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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 280

ページ: 280

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百卅二 【本文】          (註) 此書翰の年は不明なるも佐可喜が当時の志士と交際ありし一端を知るべきならむ          以上(いぜう)は敬雄(たかを)が書翰(しよかん)の一 部(ぶ)現存(げんぞん)せるものであるが註(ちう)に於(おい)て大要(たいえう)を附記(ふき)して置(お)いた如(ごと)く安政(あんせい)元年(がんねん)頃(ごろ)          から文久(ぶんきう)三 年(ねん)に渉(わた)つてのものであるそれ故(ゆへ)に後章(こうしよう)に御話(おはなし)する天下(てんか)の大勢(たいせい)と能(よ)く参照(さんしよう)されむ事(こと)を          望(のぞ)むのである元来(がんらい)此(この)史談(しだん)は天下(てんか)の大勢(たいせい)を説(と)きつゝ其(その)間(あひだ)に此(この)吉田(よしだ)の事(こと)に関(くわん)して其(その)時代(じだい)々々の話(はなし)を          挟(さしはさ)むで行(ゆ)きたいのであるが敬雄(たかを)の伝記(でんき)を御話(おはなし)すればドウしても連絡上(えんらくじよう)先(さき)の方(はう)迄(まで)申述(まをしの)ぶる事(こと)に          なるから天下(てんか)の大勢(たいせい)の談話(だんわ)と相前後(あひぜんご)するようになつて行(ゆ)くのである其辺(そのへん)は私(わたくし)の話(はな)しかたの整(とゝの)は          ぬ処(ところ)もあるであろうが又(ま)た止(やむ)を得(え)ざる次第(しだい)でもあるから其(その)返(へん)は能(よ)く前後(ぜんご)の各章(かくしよう)を参照(さんしよう)されて連(れん)          絡(らく)を取(と)らるゝように願(ねが)ひたいのである之(これ)は敬雄(たかを)の伝(でん)のみでなく湖山(こざん)の伝(でん)に於(おい)ても同(おな)じ事(こと)である          から同様(どうやう)に御承知(ごしようち)を願(ねが)ひたいのである             ⦿攘夷党の極盛と其蹉跌 勅使再東下 前章(ぜんしよう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)に於(おい)ては将軍(しようぐん)上洛(じやうらく)の事(こと)を決(けつ)したのであるが又(ま)た一 方(ぱう)には閏(うるふ)八月七日(文       久二年)慶喜(よしひさ)、慶永(よしなが)並(ならび)に老中(らうちう)総(すべ)て連署(れんしよ)を以(もつ)て書(しよ)を京都(けうと)に送(おく)つたのである其(その)中(なか)に「自今以後公武御合体       の儀誠精粉骨仕候條尚宸衷も被為在候はゞ以各方私共一同へ被仰出度御至当の儀は何分にも遵奉可仕       自然於時勢難行御儀も御座候はゞ恐乍懼御断申上候儀も可有御座候間此段其許にも厚御含有之候様致       度候」と云(い)ふような事(こと)があつたので更(さら)に押問答(おしもんどう)と相成(あひな)つたのであるが京都(けうと)に於(おい)ては此(この)往復(わうふく)の事を伝奏(でんさう)       から披露(ひろう)になるや否(いなや)当時(たうじ)は公卿(くげ)中(ちう)で九 條(でう)公(こう)を始(はじ)め幕府(ばくふ)の為(ため)に弁護(べんご)の位置(ゐち)に立(た)たんとする人々(ひと〴〵)は孰(いづ)れも       排斥(はいせき)を蒙(かうむ)つて居(を)られた時(とき)であるから堂上(どうじやう)の議論(ぎろん)は忽(たちま)ち幕府(ばくふ)を以(もつ)て因循姑息(ゐんじゆんこそく)到底(たうてい)事(こと)をなすに足(た)らずとな 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百三十一号附録     (大正二年十二月二日発行) 【本文】       して更(さら)に攘夷(ぜうゐ)督促(とくそく)の為(た)め勅使(ちよくし)再下(さいか)の説(せつ)が盛(さかん)に起(おこ)るに至(いた)つたのである       即(すなは)ち九月廿八日三 條中将実美(でうちうじようさねよし)は中納言(ちうなごん)に推任(すゐにん)せられ姉小路侍従公知(あねこうぢじじうきみとも)は少将(せうしよう)に推任(すゐにん)せられて共(とも)に勅使(ちよくし)と       して又々(また〳〵)東下(とうか)の命(めい)を拝(はい)したのであるが之(これ)を聞(き)きたる幕府(ばくふ)に於(おい)ては種々(しゆ〴〵)の議論(ぎろん)があつたのである併(しか)し結(けつ)       局(きよく)慶喜(よしのぶ)は意(い)を決(けつ)して自(みづか)ら上京(じようけう)し万国(ばんこく)の形勢(けいせい)を上陳(じようちん)して朝意(てうい)を回(かい)すべしと云(い)ふ意気込(いきこ)みで其(その)十月八日を       以(もつ)て江戸(えど)を発(はつ)せむとしたのであるトコロが京都(けうと)に於(おい)ては之(これ)を以(もつ)て朝議(てうぎ)を蔑視(べつし)するものとなして遂(つひ)に其(その)       上京(じようけう)を差(さ)し止(と)むるに至(いた)つたのであるがそれのみならず今度(このたび)勅使(ちよくし)再下(さいか)に付(つい)ては其(その)待遇法(たいぐうはう)に対(たい)し種々(しゆ〴〵)指示(しじ)       する処(ところ)があられたので之(これ)に就(つい)ても幕府(ばくふ)に於(おい)ては一 混雑(こんざつ)を生(せう)じ一 度(ど)は慶永(よしなが)が辞職(じしよく)すると云(い)ふような騒(さわ)ぎ       があつたのである然(しか)るにドウかこうか之(これ)が始(おさ)まつたかと思(おも)へば之(これ)に続(つゞ)いて起(おこ)つたのは又々(また〳〵)慶喜(よしのぶ)辞職(じしよく)の       問題(もんだい)である当時(たうじ)慶喜(よしのぶ)は後見職(こうけんしよく)として到底(たうてい)此(この)事実(じじつ)に不可能(ふかのう)なる攘夷(ぜうゐ)の勅命(ちよくめい)を御受(おうけ)すると云(い)ふ事(こと)は如何(いか)に       も忍(しの)ぶべからざる事(こと)であると云(い)ふので其(その)職(しよく)を辞(じ)せむとするに至(いた)つたのであるが当時(たうじ)在府中(ざいふちう)の土佐(とさ)の前(ぜん) 《割書:山内容堂の|斡旋》  侯(こう)容堂(ようどう)も大(おほい)に心配(しんぱい)し慶永(よしなが)と共(とも)に尽力(じんりよく)する処(ところ)があつたのであるソレやこれやで大混乱(だいこんらん)の中(なか)へ勅使(ちよくし)は十月       廿八日を以(もつ)て着府(ちやくふ)と相成(あひな)つたと云(い)ふ始末(しまつ)で其(その)間(あひだ)には志士(しゝ)の横行(わうかう)もあり幕府(ばくふ)の混雑(こんざつ)と云(い)ふものは名状(めいじよう)す       べからざる有様(ありさま)と相成(あひなつ)たのである尚(な)ほ一寸(ちよつと)茲(こゝ)に申述(まをしの)べて置(お)くが此(この)三 條(でう)勅使(ちよくし)東下(とうか)の時(とき)は新居(あらゐ)の飯田武兵(ゐゝだぶへ)       衛(ゑ)氏(し)の家(いへ)に宿泊(しゆくはく)せられたので此(この)事(こと)は前章(ぜんしよう)に掲(かゝ)げて置(お)いた羽田野敬雄(はたのたかを)の書翰(しよかん)の中(なか)にあるのであるから之(これ)       を参照(さんせう)せられたならば実(じつ)に趣味(しゆみ)津々(しん〳〵)たるものがあると思(おも)ふから一 言(げん)を此処(こゝ)に挟(さしはさ)むで置(お)く次第(しだい)である       而(しか)して此(この)時(とき)の勅使(ちよくし)が齎(もた)らせられた処(ところ)の大要(たいえう)と云(い)ふのは矢張(やはり)攘夷(ぜうゐ)の督促(とくそく)であつたが親兵(しんぺい)設置(せつち)の事(こと)も一つ       の問題(もんだい)となつて居(を)つたのである然(しか)るに前(ぜん)申述(まをしの)ぶる如(ごと)く慶喜(よしのぶ)は頑(がん)として之(これ)を御受(おうけ)すると云(い)ふ事(こと)は出来(でき)難(がた)       いと云(い)ふ主張(しゆちよう)で容易(ようい)に辞職(じゝよく)の意(い)を翻(ひるがへ)さないソコで慶永(よしなが)、容堂(ようどう)の苦心(くしん)は一方(ひとかた)でなかつたが十一月四日 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百卅三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                    五百三十二 【本文】         (註)この書簡の年は不明であるが、佐可喜が当時の志士と交際があったことの一端を知ることができよう。         以上は敬雄の書簡の一部で現存するものであるが、註において大要を付記しておいたように、安政元年頃から文久三年にわたるものである。それ故に後の章でお話しする天下の大勢とよく参照されることを望むのである。元来この史談は天下の大勢を説きつつ、その間にこの吉田のことに関してその時代々々の話を挟んで行きたいのであるが、敬雄の伝記をお話しすればどうしても連絡上先の方まで申し述べることになるから、天下の大勢の談話と前後するようになって行くのである。その辺は私の話し方の整わない処もあるであろうが、また止むを得ない次第でもあるから、その点はよく前後の各章を参照されて連絡を取られるように願いたいのである。これは敬雄の伝のみでなく湖山の伝においても同じことであるから、同様にご承知を願いたいのである。             ◎攘夷党の極盛とその挫折 勅使再東下 前章に申し述べたように幕府においては将軍上洛のことを決したのであるが、また一方には閏八月七日(文久二年)慶喜、慶永並びに老中すべて連署をもって書を京都に送ったのである。その中に「今後公武御合体の儀、誠心をもって粉骨仕り候条、なお宸衷もおありになるならば、各方私共一同へ仰せ出され度く、ご至当の儀は何分にも遵奉仕るべし。自然時勢上実行し難いお儀もございますならば、恐れながらお断り申し上げることもございますので、この段そちらにも厚くご含みありますよう致したく候」というようなことがあったので、さらに押し問答となったのであるが、京都においてはこの往復のことを伝奏から披露になるや否や、当時は公卿中で九条公をはじめ幕府のために弁護の位置に立とうとする人々はいずれも排斥を蒙っておられた時であるから、堂上の議論は忽ち幕府をもって因循姑息、到底事をなすに足らずとな 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編集人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百三十一号附録     (大正二年十二月二日発行) 【本文】       してさらに攘夷督促のため勅使再下の説が盛んに起こるに至ったのである。       すなわち九月二十八日、三条中将実美は中納言に推任され、姉小路侍従公知は少将に推任されて共に勅使として又々東下の命を拝したのであるが、これを聞いた幕府においては種々の議論があったのである。しかし結局慶喜は意を決して自ら上京し、万国の形勢を上陳して朝意を回すべしという意気込みで、その十月八日をもって江戸を発せむとしたのである。ところが京都においてはこれをもって朝議を蔑視するものとなして、遂にその上京を差し止むるに至ったのであるが、それのみならず今度勅使再下については、その待遇法に対し種々指示する処があられたので、これについても幕府においては一混乱を生じ、一度は慶永が辞職するというような騒ぎがあったのである。然るにどうかこうかこれが始まったかと思えば、これに続いて起こったのは又々慶喜辞職の問題である。当時慶喜は後見職として、到底この事実に不可能なる攘夷の勅命をお受けするということは、如何にも忍ぶべからざることであるというので、その職を辞せむとするに至ったのであるが、当時在府中の土佐の前侯容堂も大いに心配し、慶永と共に尽力する処があったのである。それやこれやで大混乱の中へ勅使は十月二十八日をもって着府と相成ったという始末で、その間には志士の横行もあり、幕府の混乱というものは名状すべからざる有様と相成ったのである。なお一寸ここに申し述べて置くが、この三条勅使東下の時は新居の飯田武兵衛氏の家に宿泊されたので、このことは前章に掲げて置いた羽田野敬雄の書簡の中にあるのであるから、これを参照されたならば実に趣味津々たるものがあると思うから、一言をここに挟んで置く次第である。       そしてこの時の勅使が齎らせられた処の大要というのは矢張り攘夷の督促であったが、親兵設置のことも一つの問題となって居たのである。然るに前申し述ぶるように慶喜は頑としてこれをお受けするということは出来難いという主張で、容易に辞職の意を翻さない。そこで慶永、容堂の苦心は一方でなかったが、十一月四日 【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                    五百三十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 532 **Main Text:**         (Note) The year of this letter is unclear, but it shows one aspect of Sakaki's associations with loyalists of the time.         The above are surviving portions of Takao's letters, which, as noted in the annotations, span from around Ansei 1 (1854) to Bunkyū 3 (1863). Therefore, I hope they will be well-referenced alongside the discussion of national trends in later chapters. Originally, this historical discourse aims to explain the great trends of the realm while interspersing stories from each era related to this Yoshida matter. However, when discussing Takao's biography, I inevitably must mention earlier events for continuity, which causes some overlap with discussions of national trends. There may be some disorder in my presentation, but this is unavoidable, so I ask that you refer to various chapters before and after to maintain continuity. This applies not only to Takao's biography but also to Kozan's, so I ask for your understanding in the same manner.             ◎The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party Second Eastern Mission of Imperial Envoys: As mentioned in the previous chapter, the shogunate had decided on the shogun's journey to Kyoto, but on the other hand, on the seventh day of intercalary eighth month (Bunkyū 2), Yoshinobu, Yoshinaga, and all the senior councillors sent a joint letter to Kyoto. It contained statements such as: "Regarding the future unity of court and shogunate, we shall exert ourselves wholeheartedly. If His Majesty still has concerns, please inform all of us, and we will certainly comply with any reasonable matters. Should there naturally be matters difficult to implement due to current circumstances, we may regretfully have to decline, so please be well aware of this point." This led to further arguments, but in Kyoto, as soon as this correspondence was revealed by the court intermediaries, since at that time court nobles like Lord Kujō and others who would take positions defending the shogunate were all being ostracized, the court nobles' discussions immediately deemed the shogunate dilatory and temporizing, entirely inadequate for action, and **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno □kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4531 Supplement (Published December 2, Taishō 2 [1913]) **Main Text:**       thus the theory of sending imperial envoys down again to urge expulsion of foreigners arose vigorously.       Namely, on September 28th, Middle Captain Sanjō Sanetomi was promoted to Middle Counselor, and Chamberlain Anegakōji Kimitomo was promoted to Minor Captain, both receiving commands as imperial envoys to go east again. Upon hearing this, there were various discussions within the shogunate. However, Yoshinobu ultimately resolved to go to Kyoto himself and present the international situation to reverse the court's intentions, planning to depart Edo on October 8th with this determination. But Kyoto regarded this as contempt for court deliberations and ultimately stopped his journey to the capital. Moreover, regarding this second mission of imperial envoys, there were various instructions about how to treat them, which also caused confusion within the shogunate, with Yoshinaga once threatening to resign. Just as this matter seemed settled, what followed was yet another problem of Yoshinobu's resignation. At the time, Yoshinobu, as guardian, felt it was utterly unbearable to accept the imperial command for expulsion, which was clearly impossible in practice, so he sought to resign his position. The former lord of Tosa, Yōdō, who was then in Edo, was also greatly concerned and worked together with Yoshinaga. Amid all this great confusion, the imperial envoys arrived in Edo on October 28th, and during this period there was also the rampage of loyalist activists, making the shogunate's confusion indescribable. I should briefly mention here that when this Sanjō imperial envoy mission went east, they stayed at the house of Mr. Iida Takebei in Arai, which is mentioned in Hatano Takao's letters cited in the previous chapter, so referencing this would be quite fascinating, hence this brief interjection.       The main points brought by the imperial envoys were, as expected, urging the expulsion of foreigners, but the establishment of imperial troops was also an issue. However, as mentioned before, Yoshinobu stubbornly maintained that he could not accept this and would not easily change his mind about resigning. Thus Yoshinaga and Yōdō's efforts were extraordinary, but on November 4th **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 533