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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 30

ページ: 30

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【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅二 【本文】       が書(か)いたもので参考(さんこう)となる点(てん)があるが之(こ)れ亦(ま)た第一説に従(したがつ)て居る而(しか)して第二説に属(ぞく)するものは藩翰(はんかん)        譜(ふ)三 河聞書(かはきゝがき)吉田城主記(よしだぜいしゆき)或種(あるしゆ)の三 河記(かはき)等(とう)で藩翰譜(はんかんふ)は矢張(やはり)創業記(そうげうき)を引用(いんよう)して居るのである又(ま)た第三説を取(と)       つて居(を)るのは牛久保密談記(うしくぼみつだんき)と宮島伝記(みやしまでんき)で吉田城主考(よしだぜいしゆこう)も亦(ま)た熱心(ねしん)なる戦争(せんそう)両度(れうど)論(ろん)である而(しか)して戦争(せんそう)一度       説から云ふと此(この)戦(たゝかひ)に於(おい)て牧野氏(まきのし)は敗北(はいぼく)し信成(のぶしげ)初(はじ)め一 族郎等(ぞくらうとう)多(おほ)くは戦死(せんし)し殆(ほとん)ど滅亡(めつぼう)に終(をは)つたと云ふの 《割書:享禄二年説|の有力なる》  であるが戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)から云ふと前(まへ)の戦(たゝかひ)に於て成三(しげかづ)は自殺(じさつ)し更(さら)に後(のち)の戦争(せんそう)に於て信成(のぶしげ)等(ら)一 族(ぞく)の多(おほ)くは 《割書:証拠| 》    敗死(はいし)したと云ふのである此点(このてん)より見(み)ると戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)は有理(もつとも)らしくも信(しん)ぜられるのであるが併(しか)し茲(こゝ)に第       一説の享禄(けうろく)二年説が有力(ゆうりよく)たる所以(ゆゑん)があるので夫(それ)は例(れい)の貞享書上(ていけうかきあげ)であるが渥美太郎左衛門(あつみたらうざゑもん)大岡忠(おほをかちう)四 郎(らう)、        小林惣兵衛(こばやしそうべゑ)等(ら)の書(き)上(あ)げたものゝ中(なか)に其(その)祖先(そせん)の功(こう)を書(か)いた処があるが孰(いづ)れも此(この)戦(たゝかひ)を享禄(けうろく)二年として       ある殊(こと)に佐野與(さのよ)八 郎(らう)書上(かきあげ)には五 代(だい)以前(いぜん)の與八郎と云ふ者(もの)は此(この)戦(たゝかひ)に一 番鎗(ばんやり)で牧野伝蔵(まきのでんざう)傳次(でんじ)を鎗付(やりつき)柴田(しばた)        中務(なかつかさ)大岡忠右衛門(おほかちううゑもん)に首(くび)を取(と)らせ云々と書(か)いてある又 大岡忠(おほかちう)四 郎(らう)の書上(かきあげ)の方(はう)にも同様(どうよう)五 代(だい)前(ぜん)の忠右衛門       が傳次(でんじ)を討取(うちと)つたと記(しる)してある其他(そのた)石川主殿頭(いしかはとのものかみ)の書上(かきあげ)にも柴田中務(しばたなかつかさ)が牧野傳蔵を打取(うちとつ)た事が記(しる)してあ 古河系図  ると云ふ訳(わけ)で傳蔵(でんざう)傳次(でんじ)等(ら)牧野(まきの)一 族(ぞく)の戦死(せんし)は享禄(けうろく)二年で動(うご)かすべからざるように見(み)へて居る只(たゞ)之(こ)れが反(はん)        証(せう)ともなすべきものは田辺牧野家(たなべまきのけ)の家臣(かしん)に古河勝通(ふるかはせうつう)と云ふ人があつて此人(このひと)は宝飯郡(ほゐぐん)古河村(ふるかはむら)(今の大村       附近)に住(すむ)で由緒(ゆうしよ)ある家(いへ)であつたが此(この)吉田落城(よしだらくぜう)の時に田辺牧野家(たなべまきのけ)の祖先(そせん)定成(さだしげ)が手疵(てきづ)を負(お)ふて落延(おちの)びた       のを救(すく)ふた縁故(ゑんこ)で遂(つひ)に其(その)家来(けらい)筋(すじ)として仕(つか)へたのである此家(このいへ)は今も連綿(れんめん)と継続(けいぞく)して居るので其家(そのいへ)に古河(ふるかは)        系図(けいづ)と云ふものが残(のこ)つて居る之(これ)は参考(さんこう)とするに値(あたひ)するのであるが此(この)系図(けいづ)には此(この)戦(たゝかひ)を以(もつ)て天文元年と       なして居(を)る事である併(しか)しながら多(おほ)くの家(いへ)に伝(つた)はつて居る記録(きろく)が大多数(だいたすう)享禄(けうろく)二年の戦争(せんそう)一 度説(どせつ)であるか       ら結局(けつきよく)今(いま)は此説(このせつ)に従(したが)ふの外(ほか)はないと信(しん)ずるのである 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百二十三号附録   ( 明治四十四年四月五日発行 ) 【本文】 戦の状況  ソコで此(この)戦(たゝかひ)の模様(もよう)であるが之(これ)は幸(さいはひ)に大久保彦左衛門(おほくぼひこざゑもん)の三 河物語(かはものがたり)に詳(くは)しくあるので大要(たいえう)の事情(じぜう)を明(あきらか)に       する事が出来(でき)ると思(おも)ふモツトモ此(この)物語(ものがたり)には年月日がないが兎(と)に角(かく)戦(たゝかひ)の事は一 度(たび)しか記録(きろく)してないの       である即(すなは)ち此(この)物語(ものがたり)によると清康(きよやす)は先(ま)づ岡崎(をかざき)を出発(しゆつぱつ)して赤坂(あかさか)に陣取(ぢんど)り先手(さきて)は御油国府(ごゆこうふ)に陣(ぢん)を構(かま)へたので       あるが明(あ)くれば赤坂(あかさか)を出発(しゆつぱつ)し小坂井(こさかゐ)に旗(はた)を立(た)て先手(さきて)は下地(しもぢ)に放火(はうくわ)したのである牧野方(まきのがは)は之(これ)を見(み)て茲(こゝ)に        雌雄(しゆう)を決(けつ)せんとの意気込(いきごみ)鋭(するど)く豊川を渡(わた)りて対岸(たいがん)に上陸(ぜうりく)し悉(こと〴〵)く舟(ふね)を押流(おしなが)して所謂(いはゆる)背水(はいすゐ)の陣(ぢん)を布(し)いた清(きよ)        康(やす)は依(よつ)て小坂井より進(すゝん)で下地の堤塘(ていとう)に於て衝突(せうとつ)し互(たがひ)に此(この)堤(つゝみ)を乗取(のりと)らむとして対抗(たいこう)したのである三 河物(かはもの)        語(がたり)には此(この)有様(ありさま)を記(しる)して         清康(きよやす)は下地の塘(つゝみ)へ押上(おしあが)らむとし給(たま)ふ傳蔵も塘(つゝみ)へ押上(おしあが)らむとす両方(れうはう)塘(つゝみ)の両(れう)の腹(はら)にしばづきて半日はか        り念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)はかりして大事(だいじ)に思(おも)ひてシン〳〵と心(こゝろ)を静(しづ)め居(ゐ)たり       とある実(じつ)に此(この)時代(じだい)の戦争(せんそう)の状態(ぜうたい)を見る上に於(おい)て無限(むげん)の趣味(しゆみ)を感(かん)ずる記録(きろく)ではあるまいか而(しか)して清康(きよやす)は        家臣(かしん)の諌(いさめ)をも聴(き)かず自(みづか)ら松平内膳信定(まつだひらないぜんのぶさだ)と共に敵陣(てきじん)へ突貫(とつかん)したのであるが牧野(まきの)方(かは)の勢(いきほひ)鋭(するど)く一時は清康(きよやす)        方(かた)の敗(はい)となつた然(しか)るに再(ふたゝ)び逆襲(ぎやくしう)して遂(つひ)に牧野方を河(かは)に押(お)し蹇(ちゞ)め信成(のぶしげ)を初(はじ)め牧野の一 族(ぞく)は殆(ほとん)ど之(これ)に戦死(せんし)       し尽(つく)したのである蓋(けだ)し清康(きよやす)方(かは)に於ても容易(ようい)ならざる損害(そんがい)を蒙(こうむ)つたので貞享書上(ていけうかきあげ)に拠(よ)るも 相当(さうとう)の人々が        多数(たす)討死(うちじに)して居(を)るのである三 河物語(かはものがたり)に又た傳蔵(でんぞう)等(ら)打取(うちとり)当時(とうじ)の状況(ぜうけう)を書(か)いて         傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ)新蔵(しんぞう)新次(しんじ)兄弟(けいてい)四人を打取(うちと)る吉田の城には女房(にようはう)共(ども)出(い)で見(み)て下地をふうするに出(い)で見(み)よとて「        コンガウ」をはいて出(い)で堀(へい)より見越(みこえ)て見(み)る清康(きよやす)は思(おもひ)のまゝに合戦(かつせん)に打勝(うちかつ)て吉田河(よしだがは)の上(かみ)の瀬(せ)へまわり        て河(かは)を騎越(のりこえ)吉田の城へ即(すなは)ち責入(せめいり)給(たま)へば女房(にようばう)共(ども)は「コンガウ」をはきて田原(たはら)へ落行(おちゆく)       としてあるが私(わたくし)は此(この)城中(ぜうちう)にありし女房(にようはう)共(ども)が「コンガウ」をはいて田原(たはら)へ落行(おちゆ)くとあるのは実(じつ)に当時(とうじ)の 【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (牧野信成等の戦死)          三十二 【本文】 が書いたもので参考となる点があるが、これまた第一説に従っている。而して第二説に属するものは藩翰譜、三河聞書、吉田城主記、或る種の三河記等で、藩翰譜はやはり創業記を引用しているのである。また第三説を取っているのは牛久保密談記と宮島伝記で、吉田城主考もまた熱心なる戦争両度論である。而して戦争一度説から言うと、この戦いにおいて牧野氏は敗北し、信成をはじめ一族郎党多くは戦死し、殆ど滅亡に終わったというのであるが、戦争両度説から言うと、前の戦いにおいて成三は自殺し、更に後の戦争において信成等一族の多くは敗死したというのである。この点より見ると戦争両度説はもっともらしくも信ぜられるのであるが、併しここに第一説の享禄二年説が有力たる所以があるので、それは例の貞享書上であるが、渥美太郎左衛門、大岡忠四郎、小林惣兵衛等の書き上げたものの中に、その祖先の功を書いた処があるが、いずれもこの戦いを享禄二年としてある。殊に佐野与八郎書上には、五代以前の与八郎という者は、この戦いに一番槍で牧野伝蔵・伝次を槍付き、柴田中務・大岡忠右衛門に首を取らせ云々と書いてある。また大岡忠四郎の書上の方にも同様、五代前の忠右衛門が伝次を討ち取ったと記してある。その他石川主殿頭の書上にも柴田中務が牧野伝蔵を打ち取った事が記してあると云う訳で、伝蔵・伝次等牧野一族の戦死は享禄二年で動かすべからざるように見えている。ただこれが反証ともなすべきものは、田辺牧野家の家臣に古河勝通という人があって、この人は宝飯郡古河村(今の大村附近)に住んで由緒ある家であったが、この吉田落城の時に田辺牧野家の祖先定成が手傷を負って落ち延びたのを救った縁故で、遂にその家来筋として仕えたのである。この家は今も連綿と継続しているので、その家に古河系図というものが残っている。これは参考とするに値するのであるが、この系図にはこの戦いをもって天文元年となしている事である。併しながら多くの家に伝わっている記録が大多数享禄二年の戦争一度説であるから、結局今はこの説に従うの外はないと信ずるのである。 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百二十三号附録  (明治四十四年四月五日発行) 【本文】 戦の状況 そこでこの戦いの模様であるが、これは幸い大久保彦左衛門の三河物語に詳しくあるので、大要の事情を明らかにする事が出来ると思う。もっともこの物語には年月日がないが、ともかく戦いの事は一度しか記録していないのである。即ちこの物語によると、清康は先ず岡崎を出発して赤坂に陣取り、先手は御油・国府に陣を構えたのであるが、明くれば赤坂を出発し小坂井に旗を立て、先手は下地に放火したのである。牧野方はこれを見て、ここに雌雄を決せんとの意気込み鋭く、豊川を渡って対岸に上陸し、悉く舟を押し流して所謂背水の陣を布いた。清康はよって小坂井より進んで下地の堤塘において衝突し、互いにこの堤を乗り取らんとして対抗したのである。三河物語にはこの有様を記して  「清康は下地の堤へ押し上がらんとし給う。伝蔵も堤へ押し上がらんとす。両方堤の両の腹にしがみついて半日ばかり、念仏の声ばかりして大事に思いて、しんしんと心を静め居たり」 とある。実にこの時代の戦争の状態を見る上において無限の趣味を感ずる記録ではあるまいか。而して清康は家臣の諫めをも聞かず、自ら松平内膳信定と共に敵陣へ突貫したのであるが、牧野方の勢い鋭く一時は清康方の敗となった。然るに再び逆襲して遂に牧野方を河に押し縮め、信成をはじめ牧野の一族は殆どこれに戦死し尽くしたのである。けだし清康方においても容易ならざる損害を蒙ったので、貞享書上に拠るも相当の人々が多数討死しているのである。三河物語にまた伝蔵等打取り当時の状況を書いて  「伝蔵・伝次・新蔵・新次兄弟四人を打ち取る。吉田の城には女房共出で見て、下地を見ん所に出で見よとて『こんがう』を履いて出で、塀より見越して見る。清康は思いのままに合戦に打ち勝って吉田川の上の瀬へ回りて、川を騎け越え吉田の城へ即ち責め入り給えば、女房共は『こんがう』を履いて田原へ落ち行く」 としてあるが、私はこの城中にありし女房共が「こんがう」を履いて田原へ落ち行くとあるのは、実に当時の 【欄外】 豊橋市史談  (牧野信成等の戦死)          三十三

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Death in Battle of Makino Nobushige and Others)          32 【Main text】 which was written by him and has points of reference, but this also follows the first theory. The works belonging to the second theory are "Hankan-fu," "Mikawa Kikigaki," "Yoshida Castle Lords' Records," and certain types of "Mikawa-ki," with "Hankan-fu" also quoting from "Sōgyō-ki." Those taking the third theory are "Ushikubo Secret Discussions" and "Miyajima Biography," and "Yoshida Castle Lords' Study" is also an enthusiastic advocate of the two-wars theory. According to the single-war theory, in this battle the Makino clan was defeated, and Nobushige and many of his kinsmen and retainers died in battle, nearly resulting in complete annihilation. However, according to the two-wars theory, in the earlier battle Shigekazu committed suicide, and later in the subsequent war, many of Nobushige's clan died in defeat. From this perspective, the two-wars theory seems plausible, but here lies the reason why the first theory - the Kyōroku 2 theory - is powerful: the famous Jōkyō submissions. Among the submissions by Atsumi Tarōzaemon, Ōoka Chūshirō, Kobayashi Sōbei and others, there are sections describing their ancestors' achievements, all of which date this battle to Kyōroku 2. Particularly in Sano Yohachirō's submission, it states that a Yohachirō from five generations prior was the first spear in this battle, striking Makino Denzō and Denji with his spear, and having their heads taken by Shibata Nakatsuasa and Ōoka Chūemon, etc. Similarly, Ōoka Chūshirō's submission also records that Chūemon from five generations prior killed Denji. Additionally, Ishikawa Tononokami's submission also records that Shibata Nakatsuasa killed Makino Denzō. Thus, the deaths in battle of Denzō, Denji and other Makino clan members in Kyōroku 2 appear immovable. However, what could serve as counter-evidence is that there was a retainer of the Tanabe-Makino family named Furukawa Shōtsū, who lived in Furukawa village, Hōi District (near present-day Ōmura) and was from a distinguished family. During this fall of Yoshida Castle, he rescued Sadashige, the ancestor of the Tanabe-Makino family, when he fled wounded, and through this connection eventually served as his retainer. This family continues unbroken to this day, and they preserve something called the "Furukawa Genealogy." This is worth consulting as reference, but this genealogy dates this battle to Tenbun 1. However, since the records preserved by most families are predominantly of the single-war theory of Kyōroku 2, I believe we ultimately have no choice but to follow this theory. 【Left page】 【Margin】 San'yō Shimpō No. 3723 Supplement  (Published April 5, Meiji 44) 【Main text】 Situation of the Battle Now regarding the circumstances of this battle, fortunately it is detailed in Ōkubo Hikozaemon's "Mikawa Monogatari," so I think we can clarify the general situation. Although this tale gives no year, month or day, it records the battle only once. According to this tale, Kiyoyasu first departed Okazaki and took position at Akasaka, with his vanguard setting up camp at Goyu and Kōfu. At dawn, he departed Akasaka, raised his banner at Kosakai, and his vanguard set fire to Shimoji. Seeing this, the Makino forces, with fierce determination to decide the outcome here, crossed the Toyokawa river, landed on the opposite bank, pushed away all the boats and formed what is called a "back-to-the-water formation." Kiyoyasu then advanced from Kosakai and clashed at the embankment of Shimoji, with both sides contending to capture this embankment. "Mikawa Monogatari" records this scene:  "Kiyoyasu tried to push up onto the Shimoji embankment. Denzō also tried to push up onto the embankment. Both sides clung to either side of the embankment for about half a day, with only the sound of nembutsu prayers, taking the matter seriously and calming their hearts in deep silence." Is this not a record of infinite interest for understanding the state of warfare in this era? Kiyoyasu, not heeding his retainers' counsel, personally charged into the enemy lines together with Matsudaira Naizen Nobusada, but the Makino forces' momentum was fierce and Kiyoyasu's side was temporarily defeated. However, they counterattacked again and finally pushed the Makino forces back to the river, where Nobushige and nearly all of the Makino clan died in battle. Indeed, Kiyoyasu's side also suffered considerable damage, as according to the Jōkyō submissions, a considerable number of people died in battle. "Mikawa Monogatari" also describes the circumstances when Denzō and others were killed:  "The four brothers Denzō, Denji, Shinzō, and Shinji were killed. The ladies in Yoshida Castle came out to watch, saying 'Come out to see what's happening at Shimoji,' and wearing 'kongō' (iron clogs), they came out and looked over the fence. Kiyoyasu, having won the battle as he wished, went around to the upper rapids of Yoshida River, rode across the river and immediately attacked Yoshida Castle, whereupon the ladies, wearing their 'kongō,' fled to Tahara." I believe that the description of the ladies in the castle wearing "kongō" and fleeing to Tahara truly represents the conditions of that time. 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Death in Battle of Makino Nobushige and Others)          33