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【欄外】
豊橋市史談 (攘夷党の極盛と其蹉跌) 五百四十四
【本文】
今般行幸延引被仰出候得共、於攘夷早々可遂成功候、依て勤王の緒藩不待幕府の示命、速可有
攘夷旨叡慮被仰出候
之(これ)は在京(ざいけう)の列藩(れつぱん)へも公布(こうふ)に相成(あひな)つたのであるが兎(と)に角(かく)前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)き政変(せいへん)と云(い)ふものは時(とき)に取(とつ)ての一 大変(だいへん)
化(くわ)で最(もつと)も動揺(どうえう)を来(きた)したのは長藩(てうはん)である今(いま)にも薩藩(さつはん)との間(あひだ)に銃火(じうくわ)を相交(あひまじ)へむとする勢(いきほひ)であつたが幸(さいはひ)に
双方(さうほう)に考(かんがへ)のある人(ひと)が居(を)つたことであるから無事(ぶじ)の間(あひだ)に長藩士(てうはんし)は堺町門(さかひまちもん)から大仏(だいぶつ)まで引上(ひきあ)げたのであ
《割書:長藩の京師|引き払ひ》 る此(この)時(とき)長州派(てうしうは)とも云(い)ふべき公卿(くげう)は矢張(やはり)鷹司家(たかつかさけ)に集合(しうがう)して救解(きうかい)せんとする処(ところ)があり勅旨(ちよくし)を之(これ)に伝(つた)へられ
ると云(い)ふような始末(しまつ)であつたが結局(けつきよく)長州藩(てうしうはん)に於(おい)ては一度(ひとたび)京都(けうと)を引払(ひきはら)つて本国(ほんこく)に帰(かへ)る事(こと)となり三 條実美(ぜうさねよし)
《割書:七卿の長州|落》 卿(けう)初(はじ)め御承知(ごしやうち)の七 卿(けう)は遂(つひ)に出奔(しゆつほん)して長崎(ながさき)に赴(おもむ)く事(こと)と相成(あひな)つたのである此日(このひ)吉田藩(よしだはん)も亦(ま)た京師(けうし)警衛(けいゑい)の命(めい)
を蒙(こうむ)つたのであるが大阪(おほさか)にありたるため遂(つひ)に十八日 変(へん)には参加(さんか)する事(こと)が出来(でき)なかつたのである
サテ右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)で長藩(てうはん)を首脳(しゆのう)とせし急激(きうげき)なる尊王攘夷党(そんわうぜうゐたう)と云(い)ふものは忽(たちま)ち京都(けうと)に於(お)ける勢力(せいりよく)を失(うしな)つた
のであるが之(これ)より先(さ)き大和(やまと)行幸(げうかう)の事(こと)が八月の十三日を以(もつ)て発表(はつぴやう)せらるゝや之(これ)が前駆(ぜんく)として先(ま)づ義(ぎ)を大(やま)
和(と)の地(ち)に唱(とな)へ同(どう)地方(ちほう)の形勢(けいせい)をして豫(あらかじ)め勤王(きんわう)主義(しゆぎ)たらしむべしと云ふ意見(いけん)から曩(さき)に朝廷(ちやうてい)を脱走(だつそう)せる中(なか)
山(やま)侍従(じじう)忠光(たゞみつ)を奉(ほう)じて団結(だんけつ)をしたのが御承知(ごしやうち)の藤本鉄石(ふぢもとてつせき)、松本奎堂(まつもとけいだう)、宍戸弥(しゝどや)四 郎(らう)等(ら)である而(しか)して其中(そのうち)松(まつ)
本(もと)、宍戸(しゝど)の如(ごと)きは三 河(かは)刈谷藩(かりやはん)の士(し)であつたのであるが之等(これら)の人々(ひと〳〵)は八月の十六日を以(もつ)て大阪(おほさか)から河内(かはち)
に入(い)りそれから大和(やまと)の十津川(とつがは)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へて尊王(そんわう)の大義(たいぎ)を大和平野(やまとへいや)に唱(とな)えむとしたのである之が即(すなは)ち
世(よ)に所謂(いはゆる)十津川浪士(とつがはらうし)の一 団(だん)であるが不幸(ふかう)な事(こと)には其(その)十八日には前(ぜん)申述(まうしの)ぶる如(ごと)く京都(けうと)には政変(せいへん)があつて
急激党(きうげきたう)は逆境(ぎやくけう)に陥(おちゐ)る事(こと)と相成(あひな)つたのみならず大和(やまと)行幸(げうかう)の事も俄(にはか)に中止(ちうし)せらるゝに至(いた)つたので此(この)団体(だんたい)と
云(い)ふものは忽(たちま)ち追討(つひとう)せらるべき運命(うんめい)と成(な)つて遂(つひ)に失敗(しつぱい)に終(おは)つたのである又(ま)た彼(か)の平野次郎国臣(ひらのじらうくにおみ)が七 卿(けう)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千五百六十三号附録 (大正三年一月十三日発行)
【本文】
生野の挙兵 中(ちう)の一 人(にん)たる澤宣嘉卿(さわのぶよしきよう)を奉(ほう)じて兵(へい)を生野銀山(いくのぎんざん)に挙(あ)げむとしたのも矢張(やはり)此(この)頃(ころ)であるが之(こ)れも亦(ま)た殆(ほとん)ど右(みぎ)
と同(おな)じ如(ごと)き理由(りゆう)で失敗(しつぱい)に終(をは)り国臣(くにおみ)はオメ〳〵遂(つひ)に捕縛(ほばく)せられ宣嘉卿(のぶよしきよう)も亦(ま)た行衛不明(ゆくゑふめい)と云(い)ふ事(こと)に相成(あひな)つ
たのである蓋(けだ)し従来(じうらい)急激党(きうげきたう)の人々(ひと〴〵)は多(おほ)く暗殺(あんさつ)暴行(ばうかう)と云(い)ふ訳(わけ)で其(その)志(こゝろざし)は前(ぜん)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く実(じつ)に勤王(きんわう)
に満(み)ちて居(を)るものが多(おほ)かつたが而(しか)も統(とう)一 的(てき)の挙動(きよどう)としては何等(なんら)見(み)るべきものがなかつたのである然(しか)る
に兎(と)に角(かく)十津川浪士(とつがはらうし)並(ならび)に生野(いくの)挙兵(きよへい)の事(こと)に至(いた)つては殆(ほとん)ど組織的(そしきてき)とも云(い)ふべき訳(わけ)で云(い)はゞ革命(かくめい)の一 進境(しんきよう)と
も観(み)るべきものであろうかと思(おも)ふ従(したがつ)て仮令(たとへ)一時(じ)の小康(しようかう)を得(え)たりとも幕府(ばくふ)の運命(うんめい)と云(い)ふものは最早(もはや)次第(しだい)
〳〵に其(その)窮極(きうきよく)に迫(せま)りつゝあるものと評(ひよう)すべきであるのであるそれのみならず関東(くわんとう)に於(おい)ても亦(ま)た水戸(みと)の
竹田耕雲斎 内乱(ないらん)があり翌(よく)元治(がんぢ)元年(がんねん)に至(いた)つては藤田小(ふぢたこ)四 郎(らう)並(ならび)に竹田耕雲斎(たけだこううんさい)等(とう)を中心(ちうしん)とせる挙兵(きよへい)となり常野(じようや)の間(あひだ)には
戦闘(せんたう)が絶(た)へなかつたのであるが之(これ)が又(ま)た実(じつ)に少(すくな)からざる騒擾(さうぜう)を来(きた)したのである然(しか)るに之(これ)も結果(けつくわ)は矢張(やはり)
不成功(ふせいこう)に終(をは)つたのであるが耕雲斎(こううんさい)等(ら)は越前(ゑちぜん)の敦賀(つるが)に於(おい)て果敢(はか)なき最後(さいご)を遂(と)ぐるに至(いた)つた事(こと)は諸君(しよくん)が能(よ)
く御承知(ごしようち)の通(とほ)りである要(えう)するに文久(ぶんきう)三 年(ねん)の末(すゑ)に方(あた)つては只今(たゞいま)申述(まをしの)べたる如(ごと)き訳(わけ)で一 時(じ)攘夷党(ぜうゐたう)の大(だい)蹉跌(さてつ)
を見(み)全(まつた)く公武合体党(こうぶがつたいたう)の天下(てんか)とも云(い)ふべき形況(けいきよう)と変化(へんくわ)したのであつたから京都(けうと)にある此(この)派(は)の人々(ひと〳〵)は至急(しきう)
に申送(まをしおく)つたのである勿論(もちろん)幕府(ばくふ)に於(おい)ては之(これ)に就(つい)ても多少(たしよう)の議論(ぎろん)はあつたのであるが遂(つひ)に其(その)事(こと)に決(けつ)して将(せう)
《割書:元治と改元|す》 軍(ぐん)は年末(ねんまつ)に江戸(えど)を発(はつ)し其(その)翌(よく)元治(がんぢ)元年(がんねん)(文久(ぶんきう)は三 年(ねん)迄(まで)其(その)四 年目(ねんめ)に元治(がんぢ)と改元(かいげん)せらる)の正月八日を以(もつ)て
海路(かいろ)大阪(おほさか)に着(ちやく)されたのである而(しか)して其(その)二月十五日を以(もつ)て松平容保(まつだひらかたもり)は一たび京都守護職(けうとしゆごしよく)を免(めん)ぜられ軍(ぐん)
事総裁(じそうさい)に任(にん)ぜられたのであるが其(その)後任(こうにん)としては松平慶永(まつだひらよしなが)が再(ふたゝ)び出(い)でゝ之(これ)に任(にん)ぜられたのである然(しか)るに
之(これ)は僅(わづか)に二ヶ 月間(げつかん)で其(その)四月七日には又々(また〳〵)容保(かたもり)が京都守護職(けうとしゆごしよく)に復(ふく)するに至(いた)つたのであるが之(これ)は容保(かたもり)に於(おい)
【欄外】
豊橋市史談 (攘夷党の極盛と其蹉跌) 五百四十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折) 五百四十四
【本文】
今回行幸延引を仰せ出されたけれども、攘夷については早々成功を遂げるべきである。よって勤王の諸藩は幕府の指令を待たず、速やかに攘夷すべき旨が叡慮として仰せ出された。
これは在京の各藩へも公布されたのであるが、とにかく前述のような政変というものは当時にとっての一大変化で、最も動揺を来したのは長州藩である。今にも薩摩藩との間に銃火を交えようとする勢いであったが、幸いに双方に考えのある人がいたことであるから、無事のうちに長州藩士は堺町門から大仏まで引き上げたのである。この時長州派ともいうべき公卿はやはり鷹司家に集合して救済しようとするところがあり、勅旨をこれに伝えられるというような始末であったが、結局長州藩においては一度京都を引き払って本国に帰ることとなり、三條実美卿をはじめご承知の七卿は遂に出奔して長州に赴くこととなったのである。この日吉田藩もまた京師警衛の命を受けたのであるが、大阪にあったため遂に十八日の変には参加することができなかったのである。
さて右のような訳で長州藩を首脳とした急激なる尊王攘夷党というものは忽ち京都における勢力を失ったのであるが、これより先、大和行幸のことが八月の十三日をもって発表されると、これの前駆として先ず義を大和の地に唱え、同地方の形勢をして予め勤王主義たらしむべしという意見から、曩に朝廷を脱走した中山侍従忠光を奉じて団結をしたのが、ご承知の藤本鉄石、松本奎堂、宍戸弥四郎等である。そしてその中、松本、宍戸のごときは三河刈谷藩の士であったのであるが、これらの人々は八月の十六日をもって大阪から河内に入り、それから大和の十津川に根拠を構えて尊王の大義を大和平野に唱えようとしたのである。これが即ち世にいわゆる十津川浪士の一団であるが、不幸なことにはその十八日には前申し述べるごとく京都には政変があって急激党は逆境に陥ることとなったのみならず、大和行幸のことも俄に中止されるに至ったので、この団体というものは忽ち追討されるべき運命となって遂に失敗に終わったのである。また、あの平野次郎国臣が七卿
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千五百六十三号附録 (大正三年一月十三日発行)
【本文】
の中の一人たる澤宣嘉卿を奉じて兵を生野銀山に挙げようとしたのもやはりこの頃であるが、これもまた殆ど右と同じごとき理由で失敗に終わり、国臣は哀れにも遂に捕縛され、宣嘉卿もまた行方不明ということとなったのである。蓋し従来急激党の人々は多く暗殺暴行ということで、その志は前にも申し述べたごとく実に勤王に満ちているものが多かったが、しかも統一的の行動としては何等見るべきものがなかったのである。然るにとにかく十津川浪士並びに生野挙兵のことに至っては殆ど組織的ともいうべき訳で、いわば革命の一進境とも見るべきものであろうかと思う。従って仮令一時の小康を得たりとも、幕府の運命というものは最早次第々々にその窮極に迫りつつあるものと評すべきであるのである。それのみならず関東においてもまた水戸の内乱があり、翌元治元年に至っては藤田小四郎並びに竹田耕雲斎等を中心とする挙兵となり、常野の間には戦闘が絶えなかったのであるが、これがまた実に少なからざる騒擾を来したのである。然るにこれも結果はやはり不成功に終わったのであるが、耕雲斎等は越前の敦賀において果敢なき最後を遂げるに至ったことは諸君がよくご承知の通りである。要するに文久三年の末に方っては只今申し述べたような訳で一時攘夷党の大挫折を見、全く公武合体党の天下ともいうべき形況と変化したのであったから、京都にあるこの派の人々は至急に申し送ったのである。勿論幕府においてはこれについても多少の議論はあったのであるが、遂にそのことに決して将軍は年末に江戸を発し、その翌元治元年(文久は三年まで、その四年目に元治と改元される)の正月八日をもって海路大阪に着されたのである。そしてその二月十五日をもって松平容保は一たび京都守護職を免ぜられ軍事総裁に任ぜられたのであるが、その後任としては松平慶永が再び出でてこれに任ぜられたのである。然るにこれは僅かに二ヶ月間で、その四月七日には又々容保が京都守護職に復するに至ったのであるが、これは容保におい
【欄外】
豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折) 五百四十五
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 544
**Main Text:**
"Although the postponement of the imperial visit has been announced, regarding the expulsion of foreigners, success shall be achieved promptly. Therefore, the loyalist domains shall carry out expulsion quickly without awaiting the shogunate's instructions" - such was the imperial will proclaimed.
This was also publicly announced to the domains in Kyoto. In any case, the political change described above was a major transformation of the times, and those most shaken were from Chōshū domain. They were on the verge of exchanging gunfire with Satsuma domain, but fortunately there were thoughtful people on both sides, so the Chōshū retainers peacefully withdrew from Sakaimachi gate to Daibutsu. At this time, court nobles who could be called the Chōshū faction gathered at the Takatsukasa house seeking rescue, and imperial edicts were conveyed to them. Ultimately, Chōshū domain decided to withdraw from Kyoto once and return to their home province. Sanjō Sanetomi and the well-known Seven Nobles eventually fled and headed to Chōshū. On this day, Yoshida domain also received orders to guard Kyoto, but being in Osaka, they were unable to participate in the events of the 18th.
Thus, the radical sonnō-jōi party led by Chōshū domain suddenly lost their influence in Kyoto. Earlier, when the Yamato imperial visit was announced on August 13th, as a precursor to this, the idea was to first proclaim righteousness in Yamato province and make that region's situation loyalist in advance. Based on this thinking, those who rallied around Imperial Attendant Nakayama Tadamitsu (who had earlier fled the court) included the well-known Fujimoto Tesseki, Matsumoto Keidō, and Shishido Yashirō. Among them, Matsumoto and Shishido were retainers of Kariya domain in Mikawa. These people entered Kawachi from Osaka on August 16th, then established their base in Totsukawa in Yamato, attempting to proclaim the great cause of imperial loyalty throughout the Yamato plain. This was the so-called Totsukawa rōshi group. Unfortunately, on the 18th, as mentioned before, the political change occurred in Kyoto, and the radical faction fell into adverse circumstances. Moreover, the Yamato imperial visit was suddenly canceled, so this group immediately faced the fate of being pursued and ultimately failed. Also, Hirano Jirō Kuniomi's attempt to raise troops at Ikuno silver mine under the Seven Nobles
**Margin:**
Publisher and printing office: Sanyō Printing Partnership, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Supplement to Sanyō Newspaper No. 4563 (Published January 13, Taishō 3)
**Main Text:**
member Lord Sawa Nobuyoshi occurred around the same time, but this also failed for almost the same reasons. Kuniomi was pitifully captured, and Lord Nobuyoshi also disappeared without a trace. Generally, the radical faction had long engaged in assassination and violence. As mentioned before, their aspirations were truly filled with imperial loyalty, but there was nothing noteworthy in terms of unified action. However, the Totsukawa rōshi incident and the Ikuno uprising were almost organized efforts - what might be called a step forward in revolution. Therefore, even if temporary respite was gained, the shogunate's fate was steadily approaching its ultimate end. Moreover, there was internal strife in Mito in the Kantō region, and in the following Genji era, uprisings centered around Fujita Koshirō and Takeda Kōunsai occurred, with continuous fighting between Hitachi and Shimōsa provinces, causing considerable disturbance. However, this also ultimately ended in failure, with Kōunsai and others meeting their tragic end in Tsuruga, Echizen, as you well know. In summary, by the end of Bunkyū 3, as just described, there was a temporary great setback for the expulsion party, and the situation completely changed to what could be called the era of the court-shogunate cooperation party. The people of this faction in Kyoto urgently sent word. Of course, there was some debate in the shogunate about this, but ultimately deciding on this matter, the shogun departed Edo at year's end and arrived in Osaka by sea on January 8th of the following Genji era (Bunkyū lasted until the third year, then changed to Genji in the fourth year). On February 15th, Matsudaira Katamori was temporarily relieved of his position as Kyoto Protector and appointed Military Commander-in-Chief, with Matsudaira Yoshinaga returning to serve as his replacement. However, this lasted only two months, and on April 7th, Katamori was restored to the position of Kyoto Protector, which was due to Katamori's
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 545