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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 283

ページ: 283

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                     五百卅八 【本文】       のである之(これ)等(ら)は又(ま)た後章(こうせう)に詳述(せうじゆつ)する考(かんがへ)である 《割書:将軍家茂の|上洛》  かゝる場合(ばあひ)は将軍(せうぐん)家茂(いへしげ)はイヨ〳〵上洛(じやうらく)の事(こと)と相成(あひな)つたのであるが二月十九日 慶喜(よしのぶ)、慶永(よしなが)、容保(かたもり)、容堂(ようどう)       等(ら)は会合(くわいがう)の席(せき)に於(おい)て時事(じじ)を議(ぎ)し結局(けつきよく)今日(こんにち)の幣(へい)は政令(せいれい)が二 途(と)に出(い)づるのにあるから宜(よろ)しく幕府(ばくふ)をして政(せい)       権(けん)を朝廷(てうてい)に返上(へんぜう)せしむるか然(しか)らざれば朝廷(てうてい)が更(さら)に政権(せいけん)を幕府(ばくふ)に専任(せんにん)さるゝかでなければならぬと云(い)ふ       に一 致(ち)して廿一日 政令(せいれい)帰(き)一の議(ぎ)を慶喜(よしのぶ)から関白(くわんぱく)に促(うなが)したのであるが之(これ)も勿論(もちろん)埒(らち)の明(あ)く事(こと)ではなく慶永(よしなが) 《割書:慶永将軍を|説く》  の如(ごと)きは殆(ほとん)ど最初(さいしよ)の見込(みこみ)が齟齬(そご)した処(ところ)から今(いま)となつては将軍(せうぐん)の上洛(じやうらく)も結局(けつきよく)無功(むこう)であると落胆(らくたん)し自(みづ)から       大津(おほつ)に於(おい)て上洛中(じやうらくちう)の将軍(せうぐん)を出迎(でむか)へ之(これ)に上諌(ぜうかん)して仮令(たとへ)参内(さんない)の上(うへ)攘夷(ぜうゐ)の詔勅(せうちよく)あるも容易(ようい)に之(これ)を奉戴(ほうたい)せず武(ぶ)       備(び)充実(ぢうじつ)の上(うへ)を期(き)せらるべし尚(なほ)それにても許可(きよか)なきに於(おい)ては征夷(せいゐ)の職(しよく)を辞退(じたい)さるゝより外(ほか)には致方(いたしかた)がな       かろうと云(い)ふ事(こと)を申述(もうしの)べたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)幕臣中(ばくしんちう)には真面目(まじめ)に叡慮(えいりよ)を遵奉(じゆんはう)し結局(けつきよく)攘夷(ぜうゐ)の功(かう)を奏(そう)す       べしと云(い)ふ思想(しそう)が満(み)ちて居(を)つたので慶永(よしなが)の諫言(かんげん)も寧(むし)ろ非難(ひなん)の的(まと)となつたのみで将軍(せうぐん)は遂(つひ)に入京(にうけう)の上(うへ)三       月七日を以(もつ)て参内(さんない)せられ親(した)しく攘夷(ぜうゐ)の勅旨(ちよくし)を奉戴(ほうたい)せられたのであるそこで慶永(よしなが)は殆(ほとん)ど手足(てあし)を満(お)く処(ところ)が       ない状態(ぜうたい)となつて辞職(じしよく)を申出(まうしい)でたのであるが之(これ)は将軍(せうぐん)も聞(き)き入(い)れなかつたのみならず叡慮(えいりよ)も亦(ま)た聞(きこ)し       給(たま)はなかつたので浪士(らうし)からは極端(きよくたん)なる攻撃(こうげき)を受(う)けると云(い)ふ訳(わけ)であつたが一 方(ぱう)には攘夷(ぜうゐ)の期限(きげん)を迫(せま)らる 《割書:慶永私かに|国に就く》  ゝと云(い)ふ一 大困難(だいこんなん)にも遭遇(そうぐう)したので慶永(よしなが)は遂(つひ)に三月廿一日に至(いた)つて私(ひそ)かに京師(けいし)を脱(だつ)して帰藩(きはん)するに至(いた)       つたのであるサテ将軍(せうぐん)の上洛(じやうらく)は二月の十三日に江戸(えど)を発(はつ)し東海道(とうかいどう)を通過(つうくわ)して三月四日 入洛(にうらく)の上(うへ)二 条城(ぜうぜう)       に入(い)つたのであつたが此(この)吉田(よしだ)に一 泊(ぱく)せられたのは二月廿五日で其(その)上洛(じやうらく)日記(につき)によると 《割書:将軍吉田通|過の日記》   廿五日、浜松駅御発駕、吉田駅龍拈寺御着、六半時比浜松御出立篠原村並舞坂宿にて御小休有之同        所にて少々御猶予松平伊豆守より為御馳走差出候御舟にて新居御渡海同所にて御昼休有之白須賀宿 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        本陣二川宿本陣にて御小休七時比御泊吉田駅龍拈寺え着御        廿六日、吉田駅御出立岡崎宿着御        六半時同所御出立       と記(しる)してあるのである之(これ)も一寸(ちよつと)此処(こゝ)に付(つ)け加(くわ)へて申述(まうしの)べて置(お)くのである       サテ前(まへ)に申述(まうしの)べたる如(ごと)く将軍(せうぐん)は上洛(じやうらく)の上(うへ)三月七日を以(もつ)て参内(さんだい)し叡慮(えいりよ)を伺(うかゞ)つたのであるが之(これ)に対(たい)して賜(たまは)       つたる勅書(ちよくしよ)の大要(たいえう)は弥(いよ〳〵)以(もつ)て叡慮(えいりよ)を遵奉(じゆんはう)して君臣(くんしん)の名分(めいぶん)を正(たゞ)し闔国(かふこく)一 致(ち)攘夷(ぜうゐ)の成功(せいこう)を奏(そう)し人心(じんしん)帰服(きふく)の処(しよ)       置(ち)有之(これある)べく国事(こくじ)に就(つい)ては事柄(ことがら)によりては直(たゞ)ちに諸藩(しよはん)へ御沙汰(ごさた)在(あ)らせらるゝ間(あひだ)兼(かね)て御沙汰(ごさた)成(な)され置(お)かれ       候(そろ)と云(い)ふのであるソコで慶喜(よしのぶ)から此(この)国事(こくじ)云々(うんぬん)に付(つい)て更(さら)に伺書(うかゞいしよ)を出(いだ)したのであるが之(これ)等(ら)によつて見(み)るも       幕府(ばくふ)の実権(じつけん)と云(い)ふものは自然(しぜん)の間(あひだ)に消退(せうたい)し今(いま)や将軍(せうぐん)としての実力(じつりよく)は殆(ほとん)ど之(こ)れなきまでに至(いた)つたものと       見(み)るべきであると思(おも)ふ事実(じゞつ)既(すで)に此(かく)の如(ごと)きを以(もつ)て京神(けうしん)は勿論(もちろん)有志(ゆうし)の士(し)にありては眼中(がんちう)既(すで)に幕府(ばくふ)と云(い)ふも 《割書:倒幕の計画|漸く行はれ|んとす》  のはなく之迄(これまで)尊王攘夷(そんわうぜうゐ)の旗幟(きしき)であつたものも忌憚(きたん)なく尊王(そんわう)倒幕(とうばく)を計画(けいくわく)するような事(こと)に立至(たちいた)つたのであ       るが試(こゝろ)みに当時(たうし)の人心(じんしん)を考察(こうさつ)して見(み)ると先(ま)づ開港論者(かいかうろんしや)の中(なか)に於(おい)ても立派(りつぱ)に万国(ばんこく)交通(こうつう)の利(り)を認(みと)め且(か)つ時(じ) 《割書:開港論者と|攘夷論者の|種類》  勢上(せうでう)当然(たうぜん)の処置(しよち)であると云(い)ふ事(こと)を信(しん)じて熱心(ねつしん)に之(これ)を主張(しゆてう)する所謂(いはゆる)具眼(ぐがん)の人(ひと)もあるが中(なか)には一 時(じ)を瞞過(まんくわ)       して他日(たじつ)兵備(へいび)の整(とゝの)つたる時期(じき)を待(ま)ち然(しか)る後(のち)徐(おもむろ)に之(これ)を拒絶(きよぜつ)せむとする意見(いけん)の人(ひと)も少(すくな)くないけれども前(まへ)に       も申述(まうしの)べたる如(ごと)く当時(たうじ)にありては正々堂々(せい〳〵どう〴〵)と此(この)開国論(かいこくろん)を唱導(せうどう)する人(ひと)は極(きは)めて少数(せうすう)で天下(てんか)の大勢(たいせい)と云(い)ふ       ものは滔々(たう〳〵)として殆(ほとん)ど攘夷論者(ぜうゐろんしや)の持切(もちき)りであつたのであるモツトモ攘夷論者(ぜうゐろんしや)としても真面目(まじめ)に外国人(がいこくじん)       を以(もつ)て夷狄(ゐてき)となし彼等(かれら)をして神国(しんこく)を踏(ふ)ましむるのは恥辱(ちじよく)であると云(い)ふ最(もつと)も頑冥(がんめい)なる論者(ろんしや)もあるが外国(がいこく)       人(じん)の目的(もくてき)が国土(こくど)併呑(へいどん)にあると云(い)ふのを恐(おそ)れて初(はじ)めより之(これ)と交(まぢわ)らざるのが良策(れうさく)であると心得(こゝろえ)て居(を)る人(ひと)も 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                     五百卅九  

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百三十八 【本文】       のである。これ等はまた後章に詳述する考えである。       このような場合は将軍家茂はいよいよ上洛することとなったのであるが、二月十九日、慶喜、慶永、容保、容堂等は会合の席において時事を議し、結局今日の弊害は政令が二つに分かれることにあるから、宜しく幕府をして政権を朝廷に返上させるか、然らざれば朝廷が更に政権を幕府に専任させるかでなければならないという意見で一致して、二十一日政令帰一の議を慶喜から関白に促したのであるが、これも勿論のことながら埒の明くことではなく、慶永のようなものは殆ど最初の見込みが食い違ったところから、今となっては将軍の上洛も結局無功であると落胆し、自ら大津において上洛中の将軍を出迎え、これに上諫して、たとえ参内の上攘夷の詔勅があっても容易にこれを奉戴せず武備充実の上を期されるべし、尚それでも許可なきにおいては征夷の職を辞退されるより外には致し方がなかろうということを申し述べたのである。然るにその頃幕臣中には真面目に叡慮を遵奉し結局攘夷の功を奏すべしという思想が満ちていたので、慶永の諫言も寧ろ非難の的となったのみで、将軍は遂に入京の上三月七日をもって参内され、親しく攘夷の勅旨を奉戴されたのである。そこで慶永は殆ど手の打ちようがない状態となって辞職を申し出でたのであるが、これは将軍も聞き入れなかったのみならず叡慮もまた聞き給わなかったので、浪士からは極端なる攻撃を受けるという訳であったが、一方には攘夷の期限を迫られるという一大困難にも遭遇したので、慶永は遂に三月二十一日に至って私かに京師を脱して帰藩するに至ったのである。       さて将軍の上洛は二月の十三日に江戸を発し東海道を通過して三月四日入洛の上二条城に入ったのであったが、この吉田に一泊されたのは二月二十五日で、その上洛日記によると        二十五日、浜松駅御発駕、吉田駅龍拈寺御着、六半時比浜松御出立篠原村並舞坂宿にて御小休有之同所にて少々御猶予松平伊豆守より為御馳走差出候御舟にて新居御渡海同所にて御昼休有之白須賀宿 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        本陣二川宿本陣にて御小休七時比御泊吉田駅龍拈寺へ着御        二十六日、吉田駅御出立岡崎宿着御        六半時同所御出立       と記してあるのである。これも一寸ここに付け加えて申し述べて置くのである。       さて前に申し述べたように将軍は上洛の上三月七日をもって参内し叡慮を伺ったのであるが、これに対して賜った勅書の大要は、いよいよもって叡慮を遵奉して君臣の名分を正し闔国一致攘夷の成功を奏し人心帰服の処置これあるべく、国事については事柄によっては直ちに諸藩へ御沙汰在らせられる間兼ねて御沙汰成され置かれ候ということである。そこで慶喜からこの国事云々について更に伺書を出したのであるが、これ等によって見ても幕府の実権というものは自然の間に消退し、今や将軍としての実力は殆どこれなきまでに至ったものと見るべきであると思う。事実既にこのようであることをもって、京神は勿論有志の士にありては眼中既に幕府というものはなく、これまで尊王攘夷の旗印であったものも憚りなく尊王倒幕を計画するようなことに立ち至ったのである。       しかし試みに当時の人心を考察してみると、まず開港論者の中においても立派に万国交通の利を認め且つ時勢上当然の処置であるということを信じて熱心にこれを主張するいわゆる具眼の人もあるが、中には一時を瞞過して他日兵備の整った時期を待ち然る後徐ろにこれを拒絶せんとする意見の人も少なくないけれども、前にも申し述べたように当時にありては正々堂々とこの開国論を唱導する人は極めて少数で、天下の大勢というものは滔々として殆ど攘夷論者の独壇場であったのである。もっとも攘夷論者としても真面目に外国人を夷狄となし彼等をして神国を踏ませるのは恥辱であるという最も頑迷な論者もあるが、外国人の目的が国土併呑にあるということを恐れて初めよりこれと交わらざるのが良策であると心得ている人も 【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百三十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 538 **Main Text:**       These matters will be detailed in later chapters.       In such circumstances, Shogun Iemochi finally proceeded with his journey to Kyoto. On February 19th, Yoshinobu, Yoshinaga, Katamori, Yōdō and others met to discuss current affairs, ultimately agreeing that today's problems stemmed from political orders emanating from two sources, so the shogunate should either return political power to the court, or the court should entrust political power exclusively to the shogunate. On the 21st, Yoshinobu urged the regent to consider unifying governmental authority, but this naturally came to nothing. Figures like Yoshinaga became discouraged, as their initial expectations had been thwarted, believing the shogun's journey to Kyoto would ultimately prove fruitless. He personally went out to meet the shogun at Ōtsu during his journey to the capital and advised him that even if imperial edicts for expelling foreigners were issued after his court audience, he should not readily accept them but should wait until military preparations were complete. If this was still not permitted, he suggested the shogun should have no choice but to resign from his position as barbarian-subduing generalissimo. However, at that time the shogunal retainers were filled with the conviction that they should sincerely obey imperial will and ultimately achieve success in expelling foreigners, so Yoshinaga's remonstrations only became targets of criticism. The shogun finally entered Kyoto and on March 7th had an audience with the emperor, personally receiving the imperial edict regarding expulsion of foreigners. At this point Yoshinaga found himself in an impossible situation and submitted his resignation, but the shogun would not accept it, nor would imperial will permit it. While receiving extreme attacks from masterless samurai, he also faced the great difficulty of being pressed for deadlines on foreign expulsion, so Yoshinaga finally secretly fled the capital on March 21st and returned to his domain.       The shogun's journey to the capital began with his departure from Edo on February 13th, traveling the Tōkaidō route and entering Kyoto on March 4th to take residence at Nijō Castle. He stayed one night in Yoshida on February 25th, and according to his journey diary:        25th day: Departed Hamamatsu station, arrived at Ryūnen-ji temple in Yoshida station. Around 6:30, departed Hamamatsu, took brief rest at Shinohara village and Maisaka post station, delayed slightly there. Crossed to Arai by boat provided as hospitality by Matsudaira Izu-no-kami, had lunch there, [continued to] Shirasuka post station **Margin:** Toyohashi City Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published weekly (Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper **Main Text:**        main inn, brief rest at Futagawa post station main inn, arrived and lodged around 7 o'clock at Ryūnen-ji temple in Yoshida station        26th day: Departed Yoshida station, arrived at Okazaki post station        Departed same location at 6:30       This is recorded as such. I briefly add and mention this here as well.       As mentioned before, after arriving in Kyoto, the shogun had an audience with the emperor on March 7th to inquire about imperial will. The main points of the imperial edict received in response were: to increasingly obey imperial will, correct the proper relationships between lord and retainer, achieve success in national unity for expelling foreigners, and establish measures for people's allegiance. Regarding national affairs, depending on the matter, direct communications would be sent to various domains, so prior notifications should be prepared. Yoshinobu then submitted further inquiries regarding these national affairs, but from these developments it can be seen that the shogunate's real power naturally declined, and the shogun's actual authority had now reached the point of being almost nonexistent. With facts already being as such, not only court nobles but also activist samurai no longer considered the shogunate relevant, and what had been the banner of "revere the emperor, expel the barbarians" now unhesitatingly evolved into planning "revere the emperor, overthrow the shogunate."       However, examining the mindset of the time, among those favoring opening ports there were indeed far-sighted individuals who properly recognized the benefits of international commerce and earnestly advocated this position, believing it to be the natural course given contemporary circumstances. Others held the view of temporarily deceiving [foreigners] while waiting for military preparations to be completed before gradually rejecting them. But as mentioned before, those who openly and forthrightly advocated opening the country were extremely few in number at the time, and the general trend throughout the realm was overwhelmingly dominated by expulsion advocates. Among the expulsion advocates, some were the most obstinate theorists who seriously considered foreigners as barbarians and viewed allowing them to tread on the sacred land as shameful, while others believed that since foreigners' goal was territorial annexation, the best policy was to avoid relations with them from the beginning. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 539