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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 285

ページ: 285

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百四十二 【本文】       意見(いけん)から其(その)事(こと)を関白(くわんぱく)まで上申(じやうしん)したのであるトコロが国事係(こくじかゝり)等(ら)に於(おい)ては幕府(ばくふ)の此(この)処置(しよち)は朝廷(ちやうてい)に於(お)ける攘(ぜう)       夷(ゐ)の御主旨(ごしゆし)を蔑如(べつぢよ)したもので不問(ふもん)に付(ふ)する訳(わけ)に行(ゆ)かぬと云(い)ふので遂(つひ)に関白(くわんぱく)から詰問書(きつもんしよ)を発(はつ)せられる事(こと)       に成(な)つたのであるソコで幕府(ばくふ)に於(おい)ても表面(へうめん)は朝廷(ちやうてい)に対(たい)して償金(しようきん)を出(だ)さぬ事(こと)に繕(つくろ)つたが其(その)実(じつ)は之(これ)を支払(しはら)       つて罪(つみ)を当事者(たうじしや)たる小笠原図書頭(をがさはらづしよのかみ)に稼(か)し其(その)専断(せんだん)を責(せ)むる事(こと)にしたのである然(しか)るに此(この)内情(ないじやう)が又(ま)た国事係(こくじかゝり)       の知(し)る処(ところ)となつたので遂(つひ)に幕府(ばくふ)は譴責(けんせき)せらるゝと云(い)ふ事(こと)に立至(たちいた)つて又々(また〳〵)一 混雑(こんざつ)を生(せう)じたのであるが       其(その)結果(けつくわ)小笠原図書頭(をがさはらづしよのかみ)は五月十九日を以(もつ)て兵(へい)を率(ひき)ひて江戸(えど)を発(はつ)し海路(かいろ)密(ひそか)に西上(せいじやう)の途(と)に就(つ)き何(な)にか画策(くわくさく)す       る処(ところ)があるべき様子(やうす)であつたのであるトコロが此(この)事(こと)は又々(また〳〵)京都(けうと)に聞(きこ)へて中々(なか〳〵)喧敷(やかま)しい事(こと)になつたので       将軍(しやうぐん)は自(みづか)ら此(この)図書頭(づしよのかみ)を処分(しよぶん)すべしと称(しよう)して六月九日 急(きう)に又(ま)た大阪(おほさか)に下(くだ)り海路(かいろ)着阪(ちやくはん)の図書頭(づしよのかみ)を度々(たび〳〵)城中(じやうちう)       に召喚(せうくわん)して会見(くわいけん)したのであるが其(その)結果(けつくわ)は九日を以(もつ)て図書頭(づしよのかみ)の老職(らうしよく)を免(めん)じ大阪城代(おほさかじやうだい)たる信古(のぶひさ)に預(あづ)けらる       ゝ事(こと)と相成(あひな)つたのであるかゝる苦(くる)しい処分(しよぶん)も之(これ)で先(ま)づ一 時(じ)落着(らくちやく)したのであるが将軍(しやうぐん)はそれから再(ふたゝ)び帰(き) 将軍の東帰 洛(らく)をせずして其(その)十三日を以(もつ)て大阪(おほさか)を発(はつ)し直(たゞ)ちに海路(かいろ)によりて江戸(えど)に帰(かへ)つて仕舞(しま)つたのである此(かく)の如(ごと)き       訳(わけ)で幕府(ばくふ)方(がた)の主(おも)なるものは追々(おひ〳〵)に東帰(とうき)したので今(いま)は何(なに)憚(はゞか)る処(ところ)もなく尊攘党(そんぜうたう)と云(い)ふものは愈(いよ〳〵)其(その)計画(けいくわく)を       進(すゝ)め遂(つひ)には攘夷(ぜうゐ)御親征(ごしんせい)を名(な)として其(その)実(じつ)は倒幕(とうばく)の軍(ぐん)を起(おこ)さむとするに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)第(だい)一 着手(ちやくしゆ)       として大和(やまと)行幸(げうかう)の事(こと)を奏上(さうじやう)するに至(いた)つたのであるが叡慮(えいりよ)の程(ほど)は果(はた)して之(これ)を容(いれ)し給(たま)ひしや否(いな)や恐(おそ)れ多(おほ)い       事(こと)ではあるが実(じつ)に疑問(ぎもん)となつて居(を)るのである且(かつ)又(また)其(その)可否(かひ)に就(つい)ても京都(けうと)に於(お)ける衆論(しうろん)は沸騰(ふつとう)したのであ       るが其(その)主動者(しゆどうしや)の位置(ゐち)にあるものは蓋(けだ)し長藩(てうはん)であつて結局(けつきよく)急激派(きうげきは)の計画(けいくわく)と云(い)ふものは益(ます〳〵)進行(しんかう)しつゝあ       つたのである此(こゝ)に於(おい)てか世(よ)は全(まつた)く少壮(せうさう)急激派(きうげきは)のものとなり老成温和(らうせいおんわ)なる意見(いけん)などは到底(とうてい)用(もち)ゐらるべく       もなく皇族(くわうぞく)の方々(かた〳〵)ですら温和説(おんわせつ)を懐(いだ)かるゝ時(とき)は邪魔物(じやまもの)の如(ごと)くに排斥(はいせき)され給(たま)ふと云(い)ふ勢(いきほひ)であるから公(く) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       卿(げう)も諸侯(しよこう)の執政(しつせい)も動(やゝ)もすれば白刃(はくじん)の恐嚇(けうくわく)を受(う)くると云(い)ふ始末(しまつ)で而(しか)も其(その)急激派(きうげきは)なるものゝ主張(しゆてう)する処(ところ)は 《割書:急激派の蹉|跌》  ドウであるかと云(い)へば其(その)多(おほ)くは空漠(くうばく)たる名分論(めいぶんろん)に過(す)ぎずして幕府(ばくふ)は政権(せいけん)を奪(うば)へる国賊(こくぞく)なり片時(かたとき)も早(はや)く       之(これ)を王室(わうしつ)に返(かへ)さゞるべからずと云(い)ふにあつたのである成程(なるほど)此(この)点(てん)は誠(まこと)に結構(けつこう)なる事(こと)とも云(い)ふべきである       が併(しか)し其(その)他(た)に何等(なんら)遠見(えんけん)卓識(たくしき)もなく従(したがつ)て如何(いか)にして当世(とうせい)を処理(しより)しようかと云(い)ふような経綸(けいりん)などのない       処(ところ)から此処(こゝ)に識者(しきしや)の同情(どうじやう)を失(うしな)ふ事(こと)となつて遂(つひ)に其(その)一 大失敗(だいしつぱい)を招(まね)くに至(いた)つたのは是非(ぜひ)もない次第(しだい)であつ       たのである 《割書:文久三年八|月十八日の|政変》  右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で流石(さすが)に之迄(これまで)横行(わうこう)憚(はゞか)る処(ところ)がなかつた急激派(きうげきは)も忽(たちま)ちにして一 大(だい)蹉跌(さてつ)を来(きた)したのであるがそ       れは即(すなは)ち彼(か)の有名(いうめい)なる八月十八日(文久(ぶんきう)三年)の政変(せいへん)である其(その)顛末(てんまつ)は十七日 中川宮(なかがはのみや)尊融親王が急(きう)に参内(さんだい)       あり何事(なにごと)をか奏上(そうじやう)せられたのであつたが叡慮(えいりよ)は兼(かね)てより大和(やまと)行幸(げうかう)御親征(ごしんせい)と云(い)ふ事(こと)を以(もつ)て時機(じき)にあらず       となさせられたものと見(み)へて直(たゞ)ちに宮(みや)に命(めい)じて大和(やまと)行幸(げうかう)を中止(ちうし)せしめ給(たまは)つたのであるソコで中川宮(なかゞはのみや)は       急(きう)に守護職(しゆごしよく)たる会津藩(あひづはん)並(ならび)に所司代(しよしだい)たる淀藩(よどはん)に命(めい)じて夜中(よなか)参内(さんだい)の上(うへ)禁闕(きんけつ)を守衛(しゆゑい)すべき旨(むね)を命(めい)ぜられ又(また)薩(さつ)       藩(はん)にも同様(どうやう)の命(めい)があつたのであるが此(この)各藩(かくはん)が参内(さんだい)して守衛(しゆえい)の部署(ぶしよ)の定(さだ)まつたのは十八日の暁方(あけがた)であつ       たのである因(よつ)て大砲(たいほう)一 発(ぱつ)総勢(そうぜい)の整備(せいび)を報(ほう)じ警戒(けいかい)最(もつと)も厳重(げんじう)であつたがやがて中川宮(なかがはのみや)から頃日(けいじつ)議奏(ぎさう)、国事(こくじ)       係(かゝり)、参政(さんせい)、寄人(よりんど)等(ら)は皆(みな)長藩(てうはん)の暴論(ばうろん)を信用(しんやう)し叡慮(えいりよ)にもあらざる義(ぎ)を矯(つよ)め過激(くわげき)粗暴(そばう)の所置(しよち)を行(おこな)はんとする       ことは逆鱗(ぎやくりん)少(すくな)からざる処(ところ)で苟(いやしく)も此(かく)の如(ごと)き非行(ひかう)を遂行(つひかう)せんとて上(かみ)に迫(せま)り奉(たてまつ)つと云(い)ふ事(こと)は不忠(ふちう)も亦(ま)た       甚(はなはだ)しきものであるとの意(い)を伝(つた)へられ大(おほい)に戒飾(かいしよく)する処(ところ)があつたのみならず従来(じうらい)堺町門(さかひまちもん)に屯集(とんしう)せる長藩(てうはん)       に対(たい)しても其(その)警衛(けいゑい)の任(にん)を解除(かいじよ)する旨(むね)を達(た)せられたのであるモツトモ朝廷(てうてい)に於(お)ける攘夷(ぜうゐ)の方針(ほうしん)と云(い)ふも       のは従前(じうぜん)と少(すこ)しの変(かは)る処(ところ)なく特(とく)に左(さ)の公布(こうふ)があつた程(ほど)である 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百四十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百四十二 【本文】       意見からそのことを関白まで上申したのである。ところが国事係等においては、幕府のこの処置は朝廷における攘夷の御主旨を軽視したもので不問に付するわけにはいかないということで、遂に関白から詰問書を発せられることになったのである。そこで幕府においても表面は朝廷に対して償金を出さないことに取り繕ったが、その実はこれを支払って罪を当事者たる小笠原図書頭に負わせ、その専断を責めることにしたのである。然るにこの内情がまた国事係の知るところとなったので、遂に幕府は譴責されるということに立ち至って、またまた一混乱を生じたのであるが、その結果小笠原図書頭は五月十九日をもって兵を率いて江戸を発し、海路密かに西上の途に就き、何か画策するところがあるべき様子であったのである。ところがこのことはまたまた京都に聞こえて中々やかましいことになったので、将軍は自らこの図書頭を処分すべしと称して六月九日急にまた大阪に下り、海路着阪の図書頭を度々城中に召喚して会見したのであるが、その結果は九日をもって図書頭の老職を免じ、大阪城代たる信古に預けられることとなったのである。かかる苦しい処分もこれで先ず一時落着したのであるが、将軍はそれから再び帰洛をせずして、その十三日をもって大阪を発し、直ちに海路によって江戸に帰ってしまったのである。このような訳で幕府方の主なるものは追々に東帰したので、今は何憚るところもなく尊攘党というものは愈々その計画を進め、遂には攘夷御親征を名として、その実は倒幕の軍を起こそうとするに至ったのである。そしてその第一着手として大和行幸のことを奏上するに至ったのであるが、叡慮の程は果たしてこれを容し給いしや否や、恐れ多いことではあるが実に疑問となっているのである。かつまたその可否についても京都における衆論は沸騰したのであるが、その主動者の位置にあるものは蓋し長藩であって、結局急激派の計画というものは益々進行しつつあったのである。ここにおいてか世は全く少壮急激派のものとなり、老成温和なる意見などは到底用いらるべくもなく、皇族の方々ですら温和説を懐かるる時は邪魔物のごとくに排斥され給うという勢いであるから、公 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博識なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       卿も諸侯の執政もややもすれば白刃の恐嚇を受けるという始末で、しかもその急激派なるものの主張するところはどうであるかといえば、その多くは空漠たる名分論に過ぎずして、幕府は政権を奪える国賊なり、片時も早くこれを王室に返さざるべからずということにあったのである。成程この点は誠に結構なることとも言うべきであるが、しかしその他に何等遠見卓識もなく、従って如何にして当世を処理しようかというような経綸などのないところから、ここに識者の同情を失うこととなって、遂にその一大失敗を招くに至ったのは是非もない次第であったのである。       右のような次第で、流石にこれまで横行憚るところがなかった急激派も忽ちにして一大挫折を来たしたのであるが、それは即ちあの有名なる八月十八日(文久三年)の政変である。その顛末は十七日中川宮尊融親王が急に参内あり、何事をか奏上されたのであったが、叡慮は兼ねてより大和行幸御親征ということをもって時機にあらずとなさせられたものと見えて、直ちに宮に命じて大和行幸を中止せしめ給うたのである。そこで中川宮は急に守護職たる会津藩並びに所司代たる淀藩に命じて夜中参内の上禁闕を守衛すべき旨を命じられ、また薩藩にも同様の命があったのであるが、この各藩が参内して守衛の部署の定まったのは十八日の暁方であったのである。よって大砲一発総勢の整備を報じ、警戒最も厳重であったが、やがて中川宮から、頃日議奏、国事係、参政、寄人等は皆長藩の暴論を信用し、叡慮にもあらざる義を矯め、過激粗暴の所置を行わんとすることは逆鱗少なからざるところで、苟もかくのごとき非行を遂行せんとて上に迫り奉るということは不忠もまた甚だしきものであるとの意を伝えられ、大いに戒飾するところがあったのみならず、従来堺町門に屯集せる長藩に対してもその警衛の任を解除する旨を達せられたのである。もっとも朝廷における攘夷の方針というものは従前と少しの変わるところなく、特に左の公布があった程である。 【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百四十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 542 **Main Text:**       Based on this opinion, the matter was reported up to the Kampaku (regent). However, the National Affairs officials considered the shogunate's handling of this matter to be a disregard for the court's fundamental policy of expelling foreigners, and concluded it could not be overlooked, so eventually a letter of inquiry was issued from the Kampaku. The shogunate then maintained the facade to the court that it would not pay compensation, but in reality paid it and placed the blame on the responsible party, Ogasawara Zusho-no-kami, censuring his arbitrary decision. However, when this internal situation also became known to the National Affairs officials, the shogunate found itself facing censure, creating yet another confusion. As a result, Ogasawara Zusho-no-kami departed Edo with troops on May 19th, secretly heading west by sea, apparently with some scheme in mind. But when this news also reached Kyoto, it became quite a troublesome matter. The shogun, claiming he would personally deal with this Zusho-no-kami, hurried down to Osaka again on June 9th, summoning the Zusho-no-kami who had arrived by sea repeatedly to the castle for meetings. The result was that on the 9th, the Zusho-no-kami was relieved of his senior counselor position and placed in the custody of Nobuhisa, the Osaka castle commander. This difficult punishment brought temporary resolution to the matter, but the shogun did not return to Kyoto; instead, on the 13th he departed Osaka and returned directly to Edo by sea. With the main shogunal officials gradually returning east, the sonnō-jōi party now faced no obstacles and increasingly advanced their plans, eventually reaching the point of plotting to raise an army for overthrowing the shogunate under the name of an imperial expedition to expel foreigners. As their first step, they petitioned for an imperial visit to Yamato province. Whether the imperial will truly accepted this is, though it may be presumptuous to say, genuinely questionable. Public opinion in Kyoto was also heated regarding its appropriateness, but those in the leading position were undoubtedly from Chōshū domain, and ultimately the radical faction's plans continued to advance. At this point, the world had completely become that of young radicals; mature and moderate opinions could not possibly be adopted, and even imperial family members who harbored moderate views were ostracized as obstacles. Thus public **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku, with his extensive knowledge and inexhaustible energy devoted to compiling the history of Toyohashi City for over a year, now as the manuscript nears completion **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper **Main Text:**       court nobles and domain administrators were liable to face threats of drawn swords. Moreover, what the radicals advocated was mostly vague arguments about proper hierarchy - that the shogunate were traitors who had usurped political power and must return it to the imperial house without a moment's delay. Certainly this point could be called quite admirable, but having no other farsightedness or wisdom, and thus no comprehensive plan for how to handle contemporary affairs, they lost the sympathy of knowledgeable people and inevitably brought about their great failure.       For these reasons, even the radical faction that had until then rampaged without restraint suddenly suffered a major setback - the famous political change of August 18th (Bunkyū 3rd year). The details are that on the 17th, Prince Nakagawa-no-miya Sonfushin urgently appeared at court and reported something. The imperial will had apparently long considered the timing inappropriate for an imperial expedition to Yamato, and immediately ordered the prince to cancel the Yamato visit. Prince Nakagawa then urgently commanded the Aizu domain (serving as Kyoto protector) and Yodo domain (serving as Kyoto deputy) to enter the palace during the night to guard the imperial quarters, with similar orders given to Satsuma domain. These domains entered the palace and took their guard positions at dawn on the 18th. A single cannon shot announced the completion of preparations for all forces, and security was extremely tight. Soon Prince Nakagawa conveyed that recently the议奏 (council of state), National Affairs officials, 参政 (government officials), and 寄人 (advisors) had all trusted Chōshū's violent arguments and were attempting to force through extreme and crude measures that were not in accordance with imperial will, which greatly angered His Majesty. To pressure the emperor with such misconduct represented the height of disloyalty. Not only was there great admonishment, but Chōshū domain, which had been stationed at Sakaimachi gate, was also relieved of its guard duties. Of course, the court's policy regarding expulsion of foreigners remained unchanged from before, as evidenced by the following special proclamation. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 543