せつ)        三、戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)       である外(ほか)に明応(めいおう)二年 説(せつ)天文(てんぶん)十年 説(せつ)があるが之(これ)は論(ろん)ずる迄(まで)もなく原本(げんほん)謄写(とうしや)の誤(あやまり)より来(きた)つた間違(まちがひ)である       と思(おも)ふ而(しか)して一、二、の両説(れうせつ)は孰(いづ)れも其月日を五月廿八日であるとして居(を)るが第三の戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)にあ       りては其月日を判然(はんぜん)することが出来(でき)ぬ併(しか)し牛久保密談記(うしくぼみつだんき)は享禄(けうろく)二年の役(えき)を十一月四日であると記(しる)して居(を)       るかゝる次第(しだい)で何(いづ)れを是(ぜ)とすべきや疑問(ぎもん)であるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初め朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)当代記(とうだいき)牧野家譜(まきのかふ)        等(とう)有力(ゆうりよく)なる書物(しよもつ)は多(おほ)く此第一説を取(と)つて居る又た家忠日記増補(いへたゞにつきぞうほ)と云ふ書物(しよもつ)があるが之(これ)は家忠(いへたゞ)の孫(まご)忠冬(たゞふゆ) 【欄外】 豊橋市史談    (牧野信成等の戦死)          卅一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (牧野信成等の戦死)          三十 【本文】       る。元来この寺の初祖は休屋宗官和尚といって豊橋市上伝馬興徳寺四代目の僧であるが、爾来この興徳寺には       住職を置かず龍拈寺と兼務の事に定められたのである。而してこの興徳寺は今橋山と称したものである。この       事実から推して考えれば、成三が大永の初年に城を復した時、地名を吉田と改称し、程なく父古白の墓辺に       龍拈寺を建立し、興徳寺がこれまでの地名によって今橋山と号した例により、龍拈寺に新地名を冠して吉田       山と命じたものと信ぜねばならないのである。然らば宗長手記を初め前に述べたように、その後の天文年間まで      も今橋の地名を記した文書が残っているのはどうかという疑問が起こるであろうが、このことについては地名は改       称されても尚何年かは旧慣によって通りのよい名前を呼ぶのは世間には沢山あることで、現に江戸の地名の       如き旧習の人は何時までもその名を呼んでいた事実があるので、況や当時の如き戦国時代においては改名後       と雖も尚十年や十五年位は今橋の旧名が用いられたというのは敢て怪しむに足らない事であると思う。因って       前に述べた龍拈寺の事跡から考えて、私は深く成三の時代において地名の改称があったのであるということ       を信ずるものである。尚これについて龍拈寺に何かよい文書は残っていないかということで、十分なる調査を遂       げて見たが、この寺は過去帳のいずれも元禄以後のもので、記録というのも正徳二年初めて松平伊豆守信祝が       この地に来られた時に書上げたものが最も古いので、吉田城主記位に拠ったものらしく証拠となるべき点が       少ない。ただ休屋宗官和尚の遺書は貴重のものであるが、これはこの章に関係がないから後に至って説くこととする。             ○牧野信成等の戦死       前章述べたる如くで、牧野成三が隠居し、その弟信成が代って吉田城主となったのは大永五六年の頃と推測せ 《割書:牧野氏の勢力》  られるのであるが、信成相続の後は牧野氏の勢力は次第に強大となって、東三河の諸豪傑は皆その下風に立 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       つに至ったのである。当時西三河における形勢はいかんであったかというに、嘗て古白時代にあった松平長       親は最も衆望の帰した人であったにも拘らず、夙に逃世の志があって剃髪して道閲と号し、その子信忠が       相続したが、この人は多病で軍務に堪えず、人心漸く離散する処から、これまた碧海郡大浜の称名寺に退隠し       て剃髪し春夢と号したのである。そこでその子の清康がその後を襲いだのであるが、それが恰も大永三年四月 松平清康  四日の事で、清康は時に年僅かに十三であった。この人は即ち徳川家康の祖父であるが、幼にして胆略あり武勇       絶倫で、その翌年十四歳の時、曩に叛いていた岡崎並びに山中城を快復し、自身はやはり安祥に居って殆ど西三       河を平定したので、恰も牧野信成と東西相対して、遂に衝突は免れない事になったのである。そこで清康の方       から吉田の城に攻め寄せて戦争となったのであるが、この戦争は古来有名のもので、豊橋市史の上から言って 《割書:吉田合戦の年月》  も大切なる出来事であるが、これがまた異説があって六ケ敷き研究である。即ちこの戦争の時日は何時であっ       たかというに、大体において三説に分かれているので、        一、享禄二年説        二、天文元年説        三、戦争両度説       である。外に明応二年説、天文十年説があるが、これは論ずるまでもなく原本謄写の誤より来た間違いである       と思う。而して一、二の両説はいずれもその月日を五月廿八日であるとしているが、第三の戦争両度説にあ       りてはその月日を判然とすることが出来ぬ。併し牛久保密談記は享禄二年の役を十一月四日であると記している。       かかる次第でいずれを是とすべきや疑問であるが、寛政重修諸家譜を初め朝野旧聞裒稿、当代記、牧野家譜       等有力なる書物は多くこの第一説を取っている。また家忠日記増補という書物があるが、これは家忠の孫忠冬 【欄外】 豊橋市史談  (牧野信成等の戦死)          三十一

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Death in Battle of Makino Nobushige and Others)          30 【Main text】       Originally, the founding priest of this temple was the Reverend Kyūya Sōkan, who was the fourth-generation priest of Kōtokuji Temple in Kamidenmachi, Toyohashi City. Since then, Kōtokuji has       had no resident priest and was established to be managed concurrently with Ryūnenji. This Kōtokuji was called Imahashiyama. From this       fact, if we consider by inference, when Shigekazu recaptured the castle in the early years of Taiei, he renamed the place Yoshida, and soon after built       Ryūnenji near his father Kohaku's grave. Following the example of Kōtokuji being named Imahashiyama after the previous place name, he crowned Ryūnenji with the new place name, calling it Yoshida-       yama. We must believe this to be so. Then one might question why documents remain that record the place name Imahashi, starting with Sōchō's memoir and continuing through the Tenbun period as mentioned before, but regarding this matter, even when place names are changed,       it is common in society to continue using the more familiar old names for some years out of custom. Indeed, regarding Edo place names, people of old customs continued to use those names indefinitely, so naturally in the warring states period of that time, even after the name change,       it would not be surprising that the old name Imahashi was used for about ten or fifteen years. Therefore,       considering the history of Ryūnenji mentioned before, I deeply believe that the place name was changed during Shigekazu's era.       Furthermore, regarding whether any good documents remain at Ryūnenji, I conducted a thorough investigation, but all the death registers of this temple date from after Genroku, and the oldest records are those written up when Matsudaira Izu no Kami Nobutoki first came to this area in Shōtoku 2, which seem to rely on something like the "Records of Yoshida Castle Lords," so there are few points that could serve as evidence.       Only the testament of the Reverend Kyūya Sōkan is valuable, but since this is not related to this chapter, I will explain it later.             ○Death in Battle of Makino Nobushige and Others       As described in the previous chapter, Makino Shigekazu retired and his younger brother Nobushige took his place as lord of Yoshida Castle, which is estimated to have occurred around Taiei 5 or 6. 《Marginal note: The Makino clan's power》  After Nobushige's succession, the Makino clan's power gradually grew stronger, and all the various heroes of eastern Mikawa came to stand in their shadow. 【Margin】 □Mayor of Toyohashi, Mr. Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript is nearly complete □□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【Left page】 【Main text】       At that time, what was the situation in western Mikawa? Matsudaira Nagachika, who had been there during Kohaku's time,       was the person who most commanded public respect, yet he had long harbored thoughts of withdrawal from the world, so he shaved his head and took the name Dōetsu. His son Nobutada       succeeded him, but this person was sickly and could not endure military duties. As popular support gradually scattered, he too retired to Shōmyōji temple in Ōhama, Hekikai District,       shaved his head, and took the name Shunmu. Then his son Kiyoyasu inherited his position, which happened exactly on April Matsudaira Kiyoyasu  4th of Taiei 3, when Kiyoyasu was only thirteen years old. This person was none other than the grandfather of Tokugawa Ieyasu, and though young, he possessed great courage and military prowess       unequaled by others. The following year, at age fourteen, he recaptured Okazaki and Yamanaka Castle, which had previously rebelled, and remaining himself at Anshō, he nearly pacified all of western Mikawa, thus facing off east and west with Makino Nobushige, and collision became inevitable. So Kiyoyasu's side       attacked Yoshida Castle and war ensued. This war is famous from ancient times and is 《Marginal note: The year and month of the Yoshida battle》  an important event in Toyohashi city history, but it also has variant theories, making it a difficult research topic. Namely, regarding when this war took place, it is generally divided into three theories:        1. Kyōroku 2 theory        2. Tenbun 1 theory        3. Two wars theory       Additionally, there are Meiō 2 and Tenbun 10 theories, but these are undoubtedly mistakes arising from copying errors in original texts.       Both theories 1 and 2 place the date as the 28th day of the 5th month, but the third theory of two wars       cannot clearly determine the dates. However, "Ushikubo Secret Discussions" records the Kyōroku 2 campaign as occurring on the 4th day of the 11th month.       Given these circumstances, it is questionable which should be considered correct, but authoritative works including "Kansei Chōshū Shokafu," "Chōya Kyūbun Hōkō," "Tōdaiki," and "Makino Kafu"       mostly adopt this first theory. There is also a work called "Ietada Nikki Zōho," but this was written by Ietada's grandson Tadafuyu 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Death in Battle of Makino Nobushige and Others)          31