Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 281

ページ: 281

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百卅四 【本文】       容堂(ようどう)は勅使館(ちよくしかん)に至(いた)つて種々(しゆ〴〵)陳述(ちんじゆつ)する処(ところ)があり結局(けつきよく)攘夷(ぜうゐ)奉勅(はうちよく)は幕議(ばくぎ)之(これ)を決(けつ)せるも其(その)期限(きげん)と方略(はふりやく)とに至(いた)つ       ては最(もつと)も熟議(じゆくぎ)を要(えう)する次第(しだい)であるから如何(いか)に督促(とくそく)があつても此(この)義(ぎ)ばかりは急速(きふそく)には定(さだ)め難(がた)いのである       又(ま)た新兵(しんぺい)設置(せつち)の議(ぎ)に至(いた)つては他日(たじつ)を以(もつ)て奉荅(ほうたう)する処(ところ)があるべしと云(い)ふ意(い)を以(もつ)て内議(ないぎ)したのであるが元(がん)       来(らい)今度(このたび)の勅使(ちよくし)護衛(ごえい)の役(やく)は土佐侯(とさこう)松平豊範(まつだひらとよのり)(山内)で之(これ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く容堂(ようどう)の後継者(こうけいしや)であるが三 條家(でうけ)にも       毛利家(もうりけ)にも姻戚(ゐんせき)の間柄(あひだがら)である而(しか)して長州(てうしう)からは既(すで)に其年(そのとし)の八月に世子(せいし)毛利定廣(もうりさだひろ)が入府(にうふ)して斡旋(あつせん)する処(ところ)       があつたと云(い)ふ訳(わけ)で云(い)はゞ今度(こんど)は土(と)、長(てう)両藩(れうはん)が其(その)衝(せう)に方(あた)つた次第(しだい)であるモツトモ此(この)長州(てうしう)の藩論(はんろん)と云(い)ふ 《割書:長藩の公武|合体論と尊|王攘夷論》  ものは最初(さいしよ)は一 種(しゆ)の公武合体論(こうぶがつたいろん)が盛(さかん)であつて昨(さく)文久(ぶんきう)元年(がんねん)の五月 頃(ごろ)には直目付(じきめつけ)永井雅樂(ながゐうた)は藩命(はんめい)を受(う)けて       己(おの)れが建策(けんさく)にかゝる公武合体(こうぶがつたい)、航海遠略(こうかいゑんりやく)の説(せつ)を京神間(けうしんかん)に遊説(ゆうぜつ)し遂(つひ)には天聴(てんちよう)にまで達(たつ)した程(ほど)であるが其(その)       十二月には之(これ)を時(とき)の閣老(かくらう)久世大和守(くぜやまとのかみ)に建白(けんぱく)し幕府(ばくふ)も大(おほい)に喜(よろこ)むで深(ふか)く長藩(てうはん)に倚頼(きらい)せむとする形勢(けいせい)であつ       たのである然(しか)るに此(この)議論(ぎろん)に対(たい)しては其後(そののち)藩中(はんちう)に激烈(げきれつ)なる反対(はんたい)が起(おこ)つたのみならず他藩(たはん)のものからも甚(はなはだ)       しく悪(にく)まれたので終(つひ)に失敗(しつぱい)に帰(き)したのであるが永井(ながゐ)は之(これ)が為(ため)に今年(こんねん)即(すなは)ち文久(ぶんきう)二 年(ねん)の六月十八日を以(もつ)て       スゴ〳〵皈国(きこく)の途(と)に就(つ)いたと云(い)ふ訳(わけ)で其後(そのご)の長藩(てうはん)は全(まつた)く尊王攘夷論(そんわうぜうゐろん)の固(かた)まりと一 変(へん)したのである然(しか)る 《割書:薩長二藩の|不和》  に前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べたる如(ごと)く此年(このとし)の四月廿三日 彼(か)の伏見(ふしみ)に起(おこ)つた処(ところ)の寺田屋事件(てらだやじけん)に於(おい)ては端(はし)なくも薩(さつ)       長(てう)二藩の間(あひだ)に面白(おもしろ)からざる感情(かんぜう)を生(せう)ずるに至(いた)つたのであるが殊(こと)に大原三位(おほはらさんみ)が勅使(ちよくし)として東下(とうか)さるゝに       当(あた)つては薩藩(さつはん)の国父(こくふ)とも云(い)ふべき久光(ひさみつ)が其(その)副使(ふくし)となつて江戸(えど)に臨(のぞ)むだのであるから尚更(なほさら)長藩(てうはん)に於(おい)ては       不快(ふくわい)に感(かん)ずる処(ところ)があつたものと思(おも)はれるトコロで久光(ひさみつ)は副使(ふくし)の役(やく)を終(を)へて一 度(ど)帰国(きこく)の途(と)に就(つ)く事(こと)にな       つたので忽(たちま)ち京都(けうと)に於(おい)ては長藩(てうはん)の勢力(せいりよく)を伸長(しんてう)せしむるに至(いた)つたのであるが其(その)結果(けつくわ)は再度(さいど)の勅使(ちよくし)派遣(はけん)の       動機(どうき)となり且(か)つ之(これ)が護衛(ごえい)には全(まつた)く長州(てうしう)の勢力(せいりよく)を以(もつ)てすると云(い)ふ事(こと)になつたと信(しん)ぜられるのであるトコ 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ロで土佐(とさ)の前侯(ぜんこう)容堂(ようどう)と云(い)ふ人(ひと)は飽(あく)までも勤王(きんわう)の志(こゝろざし)に強(つよ)かつたのであるが而(しか)も又(ま)た公武合体論(こうぶがつたいろん)に終始(しうし)       した人(ひと)である且(か)つ必(かなら)ずしも薩長(さつてう)二 藩(はん)と一 致(ち)すると云(い)ふ事(こと)を欲(ほつ)しなかつた様子(やうす)があるので今度(こんど)の事(こと)に就(つい)       ては最(もつと)も公平(こうへい)に善(よ)く斡旋(あつせん)したものと評(へう)すべきであると思(おも)ふ而(しか)して此(この)容堂(ようどう)の内議(ないぎ)には長藩(てうはん)も異議(ゐぎ)を挟(さしはさ)       まなかつたのであるから内議(ないぎ)は之(これ)に決定(けつてい)したのであるソコで容堂(ようどう)、慶永(よしなが)は勿論(もちろん)松平豊範(まつだひらとよのり)、毛利定廣(もうりさだひろ)等(ら)       も種々(しゆ〴〵)に調停(てうてい)する処(ところ)があつたので一たび辞職(じゝよく)と決心(けつしん)した慶喜(よしのぶ)も止(や)む事(こと)を得(え)ず再(ふたゝ)び意(い)を決(けつ)して奮起(ふんき)する       に至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て十一月廿七日に至(いた)り正式(せいしき)に正副(せいふく)勅使(ちよくし)は入城(にふじよう)せられて公然(こうぜん)勅書(ちよくしよ)の伝達(でんたつ)があつ       たが此日(このひ)の儀式(ぎしき)は最(もつと)も丁寧(ていねい)を極(きは)めたもので幕政(ばくせい)以来(いらい)未曾有(みぞう)の盛事(せいじ)であつたと同時(どうじ)に君臣(くんしん)の名分(めいぶん)を明(あきら)か       にしたる事(こと)此(かく)の如(ごと)きはなかつた事(こと)である而(しか)して将軍(しやうぐん)は十二月五日を以(もつ)て勅荅(ちよくたう)に及(およ)むだのであるが前(まへ)に       も申述(まをしの)べたる新兵(しんぺい)設置(せつち)の事(こと)に就(つい)ては如何(いか)に恭順(きようじゆん)を旨(むね)とするも幕府(ばくふ)が存立(ぞんりつ)せる間(あひだ)は両立(れうりつ)し難(がた)き事(こと)であ       ると云(い)ふので漸(やうや)くにして之(これ)を辞(じ)したのである然(しか)るに之(これ)に就(つい)ては勅使(ちよくし)は勿論(もちろん)長藩(てうはん)の熱心(ねつしん)に唱導(しようどう)したる処       で定廣(さだひろ)の如(ごと)きは出発前(しゆつぱつぜん)既(すで)に京都(けうと)に於(おい)て勅諚(ちよくじやう)を賜(たまは)つて居(を)つた程(ほど)であるから其(その)西帰(せいき)に際(さい)しても書(しよ)を幕府(ばくふ)       に上(たてまつ)りて新兵(しんぺい)設置(せつち)の必要(ひつえう)を論(ろん)じた程(ほど)であつたのである 《割書:井伊間部等|の処罸》  之(これ)より先(さ)き十一月廿五日を以(もつ)て幕府(ばくふ)は井伊掃部頭(ゐいかもんのかみ)、間部下総守(まなべしもおさのかみ)等(ら)を初(はじ)め直弼(なほすけ)大老(たいらう)たりし当時(たうじ)の閣臣(かくしん)を       所罸(しよばつ)したのであるが之(これ)に対(たい)しては後見(こうけん)も総裁(さうさい)も之(これ)は時機(じき)にあらずとなしたのである然(しか)るに老中格(らうちうかく)小笠(をがさ)       原図書頭(はらづしよのかみ)が熱心(ねつしん)なる主張(しゆちよう)で勅使(ちよくし)の一 行(かう)も之(これ)を促(うなが)されたる処から遂(つひ)に決行(けつかう)せらるゝに至(いた)つたのであるが       之等(これら)も亦(ま)た実(じつ)に徳川幕府(とくがはばくふ)の衰運(すゐうん)を促(うなが)す事情(じじよう)と成(な)つて居(を)るように思(おも)はるゝのである       それのみならず当時(たうじ)京都(けうと)に於(お)ける形勢(けいせい)と云(い)ふものは益(ます〳〵)尊攘党(そんぜうたう)の極盛(きよくせい)を来(きた)し幕府(ばくふ)の実力(じつりよく)と云(い)ふものは       全(まつた)く世(よ)の見(み)すかす処(ところ)となつたので此(この)上(うへ)は政兵(せいへい)の実権(じつけん)を次第(しだい)に京都(けうと)に収(をさ)むべき施設(しせつ)をなさねばならぬと 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百卅五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                    五百三十四 【本文】       容堂は勅使館に至って種々陳述するところがあり、結局攘夷奉勅は幕議でこれを決したものの、その期限と方略については最も熟議を要する次第であるから、いかに督促があってもこの義だけは急速には定め難いのである。また新兵設置の議については他日をもって奉答するところがあるべしという意をもって内議したのであるが、元来今度の勅使護衛の役は土佐侯松平豊範(山内)で、これはご承知のように容堂の後継者であるが、三条家にも毛利家にも姻戚の間柄である。そして長州からは既にその年の八月に世子毛利定廣が入府して斡旋するところがあったという訳で、言わば今度は土・長両藩がその衝に当たった次第である。もっともこの長州の藩論というものは最初は一種の公武合体論が盛んであって、昨文久元年の五月頃には直目付永井雅楽は藩命を受けて自分の建策にかかる公武合体、航海遠略の説を京神間に遊説し、遂には天聴にまで達した程であるが、その十二月にはこれを時の閣老久世大和守に建白し、幕府も大いに喜んで深く長藩に依頼せんとする形勢であったのである。然るにこの議論に対してはその後藩中に激烈なる反対が起こったのみならず、他藩のものからも甚だしく憎まれたので、終に失敗に帰したのであるが、永井はこれがために今年すなわち文久二年の六月十八日をもってすごすごと帰国の途に就いたという訳で、その後の長藩は全く尊王攘夷論の固まりと一変したのである。然るに前にも一寸申し述べたように、この年の四月二十三日、かの伏見に起こったところの寺田屋事件においては、はしなくも薩長二藩の間に面白からざる感情を生ずるに至ったのであるが、殊に大原三位が勅使として東下されるに当たっては、薩藩の国父とも言うべき久光がその副使となって江戸に臨んだのであるから、なおさら長藩においては不快に感ずるところがあったものと思われるところで、久光は副使の役を終えて一度帰国の途に就くことになったので、忽ち京都においては長藩の勢力を伸長せしむるに至ったのであるが、その結果は再度の勅使派遣の動機となり、かつこれが護衛には全く長州の勢力をもってするということになったと信ぜられるのである。ところ 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略成るに際[以下文字が不明瞭] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ところで土佐の前侯容堂という人は飽くまでも勤王の志に強かったのであるが、しかもまた公武合体論に終始した人である。かつ必ずしも薩長二藩と一致するということを欲しなかった様子があるので、今度のことについては最も公平によく斡旋したものと評すべきであると思う。そしてこの容堂の内議には長藩も異議を挟まなかったのであるから、内議はこれに決定したのである。そこで容堂、慶永はもちろん、松平豊範、毛利定廣等も種々に調停するところがあったので、一たび辞職と決心した慶喜も止むことを得ず再び意を決して奮起するに至ったのである。ここにおいて十一月二十七日に至り、正式に正副勅使は入城されて公然勅書の伝達があったが、この日の儀式は最も丁寧を極めたもので、幕政以来未曾有の盛事であったと同時に君臣の名分を明らかにしたることかくの如きはなかった事である。そして将軍は十二月五日をもって勅答に及んだのであるが、前にも申し述べた新兵設置のことについては、いかに恭順を旨とするも、幕府が存立せる間は両立し難きことであるというので、ようやくにしてこれを辞したのである。然るにこれについては勅使はもちろん長藩の熱心に唱導したる処で、定廣の如きは出発前既に京都において勅諚を賜わって居た程であるから、その西帰に際しても書を幕府に上りて新兵設置の必要を論じた程であったのである。       これより先き十一月二十五日をもって幕府は井伊掃部頭、間部下総守等をはじめ直弼大老たりし当時の閣臣を処罰したのであるが、これに対しては後見も総裁もこれは時機にあらずとなしたのである。然るに老中格小笠原図書頭が熱心なる主張で勅使の一行もこれを促されたる処から、遂に決行されるに至ったのであるが、これ等もまた実に徳川幕府の衰運を促す事情となって居るように思われるのである。       それのみならず当時京都における形勢というものは益々尊攘党の極盛を来たし、幕府の実力というものは全く世の見すかす処となったので、この上は政兵の実権を次第に京都に収むべき施設をなさねばならぬと 【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                    五百三十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 534 **Main Text:**       Yōdō went to the imperial envoy's residence and made various statements, ultimately deciding that while the shogunate had resolved to obey the imperial command regarding expulsion of foreigners, the timing and methods required the most careful deliberation, so no matter how much urging there was, this matter alone could not be decided hastily. Regarding the establishment of imperial troops, they held private discussions with the intention of providing a response at a later date. Originally, the role of escorting these imperial envoys fell to Tosa lord Matsudaira Toyonori (Yamauchi), who, as you know, was Yōdō's successor and was related by marriage to both the Sanjō and Mōri houses. From Chōshū, heir Mōri Sadahiro had already entered Edo in August of that year to mediate, so this time both Tosa and Chōshū domains took the lead. However, Chōshū's domain policy had initially favored a form of court-shogunate unity theory, and around May of last year (Bunkyū 1), Direct Inspector Nagai Uta, acting on domain orders, advocated his proposed theories of court-shogunate unity and maritime expansion in the Kyoto-Osaka region, eventually reaching the Emperor's ears. In December, he presented this to Senior Councilor Kuze Yamato-no-kami, and the shogunate was greatly pleased and inclined to rely heavily on Chōshū. However, this proposal later faced fierce opposition within the domain and was severely disliked by other domains, ultimately failing. Due to this, Nagai departed dejectedly for home on June 18th of this year (Bunkyū 2), and thereafter Chōshū completely transformed into a bastion of loyalist expulsion theory. However, as briefly mentioned before, in the Teradaya Incident that occurred in Fushimi on April 23rd of this year, unfortunate feelings arose between Satsuma and Chōshū domains. Particularly when Third Rank Ōhara came east as imperial envoy, Hisamitsu, who could be called Satsuma's domain father, served as his deputy and came to Edo, which likely caused even more displeasure in Chōshū. When Hisamitsu completed his deputy role and departed for home, Chōshū's influence immediately expanded in Kyoto, and this result became the motive for sending imperial envoys a second time, with their escort being entirely handled by Chōshū forces. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion [text unclear] **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper **Main Text:**       Now, the former Tosa lord Yōdō was a person who remained steadfastly committed to loyalist principles, yet also consistently maintained court-shogunate unity theory. Since he apparently did not necessarily desire to align with Satsuma and Chōshū domains, regarding this current matter he should be evaluated as having mediated most fairly and well. Since Chōshū also raised no objections to Yōdō's private proposal, the private discussions were decided accordingly. With Yōdō and Yoshinaga, as well as Matsudaira Toyonori, Mōri Sadahiro and others all working various mediations, Yoshinobu, who had once resolved to resign, was compelled to resolve himself again and rally to action. Thus on November 27th, the principal and deputy imperial envoys formally entered the castle and publicly transmitted the imperial edict. This day's ceremony was extremely elaborate, an unprecedented grand event since the establishment of shogunal government, and nothing had so clearly established the proper relationship between lord and retainer. The shogun responded to the imperial command on December 5th, but regarding the establishment of imperial troops mentioned previously, no matter how much he intended to be obedient, this could not coexist while the shogunate continued to exist, so he reluctantly declined this. However, regarding this matter, not only the imperial envoys but also Chōshū advocated zealously, with Sadahiro having already received imperial instructions in Kyoto before departure, so even when returning west he submitted a document to the shogunate arguing the necessity of establishing imperial troops.       Prior to this, on November 25th, the shogunate punished Ii Kamon-no-kami, Manabe Shimōsa-no-kami and other senior ministers from when Naosuke was chief minister, but both the guardian and president opposed this as untimely. However, Senior Councilor Ogasawara Zusho-no-kami's zealous advocacy, urged on by the imperial envoy's party, ultimately led to its implementation, and this too seems to have become a circumstance hastening the decline of the Tokugawa shogunate.       Moreover, the situation in Kyoto at that time increasingly brought the zenith of the loyalist expulsion party, and the shogunate's real power became completely transparent to the world, so it became necessary to gradually establish institutions to concentrate political and military authority in Kyoto **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 535