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【欄外】
豊橋市史談 (攘夷党の極盛と其蹉跌) 五百四十
【本文】
あるソウかと云(い)ふと交通(つうかう)の止(やむ)を得(え)ざる事(こと)は百も承知(せうち)であるが結局(けつきよく)幕府(ばくふ)を困(くるし)むる一つの手段(しゆだん)として何処(どこ)
迄(まで)も攘夷(ぜうゐ)を迫(せま)ると云(い)ふ一 種(しゆ)の政策(せいさく)に之(これ)を用(もち)ゐて居(を)るものもある就中(なかんづく)只管(ひたすら)叡慮(えいりよ)が攘夷(ぜうゐ)にあると云(い)ふのを
信(しん)じて何処迄(どこまで)も勤王(きんわう)は攘夷(ぜうゐ)にありと思惟(しゐ)し之(これ)に熱中(ねつちう)して他(た)を顧(かへり)みるに遑(いとま)なきものが又(ま)た決(けつ)して少(すくな)から
ぬ次第(しだい)である兎(と)に角(かく)当時(たうじ)の人心(じんしん)は千 差万別(さまんべつ)であるのみならず時(とき)によつて同(どう)一 人(にん)でも其(その)意志(いし)に変化(へんくわ)があ
るし又(ま)た同(おな)じ言葉(ことば)にも意味(いみ)の変化(へんくわ)が生(せう)じて来(き)た事(こと)も少(すくな)くないと云(い)ふ訳(わけ)で其(その)内容(ないえう)を考究(こうきう)して見(み)れば同(おな)じ
尊王攘夷論(そんわうぜうゐろん)にも幾種類(いくしゆるい)もあつた事(こと)は疑(うたがひ)なき処(ところ)であるが要(えう)するに之(これ)等(ら)の攘夷論者(ぜうゐろんしや)は一 団(だん)となり其(その)実行(じつかう)を
上下(ぜうげ)からあらゆる手段(しゆだん)を以(もつ)て幕府(ばくふ)に肉迫(にくはく)したものであるから将軍(せうぐん)も到底(たうてい)京都(けうと)に居(ゐ)たゝまらなくなつて
再(さい)三 帰府(きふ)の事(こと)を願(ねが)ひ出(い)でたのであるが勅命(ちよくめい)を以(もつ)て之(これ)を留(とゞ)められたので頗(すこぶ)る苦(くるし)むだ事情(じぜう)があつたのであ
る
《割書:加茂並に男|山行幸》 かゝる有様(ありさま)であつたが其(その)間(あひだ)に又(ま)た一つの難事(なんじ)が起(おこ)つた話(はなし)は彼(か)の加茂(かも)並(ならび)に男山(おとこやま)の行幸(げふこう)であつた此(この)加茂(かも)行(げう)
幸(こう)と云(い)ふ事(こと)は初(はじ)め長州(てうしう)から建白(けんぱく)した事(こと)であつたが三月十一日イヨ〳〵之(これ)を決行(けつこう)せらるゝ事(こと)に仰出(おほせいだ)され
て在京中(ざいけうちう)の将軍(せうぐん)初(はじ)めにも供奉(ぐぶ)を命(めい)ぜられたのである要(えう)するに之(これ)は攘夷(ぜうゐ)の御祈祷(ごきとう)の為(ため)であるから将軍(せうぐん)を
初(はじ)め幕閣(ばくかく)のものとしては誠(まこと)に苦(くる)しい事(こと)であるし且(かつ)は将軍(せうぐん)が諸(しよ)縉紳(しんし)並(ならび)に他(た)の諸侯(しよこう)と共(とも)に供奉(ぐぶ)すると云(い)ふ
事(こと)は其(その)立場(たちば)からも困難(こんなん)な処(ところ)であるから閣老(かくらう)等(ら)は出来得(できう)る丈(だけ)其(その)煩(わづらひ)を避(さ)けむとしたのであるが如何(いかん)せむ之(これ)
も辞(じ)し難(がた)い事(こと)と相成(あひな)つて遂(つひ)に一 同(どう)供奉(ぐぶ)に加(くわ)はる事(こと)となつたのである然(しか)るに四月五日に至(いた)つて又々(また〳〵)男山(をとこやま)
行幸(げよこう)を仰出(おゝせいだ)されたのであるが之(これ)も長藩(てうはん)の画策(ぐわくさく)から出(い)でた事(こと)で今度(こんど)は神前(しんぜん)に於(おい)て天皇(てんのう)親(みづか)ら攘夷(ぜうゐ)の節刀(せつたう)を
将軍(せうぐん)に御授(おさづ)けになると云(い)ふ順序(じゆんじよ)になつて居(を)るのでサア幕閣(ばくかく)の優苦(ゆうく)と云(い)ふものは一 方(かた)ならざりし次第(しだい)で
ある当時(たうじ)は御承知(ごせうち)の生麦事件(なまむぎじけん)即(すなは)ち島津久光(しまづひさみつ)が副使(ふくし)として上京(ぜうけう)せし帰途(きと)生麦(なまむぎ)に於(おい)て英人(えいじん)を斬(き)つたと云(い)ふ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千五百四十三号附録 (大正二年十二月十六日発行)
【本文】
事件(じけん)で英国(えいこく)からは厳談(げんだん)を持込(もちこ)まれつゝあると云(い)ふ場合(ばあひ)でソレやこれやで幕府(ばくふ)の驚駭(けうがい)は一 層(そう)であつたの
である此(こゝ)に於(おい)て将軍(しやうぐん)家茂(いへしげ)は遂(つひ)に男山(おとこやま)行幸(げうかう)の当日(たうじつ)(四月十一日)病(やまひ)と称(しよう)して供奉(ぐぶ)を辞(じ)するに至(いた)つたのであ
るが之(これ)に代(かは)つて勅旨(ちよくし)を拝受(はいじゆ)すべき慶喜(よしのぶ)も亦(ま)た急病(きうびやう)と称(しよう)して辞(じ)するに至(いた)つたので縉紳(しん〳〵)並(ならび)に有志(いうし)の間(あひだ)には
益(ます〳〵)幕府(ばくふ)攻撃(こうげき)の気焔(きえん)を高(たか)めたる次第(しだい)であるかくて時勢(じせい)は益(ます〳〵)急激(きうげき)なる要求(えうきう)をなすに至(いた)つて将軍(せうぐん)は遂(つひ)に
《割書:将軍遂に攘|夷期限を奏|上す》 四月廿日 攘夷(ぜうゐ)期限(きげん)を奉答(ほうたう)し来(きた)る五月十日を以(もつ)て相違(さうゐ)なく外交(ぐわいかう)を拒絶(きよぜつ)致(いた)しますと云(い)ふ実(じつ)に確信(かくしん)もなき事(こと)
慶喜の東下 を東下(とうか)せしめて拒絶(きよぜつ)談判(だんぱん)を諸外国(しよぐわいこく)に向(むかつ)て開始(かいし)せしめたのであるが此(この)時(とき)慶喜(よしのぶ)は後見職(こうけんしよく)を免(めん)じて外交(ぐわいかう)拒絶(きよぜつ)
談判(だんぱん)委員(ゐゝん)となり将軍(しやうぐん)補佐(ほさ)としては尾張慶勝(をはりよしかつ)が命(めい)ぜられ又(ま)た肥前(ひぜん)の鍋島閑叟(なべしまかんそう)は文武(ぶんぶ)総裁(そうさい)に任(にん)ぜられ姫路(ひめぢ)
の酒井忠績(さかゐたゞつぐ)が大老格(たいらうかく)を拝命(はいめい)したのであるが慶喜(よしのぶ)は寧(むし)ろ此(この)際(さい)己(おの)れの為(ため)にも之(これ)は便(べん)なりとして其(その)廿二日 京(けう)
《割書:将軍大阪城|に入り更に》 都(と)を出発(しゆつぱつ)して東帰(とうき)するに至(いた)つたのである而(しか)して将軍(しやうぐん)も亦(ま)た廿一日を以(もつ)て京都(けうと)を発(はつ)し男山(おとこやま)に詣(もう)して其(その)夕(ゆう)
《割書:摂海を巡視|す》 大阪城(おほさかじやう)に入(い)つたのであるが此(この)時(とき)信古(のぶひさ)始(はじ)め地役(ぢやく)布衣以上(ふいゝぜう)のもの並(ならび)に先着(せんちやく)の輩(やから)は京橋口(けうばしぐち)まで出迎(でむか)へ信古(のぶひさ)等(ら)
は直(たゞち)に登城(とじやう)して拝謁(はいゑつ)したのであるが上洛(じやうらく)日記(につき)によれば「御城代(ごじやうだい)は於御対面所前廊下謁相済(ごたいめんじよまへらうかにおいてえつあひすみ)」とあり又(ま)た
一時服六 松 平 伊 豆 守
当表江被為成候に付被下之
とあるのであるそれより将軍(しやうぐん)は船(ふね)に乗(の)つて摂海(せつかい)の防備(ぼうび)を見(み)堺(さかい)を経(へ)紀州(きしう)の加太浦(かたうら)に着(ちやく)したが五月十一日
《割書:生麦事件と|小笠原図書|頭》 を以(もつ)て一先(ひとま)ず帰京(きけう)し海岸(かいがん)防備(ぼうび)の実情(じつぜう)を奏上(さうじやう)したのである此(この)頃(ころ)幕府(ばくふ)に於(おい)ては例(れい)の生麦事件(なまむぎじけん)で閣老(かくらう)の小笠(をがさ)
原図書頭長行(はらづしよのかみながゆき)が英国(えいこく)との談判(だんぱん)を重(かさ)ねたのであるが到底(とうてい)彼(か)の要求(えうきう)を拒絶(きよぜつ)する訳(わけ)には行(ゆ)き兼(か)ぬると云(い)ふの
で先(ま)づ其(その)要求(えうきう)は要求(えうきう)として須(すべか)らく賞金(しようきん)を与(あた)へ而(しか)して後(のち)一 方(はう)に通商(つうせう)拒絶(きよぜつ)の談判(だんぱん)に及(およ)ぶべきであると云(い)ふ
【欄外】
豊橋市史談 (攘夷党の極盛と其蹉跌) 五百四十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折) 五百四十
【本文】
ある。そうかといえば交通の止むを得ないことは百も承知であるが、結局幕府を困らせる一つの手段として何処までも攘夷を迫るという一種の政策にこれを用いているものもある。就中、ひたすら叡慮が攘夷にあるということを信じて、何処までも勤王は攘夷にありと思い、これに熱中して他を顧みる暇もないものがまた決して少なからぬ次第である。とにかく当時の人心は千差万別であるのみならず、時によって同一人でもその意志に変化があるし、また同じ言葉にも意味の変化が生じてきたことも少なくないという訳で、その内容を考究してみれば同じ尊王攘夷論にも幾種類もあったことは疑いないところであるが、要するにこれ等の攘夷論者は一団となり、その実行を上下からあらゆる手段をもって幕府に肉迫したものであるから、将軍も到底京都に居たたまらなくなって再三帰府のことを願い出たのであるが、勅命をもってこれを留められたので頗る苦しむ事情があったのである。
このような有様であったが、その間にまた一つの難事が起こった話は、あの加茂並びに男山の行幸であった。この加茂行幸ということは初め長州から建白したことであったが、三月十一日いよいよこれを決行されることに仰せ出されて、在京中の将軍初めにも供奉を命じられたのである。要するにこれは攘夷の御祈祷のためであるから、将軍を初め幕閣のものとしては誠に苦しいことであるし、かつは将軍が諸縉紳並びに他の諸候と共に供奉するということは、その立場からも困難なところであるから、閣老等は出来得る丈その煩いを避けんとしたのであるが、如何せん、これも辞し難いこととなって遂に一同供奉に加わることとなったのである。然るに四月五日に至ってまたまた男山行幸を仰せ出されたのであるが、これも長藩の画策から出たことで、今度は神前において天皇親ら攘夷の節刀を将軍に御授けになるという順序になっているので、さあ幕閣の憂苦というものは一方ならざりし次第である。当時は御承知の生麦事件、即ち島津久光が副使として上京せし帰途、生麦において英人を斬ったという
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千五百四十三号附録 (大正二年十二月十六日発行)
【本文】
事件で英国からは厳談を持ち込まれつつあるという場合で、それやこれやで幕府の驚骸は一層であったのである。ここにおいて将軍家茂は遂に男山行幸の当日(四月十一日)病と称して供奉を辞するに至ったのであるが、これに代わって勅旨を拝受すべき慶喜もまた急病と称して辞するに至ったので、縉紳並びに有志の間には益々幕府攻撃の気焔を高めた次第である。かくて時勢は益々急激なる要求をなすに至って、将軍は遂に四月二十日攘夷期限を奉答し、来る五月十日をもって相違なく外交を拒絶致しますという実に確信もなきことを奏上し、慶喜を東下させて拒絶談判を諸外国に向かって開始させたのであるが、この時慶喜は後見職を免じて外交拒絶談判委員となり、将軍補佐としては尾張慶勝が命じられ、また肥前の鍋島閑叟は文武総裁に任じられ、姫路の酒井忠績が大老格を拝命したのであるが、慶喜はむしろこの際己れのためにもこれは便なりとして、その二十二日京都を出発して東帰するに至ったのである。そして将軍もまた二十一日をもって京都を発し男山に詣でてその夕大阪城に入ったのであるが、この時信古始め地役布衣以上のもの並びに先着の輩は京橋口まで出迎え、信古等は直ちに登城して拝謁したのであるが、上洛日記によれば「御城代は於御対面所前廊下謁相済」とあり、また
一時服六 松 平 伊 豆 守
当表江被為成候に付被下之
とあるのである。それより将軍は船に乗って摂海の防備を見、堺を経て紀州の加太浦に着したが、五月十一日をもって一先ず帰京し、海岸防備の実情を奏上したのである。この頃幕府においては例の生麦事件で閣老の小笠原図書頭長行が英国との談判を重ねたのであるが、到底彼の要求を拒絶する訳には行き兼ぬるということで、先ずその要求は要求として須らく償金を与え、そして後一方に通商拒絶の談判に及ぶべきであるという
【欄外】
豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折) 五百四十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 540
**Main Text:**
Others fully understood that foreign commerce was inevitable, but used the expulsion argument as a political strategy to pressure the shogunate. Particularly, there were many who believed that imperial will favored expulsion and thought that loyalty to the emperor meant advocating expulsion, becoming so absorbed in this cause that they had no time to consider other matters. In any case, public opinion at the time was extremely diverse, and not only did the same individual's views change over time, but the meaning of the same words also evolved. When examining the content of these positions, there were undoubtedly several varieties of "revere the emperor, expel the barbarians" arguments. In essence, these expulsion advocates united as a group and pressed the shogunate from all directions using every possible means to implement their policy. The shogun found it impossible to remain in Kyoto and repeatedly requested permission to return to Edo, but was detained by imperial command, creating extremely difficult circumstances.
Such was the situation when another difficult matter arose - the imperial visits to Kamo Shrine and Mount Otoko. The proposal for the Kamo visit originally came from Chōshū domain, but on March 11th it was officially decreed that this would be carried out, and the shogun, who was staying in Kyoto, was also commanded to join the imperial procession. Since this was essentially for prayers regarding expulsion of foreigners, it was truly distressing for the shogun and shogunal councilors, and having the shogun accompany the procession alongside court nobles and other daimyo was problematic given his position. The senior councilors tried to avoid this burden as much as possible, but it proved impossible to decline, and eventually everyone had to join the procession. Then on April 5th, another imperial visit to Mount Otoko was announced. This also arose from Chōshū's scheming, and this time the sequence would involve the emperor personally bestowing a ceremonial sword for expelling foreigners to the shogun before the shrine. The distress of the shogunal government was thus immense. At this time, as you know, there was the Namamugi Incident - the case where Shimazu Hisamitsu, while returning from his mission to Kyoto as deputy envoy, had Englishmen cut down at Namamugi.
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyō Printing Company, 48 Konya-chō, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper No. 4543 Supplement (Published December 16, Taishō 2 [1913])
**Main Text:**
The incident had Britain pressing stern demands, and with this and other matters, the shogunate's alarm was all the greater. At this point, Shogun Iemochi finally claimed illness on the day of the Mount Otoko imperial visit (April 11th) and declined to participate in the procession. Yoshinobu, who was to receive the imperial edict in his place, also claimed sudden illness and declined, which further inflamed the attacks on the shogunate among court nobles and activists. With circumstances becoming increasingly urgent in their demands, the shogun finally responded regarding the expulsion deadline on April 20th, declaring that foreign relations would definitely be severed on May 10th - a statement made without real conviction. He sent Yoshinobu east to begin rejection negotiations with foreign countries. At this time, Yoshinobu was relieved of his position as guardian and became commissioner for foreign rejection negotiations. Owari Yoshikatsu was appointed as shogunal assistant, Nabeshima Kansō of Hizen was appointed general supervisor of civil and military affairs, and Sakai Tadatsugu of Himeji received the rank of senior elder. Yoshinobu, considering this advantageous for his own position, departed Kyoto on the 22nd and returned east. The shogun also left Kyoto on the 21st, visited Mount Otoko, and entered Osaka Castle that evening. At this time, Nobuhisa and others of布衣 rank and above, along with those who had arrived earlier, went out to meet him at Kyōbashi gate. Nobuhisa and others immediately entered the castle for an audience. According to the journey to Kyoto diary, it states "The castle commander completed his audience in the corridor before the audience hall," and also:
One ceremonial robe, six Matsudaira Izu-no-kami
Bestowed in connection with his service at this post
From there, the shogun boarded a ship to inspect coastal defenses in the Settsu Sea, passed through Sakai, and arrived at Katanoura in Kishū province. On May 11th he returned to Kyoto and reported on the actual conditions of coastal defenses. Around this time, regarding the aforementioned Namamugi Incident, senior councilor Ogasawara Zusho-no-kami Nagayuki conducted repeated negotiations with Britain, but concluded that their demands could not possibly be rejected. The policy was to first provide the compensation they demanded, then proceed with negotiations to reject commercial relations.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 541