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【欄外】
豊橋市史談 (薩長二藩の連合) 五百七十
【本文】
《割書:長州再征の|止戦》 は大患(たいくわん)に罹(かゝ)り程(ほど)なく薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたのである之(これ)より先(さ)き幕府(ばくふ)は到底(とういてい)止戦(しせん)の止(やむ)を得(え)ざる事(こと)を思(おも)ひて勝安(かつあ)
房(は)を其(その)談判(だんぱん)委員(ゐゝん)に選任(せんにん)したのであるが此(こゝ)に於(おい)て慶喜(よしのぶ)は勝(かつ)を京都(けうと)に召(め)して種々(しゆ〴〵)内訓(ないくん)を与(あた)へ遂(つひ)に止戦(しせん)の議(ぎ)
を長藩(てうはん)に計(はか)らしむることとしたのであるソコで勝(かつ)は芸州(げいしう)広島(ひろしま)の大願寺(たいぐわんじ)に於(おい)て長藩(てうはん)の代表者(だいへうしや)廣澤兵助(ひろさわへうすけ)、太(おほ)
田市之進(たいちのしん)、井上聞多(ゐのうへぶんた)、長松文輔(ながまつぶんすけ)と会見(くわいけん)するに至(いた)つたが結局(けつきよく)勝(かつ)からは今(いま)や将軍(せうぐん)既(すで)に薨去(こうきよ)せられ国内(こくない)多難(たなん)
の時(とき)に際(さい)し海外(かいぐわい)列国(れつこく)は我国(わがくに)環視(くわんし)して其(その)釁隙(きんげき)に乗(ぜう)ぜんとす若(も)し世界(せかい)の大勢(たいせい)を達観(たつくわん)せず徒(いたづ)らに邦内(ほうない)相(あひ)鬩(せめ)
ぐが如(ごと)き事(こと)をなさば或(あるひ)は印度(いんど)の覆轍(ふくてつ)を踏(ふ)み悔(くひ)を千 載(さい)に貽(のこ)すも及(およ)ばざるに至(いた)らむ今日(こんにち)の場合(ばあひ)は宜(よろ)しく大(たい)
政(せい)を一 新(しん)し綱紀(かうき)を更張(かうしん)し我国(わがくに)独立(どくりつ)の基礎(きそ)を定(さだ)むべし之(こ)れ一日も忽(ゆるがせ)にすべからざる急務(きうむ)なり慶喜(よしのぶ)の真(しん)
意(い)は実(じつ)に此処(こゝ)にあり因(よつ)て幕府(ばくふ)は将(まさ)に止戦(しせん)の命(めい)を発(はつ)し諸方面(しよはうめん)の兵(へい)を収(おさ)めむとす若(も)し長藩(てうはん)に於(おい)て此(この)命(めい)に従(したが)
ふを肯(がへん)ぜざるまでも之(これ)を尾撃(びげき)するが如(ごと)きことはなさゞらんことを望(のぞ)むと云(い)ふ意(い)を陳述(ちんじゆつ)したのであるそれに
対(たい)する廣澤(ひろさわ)の答(こたへ)は長藩(てうはん)に於(おい)ては毫(ごう)も他(た)を侵略(しんりやく)するの意(い)なし況(いはん)や幕府(ばくふ)の大故(だいこ)を幸(さいはひ)とし兵(へい)を弄(ろう)するが如(ごと)き
は決(けつ)して欲(ほつ)する所(ところ)にあらず若(も)し幕府(ばくふ)にして兵(へい)を収(おさ)め大政(たいせい)を更新(かうしん)するに意(い)あらば唯(たゞ)其(その)実蹟(じつせき)の彰然(せうぜん)ならむ
ことを希(こひねが)ふのみと云(い)ふの意(い)であつたのである之(これ)にて止戦(しせん)談判(だんばん)は終(おは)つたのであるが実(じつ)に此際(このさい)勝(かつ)、廣澤(ひろさわ)の
両雄(れうゆう)が共(とも)に憂国(いうこく)の至誠(しせい)から一 点(てん)の私意(しい)を挟(はさ)まず此(この)談判(だんぱん)に相応対(あひおうたい)し此処(こゝ)に我(わが)史上(しぜう)に一 新生面(しんせいめん)を開(ひら)くの基(もとゐ)
をなしたのは愉快(ゆくわい)に絶(た)へぬ処(ところ)である此時(このとき)井上(ゐのうへ)は独(ひと)り更(さら)に勝(かつ)の宿舎(しゆくしや)を訪問(はうもん)して曩(さき)に自(みづか)ら渡英(とえい)して見聞(けんぶん)し
たる感想(かんさう)を談(だん)じ我国(わがくに)も亦(ま)た世界(せかい)の大勢(たいせい)に従(したがつ)て国威(こくゐ)を振張(しんてう)せざるべからずとて大(おほい)に其(その)開国(かいこく)勤王(きんおう)の議論(ぎろん)
《割書:幕長の消長|と外交の関|係》 を談(だん)じたが勝(かつ)も之(これ)には同感(どうかん)の意(い)を表(へう)したと伝(つた)へられて居(を)る尚(なほ)此処(こゝ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)きたいのは当時(たうじ)に
於(お)ける外交上(ぐわいかいぜう)の関係(くわんけい)である其頃(そのころ)御承知(ごせうち)の如(ごと)く仏国(ふつこく)は極(きは)めて幕府(ばくふ)と親善(しんぜん)であつて之(これ)を佐(たす)けて薩長(さつてう)を征(せい)せ
しめむとし之(これ)に反(はん)して英国(えいこく)は寧(むし)ろ薩長(さつてう)と親睦(しんぼく)を結(むす)むで幕府(ばくふ)に反抗(はんこう)せしめむとした形跡(けいせき)がある元来(がんらい)薩長(さつてう)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
二 藩(はん)は孰(いづ)れも一 度(ど)英国(えいこく)とは砲火(ほうくわ)を交(まじ)へたる間柄(あひだがら)であつたが其(その)講話(かうわ)以来(いらい)は却(かへつ)て互(たがひ)に相敬(あひけい)して親睦(しんぼく)を固(かた)く
した事情(じぜう)である特(とく)に長州(てうしう)に於(おい)ては伊藤(いてう)井上(ゐのうへ)両氏(れうし)等(ら)が最初(さいしよ)英国(えいこく)に留学(りうがく)して其(その)国情(こくぜう)をも承知(せうち)して帰(かへ)つた事
であるから一 層(そう)其(その)間(あひだ)の意志(いし)は疎通(そつう)し得(え)た事(こと)と思(おも)ふ蓋(けだ)し当時(たうじ)に於(お)ける幕長(ばくてう)勢力(せいりよく)の消長(せうてう)と外交(ぐわいかう)とは大(おほい)に相(あひ)
関(くわん)する処(ところ)があつたもので此(この)事(こと)は維新(ゐしん)史上(しぜう)極(きは)めて研究(けんきう)を要(えう)すべき重要事(ぢうえうじ)と思(おも)ふのである
《割書:薩長二藩の|連和成る》 サテ前章(ぜんせう)来(らい)段々(だん〴〵)申述(まをしの)べたる処(ところ)によつても御承知(ごせうち)に相成(あひな)つた事(こと)と思(おも)ふが彼(か)の文久(ぶんきう)元年(がんねん)伏見(ふしみ)に起(おこ)つたる寺(てら)
田屋事件(たやじけん)以来(いらい)次第(しだい)に薩長(さつてう)間(かん)に面白(おもしろ)からざる感情(かんぜう)の蟠(わだか)まつて居(を)つた事(こと)は云(い)ふ迄(まで)もなき事(こと)で爾来(じらい)は益(ます〳〵)互(たがひ)
に阻隔(そかく)する処(ところ)があり遂(つひ)には相(あひ)敵視(てきし)すること甚(はなはだ)しきに至(いた)つたのである即(すなは)ち長人(てうじん)は常(つね)に薩人(さつじん)に対(たい)して馬関(ばくわん)
海峡(かいけう)を以(もつ)て三 途(づ)の川(かは)と思(おも)へ決(けつ)して無事(ぶじ)に此(この)海峡(かいけう)を渡(わた)らしむることではないとまで明言(めいげん)して居(を)つたと云(い)ふ
事(こと)である然(しか)るに其後(そのご)薩藩(さつはん)に於(おい)ては西郷隆盛(さいごうたかもり)が再(ふたゝ)び世(よ)に出(い)でゝ藩論(はんろん)を左右(さゆう)するの地位(ちゐ)に立(た)ち京都(けうと)の岡崎(をかざき)
に籠(こも)つて常(つね)に蟄居中(ちつきよちう)の岩倉公(いわくらこう)と声息(せいそく)を通(つう)じて居(を)つたのであるが其(その)国政(こくせい)は又(ま)た西郷(さいごう)と殆(ほとん)ど同主義(どうしゆぎ)を採(と)り
得(え)らるべき大久保(おほくぼ)一 蔵(ざう)の手(て)にあるに至(いた)つたのである併(しか)し西郷(さいごう)は実(じつ)に卓識非凡(たくしきひばん)の人(ひと)であるから能(よ)く〳〵
長藩(てうはん)の動静(どうせい)を察(さつ)し其(その)過激党(くわげきたう)が漫(みだ)りに軽躁(けいさう)であつて屡々(しば〳〵)事(こと)を誤(あやま)り却(かへつ)て自(みづか)ら窮地(きうち)に陥(おちゐ)るを見(み)ては易(たやす)く之(これ)と
与(くみ)せず又(ま)た幕府(ばくふ)が因循姑息(ゐんじゆんこそく)にして何等(なんら)長計大策(てうけいたいさく)なく徒(いたづ)らに一 時(じ)を糊塗(こと)するを見(み)ては勿論(もちろん)之(これ)を翼成(よくせい)すべ
き筈(はづ)もなく時勢(じせい)を観望(くわんばう)して慎重(しんちよう)の態度(たいど)を取(と)つて居(を)つた事(こと)は是亦(これま)た前章(ぜんせう)に其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)べて置(お)いたと考(かんが)
へるトコロでイヨ〳〵長州(てうしう)征伐(せいばつ)と来(き)たので此(こゝ)に於(おい)ては西郷(さいごう)も大(おほい)に決(けつ)する処(ところ)があつて此上(このうへ)にも幕府(ばくふ)のな
すがまゝに任(まか)せ甚(はなはだ)しく長州(てうしう)を圧迫(あつぱく)するが如(ごと)き事(こと)あらば復(ふたゝ)び幕府(ばくふ)をして昔日(せきじつ)の威権(ゐけん)を現出(げんしゆつ)せしむる
事(こと)になるであろうかくては之(こ)れ勤王(きんおう)の精神(せいしん)に乖反(くわいはん)するものである今日(こんにち)の場合(ばあひ)は須(すべか)らく新時勢(しんじせい)に処(しよ)し新(しん)
生面(せうめん)を開(ひら)いて一 大改革(だいかいかく)を断行(だんかう)すべきの時(とき)である之(これ)をなすには最早(もはや)長州(てうしう)と相(あひ)連合(れんごふ)して幕府(ばくふ)を抑(おさ)ゆべきの
【欄外】
豊橋市史談 (薩長二藩の連合) 五百七十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(薩長二藩の連合) 五百七十
【本文】
長州再征の止戦
は大病に罹り程なく薨去と相成ったのである。これより先き幕府は到底止戦の止むを得ざることを思って勝安房を其の談判委員に選任したのであるが、ここにおいて慶喜は勝を京都に召して種々内訓を与え、ついに止戦の議を長藩に計らしむることとしたのである。そこで勝は芸州広島の大願寺において長藩の代表者廣澤兵助、太田市之進、井上聞多、長松文輔と会見するに至ったが、結局勝からは「今や将軍既に薨去せられ国内多難の時に際し、海外列国は我国環視してその釁隙に乗ぜんとす。もし世界の大勢を達観せず徒らに邦内相鬩ぐが如き事をなさば或は印度の覆轍を踏み、悔を千載に貽すも及ばざるに至らん。今日の場合は宜しく大政を一新し綱紀を更張し、我国独立の基礎を定むべし。これ一日も忽にすべからざる急務なり。慶喜の真意は実にここにあり。因って幕府は将に止戦の命を発し諸方面の兵を収めむとす。もし長藩においてこの命に従うを肯んぜざるまでも、これを尾撃するが如きことはなさざらんことを望む」という意を陳述したのである。それに対する廣澤の答は「長藩においては毫も他を侵略するの意なし。況や幕府の大故を幸とし兵を弄するが如きは決して欲する所にあらず。もし幕府にして兵を収め大政を更新するに意あらば、唯其の実蹟の彰然ならむことを希うのみ」という意であったのである。これにて止戦談判は終ったのであるが、実にこの際勝、廣澤の両雄が共に憂国の至誠から一点の私意を挟まず、この談判に相応対し、ここに我が史上に一新生面を開くの基をなしたのは愉快に絶えぬ処である。この時井上は独り更に勝の宿舎を訪問して曩に自ら渡英して見聞したる感想を談じ、我国もまた世界の大勢に従って国威を振張せざるべからずとて大いにその開国勤王の議論を談じたが、勝もこれには同感の意を表したと伝えられて居る。
幕長の消長と外交の関係
なおここに一寸申し述べて置きたいのは当時における外交上の関係である。その頃御承知の如く仏国は極めて幕府と親善であって、これを佐けて薩長を征せしめむとし、これに反して英国は寧ろ薩長と親睦を結んで幕府に反抗せしめむとした形跡がある。元来薩長
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其博該なる知識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
二藩はいずれも一度英国とは砲火を交えたる間柄であったが、その講話以来は却って互いに相敬して親睦を固くした事情である。特に長州においては伊藤井上両氏等が最初英国に留学してその国情をも承知して帰った事であるから、一層その間の意志は疎通し得た事と思う。蓋し当時における幕長勢力の消長と外交とは大いに相関する処があったもので、この事は維新史上極めて研究を要すべき重要事と思うのである。
薩長二藩の連和成る
さて前章来段々申し述べた処によっても御承知に相成った事と思うが、彼の文久元年伏見に起こったる寺田屋事件以来、次第に薩長間に面白からざる感情の蟠まって居た事は言うまでもなき事で、爾来は益々互いに阻隔する処があり、ついには相敵視すること甚だしきに至ったのである。すなわち長人は常に薩人に対して馬関海峡をもって三途の川と思え、決して無事にこの海峡を渡らしむることではないとまで明言して居たという事である。然るにその後薩藩においては西郷隆盛が再び世に出でて藩論を左右するの地位に立ち、京都の岡崎に籠って常に蟄居中の岩倉公と声息を通じて居たのであるが、その国政はまた西郷と殆ど同主義を採り得らるべき大久保一蔵の手にあるに至ったのである。併し西郷は実に卓識非凡の人であるから能く長藩の動静を察し、その過激党が漫りに軽躁であって屡々事を誤り、却って自ら窮地に陥るを見ては易く之と与せず、また幕府が因循姑息にして何等長計大策なく、徒らに一時を糊塗するを見ては勿論これを翼成すべき筈もなく、時勢を観望して慎重の態度を取って居た事は是また前章にその大要を申し述べて置いたと考える。ところでいよいよ長州征伐と来たので、ここにおいては西郷も大いに決する処があって、この上にも幕府のなすが儘に任せ甚だしく長州を圧迫するが如き事あらば、復び幕府をして昔日の威権を現出せしむることになるであろう。かくてはこれ勤王の精神に乖反するものである。今日の場合は須らく新時勢に処し新生面を開いて一大改革を断行すべきの時である。これをなすには最早長州と相連合して幕府を抑ゆべきの
【欄外】
豊橋市史談(薩長二藩の連合) 五百七十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Alliance of Satsuma and Chōshū Domains) 570
**Main Text:**
**Ceasefire of the Second Chōshū Expedition**
fell gravely ill and soon passed away. Prior to this, the shogunate had concluded that a ceasefire was inevitable and had appointed Katsu Awa-no-kami as negotiation commissioner. At this point, Yoshinobu summoned Katsu to Kyoto, gave him various private instructions, and finally decided to have him negotiate a ceasefire with Chōshū domain. Therefore, Katsu met with Chōshū representatives Hirosawa Hyōsuke, Ōta Ichinoshin, Inoue Bunta, and Nagamatsu Bunsuke at Taigan-ji temple in Hiroshima, Geishū. Ultimately, Katsu stated: "Now that the shogun has already passed away, in this time of domestic turmoil, the foreign powers are watching our country, waiting to take advantage of any opening. If we fail to comprehend the great trends of the world and merely engage in domestic strife, we may follow in India's footsteps and leave regrets for a thousand generations with no remedy. In today's circumstances, we should renew the great government, reform our discipline, and establish the foundation of our nation's independence. This is an urgent matter that cannot be delayed even one day. Yoshinobu's true intention lies precisely here. Therefore, the shogunate is about to issue ceasefire orders and withdraw forces from all fronts. Even if Chōshū domain is unwilling to comply with this order, we hope you will not pursue our retreating forces." Hirosawa's response was: "Chōshū domain has no intention whatsoever of invading others. Much less do we wish to take advantage of the shogunate's great misfortune to engage in warfare. If the shogunate intends to withdraw its forces and renew the great government, we only hope that its actual achievements will be clearly evident." With this, the ceasefire negotiations concluded. What was truly delightful was that at this crucial moment, both heroes Katsu and Hirosawa, motivated purely by patriotic sincerity without any personal agenda, engaged in these negotiations and laid the foundation for opening a new chapter in our history. At this time, Inoue alone visited Katsu's lodgings to discuss his impressions from his personal study abroad in England, arguing that our country must also follow world trends and enhance national prestige. He extensively discussed his theories of opening the country and imperial loyalty, and Katsu is said to have expressed agreement with these views.
**Relationship Between the Rise and Fall of Shogunate and Chōshū, and Foreign Diplomacy**
I would like to briefly mention here the diplomatic relationships of that time. As you know, France at that time was extremely friendly with the shogunate and sought to assist it in conquering Satsuma and Chōshū, while conversely, Britain tended to befriend Satsuma and Chōshū and encourage them to resist the shogunate. Originally, both Satsuma and Chōshū
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now that the manuscript is nearly complete...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesday) and presented to readers of the Sanyō Newspaper
**Main Text:**
domains had both once exchanged cannon fire with Britain, but since those peace negotiations, they conversely came to respect each other and solidified their friendship. Particularly in Chōshū, since Itō and Inoue had initially studied in Britain and returned with knowledge of that country's conditions, communication between them became even smoother. Indeed, the rise and fall of shogunate and Chōshū power at that time was greatly related to foreign diplomacy, and I believe this is an extremely important matter requiring research in Restoration history.
**Alliance of Satsuma and Chōshū Domains Achieved**
Now, as you have probably understood from what I have gradually explained since the previous chapter, ever since the Terada-ya Incident that occurred in Fushimi in Bunkyū 1, unfavorable feelings had gradually accumulated between Satsuma and Chōshū. From then on, they increasingly became estranged from each other, ultimately reaching the point of bitter mutual hostility. Chōshū people constantly told Satsuma people to consider the Shimonoseki Strait as the River of Three Crossings (the river of death), declaring they would never allow safe passage through this strait. However, subsequently in Satsuma domain, Saigō Takamori reemerged and assumed a position to influence domain policy. He secluded himself in Okazaki, Kyoto, constantly maintaining communication with the reclusive Lord Iwakura, while domain administration came under the control of Ōkubo Ichizō, who could adopt almost the same principles as Saigō. However, since Saigō was truly a person of outstanding wisdom and extraordinary ability, he carefully observed Chōshū's movements. Seeing that its radical party was recklessly impetuous, frequently making mistakes and falling into desperate situations, he did not easily ally with them. Also seeing that the shogunate was procrastinating and temporizing without any long-term strategies, merely patching things up temporarily, he naturally could not support it either. He maintained a cautious attitude, observing the trends of the times, as I believe I outlined in the previous chapter. Now with the Chōshū expedition, Saigō had much to decide. If they continued to let the shogunate have its way and severely oppress Chōshū, it would allow the shogunate to restore its former authority. This would contradict the spirit of imperial loyalty. Today's circumstances require dealing with new trends of the times, opening new prospects, and carrying out great reforms. To accomplish this, they must now ally with Chōshū to restrain the shogunate...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Alliance of Satsuma and Chōshū Domains) 571