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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 288

ページ: 288

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【欄外】    豊橋市史談  (大代在府中の吉田藩と山本速夫)                五百四十八 【本文】       べしと云(い)ふ事(こと)になつて其(その)部署(ぶしよ)も略々(ほゞ)定(さだ)まつたのであるが長藩(てうはん)の方(はう)に於(おい)ては初(はじ)め突発的(とつぱつてき)に事(こと)を計画(けいくわく)し昨(さく)       年(ねん)八月十八日に己(おの)れ等(ら)が一 度(ど)に排斥(はいせき)せられたると同(おな)じ手段(しゆだん)で今度(こんど)は反対(はんたい)に公武合体党(こうぶがつたいたう)を排斥(はいせき)して己(おの)れ       等(ら)に功(こう)を収(をさ)めむとしたのであるが不運(ふうん)にして此(この)第(だい)一 策(さく)は忽(たちま)ち一 方(ぱう)の知(し)る処(ところ)となつて見事(みごと)に失敗(しつぱい)に終(をは)つ       たのである之(これ)は元治(がんぢ)元年(がんねん)七月十八日の話(はなし)であるが然(しか)るに其(その)翌(よく)十九日に至(いた)つて長藩(てうはん)の一 隊(たい)は端(はし)なくも伏(ふし)       見(み)に於(おい)て大垣藩(おほがきはん)の守兵(しゆへい)と衝突(せうとつ)して戦端(せんたん)を開(ひら)くに至(いた)つたのであるトコロで之(これ)が忽(たちま)ち動機(どうき)となつて一 大戦(だいせん) 蛤門の戦闘 闘(たう)は開始(かいし)せられたのである此時(このとき)会津藩(あひづはん)は宮城(きうじやう)の蛤門(はまぐりもん)を守(まも)つて居(を)つたのである而(しか)して此辺(このへん)に於(お)ける戦(せん)       闘(たう)と云(い)ふものは中々(なか〳〵)烈(はげ)しかつたものであるが前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く薩藩(さつはん)の意向(いかう)と云(い)ふものは仮令(たとへ)後日(ごにち)       に至(いた)つて連合(れんがう)する事(こと)ありとするも此(この)時(とき)は尚(な)ほ一たび長藩(てうはん)を打(う)ち膺(こら)すべしと云(い)ふのにあつたから無論(むろん)会(あひ)       桑(さう)緒藩(しよはん)を援(たす)けて之(これ)を横撃(わうげき)したのであるソコで京都(けうと)市中(しちう)は頗(すこぶ)る激烈(げきれつ)なる市街戦(しがいせん)の為(ため)に焼(や)き払(はら)はれた処(ところ)が       大分(だいぶん)あつたが遂(つひ)に長藩(てうはん)の敗北(はいぼく)と相成(あひな)つたのである之(これ)即(すなは)ち長藩(てうはん)が益(ます〳〵)逆境(ぎやくけう)に立(た)つに至(いた)れる原因(げんゐん)で又(ま)た       長州征伐軍(てうしうせいばつぐん)の起(おこ)さるゝに至(いた)つた主因(しゆゐん)とも相成(あひな)つたのである       而(しか)して当時(たうじ)此(この)戦闘(せんたう)は独(ひと)り京都(けうと)市中(しちう)に於(お)けるのみではなく長藩(てうはん)の一 部(ぶ)は山崎(やまざき)の天王山(てんわうざん)を根拠(こんきよ)としたもの       であるから大阪(おほさか)に於(お)ける人心(じん〳〵)も亦(ま)た実(じつ)に恟々(けう〳〵)たるものであつたのである此(この)時(とき)吉田藩(よしだはん)は兵(へい)を京橋口(けうばしぐち)に出(いだ)       して警衛(けいゑい)したのであるが之(これ)より先(さ)き既(すで)に藩内(はんない)から増兵(ぞうへい)を大阪(おほさか)に召集(せうしう)したもので三浦碧水翁(みうらへきすゐおう)の直話(ぢきわ)に       よると翁(おう)も亦(ま)た此(この)増兵(ぞうへい)の場合(ばあひ)に出阪(しゆつはん)したとの事(こと)であるが僅(わづ)か二 昼夜(ちうや)で兼行(けんかう)したとの話(はなし)である            ⦿大阪在府中の吉田藩と山本速夫       前章(ぜんしよう)に於(おい)て申述(まをしの)べたるのは文久(ぶんきう)二年(ねん)八月の頃(ころ)から同(どう)四 年(ねん)即(すなは)ち元治(がんぢ)元年(がんねん)六月の頃(ころ)に至(いた)る天下(てんか)の形勢(けいせい)に就(つい) 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百六十九号附録     (大正三年一月二十日発行) 【本文】      てゞあるがサテ其(その)当時(たうじ)に於(お)ける我(わが)吉田藩(よしだはん)は如何(いか)なる態度(たいだ)を取(と)つたのであるか茲(こゝ)に其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)べて置(お)       きたいと思(おも)ふのである勿論(もちろん)其(その)当時(たうじ)は前章(ぜんしよう)に於(おい)て既(すで)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く吉田城主(よしだじやうしゆ)松平伊豆守信古(まつだひらいづのかみのぶひさ)は大阪城(おほさかじやう)       代(だい)在勤中(ざいきんちう)で大阪城中(おほさかじやうちう)に居(を)つたのであるが其(その)城代(じやうだい)を拝命(はいめい)したのは前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く文久(ぶんきう)二       年(ねん)六月の晦日(みそか)である而(しか)して之(これ)と同時(どうじ)に信古(のぶひさ)は四 品(ひん)に叙(ぢよ)せられたのであるが程(ほど)なく御承知(ごしようち)の通(とほ)り勅使(ちよくし)三       條中納言(ぜうちうなごん)等(ら)東下(とうか)の事(こと)があり幕府(ばくふ)に於(おい)ては一 大(だい)変革(へんかく)があつたのであるからそれ等(ら)の事(こと)も関係(くわんけい)があつたも       のと見(み)へて信古(のぶひさ)の大阪(おほさか)赴任(ふにん)はズツト延引(えんいん)して其(その)年(とし)の九月二日に至(いた)り初(はじ)めて江戸(えど)を出発(しゆつぱつ)し東海道(とうかいどう)を西上(さいぢよう) 《割書:信古大阪に|着す》  したが其(その)月(つき)の十九日に大阪(おほさか)に着(ちやく)したのであるモツトモ当時(たうじ)の事(こと)に就(つい)ては大河内家(おほかうちけ)に詳(くは)しい記録(きろく)が残(のこ)つ       て居(を)るが余(あま)りクダ〳〵しい事(こと)になるから細(こま)かい事は略(りやく)して申述(まをしの)べぬ考(かんがへ)である兎(と)に角(かく)其(その)当時(たうじ)と云(い)ふもの       は攘夷論(ぜうゐろん)の最(もつと)も盛(さかん)なる頃(ころ)で浪士(らうし)の横行(わうかう)は頗(すこぶ)る其(その)極(きよく)に達(たつ)したのであるが其(その)年(とし)の十二月四日には松平容保(まつだひらかたもり)       が京都守護職(けうとしゆごしよく)として入京(にふけう)し時(とき)の将軍後見樴(せうぐんこうけんしよく)たる一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)並(ならび)に政事総裁(せいじそうさい)たる松平慶永(まつだひらよしなが)も同(おな)じく京都(けうと)に       入(い)つたのである而(しか)して其(その)翌年(よくねん)即(すなは)ち文久(ぶんきう)三 年(ねん)の三月四日には将軍(せうぐん)家茂(いへしげ)も亦(ま)た上洛(じようらく)して二 条城(でうじやう)に入(い)つたと       云(い)ふ次第(しだい)で其(その)月(つき)の七日には参内(さんだい)して攘夷(ぜうゐ)の勅書(ちよくしよ)を拝受(はいじゆ)したのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で攘夷論者(ぜうゐろんしや)の気焔(きえん)と云(い)       ふものは益(ます〳〵)盛(さかん)であつたのであるが殊(こと)に其時(そのとき)の勅書(ちよくしよ)によると国事(こくじ)に就(つい)ては事柄(ことがら)によりて直接(ちよくせつ)朝廷(てうてい)より       緒藩(しよはん)へ御沙汰(ごさた)あらせらるゝとの事(こと)であつたから幕府(ばくふ)に於(おい)ては大(おほい)に惑(まど)ふ処(ところ)があつたのであるが果(はた)して其(その)       後(ご)と云(い)ふものは攘夷(ぜうゐ)に就(つい)て朝廷(てうてい)から直接(ちよくせつ)に京阪警備(けうはんけいび)の緒藩(しよはん)などに命令(めいれい)さるゝ処(ところ)があつたので関西(くわんさい)指揮(しき)       の任(にん)にある大阪城代(おほさかじやうだい)は屡々(しば〴〵)其(その)処置(しよち)に苦(くるし)むだ事実(じじつ)があるのである既(すで)に文久(ぶんきう)三 年(ねん)の六月十一日の事である 攘夷の布告 が丁度(ちようど)将軍(せうぐん)家茂(いへしげ)は京都(けうと)から下阪(げはん)して大阪城中(おほさかじやうちう)にあつたのである其時(そのとき)紀伊侯(きいこう)から大阪城代(おほさかじやうだい)たる信古(のぶひさ)の処(ところ)       へ伺(うかゞひ)出(い)でた事(こと)が頗(すこぶ)る面白(おもしろ)いと思(おも)ふ左(さ)の全文(ぜんぶん)は夫(それ)に就(つ)き信古(のぶひさ)から時(とき)の老中(らうちう)へ指揮(しき)を請(こ)つたものである 【欄外】    豊橋市史談  (大坂在府中の吉田藩と山本速夫)                五百四十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大阪在府中の吉田藩と山本速夫)                五百四十八 【本文】       べしということになって、その部署もほぼ定まったのであるが、長州藩の方においては初め突発的に事を計画し、昨年八月十八日に自分等が一度に排斥されたのと同じ手段で、今度は反対に公武合体党を排斥して自分等に功を収めようとしたのであるが、不運にしてこの第一策は忽ち一方の知るところとなって見事に失敗に終わったのである。これは元治元年七月十八日の話であるが、しかるにその翌十九日に至って長州藩の一隊は思いがけなく伏見において大垣藩の守兵と衝突して戦端を開くに至ったのである。ところで、これが忽ち動機となって一大戦闘は開始されたのである。この時会津藩は宮城の蛤門を守っていたのである。そして此辺における戦闘というものは中々激しかったものであるが、前にも申し述べたごとく薩摩藩の意向というものは、たとえ後日に至って連合することありとするも、この時はなお一たび長州藩を打ち懲らすべしというのにあったから、無論会津・桑名諸藩を援けてこれを横撃したのである。そこで京都市中は頗る激烈なる市街戦のために焼き払われたところが大分あったが、遂に長州藩の敗北となったのである。これ即ち長州藩が益々逆境に立つに至れる原因で、また長州征伐軍の起こされるに至った主因ともなったのである。       そして当時この戦闘は独り京都市中におけるのみではなく、長州藩の一部は山崎の天王山を根拠としたものであるから、大阪における人心もまた実に恐々たるものであったのである。この時吉田藩は兵を京橋口に出して警衛したのであるが、これより先き既に藩内から増兵を大阪に召集したもので、三浦碧水翁の直話によると翁もまたこの増兵の場合に出阪したとのことであるが、僅か二昼夜で兼行したとの話である。       ⦿大阪在府中の吉田藩と山本速夫       前章において申し述べたのは文久二年八月の頃から同四年即ち元治元年六月の頃に至る天下の形勢についてで 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千五百六十九号附録     (大正三年一月二十日発行) 【本文】       あるが、さて、その当時における我が吉田藩は如何なる態度を取ったのであるか、ここにその大要を申し述べて置きたいと思うのである。勿論その当時は前章において既に申し述べたごとく、吉田城主松平伊豆守信古は大阪城代在勤中で大阪城中にいたのであるが、その城代を拝命したのは前にも一寸申し述べて置いたごとく文久二年六月の晦日である。そしてこれと同時に信古は四品に叙せられたのであるが、程なくご承知の通り勅使三条中納言等東下のことがあり、幕府においては一大変革があったのであるから、それ等のことも関係があったものと見えて、信古の大阪赴任はずっと延引して、その年の九月二日に至り初めて江戸を出発し東海道を西上したが、その月の十九日に大阪に着したのである。 もっとも当時のことについては大河内家に詳しい記録が残っているが、あまり詳しいことになるから細かい事は略して申し述べぬ考えである。兎に角その当時というものは攘夷論の最も盛んなる頃で、浪士の横行は頗るその極に達したのであるが、その年の十二月四日には松平容保が京都守護職として入京し、時の将軍後見職たる一橋慶喜並びに政事総裁たる松平慶永も同じく京都に入ったのである。そしてその翌年即ち文久三年の三月四日には将軍家茂もまた上洛して二条城に入ったという次第で、その月の七日には参内して攘夷の勅書を拝受したのである。このような訳で攘夷論者の気焔というものは益々盛んであったのであるが、殊にその時の勅書によると国事については事柄によりて直接朝廷より諸藩へご沙汰あらせられるとのことであったから、幕府においては大いに惑うところがあったのであるが、果してその後というものは攘夷について朝廷から直接に京阪警備の諸藩などに命令されるところがあったので、関西指揮の任にある大阪城代は屡々その処置に苦しむ事実があるのである。 既に文久三年の六月十一日のことであるが、丁度将軍家茂は京都から下阪して大阪城中にあったのである。その時紀伊侯から大阪城代たる信古のところへ伺い出でたことが頗る面白いと思う。左の全文はそれについき信古から時の老中へ指揮を請うたものである。 【欄外】 豊橋市史談(大坂在府中の吉田藩と山本速夫)                五百四十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Yoshida Domain During Its Residence in Osaka and Yamamoto Hayao) 548 **Main Text:**       Thus it was decided that [punitive forces] should be dispatched, and their deployment was roughly determined. However, Chōshū domain had initially planned things impulsively, attempting to use the same methods by which they themselves had been expelled all at once on August 18th of the previous year, but this time in reverse - to expel the court-shogunate cooperation party and achieve success for themselves. Unfortunately, this first strategy immediately became known to the other side and ended in spectacular failure. This was the story of July 18th, Genji 1, but then on the following 19th, a unit of Chōshū domain unexpectedly clashed with the guard troops of Ōgaki domain at Fushimi, opening hostilities. This immediately became the trigger for a great battle to begin. At this time, Aizu domain was defending the Hamaguri Gate of the imperial palace. The fighting in this area was quite fierce, but as mentioned previously, Satsuma domain's intention was that even if they might ally [with Chōshū] in the future, at this time they should first punish Chōshū domain, so they naturally aided Aizu and Kuwana domains in attacking [Chōshū] from the flank. Consequently, much of Kyoto city was burned away due to the extremely violent street fighting, but ultimately Chōshū domain was defeated. This was the cause of Chōshū domain falling into increasingly adverse circumstances, and also became the primary reason for raising the Chōshū Punitive Army.       At that time, this fighting was not limited to Kyoto city alone - since part of Chōshū forces had established themselves at Mount Tennō in Yamazaki, the people's hearts in Osaka were also truly filled with trepidation. At this time, Yoshida domain deployed troops to Kyōbashi-guchi for guard duty, but prior to this they had already summoned reinforcements from the domain to Osaka. According to the direct account of elder Miura Hekisui, he too went to Osaka during this reinforcement, traveling there in just two days and nights.       ⦿Yoshida Domain During Its Residence in Osaka and Yamamoto Hayao       What was described in the previous chapter concerned the situation of the realm from around August of Bunkyū 2 to around June of Bunkyū 4, that is, Genji 1, but **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper Issue 4,569 Supplement (Published January 20th, Taishō 3) **Main Text:**       now, what attitude did our Yoshida domain take during that time? Here I would like to outline the main points. Of course, at that time, as already mentioned in the previous chapter, Yoshida castle lord Matsudaira Izu-no-kami Nobuhisa was serving as Osaka castle deputy and residing in Osaka castle. He received his appointment as castle deputy on the last day of June, Bunkyū 2, as I briefly mentioned before. At the same time, Nobuhisa was elevated to fourth court rank, but soon after, as you know, there was the matter of the imperial envoy Middle Counselor Sanjō and others going east, and the shogunate underwent major changes. These events seem to have been related, as Nobuhisa's assignment to Osaka was considerably delayed - he finally departed Edo on September 2nd of that year, traveled west via the Tōkaidō, and arrived in Osaka on the 19th of that month. Of course, detailed records about that time remain in the Ōkōchi family, but since it would become too lengthy, I plan to omit the details and speak only generally. In any case, that period was when expulsion theory was at its most vigorous, and the rampage of rōnin had reached its extreme. On December 4th of that year, Matsudaira Katamori entered Kyoto as Kyoto Protector, and Hitotsubashi Yoshinobu, who was shogunal guardian at the time, as well as Matsudaira Yoshinaga as chief of political affairs, also entered Kyoto. Then the following year, that is, on March 4th of Bunkyū 3, Shogun Iemochi also went up to Kyoto and entered Nijō Castle. On the 7th of that month, he entered the palace and received the imperial edict for expelling foreigners. For these reasons, the fervor of expulsion advocates became increasingly intense. Particularly, according to the imperial edict at that time, regarding national affairs, depending on the matter, direct imperial commands would be issued from the court to the various domains. This greatly perplexed the shogunate, and indeed afterward, regarding expulsion, there were instances where the court directly commanded domains responsible for Kyoto-Osaka security, so the Osaka castle deputy, who bore responsibility for Kansai command, frequently faced difficulties in handling these situations. It was already June 11th of Bunkyū 3, and Shogun Iemochi happened to be in Osaka castle, having come down from Kyoto. At that time, an inquiry came from the Lord of Kii to Nobuhisa as Osaka castle deputy, which I find quite interesting. The following complete text is what Nobuhisa sent to the senior councilors at the time, requesting guidance regarding this matter. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Yoshida Domain During Its Residence in Osaka and Yamamoto Hayao) 549