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【欄外】
豊橋市史談 (大阪城代の交代及び其後の形勢) 五百六十六
【本文】
⦿大阪城代の交代及び其後の形勢
《割書:第一回長州|征伐》 サテ前章(ぜんしよう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く文久(ぶんきう)四 年(ねん)即(すなは)ち元治(がんぢ)と年号(ねんごう)の改(あらた)まつた其年(そのとし)の七月十九日 長藩(てうはん)の士(し)は京都(けうと)に逆(ぎやく)
襲(しふ)を試(こゝろ)み端(はし)なくも会桑(あひさう)緒藩(しよはん)の兵(へい)と衝突(せうとつ)したのであるが当時(たうじ)薩藩(さつはん)も亦(ま)た会桑(あひさう)の兵(へい)に加勢(かせい)して宮闕(きうけつ)を保護(ほご)
し結局(けつきよく)長藩(てうはん)の敗(はい)に帰(き)したのである兎(と)に角(かく)此(この)時(とき)長藩(てうはん)は禁闕(きんけつ)に向(むか)つて発砲(はつほう)し深(ふか)く宸襟(しんきん)をも脳(なや)まし奉(たてまつ)た次(し)
第(だい)であるから遂(つひ)に朝敵(てうてき)の汚名(をめい)を受(う)け此(この)月(つき)二十二日を以(もつ)て征長(せいてう)の詔勅(せうちよく)を下(くだ)さるゝに至(いた)つたのである之(これ)が
所謂(いはゆる)第(だい)一 回(かい)の長州征伐(てうしうせいばつ)である勿論(もちろん)此(この)事件(じけん)に就(つい)て極(きは)めて曲折(きよくせつ)のある事(こと)は御承知(ごせうち)の通(とほ)りであるが尾張中納(をはりちうな)
言慶勝(ごんよしかつ)が征長総督(せいてうそうとく)に任(にん)ぜられ且(かつ)又(また)西郷隆盛(さいごうたかもり)が其(その)落着(らくちやく)に就(つ)き極(きは)めて画策(くわくさく)する処(ところ)があつた事(こと)は之(これ)亦 諸君(しよくん)の
既(すで)に御承知(ごせうち)の事(こと)であると思(おも)ふ而(しか)して結局(けつきよく)は長藩(てうはん)の家老(からう)増田右衛門介(ますだうゑもんすけ)、福原越後(ふくはらゑちご)、国司信濃(こくじしなの)等(ら)に屠腹(とふく)を
命(めい)じ藩主(はんしゆ)敬親(よしちか)父子(ふし)は謹慎(きんしん)して罪(つみ)を待(ま)つたが当時(たうじ)長藩(てうはん)に流寓(りゆうぐう)して居(を)られた三條実美卿(さんでうさねよしけう)初(はじ)め五 卿(けう)は筑前藩(ちくぜんはん)
に引渡(ひきわた)さるゝ事(こと)と相成(あひな)つて其(その)十二月廿七日 事(こと)は一 時(じ)段落(だんらく)を告(つ)げたのである併(しか)し乍(なが)ら斯(か)くの如(ごと)き次第(しだい)で
《割書:信古の大阪|城代交代》 天下(てんか)は益々(ます〳〵)騒然(さうぜん)たる有様(ありさま)であつたが其(その)年(とし)の十一月 朔日(ついたち)松平信古(まつだひらのぶひさ)は急(きふ)に出府(しゆつぷ)を命(めい)ぜられ牧野越中守(まきのゑつちうのかみ)着阪(ちやくはん)
の上(うへ)は城代職(じようだいしよく)を交代(かうたい)するように命(めい)ぜられたのであるソコで信古(のぶひさ)は翌(よく)元治(がんぢ)二 年(ねん)の正月廿一日を以(もつ)て大(おほ)
阪(さか)を発(はつ)し其(その)廿九日には此(この)吉田城(よしだじよう)に一 泊(ぱく)して二月八日 江戸表(えどおもて)に着(ちやく)其(その)十五日を以(もつ)て登城(とじよう)したが直(たゞ)ちに大阪(おほさか)
城代(じようだい)を免(めん)ぜられ更(さら)に溜間詰(たまりのまづめ)を命(めい)ぜられたのである勿論(もちろん)此(この)大阪城代(おほさかじようだい)と云(い)ふ役(やく)は極(きは)めて困難(こんなん)なる位置(ゐち)で譜(ふ)
第(だい)の大名(だいめう)が此(この)任(にん)に当(あた)るのであるが第(だい)一に其(その)費用(ひよう)に堪(た)へぬので最(もつと)も困難(こんなん)とする処(ところ)であつたのである特(とく)に
当時(たうじ)の国情(こくぜう)は段々(だん〴〵)申述(まをしの)べたる如(ごと)き次第(しだい)であるから吉田藩(よしだはん)が此(この)在勤中(ざいきんちう)の苦労(くらう)は誠(まこと)に容易(ようい)ならざりしもの
があつたのである然(しか)るに今度(こんど)其(その)交代(かうたい)と相成(あひな)つたのであるが之(これ)と同時(どうじ)に信古(のぶひさ)溜間詰(たまりのまづめ)を命(めい)ぜられ爾後(じご)幕政(ばくせい)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
に参与(さんよ)する事(こと)と相成(あひな)つたのである併(しか)し之(これ)は極(きは)めて例(れい)のない事(こと)で従来(じうらい)溜間詰(たまりまづめ)となるのは大諸侯(だいしよこう)に於(おい)ての
み行(おこな)はるゝ事(こと)で七万石の譜代(ふだい)にして此(この)事(こと)あるのは実(じつ)に抜群(ばつぐん)と云(い)はねばならぬのである尚(なほ)一寸(ちよつと)此処(こゝ)に一
《割書:信古刑部大|輔と改称》 言(げん)したいのは信古(のぶひさ)が改称(かいせう)の事(こと)である信古(のぶひさ)は之(これ)迄(まで)父祖(ふそ)の後(あと)を襲(つ)ぎ伊豆守(いづのかみ)と称(せう)して居(を)つた事(こと)は毎度(まいど)申述(まをしの)べ
たる如(ごと)くであるが元治(がんぢ)元年(がんねん)十二月十一日 伺出(うかゞひいで)仝月廿二日を以(もつ)て刑部大輔(けうぶたいゆ)と改称(かいせう)したのであるモツト
モ改称(かいせう)の理由(りゆう)は甚(はなは)だ不明瞭(ふめいれう)であるが多分(たぶん)其頃(そのころ)老中(らうちう)に任(にん)ぜられたる松前伊豆守(まつまへいづのかみ)と同様(どうせう)である処(ところ)から此処(こゝ)
《割書:信古溜の間|詰を命ぜら|る》 に至(いた)つたものであると思(おも)はれる而(しか)して今度(こんど)溜間詰(たまりまづめ)を命(めい)ぜらるゝに付(つい)ての仰渡(おほせわた)され書(がき)を掲(かゝ)ぐれば左(さ)の如(ごと)
くである
松 平 刑 部 大 輔
勤役中両度之
御上阪之砌骨折相勤候ニ付別段之思召を以溜詰之格ニ被
仰付御礼席之儀向後月次ニは御黒書院溜詰之次別段榊原式部大輔其方酒井河内守酒井左衛門尉一同
御目見五節句は御白書院溜詰之次え出座
御目見可被致候大阪城代は被成御免候
右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で吉田藩(よしだはん)が久(ひさ)しく苦労(くらう)した処(ところ)の大阪城代(おほさかじようだい)も先(ま)づ〳〵交代(かうたい)と相成(あひな)つて藩士(はんし)は孰(いづ)れも或(あるひ)は国(くに)
に就(つ)き或(あるひ)は藩主(はんしゆ)に従(したが)つて江戸(えど)に赴(おもむ)きなどしたのであるが此年(このとし)は即(すなは)ち年号(ねんごう)が慶応(けいおう)と改(あらた)まつたのである而(しか)
《割書:各国軍艦摂|海に入航す》 も国内(こくない)は外交問題(がいかうもんだい)を中心(ちうしん)として愈(いよ〳〵)紛擾(ふんぜう)を来(きた)したのであるが其年(そのとし)の九月 各国(かくこく)公使(こうし)は是非共(ぜひとも)前約(ぜんやく)を履(ふ)む
で江戸(えど)、大坂(おほさか)、兵庫(へうご)、新潟(にひがた)の二 都(と)両港(れうこう)に向(むか)つても開港(かいこう)をなさしむべしと云(い)ふので恰(あたか)も閣老(かくらう)の多(おほ)くは西(さい)
上中(じようちう)であるから万(まん)一 閣老(かくらう)に於(おい)て埒(らち)の明(あ)かない場合(ばあひ)は進(すゝ)むで朝廷(てうてい)に迫(せま)るべと云(い)ふ意気込(いきこみ)を以(もつ)て突如(とつによ)横(よこ)
【欄外】
豊橋市史談 (大阪城代の交代及び其後の形勢) 五百六十七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(大阪城代の交代及びその後の形勢) 五百六十六
【本文】
●大阪城代の交代及びその後の形勢
第一回長州征伐
さて前章に申し述べたごとく、文久四年すなわち元治と年号の改まったその年の七月十九日、長州藩の士は京都に逆襲を試み、図らずも会津・桑名諸藩の兵と衝突したのであるが、当時薩摩藩もまた会津・桑名の兵に加勢して宮殿を保護し、結局長州藩の敗北に帰したのである。とにかくこの時長州藩は禁裏に向かって発砲し、深く天皇をお悩ませ申し上げた次第であるから、ついに朝敵の汚名を受け、この月二十二日をもって征長の詔勅を下されるに至ったのである。これがいわゆる第一回の長州征伐である。もちろんこの事件について極めて曲折のあることは御承知の通りであるが、尾張中納言慶勝が征長総督に任ぜられ、かつまた西郷隆盛がその解決について極めて策を画するところがあったことは、これもまた諸君のすでに御承知のことであると思う。そして結局は長州藩の家老増田右衛門介、福原越後、国司信濃等に切腹を命じ、藩主敬親父子は謹慎して罪を待ったが、当時長州藩に流寓していられた三条実美卿をはじめ五卿は筑前藩に引き渡されることと相成って、その十二月二十七日事は一時段落を告げたのである。
信古の大阪城代交代
しかしながら、このような次第で天下はますます騒然たる有様であったが、その年の十一月朔日、松平信古は急に出府を命ぜられ、牧野越中守着阪の上は城代職を交代するように命ぜられたのである。そこで信古は翌元治二年の正月二十一日をもって大阪を発し、その二十九日にはこの吉田城に一泊して二月八日江戸表に着き、その十五日をもって登城したが、ただちに大阪城代を免ぜられ、さらに溜間詰を命ぜられたのである。もちろんこの大阪城代という役は極めて困難なる位置で、譜代の大名がこの任に当たるのであるが、第一にその費用に堪えぬので最も困難とするところであったのである。特に当時の国情は段々申し述べたごときような次第であるから、吉田藩がこの在勤中の苦労は誠に容易ならざるものがあったのである。然るに今度その交代と相成ったのであるが、これと同時に信古は溜間詰を命ぜられ、爾後幕政
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し[以下判読困難]
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
に参与することと相成ったのである。しかしこれは極めて例のないことで、従来溜間詰となるのは大諸侯においてのみ行われることで、七万石の譜代にしてこのことあるのは実に抜群と言わねばならぬのである。なお一寸ここに一言したいのは信古が改称のことである。
信古刑部大輔と改称
信古はこれまで父祖の後を襲ぎ伊豆守と称していたことは毎度申し述べたごとくであるが、元治元年十二月十一日伺い出で、同月二十二日をもって刑部大輔と改称したのである。もっとも改称の理由は甚だ不明瞭であるが、多分その頃老中に任ぜられたる松前伊豆守と同様であるところから、ここに至ったものであると思われる。
信古溜の間詰を命ぜらる
そして今度溜間詰を命ぜらるるについてのお達し書を掲げれば左のごとくである。
松平刑部大輔
勤役中両度の
御上阪の砌骨折相勤候につき別段の思召をもって溜詰の格に
仰せ付けらる。御礼席の儀向後月次には御黒書院溜詰の次。別段榊原式部大輔、其方、酒井河内守、酒井左衛門尉一同
御目見。五節句は御白書院溜詰の次へ出座
御目見致すべく候。大阪城代は御免に成され候。
右のごとき次第で、吉田藩が久しく苦労したところの大阪城代もまずまず交代と相成って、藩士はいずれも或いは国につき、或いは藩主に従って江戸に赴きなどしたのであるが、この年はすなわち年号が慶応と改まったのである。
各国軍艦摂海に入航す
そしてまた国内は外交問題を中心として、いよいよ紛擾を来したのであるが、その年の九月、各国公使は是非とも前約を履んで江戸、大坂、兵庫、新潟の二都両港に向かっても開港をなさしむべしというので、恰も閣老の多くは西上中であるから、万一閣老において埒の明かない場合は進んで朝廷に迫るべしという意気込みをもって、突如横[浜より]
【欄外】
豊橋市史談(大阪城代の交代及びその後の形勢) 五百六十七
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Change of Osaka Castle Deputy and Subsequent Situation) 566
**Main Text:**
●Change of Osaka Castle Deputy and Subsequent Situation
**First Chōshū Expedition**
Now, as stated in the previous chapter, on July 19th of Bunkyū 4, which became Genji when the era name was changed, warriors of Chōshū domain attempted a counterattack in Kyoto and unexpectedly clashed with forces of Aizu, Kuwana and other domains. At that time Satsuma domain also assisted the Aizu and Kuwana forces to protect the imperial palace, and ultimately Chōshū domain was defeated. In any case, at this time Chōshū domain fired upon the Imperial Palace and deeply troubled His Majesty, so they finally received the stigma of being enemies of the court, and on the 22nd of this month an imperial edict for the Chōshū expedition was issued. This was the so-called First Chōshū Expedition. Of course, as you know, this incident involved extremely complex circumstances, but Owari Chūnagon Yoshikatsu was appointed as Commander-in-Chief of the Chōshū expedition, and Saigō Takamori also worked extremely hard on its resolution - I believe this too is already known to you all. In the end, Chōshū domain's senior retainers Masuda Uemon-suke, Fukuhara Echigo, Kokuji Shinano and others were ordered to commit seppuku, and domain lord Yoshichika and his son went into confinement to await punishment. The five court nobles including Sanjō Sanetomi, who were in exile in Chōshū domain at the time, were handed over to Chikuzen domain, and on December 27th the matter reached a temporary conclusion.
**Nobukatsu's Change from Osaka Castle Deputy**
However, with such developments the entire country was in an increasingly turbulent state. On November 1st of that year, Matsudaira Nobukatsu was suddenly ordered to proceed to Edo, and upon Makino Etchū-no-kami's arrival in Osaka, was commanded to transfer the castle deputy position. So Nobukatsu departed Osaka on January 21st of the following second year of Genji, stayed one night at Yoshida Castle on the 29th, arrived in Edo on February 8th, and attended the castle on the 15th. He was immediately relieved of the Osaka Castle Deputy position and further appointed to Tamari-no-ma duty. Of course, the position of Osaka Castle Deputy was an extremely difficult one, held by hereditary daimyo, but the primary difficulty was being unable to bear the expenses. Especially given the national situation as I have gradually described, the hardships endured by Yoshida domain during this posting were truly extraordinary. However, now the transfer was arranged, and simultaneously Nobukatsu was appointed to Tamari-no-ma duty, henceforth to participate in shogunal government
**Margin:**
Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion [remainder illegible]
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper
**Main Text:**
This was an extremely unprecedented matter, as traditionally Tamari-no-ma appointment was only given to great lords, and for a 70,000-koku hereditary domain to receive this was truly exceptional. I would like to briefly mention here Nobukatsu's name change.
**Nobukatsu's Change of Title to Gyōbu-taiyu**
As I have mentioned repeatedly, Nobukatsu had until then succeeded his ancestors and held the title Izu-no-kami, but on December 11th of Genji 1 he submitted a request, and on the 22nd of the same month changed his title to Gyōbu-taiyu. The reason for this change is quite unclear, but it was probably because around that time Matsumae Izu-no-kami was appointed as senior councilor, creating a duplication of titles.
**Nobukatsu Appointed to Tamari-no-ma Duty**
The official notification regarding his appointment to Tamari-no-ma duty reads as follows:
Matsudaira Gyōbu-taiyu
During his service tenure, on both occasions of
His Majesty's visits to Osaka, he served with dedication, and by special consideration is
appointed to Tamari rank. Regarding courtesy seats, henceforth monthly he shall sit next to the Gokuro-shoin Tamari, separately with Sakakibara Shikibu-taiyu, yourself, Sakai Kawachi-no-kami, and Sakai Saemon-no-jō together for
audience. For the five seasonal festivals he shall take his seat next to the Goshiro-shoin Tamari
for audience. The Osaka Castle Deputy position is hereby relieved.
With such arrangements, the Osaka Castle Deputy position that Yoshida domain had long struggled with was finally transferred, and the domain retainers either returned to their home province or followed the domain lord to Edo. This year the era name was changed to Keiō.
**Foreign Warships Enter Settsu Bay**
Furthermore, domestic affairs centered on diplomatic issues became increasingly turbulent. In September of that year, foreign ministers insisted that previous agreements must be fulfilled and ports at the two capitals of Edo and Osaka, as well as Hyōgo and Niigata, must be opened. Since most of the senior councilors happened to be traveling west at the time, with the determination that if no resolution could be reached with the councilors they would proceed to pressure the court directly, they suddenly [departed from Yokohama]
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Change of Osaka Castle Deputy and Subsequent Situation) 567