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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 287

ページ: 287

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百四十六 【本文】       ても一たび京都(けうと)を死所(しにどころ)と定(さだ)めて国(くに)を出(い)でた事(こと)であるから今日(こんにち)急(きう)に京都(けうと)を去(さ)ると云(い)ふ事(こと)になつては実(じつ)に       惜惋(せきゑん)の情(じよう)に堪(た)へない様子(やうす)で尚(な)ほそれが其(その)君臣(くんしん)一 同(どう)の心情(しんじよう)であつたのである特(とく)に当時(たうじ)は朝廷(ちやうてい)に於(お)かせら       れても容保(かたもり)に対(たい)して極(きは)めて御親任(ごしんにん)が厚(あつ)かつたもので旁(かた〳〵)其(その)結果(けつくわ)であるとも伝(つた)へられて居(を)るのである然(しか)       るに四月十一日 桑名侯(くわなこう)松平定敬(まつだひらさだたか)は又(ま)た稲葉正邦(いなばまさくに)に代(かは)つて京都(けうと)の所司代(しよしだい)となつたのであるが此(この)桑名侯(くわなこう)と       云(い)ふのは御承知(ごしようち)の如(ごと)く嘗(かつ)て白河楽翁公(しらかはらくおうこう)を出(いだ)した家(いへ)で且(か)つ当主(たうしゆ)は松平容保(まつだひらかたもり)の実弟(じつてい)であるのである之(これ)より       此(この)会(あひ)桑(さう)二 藩(はん)と云(い)ふものは共(とも)に力(ちから)を合(あは)せて京都(けうと)の事(こと)に当(あた)つた次第(しだい)であるが一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)も亦(ま)た前月(ぜんげつ)の廿五日       を以(もつ)て禁裏守護(きんりしゆご)、摂海(せつかい)防禦総督(ばうぎよそうとく)の任(にん)に方(あた)ることと成(な)つたのである此(こゝ)に於(おい)て所謂(いはゆる)公武合体党(こうぶがつたいたう)と云(い)ふよりも 薩藩の意向 寧(むし)ろ幕府方(ばくふがた)の勢力(せいりよく)と云(い)ふものは忽(たちま)ち京師(けうし)に振(ふる)ふに至(いた)つた次第(しだい)であるが漸(やうや)くにして之(これ)が又(ま)た薩藩(さつはん)の不快(ふくわい)       を起(おこ)す原因(げんゐん)となつたので誠(まこと)に是非(ぜひ)もない次第(しだい)である元来(がんらい)前章(ぜんしよう)から申述(まをしの)ぶる如(ごと)く薩藩(さつはん)の向(むか)ふ所(ところ)は全(まつた)く会(あひ)       桑(さう)緒藩(しよはん)とは其(その)根本(こんほん)を異(こと)にして居(を)るので初(はじめ)より幕府(ばくふ)を扶助(ふじよ)すべしと云(い)ふ意志(いし)はないものと思(おも)ふべきであ       るから帰(き)する処(ところ)一 時(じ)長藩(てうはん)の跋扈(ばつこ)に慊焉(けんゑん)たらざる点(てん)から会津(あひづ)とも合(がつ)したものゝ今日(こんにち)の状況(ぜうきよう)を見(み)ては又(ま)た       決(けつ)して快(こゝろよ)い訳(わけ)ではない殊(こと)に最初(さいしよ)は其(その)藩内(はんない)にも公武合体論(こうぶがつたいろん)があつたのであるが彼(か)の戊午(ほご)の年(とし)一たび月照(げつせう)       と共(とも)に薩海(さつかい)に投(とう)じ僅(わづか)に蘇生(そせい)して後(のち)大島(おほしま)に流(なが)されたる西郷隆盛(さいごうたかもり)は当時(たうじ)召(め)し還(かへ)されて薩内(さつない)に用(もち)ゐられ討幕(とうばく)       党(たう)の首領(しゆれう)として極(きは)めて勢力(せいりよく)があつたのであるソコデ自然(しぜん)に薩藩(さつはん)の方針(はうしん)と云(い)ふものが会藩(あひはん)を初(はじ)め幕府(ばくふ)に       親(した)しい人々(ひと〳〵)とは面白(おもしろ)からざる感情(かんぜう)を生(せう)じて来(き)たので結局(けつきよく)は何時(いつ)しか相(あひ)分(わか)れねばならぬ形勢(けいせい)と相成(あひな)つた       のであるトコロで又(ま)た長藩(てうはん)である其後(そのご)の形勢(けいせい)は如何(いかゞ)であるかと云(い)ふに昨(さく)文久(ぶんきう)三 年(ねん)八月の政変(せいへん)以来(いらい)一た       び出京(しゆつけう)中(ちう)の藩士(はんし)等(ら)を国(くに)に収(をさ)め且(か)つ出奔(しゆつぽん)せる七 卿(きよう)三 條実美(でうさねよし)初(はじめ)を其(その)国(くに)に置(お)いたが只管(ひたすら)朝廷(てうてい)に対(たい)しては他意(たい)       なき事(こと)を哀訴(あいそ)せむとし種々(しゆ〳〵)に手(て)を尽(つく)したのである然(しか)るに京都(けうと)は前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)き形勢(けいせい)であるから到底(たうてい)省(かへり)みら 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       れようがない之(これ)には其後(そのご)色々(いろ〳〵)の経過(けいくわ)があつたのであるが結局(けつきよく)藩論(はんろん)と云(い)ふものは漸(やうや)く沸騰(ふつたう)して遂(つひ)に防(ばう)長(てう)       二 州(しう)の精鋭(せいえい)を集(あつ)め上京(じようけう)の上(うへ)哀訴(あいそ)歎願(たんがん)して尚(な)ほ容(い)れられざるに於(おい)ては止(やむ)を得(え)ず最後(さいご)の手段(しゆだん)に訴(うつた)へても君(くん)       側(そく)の姦(かん)を除(のぞ)き上(かみ)は宸襟(しんきん)を安(やすん)じ奉(たてまつ)ると同時(どうじ)に攘夷(ぜうゐ)の大典(たいてん)をも再起(さいき)せしめむと云(い)ふ意気込(いきご)みであつたの       である此(こゝ)に於(おい)て長藩(てうはん)の士(し)は続々(ぞく〴〵)入京(にふけう)して種々(しゆ〴〵)に画策(くわくさく)するもの多(おほ)く所謂(いはゆる)京都(けうと)の池田屋事件(いけだやじけん)と云(い)ふような       事(こと)をも惹起(じやつき)するに至(いた)つたのであるが其(その)結果(けつくわ)は益(ます〳〵)長藩(てうはん)の憤激(ふんげき)を来(きた)し国老(こくらう)の福原越後(ふくはらゑちご)を初(はじ)め兵(へい)を率(ひき)ゐて       入京(にふけう)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)口実(こうじつ)は闕下(けつか)に歎訴(たんそ)する為(ため)であると云(い)ふのであるが其(その)実(じつ)は殺気(さつい)充満(じうまん)       の有様(ありさま)であつたのであるかゝる次第(しだい)であつたから遂(つひ)には何(なん)とか一 事件(じけん)がなくては止(や)まぬので元治(がんぢ)元年(がんねん) 《割書:長藩士の入|京》  六月廿七日に至(いた)りイヨ〳〵長藩士(てうはんし)等(ら)は伏見(ふしみ)の藩邸(はんてい)に於(おい)て勢揃(せいぞろ)ひをして隊伍(たいご)堂々(どう〳〵)入京(にふけう)の上(うへ)嵯峨(さが)の天龍寺(てんりうじ)       に陣取(ぢんど)つたと云(い)ふ訳(わけ)であるソコで守護職(しゆごしよく)容保(かたもり)は直(たゞ)ちに昇殿(せうでん)して天機(てんき)を伺(うかゞ)ひ一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)も参内(さんだい)したが在京(ざいけう)       の各藩(かくはん)をして急(きう)に宮門(きうもん)の守衛(しゆえい)をなさしむる方針(はうしん)を取(と)つたのである然(しか)るに其日(そのひ)は何事(なにごと)もなく先(ま)づ無事(ぶじ)に       済(す)むだのであるが其後(そのご)長藩士(てうはんし)の挙動(きよどう)と云(い)ふものは益(ます〳〵)激烈(げきれつ)で表面(ひようめん)は歎訴(たんそ)と称(せう)しても其(その)実(じつ)は兵(へい)を以(もつ)て強(けう)       迫(はく)するようなものであると云(い)ふので薩藩(さつはん)の西郷隆盛(さいごうたかもり)も亦(ま)た長藩士(てうはんし)が何処(どこ)迄(まで)も朝命(ちようめい)を奉(ほう)じて退兵(たいへい)する事(こと)       がないならば寧(むし)ろ追討(つゐたう)しても朝威(ちようゐ)を発揚(はつよう)すべしと唱(とな)えた程(ほど)であつたモツトモ当時(たうじ)隆盛(たかもり)の意見(いけん)と云(い)ふも       のは前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)くで竊(ひそ)かに自藩(じはん)の勢力(せいりよく)を養(やしな)ひて時勢(じせい)を観望(くわんばう)して居(を)つたのであるが討(う)ち膺(こら)すべ 《割書:西郷隆盛の|卓見》  き処(ところ)は討(う)ち膺(こら)して置(お)いて然(しか)る後(のち)果(はた)して之(これ)と相(あひ)連合(れんがふ)すべくむば徐(おもむ)ろに其(その)策(さく)を行(おこな)ふのが順序(じゆんぢよ)である而(しか)して       結局(けつきよく)は討幕(たうばく)の功(こう)を奏(そう)すべきものであると云(い)ふのが此時(このとき)既(すで)に心中(しんちう)に決(けつ)して居(を)つたものであると思(おも)はれる       之(こ)れは当時(たうじ)の文書(ぶんしよ)等(とう)でもチラ〳〵と窺(うかゞ)はるゝ事(こと)であるが果(はた)して然(しか)らば隆盛(たかもり)の卓見(たくけん)と云(い)ふものは実(じつ)に恐(おそ)       るべきものであつたと云(い)はねばならぬのである此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)でイヨ〳〵長藩士(てうはんし)に対(たい)して追討軍(つゐたうぐん)を出(いだ)す 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷党の極盛と其蹉跌)                    五百四十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百四十六 【本文】       容保にとっても一たび京都を死に場所と定めて国を出たことであるから、今日急に京都を去るということになっては実に残念でならない様子で、なおそれがその君臣一同の心情であったのである。特に当時は朝廷におかれても容保に対して極めてご信任が厚かったもので、かたがたその結果であるとも伝えられている。しかるに四月十一日、桑名侯松平定敬はまた稲葉正邦に代わって京都の所司代となったのであるが、この桑名侯というのはご承知のごとく嘗て白河楽翁公を出した家で、かつ当主は松平容保の実弟であるのである。これより、この会津・桑名二藩というものは共に力を合わせて京都のことに当った次第であるが、一橋慶喜もまた前月の二十五日をもって禁裏守護、摂海防御総督の任に当ることとなったのである。ここにおいて、いわゆる公武合体党というよりも、むしろ幕府方の勢力というものは忽ち京師に振るうに至った次第であるが、漸くにしてこれがまた薩摩藩の不快を起こす原因となったので、誠にやむをえない次第である。 元来前章から申し述べるごとく、薩摩藩の向かうところは全く会津・桑名諸藩とはその根本を異にしているので、初めより幕府を扶助すべしという意志はないものと思うべきであるから、帰するところ一時長州藩の跋扈に満足しない点から会津とも合したものの、今日の状況を見てはまた決して快い訳ではない。殊に最初はその藩内にも公武合体論があったのであるが、あの戊午の年一たび月照と共に薩摩の海に身を投じ、僅かに蘇生して後大島に流された西郷隆盛は、当時召し還されて薩摩内に用いられ、討幕党の首領として極めて勢力があったのである。そこで自然に薩摩藩の方針というものが会津藩をはじめ幕府に親しい人々とは面白からざる感情を生じて来たので、結局は何時しか相分かれねばならぬ形勢となったのである。 ところでまた長州藩である。その後の形勢は如何であるかというに、昨文久三年八月の政変以来、一たび出京中の藩士等を国に収め、かつ出奔せる七卿三條実美はじめをその国に置いたが、ひたすら朝廷に対しては他意なきことを哀訴しようとし、種々に手を尽くしたのである。しかるに京都は前述のごとき形勢であるから、到底省みら 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈する 【本文】       れようがない。これには その後色々の経過があったのであるが、結局藩論というものは漸く沸騰して、遂に防長二州の精鋭を集め、上京の上哀訴歎願してなお容れられざるにおいては、やむを得ず最後の手段に訴えても君側の奸を除き、上は宸襟を安んじ奉ると同時に攘夷の大典をも再起させようという意気込みであったのである。 ここにおいて長州藩の士は続々入京して種々に画策するもの多く、いわゆる京都の池田屋事件というようなことをも惹起するに至ったのであるが、その結果は益々長州藩の憤激を来し、国老の福原越後をはじめ兵を率いて入京するに至ったのである。そしてその口実は闕下に歎訴するためであるというのであるが、その実は殺気充満の有様であったのである。かかる次第であったから、遂には何とか一事件がなくては止まぬので、元治元年六月二十七日に至り、いよいよ長州藩士等は伏見の藩邸において勢揃いをして、隊伍堂々入京の上、嵯峨の天龍寺に陣取ったという訳である。 そこで守護職容保は直ちに昇殿して天機を伺い、一橋慶喜も参内したが、在京の各藩をして急に宮門の守衛をなさしむる方針を取ったのである。しかるにその日は何事もなく、先ず無事に済んだのであるが、その後長州藩士の行動というものは益々激烈で、表面は歎訴と称しても、その実は兵をもって強迫するようなものであるというので、薩摩藩の西郷隆盛もまた長州藩士が何処までも朝命を奉じて退兵することがないならば、むしろ追討しても朝威を発揚すべしと唱えた程であった。 もっとも当時隆盛の意見というものは前にも申し述べたごとくで、ひそかに自藩の勢力を養いて時勢を観望していたのであるが、討ち懲らすべきところは討ち懲らして置いて、然る後果してこれと相連合すべくんば徐ろにその策を行うのが順序である。そして結局は討幕の功を奏すべきものであるというのが、この時既に心中に決していたものであると思われる。これは当時の文書等でもちらちらと窺われることであるが、果して然らば隆盛の卓見というものは実に恐るべきものであったと言わねばならぬのである。 このような次第でいよいよ長州藩士に対して追討軍を出す 【欄外】 豊橋市史談(攘夷党の極盛とその挫折)                   五百四十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 546 **Main Text:**       For Katamori as well, having once left his domain determining Kyoto as his place to die, the prospect of suddenly leaving Kyoto now filled him with genuine regret, and this was the sentiment of all his lord and retainers alike. Particularly at that time, the court placed extremely deep trust in Katamori, and this was said to be partly the result of that trust. However, on April 11th, Lord Kuwana Matsudaira Sadataka replaced Inaba Masakuni as Kyoto Deputy (shoshidai). This Lord of Kuwana, as you know, came from the house that once produced Lord Shirakawa Rakuō, and the current head was the actual younger brother of Matsudaira Katamori. From this time, these two domains of Aizu and Kuwana worked together in handling Kyoto affairs. Hitotsubashi Yoshinobu also took on the roles of Imperial Palace Guardian and Commander-in-Chief of Settsu-Kawachi Defense on the 25th of the previous month. At this point, what could be called not so much the court-shogunate cooperation party, but rather pro-shogunate forces, suddenly came to dominate in Kyoto. However, this gradually became a source of displeasure for Satsuma domain, which was truly unavoidable. Originally, as mentioned in the previous chapter, Satsuma domain's orientation was completely different at its foundation from that of Aizu, Kuwana and other domains. Since from the beginning there was no intention to assist the shogunate, ultimately they had temporarily allied with Aizu only due to dissatisfaction with Chōshū's domineering behavior, but seeing today's situation, they were certainly not pleased. Particularly, initially there had been court-shogunate cooperation theory within the domain, but Saigō Takamori, who in that year of Boshin had once thrown himself into Satsuma's waters together with Gessho, barely survived and was later exiled to Ōshima, was recalled at this time and employed within Satsuma, wielding tremendous influence as leader of the anti-shogunate party. Thus naturally, Satsuma domain's policy came to generate unpleasant feelings toward Aizu domain and others close to the shogunate, ultimately reaching a situation where they would inevitably have to part ways. Now, regarding Chōshū domain - what was the situation there afterward? Since the political change of August, Bunkyū 3, they had once recalled the domain retainers who had been in Kyoto back to their province, and placed the Seven Nobles led by Sanjō Sanetomi who had fled there. They devoted themselves entirely to appealing to the court that they harbored no ill intentions, making various efforts. However, since Kyoto was in the aforementioned situation, they could hardly be **Margin:** Toyohashi City Mayor Ōguchi Kiroku, with his vast knowledge and inexhaustible energy, has devoted over a year to compiling the Toyohashi City History, and now as his draft nears completion **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper **Main Text:**       given any consideration. There were various developments afterward, but ultimately domain opinion gradually came to a boil, and finally they gathered the elite forces of Suō and Nagato provinces, with the resolve that if their appeals and petitions upon going to Kyoto were still not accepted, they would have no choice but to resort to final measures to remove the evil influences around the emperor, bring peace to the imperial mind, and simultaneously revive the great ceremony of expelling foreigners. At this point, Chōshū retainers entered Kyoto one after another, many plotting various schemes, even causing incidents like the so-called Ikedaya Incident in Kyoto. The result was to further inflame Chōshū's indignation, leading domain elder Fukuhara Echigo and others to lead troops into Kyoto. While their stated pretext was to petition at the palace gates, in reality the atmosphere was filled with murderous intent. Given these circumstances, ultimately some incident was inevitable, so on June 27th, Genji 1, the Chōshū retainers finally assembled at their Fushimi domain residence and, with their forces magnificently arrayed, entered Kyoto and took position at Tenryū-ji temple in Saga. At this, Guardian Katamori immediately ascended to the palace to consult the emperor's will, Hitotsubashi Yoshinobu also entered the palace, and they adopted a policy of having the domains in Kyoto urgently guard the palace gates. However, that day passed without incident, ending peacefully for the time being. But afterward, the behavior of the Chōshū retainers became increasingly violent - while ostensibly called petition, it was actually tantamount to coercion through force. Satsuma's Saigō Takamori went so far as to advocate that if the Chōshū retainers would not obey imperial commands to withdraw their troops, they should rather be pursued to uphold imperial authority. Of course, Takamori's opinion at the time was as previously mentioned - he was secretly building his domain's strength while observing the times. His thinking was that the proper sequence was to first punish those who should be punished, and then, if alliance with them proved worthwhile, gradually implement that strategy. He believed that ultimately this would achieve the merit of overthrowing the shogunate - this seems to have been already decided in his heart at this time. This can be glimpsed in documents from that period, and if so, Takamori's foresight was truly formidable. Given these circumstances, they finally dispatched punitive forces against the Chōshū retainers. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Zenith and Setbacks of the Expulsion Party) 547