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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 298

ページ: 298

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【欄外】    豊橋市史談  (大阪城代の交代及び其後の形勢)                五百六十八 【本文】       浜(はま)を出帆(しゆつぱん)し断然(だんぜん)摂海(せつかい)に入航(にふかう)したのである当時(たうじ)将軍(せうぐん)家茂(いへしげ)は大坂城(おほさかじよう)にあり阿部(あべ)松前(まつまへ)二 閣老(かくらう)も之(これ)に陪(ばい)して居(を)       つたが阿部(あべ)閣老(かくらう)は直(たゞ)ちに兵庫(へうご)に赴(おもむ)いて各国(かくこく)公使(こうし)に折衝(せつせう)する処(ところ)があつたのである然(しか)るにかゝる場合(ばあひ)であ       るから京都(けうと)に於(おい)ては此時(このとき)阿部(あべ)閣老(かくらう)が専断(せつだん)を以(もつ)て各国(かくこく)公使(こうし)に向(むか)ひ兵庫(へうご)開港(かいこう)を許可(きよか)したと云(い)ふ流言(りうげん)が盛(さかん)で 《割書:朝廷阿部松|前両閣老を|罷免せらる》  あつたのであるソコで京都(けうと)の驚(おどろ)きは容易(ようい)でなく十月朔日 直(たゞち)に勅命(ちよくめい)を以(もつ)て阿部(あべ)松前(まつまへ)両(れう)閣老(かくらう)に譴罰(げんばつ)を加(くは)へ       共(とも)に老中職(らうちうしよく)を免(めん)じたる上(うへ)官位(くわんゐ)をも褥奪(ちだつ)し国(くに)に就(つい)て謹慎(きんしん)すべきように命(めい)ぜられたのである此(かく)の如(ごと)く幕府(ばくふ) 《割書:将軍家茂辞|表を呈出す》  の老中(らうちう)を朝廷(てうてい)に於(おい)て直接(ちよくせつ)に免職(めんしよく)せらるゝ等(とう)の事(こと)は空前(くうぜん)の事(こと)であるので将軍(せうぐん)の痛恨(つうこん)は言語(ごんご)に絶(ぜつ)し即日(そくじつ)遂(つひ)       に辞表(じへう)を朝廷(てうてい)に呈出(ていしゆつ)し直(たゞ)ちに東帰(とうき)の途(と)に就(つ)くに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て朝廷(てうてい)に於(お)かせられても頗(すこぶ)る驚(けう)       愕(がく)されて優詔(ゆうせう)を将軍(せうぐん)に下(くだ)され且(か)つ其(その)四日を以(もつ)て在京(ざいけう)十五 藩(はん)の重臣(ぢうしん)を召(め)して疑議(ぎゞ)せしめられたのである       モツトモ其(その)議(ぎ)は容易(ようゐ)に纏(まとま)るべくもあらざりしが一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)並(ならび)に小笠原(おがさはら)閣老(かくらう)等(ら)が殆(ほとん)ど死(し)を以(もつ)て争(あらそ)つた結果(けつくわ)       遂(つひ)に兵庫(へうご)を除(のぞ)き其他(そのた)に就(つい)ては開港(かいこう)の勅許(ちよくきよ)を下(くだ)さるゝ事(こと)に相成(あひな)つたのであるトコロが元来(がんらい)此(この)両都(れうと)両港(れうこう)開(かい)       市(し)の期限(きげん)は一たび慶応(けいおう)三年十二月 迄(まで)延期(えんき)と相成(あひな)つて居(を)るので条約(でうやく)にも明文(めいぶん)のある事(こと)であつたのに其(その)期(き)       は頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)のある事(こと)で今(いま)尚(なほ)歴史家(れきしか)の研究(けんきう)を要(えう)する処(ところ)と相成(あひな)つて居(を)る次第(しだい)である兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で幕(ばく) 《割書:長州再征の|挙》  威(ゐ)は次第(しだい)に地(ち)に墜(お)ち実権(じつけん)は漸(やうや)く朝廷(てうてい)に回復(かいふく)されつゝありし有様(ありさま)であつたが之(これ)と相(あひ)前後(ぜんご)して起(おこ)つた問題(もんだい)       は彼(か)の長州再征(てうしうさいせい)の挙(きよ)である此(この)事(こと)は既(すで)に前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く一たび尾張侯(をはりこう)が総督(そうとく)と相成(あひな)つて長州(てうしう)に向(むか)       ひ事(こと)は落着(らくちやく)した訳(わけ)であるが其(その)取扱(とりあつか)ひ振(ぶ)りの甚(はなは)だ寛大(かんたい)であつたと云(い)ふ事(こと)に満足(まんぞく)しないのは第(だい)一に幕閣(ばくかく)で       あるソコで幕閣(ばくかく)に於(おい)ては毛利(もうり)父子(ふし)を江戸(えど)に送(おく)れとか三 条公(でうこう)初(はじめ)をも亦(ま)た江戸(えど)に送(おく)れとか既(すで)に降旗(かうき)を建(た)て       た以上(いじよう)は此上(このうへ)に相当(さうたう)の処分(しよぶん)を受(う)けるのは当然(たうぜん)であるとか云(い)ふ議論(ぎろん)は中々(なか〳〵)盛(さかん)であつたのである殊(こと)に近来(きんらい) 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野 吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千六百五十二号附録     (大正三年四月二十九日発行) 【本文】       幕閣(ばくかく)と一橋(ひとつばし)との間(あひだ)は実(じつ)に犬猿(けんえん)も啻(たゞ)ならざる程(ほど)の反目(はんもく)であつたにも拘(かゝは)らず此(この)長州(てうしう)に対(たい)しては不思議(ふしぎ)にも       同論(どうろん)であつたのであるトコロが一 方(ぱう)長州(てうしう)の方(はう)は如何(いかん)であるかと云(い)ふに国内(こくない)に於(おい)て主戦党(しゆせんたう)と恭順党(けうじゆんたう)との       争(あらそひ)があつたが遂(つひ)に主戦党(しゆせんたう)の勝利(せうり)と相成(あひな)つたので益(ます〳〵)幕長(ばくてう)の間(あひだ)に何事(なにごと)が起(おこ)らねば止(や)まざる訳(わけ)で之(これ)がイ       ヨ〳〵長州(てうしう)再征(さいせい)の起(おこ)る所以(ゆゑん)と相成(あひな)つたのであるソコで将軍(せうぐん)は五月廿三日(慶応(けいおう)元年(がんねん))を以(もつ)て入京(にふけう)し参(さん)       内(だい)の上(うへ)長州(てうしう)の処置(しよち)に関(くわん)し勅語(ちよくご)を賜(たまは)つたのであるがそれより大阪(おほさか)にあつて凝議(ぎぎ)し九月廿一日 更(さら)に其(その)処置(しよち)       に関(くわん)する上奏(ぜうそう)をなしたのである然(しか)るに此時(このとき)彼(か)の二 都(と)両港(れうこう)開市(かいし)問題(もんだい)で朝廷(てうてい)から閣老(かくらう)罷免(ひめん)の事(こと)があつたの       で将軍(せうぐん)も十月一日を以(もつ)て辞表(じへう)を提出(ていしゆつ)したる事(こと)は前(まへ)に申述(まをしの)べたる如(ごと)くであるが直(たゞ)ちに辞職(じゝよく)御差止(おんさしとめ)の勅諭(ちよくゆ)       があつたので幕府(ばくふ)は其(その)趣(おもむき)を列藩(れつはん)に公布(こうふ)し尋(つい)で使(し)を広島(ひろしま)に派(は)して長州(てうしう)を詰問(きつもん)しイヨ〳〵長州(てうしう)再征(さいせい)の段(だん)       取(ど)りと成(な)つたのである然(しか)るに此時(このとき)に方(あた)つては薩藩(さつはん)を初(はじ)め此(この)議(ぎ)に反対(はんたい)のものが頗(すこぶ)る多(おほ)く孰(いづ)れも再征(さいせい)の理(り)       由(ゆう)なき事を論(ろん)じたのであるがまだ〳〵此(この)挙(きよ)の成立(せいりつ)するに至(いた)つたのは衰(おとろ)へたるながらも幕府(ばくふ)に何分(なにぶん)の勢(せい)       力(りよく)があつたものと見(み)なければならぬのである即(すなは)ち長州(てうしう)再征(さいせい)の勅諚(ちよくでう)は慶応(けいおう)二年六月七日を以(もつ)て下(くだ)された       のであるが只(た)だ其(その)結果(けつくわ)に至(いた)つては実(じつ)に意外(いぐわい)千 万(ばん)で殆(ほとん)ど征長軍(せいてうぐん)の連敗(れんぱい)に終(をは)つたのである且(か)つ此(この)征討中(せいとうちう)将(せう) 《割書:将軍家茂薨|去》  軍(ぐん)家茂(いへしげ)は病(やまひ)を発(はつ)して日(ひ)に重体(ぢうたい)に陥(おちゐ)り遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたのであるから幕閣(ばくかく)の驚駭(けうがく)は大方(おほかた)ならず先(ま)づ一(ひとつ)       橋慶喜(ばしよしのぶ)を以(もつ)て徳川家(とくがはけ)を相続(さうぞく)せしむる事(こと)を命(めい)じそれから将軍(せうぐん)の喪(も)を発(はつ)したのであるか其後(そのご)十二月五日( 《割書:慶喜将軍に|任ず》  慶応(けいおう)二 年(ねん))勅使(ちよくし)は二 条城(でうじよう)に臨(のぞ)みて慶喜(よしのぶ)に対(たい)し将軍宣下(せうぐんせんげ)の事(こと)を伝(つた)へられたのである            ⦿薩長二藩の連合       前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く長州(てうしう)再征(さいせい)の挙(きよ)は各方面(かくはうめん)共(とも)に幕軍(ばくぐん)の敗北(はいぼく)に帰(き)したがかゝる場合(ばあひ)において将軍(せうぐん)家茂(いへしげ) 【欄外】    豊橋市史談  (薩長二藩の連合)                    五百六十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大阪城代の交代及びその後の形勢)              五百六十八 【本文】 浜を出帆し、断然摂津海に入航したのである。当時将軍家茂は大坂城にあり、阿部・松前二閣老もこれに陪して居たが、阿部閣老は直ちに兵庫に赴いて各国公使に折衝するところがあったのである。然るにかかる場合であるから、京都においてはこの時阿部閣老が専断をもって各国公使に向かい兵庫開港を許可したという流言が盛んであったのである。 朝廷阿部松前両閣老を罷免せらる そこで京都の驚きは容易でなく、十月朔日直ちに勅命をもって阿部・松前両閣老に譴責処罰を加え、共に老中職を免じたる上官位をも剥奪し、国に就いて謹慎すべきように命ぜられたのである。このように幕府の老中を朝廷において直接に免職せらるる等のことは空前のことであるので、将軍の痛恨は言語に絶し、即日ついに辞表を朝廷に呈出し、直ちに東帰の途に就くに至ったのである。 将軍家茂辞表を呈出す ここにおいて朝廷におかせられても頗る驚愕されて、優詔を将軍に下され、かつその四日をもって在京十五藩の重臣を召して疑議せしめられたのである。もっともその議は容易に纏まるべくもあらざりしが、一橋慶喜並びに小笠原閣老等が殆ど死をもって争った結果、ついに兵庫を除き、その他については開港の勅許を下されることと相成ったのである。ところが元来この両都両港開市の期限は一たび慶応三年十二月まで延期と相成って居るので条約にも明文のあることであったのに、その期は頗る疑問のあることで、今なお歴史家の研究を要するところと相成って居る次第である。とにかくこのような訳で幕威は次第に地に墜ち、実権は漸く朝廷に回復されつつありし有様であったが、これと相前後して起こった問題は彼の長州再征の挙である。 長州再征の挙 この事は既に前にも申し述べたごとく、一たび尾張侯が総督と相成って長州に向かい、事は落着した訳であるが、その取扱い振りの甚だ寛大であったということに満足しないのは第一に幕閣である。そこで幕閣においては毛利父子を江戸に送れとか、三条公初めをもまた江戸に送れとか、既に降旗を建てた以上はこの上に相当の処分を受けるのは当然であるとかいう議論は中々盛んであったのである。殊に近来 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野 吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千六百五十二号附録    (大正三年四月二十九日発行) 【本文】 幕閣と一橋との間は実に犬猿も只ならざる程の反目であったにも拘らず、この長州に対しては不思議にも同論であったのである。ところが一方長州の方はいかんであるかというに、国内において主戦党と恭順党との争いがあったが、ついに主戦党の勝利と相成ったので、益々幕長の間に何事が起こらねば止まざる訳で、これがいよいよ長州再征の起こる所以と相成ったのである。そこで将軍は五月二十三日(慶応元年)をもって入京し参内の上、長州の処置に関し勅語を賜ったのであるが、それより大阪にあって凝議し、九月二十一日さらにその処置に関する上奏をなしたのである。然るにこの時彼の二都両港開市問題で朝廷から閣老罷免のことがあったので、将軍も十月一日をもって辞表を提出したることは前に申し述べたごとくであるが、直ちに辞職御差止の勅諭があったので、幕府はその趣を列藩に公布し、ついで使を広島に派して長州を詰問し、いよいよ長州再征の段取りと成ったのである。然るにこの時に方っては薩藩を初めこの議に反対のものが頗る多く、いずれも再征の理由なき事を論じたのであるが、まだまだこの挙の成立するに至ったのは、衰えたるながらも幕府に何分の勢力があったものと見なければならぬのである。すなわち長州再征の勅諚は慶応二年六月七日をもって下されたのであるが、ただその結果に至っては実に意外千万で、殆ど征長軍の連敗に終わったのである。かつこの征討中将軍家茂は病を発して日に重体に陥り、ついに薨去と相成ったのであるから、幕閣の驚骸は大方ならず、先ず一橋慶喜をもって徳川家を相続せしむることを命じ、それから将軍の喪を発したのであるが、その後十二月五日(慶応二年)勅使は二条城に臨みて慶喜に対し将軍宣下のことを伝えられたのである。 将軍家茂薨去 慶喜将軍に任ず ●薩長二藩の連合 前章に申し述べたごとく、長州再征の挙は各方面共に幕軍の敗北に帰したが、かかる場合において将軍家茂 【欄外】 豊橋市史談(薩長二藩の連合)                    五百六十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Change of Osaka Castle Deputy and Subsequent Situation) 568 **Main Text:** departed from the port and resolutely entered Settsu Bay. At that time, Shogun Iemochi was at Osaka Castle, and the two senior councilors Abe and Matsumae were also in attendance, but Senior Councilor Abe immediately proceeded to Hyōgo to negotiate with the foreign ministers. However, given such circumstances, rumors were rampant in Kyoto that Senior Councilor Abe had acted arbitrarily to grant permission for the opening of Hyōgo port to the foreign ministers. **Court Dismisses Both Senior Councilors Abe and Matsumae** Therefore, the shock in Kyoto was considerable, and on October 1st, by imperial command, both Senior Councilors Abe and Matsumae were severely punished, relieved of their positions as senior councilors, stripped of their court ranks, and ordered to return to their domains for house arrest. Since the direct dismissal of shogunal senior councilors by the court was unprecedented, the shogun's anguish was beyond words, and on the same day he finally submitted his resignation to the court and immediately set out on his return journey east. **Shogun Iemochi Submits His Resignation** At this point, the court was also greatly alarmed and issued a gracious edict to the shogun, and on the 4th summoned senior retainers of the fifteen domains in Kyoto for deliberation. Of course, these deliberations could not easily reach agreement, but as a result of Hitotsubashi Yoshinobu and Senior Councilor Ogasawara fighting almost to the death, imperial permission for opening ports was finally granted for all except Hyōgo. However, originally the deadline for opening these two capitals and two ports had been postponed until December of Keiō 3, which was clearly stated in the treaties, yet this timing remained highly questionable and continues to require research by historians today. In any case, with such developments, shogunal authority gradually fell to the ground, and real power was gradually being restored to the court. The problem that arose around this same time was the second Chōshū expedition. **The Second Chōshū Expedition** As I mentioned previously, the Owari lord had once served as commander-in-chief against Chōshū and the matter was settled, but the shogunal council was primarily dissatisfied with the extremely lenient handling of the situation. Therefore, arguments were quite vigorous in the shogunal council that the Mōri father and son should be sent to Edo, that Lord Sanjō and others should also be sent to Edo, and that since they had already surrendered, it was natural they should receive appropriate punishment. Particularly in recent times... **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Konyamachi, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno Kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4652 Supplement (Published April 29, Taishō 3) **Main Text:** the relationship between the shogunal council and Hitotsubashi had been one of bitter enmity like dogs and monkeys, yet strangely they were in agreement regarding Chōshū. Meanwhile, what was the situation in Chōshū? There was internal conflict between the war party and the submission party, but ultimately the war party was victorious, so increasingly something had to happen between the shogunate and Chōshū - this became the reason for the second Chōshū expedition. Therefore, the shogun entered Kyoto on May 23rd (Keiō 1) and after an imperial audience received an imperial rescript regarding the handling of Chōshū. He then deliberated in Osaka and on September 21st made a further memorial regarding its handling. However, at this time the court dismissed the senior councilors over the two capitals and two ports opening issue, so the shogun also submitted his resignation on October 1st as I mentioned previously, but there was immediately an imperial rescript ordering him not to resign. The shogunate then announced this to the various domains and sent an envoy to Hiroshima to interrogate Chōshū, thus arranging for the second Chōshū expedition. However, at this time, beginning with Satsuma domain, there were quite many who opposed this policy, all arguing that there was no reason for a second expedition. Yet the fact that this undertaking still came to pass shows that the shogunate, though weakened, still possessed considerable power. The imperial edict for the second Chōshū expedition was issued on June 7th, Keiō 2, but the results were truly unexpected - it ended in almost complete defeat of the Chōshū expedition forces. Moreover, during this campaign, Shogun Iemochi fell ill and his condition worsened daily until he finally passed away. The shogunal council's shock was immense, so they first ordered Hitotsubashi Yoshinobu to succeed the Tokugawa house, then announced the shogun's death. Subsequently, on December 5th (Keiō 2), imperial messengers came to Nijō Castle to inform Yoshinobu of his appointment as shogun. **Death of Shogun Iemochi** **Yoshinobu Appointed Shogun** **●Alliance of Satsuma and Chōshū Domains** As stated in the previous chapter, the second Chōshū expedition resulted in defeat of shogunal forces on all fronts, but in such circumstances Shogun Iemochi... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Alliance of Satsuma and Chōshū Domains) 569