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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 282

ページ: 282

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                   五百卅六 【本文】 《割書:三職並に国|事会議所の|設置》  云(い)ふのが公卿(くげ)有志(いうし)間(かん)の輿論(よろん)の如(ごと)くになり来(きた)つたのであるが十二月九日に至(いた)つて新(あらた)に朝廷(てうてい)に国事掛(こくじかゝり)、参(さん)       政(せい)、寄人(よりんど)といふ三 職(しよく)を設(まを)けられたのである而(しか)して学習院(がくしふゐん)を以(もつ)て国事会議(こくじくわいぎ)の場所(ばしよ)となし藩士(はんし)浪士(らうし)の如(ごと)       きも亦(ま)た学習院(がくしふゐん)出仕(しゆつし)と云(い)ふ名前(なまへ)で機務(きむ)に加(くは)はる事(こと)と相成(あひな)つたのである此(こゝ)に於(おい)て所謂(いはゆる)志士(しゝ)の勢力(せいりよく)と云(い)ふ 浪士の暴行 ものは一 層(そう)強盛(きようせい)なる事と相成(あひな)つたのであるが此(この)頃(ころ)が蓋(けだ)し尊攘党(そんぜうたう)の極盛(きょくせい)時代(じだい)とも云(い)ふべきもので前(まへ)にも       申述(まをしの)べたる如(ごと)く江戸(えど)方面(はうめん)に於(お)ける外人(ぐわいじん)襲撃(しふげき)の挙(きよ)は勿論(もちろん)京都(けうと)の如(ごと)きは浪士(らうし)の暴動(ばうでう)日に甚(はなはだ)しきを加(くは)へ白昼(はくちう)       公然(こうぜん)殺傷(さつしよう)を逞(たくまし)ふして誰(たれ)制(せい)すると云(い)ふものもなき有様(ありさま)で天誅(てんちう)と称(しよう)しつゝ反対(はんたい)と目(もく)すべきものを惨殺(ざんさつ)梟(きやう) 《割書:松平容保京|都守護職に|任ず》  首(しゆ)するなどの事は日(ひ)に相次(あひつ)ぐと云(い)ふ形勢(けいせい)であつたのである此(こゝ)に於(おい)てか幕府(ばくふ)に於(おい)ては新(あらた)に京都守護職(けうとしゆごしよく)を       置(お)き曩(さき)に会津侯(あいひづこう)松平容保(まつだひらかたもり)を以(もつ)て之(これ)に任(にん)じたのであるが容保(かたもり)も最初(さいしよ)は此(この)重大(ぢうだい)なる任務(にんむ)に対(たい)し頗(すこぶ)る躊躇(ちうちよ)す       る処があつたのである然(しか)るに流石(さすが)は藩祖(はんそ)以来(いらい)武(ぶ)を以(もつ)て藩風(はんふう)を立(た)てる一 種(しゆ)の特色(とくしよく)ある雄藩(ゆうはん)であるのみな       らず有事(いうじ)の日(ひ)には幕府(ばくふ)の為(ため)に尽力(じんりよく)しようと云(い)ふ意気込(いきご)みは平素(へいそ)から抱持(はうぢ)して居(を)つた事であるから遂(つひ)に       一 藩(はん)の士(し)は死(し)を決(けつ)し京都(けうと)を以(もつ)て死所(ししよ)となすの大決心(だいけつしん)を以(もつ)て国(くに)を出発(しゆつぱつ)し此(この)任(にん)に就(つ)くに至(いた)つたのである而(しか)       して其(その)赴任(ふにん)は勅使(ちよくし)再下(さいか)の為(ため)に少(すこ)しく延引(えんゐん)し之(これ)がイヨ〳〵京都(けうと)に入(い)つたのは此(この)年(とし)の十二月四日であつた       のである然(しか)るに其(その)当時(たうじ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く京都(けうと)に於(お)ける浪士(らうし)の暴行(ばうかう)と云(い)ふものは其(その)極(きよく)に達(たつ)し殆(ほとん)ど       無政府(むせいふ)の状態(じようたい)であつたが程(ほど)なく慶喜(よしのぶ)、慶永(よしなが)も共(とも)に入京(にふけう)し容堂(ようどう)も亦(ま)た上京(じようけふ)したので其(その)翌(よく)文久(ぶんきう)三 年(ねん)の二月       十五日を以(もつ)て慶喜(よしのぶ)、慶永(よしなが)並(ならび)に容堂(ようどう)等(ら)は二 条城(でうじよう)に於(おい)て容保(かたもり)と会(くわい)してそれ等(ら)浪士(らうし)の処分(しよぶん)に就(つい)て議(ぎ)する処(ところ)が       あつたのである此(この)時(とき)慶喜(よしのぶ)は勿論(もちろん)慶永(よしなが)の如(ごと)きは極(きは)めて朝意(てうい)遵奉(じゆんはう)を以(もつ)て唯(ゆ)一の目的(もくてき)とせる温和主義(おんわしゆぎ)の人(ひと)すら       痛(いた)く彼(かれ)等(ら)の挙動(きよどう)には憤慨(ふんがい)して之(これ)を逮捕(たいほ)すべしと云(い)ふ説(せつ)が多数(たすう)であつたのである只(た) だ容保(かたもり)は忍耐(にんたい)に忍耐(にんたい)       をするの覚悟(かくご)を以(もつ)て固(かた)く之(これ)を諌(いさ)め成(な)るべく言路(げんろ)開進(かいしん)の法(はう)を計(はか)つて上下(じようげ)の意(い)を通(つう)ぜしめむとし一 方(はう)には 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百三十七号附録     (大正二年十二月九日発行) 【本文】       浪士(らうし)の鬱懐(うつかい)をも散(さん)ぜしむると同時(どうじ)に一 方(ぱう)には幕府(ばくふ)旧来(きうらい)の弊習(へいしう)をも改善(かいぜん)せむとしたのであるトコロが到(たう)       底(てい)之(これ)等(ら)の事(こと)で浪士(らうし)の暴行(ばうこう)が止(とゞ)まるべきでないのみならず其(その)暴行(ばうこう)は日(ひ)に〳〵募(つの)つて其(その)年(とし)の二月廿三日 徳(とく)       川(がは)将軍(せうぐん)を以(もつ)て足利氏(あしかゞし)に擬(ぎ)し例(れい)の等持院(とうじゐん)から尊氏(たかうじ)以下(いか)の木像(もくぞう)を引(ひ)き出(だ)して之(これ)を斬(き)るものあるに至(いた)つたの       であるソコで流石(さすが)の容保(かたもり)も遂(つひ)に其(その)挙動(きよどう)を怒(いか)るに至(いた)つたのであるが此(この)時(とき)容保(かたもり)の意見(いけん)と云(い)ふものは之迄(これまで)諸(しよ)       浪士(らうし)等(ら)を寛大(かんだい)に取扱(とりあつか)つて来(き)た訳(わけ)は其(その)主旨(しゆし)が王室(わうしつ)を尊(たつと)び名分(めいぶん)を明(あきらか)にせんと云(い)ふのにあるからである然(しか)る       に其(その)なす所(ところ)を見(み)れば陽(よう)に尊王(そんわう)の大義(たいぎ)に托(たく)し其(その)実(じつ)陰(ゐん)には私意(しゐ)を挟(さしはさ)むで横行(わうこう)し国家(こくか)の前途(ぜんと)などに対(たい)しては       何等(なんら)顧(かへりみ)る処(ところ)がなきのみならず無責任(むせきにん)の地位(ちゐ)にありて猥(みだ)りに攘夷(ぜうい)を急施速行(きうしそくこう)せむとし因循(ゐんじゅん)なる朝紳(てうしん)と無(む)       智(ち)なる士民(しみん)とを煽動(せんどう)誘惑(いうわく)して天威(てんゐ)を蔑(ないがしろに)し国憲(こくけん)を犯(おか)し輦穀(れんこく)の下(もと)に狂暴惨逆(けうばうざんぎやく)を極(きは)むると云(い)ふことは到底(たうてい)仮(ゆる)       すべからざることであると云(い)ふにあつたのである当時(たうじ)長藩(てふはん)の之(これ)に反対(はんたい)せしにも拘(かゝは)らず慶喜(よしのぶ)、慶永(よしなが)等(ら)は元(もと)       より同論(どうろん)であるので遂(つひ)に容保(かたもり)は其(その)逮捕(たいほ)を実行(じつこう)する事(こと)になつたのである而(しか)して昨年(さくねん)の冬(ふゆ)以来(いらい)幕府(ばくふ)に於(おい)て 《割書:新徴組並に|壬生浪士》  も之(これ)等(ら)に対抗(たいこう)する為(ため)に又(ま)た別(べつ)に浪士(らうし)を集(あつ)めて之(これ)を江戸(えど)の講武所(こうぶしよ)に置(お)き新徴組(しんてうぐみ)と称(せう)して居(を)つた       のであるが今度(こんど)之(これ)等(ら)のものをも上京(ぜうけう)せしめて壬生(みぶ)の地蔵寺(ぢぞうじ)に屯(たむろ)せしめ以(もつ)て己(おの)れの耳目(じもく)となさむとなし       たのであるトコロが尊攘党(そんぜうたう)の勢(いきほひ)と云(い)ふものは中々(なか〳〵)コンナ事(こと)で屏息(へいそく)すべきものでなく愈々(いよ〳〵)其(その)気勢(きせい)を熾(さかん)に       するのみで初(はじ)め三 條(ぜう)、姉小路(あねこうぢ)両卿(れうけう)の如(ごと)きも容保(かたもり)の横浜(よこはま)、長崎(ながさき)、函館(はこだて)三 港(こう)を限(かぎ)りて通商場(つうせうぜう)となすと云(い)ふ       折衷(せつちう)意見(いけん)に賛成(さんせい)の意(い)を漏(もら)されたのであるが今日(こんにち)に至(いた)りては時勢(じせい)が容(ゆる)さぬのであると云(い)ふので却(かへつ)て全然(ぜん〴〵)       攘夷(ぜうゐ)を主張(しゆてう)し其(その)期限(きげん)を痛(いた)く慶喜(よしのぶ)等(ら)に迫(せま)るに至(いた)つたと云(い)ふような事情(じぜう)で尊攘党(そんぜうたう)志士(しし)の気焔(きえん)は益々(ます〳〵)旺盛(わうせい)と       なつたのである従(したがつ)て其(その)挙動(きよどう)は愈(いよ〳〵)傍若無人(ばうじやくぶじん)の有様(ありさま)であつたが京都(けうと)に次(つ)いで大阪(おほさか)に於(お)ける暴行(ばうこう)も亦(ま)た頗(すこぶ)       る少(すくな)からざりしもので当時(たうじ)城代(ぜうだい)として在阪(ざいはん)せる吉田藩(よしだはん)の苦心(くしん)も亦(ま)た実(じつ)に容易(ようい)ならざりしものがあつた 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                   五百卅七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百三十六 【本文】       ということが公卿有志の間での世論のようになってきたのであるが、十二月九日に至って新たに朝廷に国事掛、参政、寄人という三職を設けられたのである。そして学習院を国事会議の場所となし、藩士浪士のようなものもまた学習院出仕という名前で機務に加わることとなったのである。ここにおいていわゆる志士の勢力というものは一層強盛なることとなったのであるが、この頃がおそらく尊攘党の極盛時代とも言うべきもので、前にも申し述べたように江戸方面における外国人襲撃の挙はもちろん、京都のようなところは浪士の暴動が日に甚だしさを加え、白昼公然と殺傷を逞しくして誰も制するというものもない有様で、天誅と称しつつ反対と見なすべきものを惨殺・梟首するなどのことは日に相次ぐという形勢であったのである。ここにおいてか幕府においては新たに京都守護職を置き、先に会津侯松平容保をもってこれに任じたのであるが、容保も最初はこの重大なる任務に対しかなり躊躇するところがあったのである。然るに流石は藩祖以来武をもって藩風を立てる一種の特色ある雄藩であるのみならず、有事の日には幕府のために尽力しようという意気込みは平素から抱持していた事であるから、遂に一藩の士は死を決し京都をもって死所となすの大決心をもって国を出発し、この任に就くに至ったのである。そしてその赴任は勅使再下のために少しく延引し、これがいよいよ京都に入ったのはこの年の十二月四日であったのである。然るにその当時は前にも申し述べたように京都における浪士の暴行というものはその極に達し、殆ど無政府の状態であったが、程なく慶喜、慶永も共に入京し容堂もまた上京したので、その翌文久三年の二月十五日をもって慶喜、慶永並びに容堂等は二条城において容保と会してそれ等浪士の処分について議するところがあったのである。この時慶喜はもちろん慶永のようなごく朝意遵奉を以て唯一の目的とする温和主義の人すら痛くかれ等の挙動には憤慨してこれを逮捕すべしという説が多数であったのである。ただ容保は忍耐に忍耐をするの覚悟をもって固くこれを諫め、なるべく言路開進の法を計って上下の意を通ぜしめんとし、一方には 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百三十七号附録     (大正二年十二月九日発行) 【本文】       浪士の鬱懐をも散ぜしむると同時に一方には幕府旧来の弊習をも改善せんとしたのである。ところが到底これ等のことで浪士の暴行が止まるべきでないのみならず、その暴行は日に日に募ってその年の二月二十三日、徳川将軍を足利氏に擬し、例の等持院から尊氏以下の木像を引き出してこれを斬るものあるに至ったのである。そこで流石の容保も遂にその挙動を怒るに至ったのであるが、この時容保の意見というものは、これまで諸浪士等を寛大に取り扱って来た訳はその主旨が王室を尊び名分を明らかにせんというのにあるからである。然るにそのなす所を見れば表向きには尊王の大義に託し、その実陰には私意を挟んで横行し、国家の前途などに対しては何等顧みるところがないのみならず、無責任の地位にありて妄りに攘夷を急施速行せんとし、因循なる朝臣と無知なる士民とを煽動誘惑して天威を蔑ろにし国憲を犯し、輦轂の下において狂暴残逆を極むるということは到底許すべからざることであるというにあったのである。当時長藩のこれに反対せしにも関わらず慶喜、慶永等は元より同論であるので、遂に容保はその逮捕を実行することになったのである。そして昨年の冬以来幕府においてもこれ等に対抗するために又た別に浪士を集めてこれを江戸の講武所に置き新徴組と称していたのであるが、今度これ等のものをも上京せしめて壬生の地蔵寺に屯せしめ、以て己れの耳目となさんとなしたのである。ところが尊攘党の勢いというものは中々こんな事で屏息すべきものでなく、いよいよその気勢を盛んにするのみで、初め三条、姉小路両卿のようなものも容保の横浜、長崎、函館三港を限りて通商場となすという折衷意見に賛成の意を漏らされたのであるが、今日に至りては時勢が許さぬのであるというので却って全然攘夷を主張し、その期限を痛く慶喜等に迫るに至ったというような事情で、尊攘党志士の気焔はますます旺盛となったのである。従ってその挙動はいよいよ傍若無人の有様であったが、京都に次いで大阪における暴行もまたかなり少なからざりしもので、当時城代として在阪せる吉田藩の苦心もまた実に容易ならざりしものがあった 【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百三十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 536 **Main Text:**       This became like the public opinion among court nobles with aspirations, and on December 9th, three new positions were established in the court: Director of National Affairs (kokji-gakari), Counselor (sansei), and Advisor (yorindo). The Gakushūin was made the venue for national affairs conferences, and domain retainers and masterless samurai were also allowed to participate in governmental duties under the title of "Gakushūin attendants." Here the power of the so-called loyalist activists became even stronger, and this period could probably be called the zenith of the loyalist expulsion party. As mentioned before, not only were there attacks on foreigners in the Edo area, but in places like Kyoto, violent uprisings by masterless samurai increased daily in severity, with killings and injuries carried out brazenly in broad daylight with no one to restrain them. Calling their actions "divine punishment," they brutally murdered and displayed the severed heads of those they deemed opponents, and such incidents occurred daily. At this point, the shogunate established a new position of Kyoto Military Governor and appointed Aizu lord Matsudaira Katamori to this role. Initially, Katamori was quite hesitant about this grave responsibility. However, his domain was not only a powerful one with the special characteristic of maintaining martial traditions since its founding lord, but had always harbored the determination to exert itself for the shogunate in times of crisis. Finally, the domain's retainers resolved to die, departing their homeland with the great determination to make Kyoto their place of death and taking up this appointment. His assumption of the post was delayed slightly due to the second dispatch of imperial envoys, and he finally entered Kyoto on December 4th of that year. However, at that time, as mentioned before, the violence by masterless samurai in Kyoto had reached its peak, creating an almost anarchic situation. Before long, both Yoshinobu and Yoshinaga entered Kyoto, and Yōdō also came to the capital, so on February 15th of the following year (Bunkyū 3), Yoshinobu, Yoshinaga, and Yōdō met with Katamori at Nijō Castle to discuss measures against these masterless samurai. At this time, not only Yoshinobu but even moderate figures like Yoshinaga, who made obedience to imperial will their sole purpose, were greatly angered by their behavior, and the majority opinion favored arresting them. Only Katamori firmly advised patience upon patience, trying to establish channels for open discourse to facilitate communication between high and low, while on one hand **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4537 Supplement (Published December 9, Taishō 2 [1913]) **Main Text:**       trying to dispel the masterless samurai's resentments while simultaneously attempting to reform the shogunate's longstanding bad practices. However, such measures could never stop the violence of masterless samurai; rather, their violence increased daily until on February 23rd of that year, some went so far as to liken the Tokugawa shogun to the Ashikaga clan and dragged out wooden statues of Takauji and others from the famous Tōji-in temple to behead them. At this point, even the patient Katamori finally became enraged at their behavior. Katamori's opinion at this time was that the reason for treating the various masterless samurai leniently thus far was that their stated purpose was to honor the imperial house and clarify proper relationships. However, looking at what they actually did, while outwardly claiming to serve the great cause of imperial loyalty, they actually harbored private motives and acted violently, showing no consideration for the nation's future. Moreover, from their position of irresponsibility, they recklessly sought to implement the expulsion of foreigners hastily, inciting and deceiving indecisive court nobles and ignorant citizens, showing contempt for imperial authority, violating national law, and perpetrating extreme violence and cruelty in the shadow of the imperial capital—this was absolutely unforgivable. Although Chōshū opposed this at the time, Yoshinobu and Yoshinaga naturally agreed, so Katamori finally decided to carry out their arrest. Since the previous winter, the shogunate had also gathered masterless samurai to counter these groups, placing them at the Kōbusho in Edo and calling them the Shinchō-gumi, but now they brought these forces to Kyoto as well, stationing them at Jizō-ji temple in Mibu to serve as their eyes and ears. However, the momentum of the loyalist expulsion party could hardly be suppressed by such measures and only grew stronger. Initially, court nobles like Sanjō and Anekōji had expressed support for Katamori's compromise proposal to limit foreign trade to the three ports of Yokohama, Nagasaki, and Hakodate, but now they said the times would not permit this and instead advocated complete expulsion of foreigners, pressing Yoshinobu and others hard on the deadline. Under such circumstances, the fervor of loyalist expulsion party activists became increasingly vigorous. Consequently, their behavior became increasingly lawless, and violent incidents in Osaka following those in Kyoto were also quite numerous, causing considerable difficulties for Yoshida domain, which served as castle governor in Osaka at the time. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 537