Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 300

ページ: 300

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (薩長二藩の連合)                    五百七十二 【本文】       時機(じき)であると云(い)ふ意見(いけん)を有(いう)せしむるに至(いた)つたのである       而(しか)して其頃(そのころ)は長州(てうしう)に於(おい)ても亦(ま)た恰(あたか)も正論党(せいろんたう)が勢力(せいりよく)をえ(え)た時(とき)で飽(あ)くまでも幕府(ばくふ)の権力(けんりよく)を打破(だは)し王政(おうせい)を恢(くわい)       復(ふく)し以(もつ)て天下(てんか)を一 統(とう)せなければならぬと云(い)ふ議論(ぎろん)が盛(さかん)であうたのである併(しか)しながら此事(このこと)は実(じつ)に天下(てんか)の       大業(たいげう)であるから到底(たうてい)一 藩(はん)の力(ちから)能(よ)く之(これ)を成就(せいじゆ)し得(う)るや否(いな)やは自身(じしん)と雖(いへど)も前途(ぜんと)甚(はなは)だ危(あやし)まざるを得(え)ざる場合(ばあひ)       であつたのであるソコで之(これ)を成(な)し遂(と)ぐるには緒藩中(しよはんちう)に於(おい)て最(もつとも)有力(いうりよく)なる薩藩(さつはん)と相(あひ)連和(れんわ)する必要(ひつえう)がある       と云(い)ふことは自然(しぜん)〳〵に識者(しきしや)の間(あひだ)に認(みと)めらるゝに至(いた)つたのであるが而(しか)も此(この)多年(たねん)相(あひ)嫉視(しつし)し来(きた)りし薩長(さつてう)二 藩(はん)       をして遂(つひ)に能(よ)く相(あひ)連和(れんわ)せしむるに至(いた)つたものは筑前(ちくぜん)土佐(とさ)等(ら)緒藩(しよはん)の媒介(ばいかい)を初(はじ)め種々(しゆ〴〵)なる波瀾曲折(はらんきよくせつ)のあつ       た事(こと)ではあるが蓋(けだ)し土州(どしう)の藩士(はんし)坂本龍馬(さかもとりうま)の如(ごと)きは其(その)成功者(せいこうしや)として最(もつと)も有力(いうりよく)なりしものと云(い)はねばなら       ぬのである       坂本龍馬(さかもとりうま)が薩州(さつしう)の西郷(さいごう)長州(てうしう)の木戸(きど)等(ら)が間(あひだ)に往来(おうらい)して極力(きよくりよく)二 藩(はん)の連合(れんごふ)を画(くわく)した事(こと)は私(わたくし)が今(いま)此処(こゝ)で詳(くは)し       く申述(まをしの)ぶる必要(ひつえう)もないのであるが帰(き)する処(ところ)此(この)二 藩(はん)の連合協約(れんごふけうやく)がなつて互(たがひ)に修好使(しうかうし)を送(おく)り懽然(かんぜん)として相(あひ)       結(むす)ぶに至(いた)つたと云(い)ふ事(こと)は独(ひと)り此(この)薩長(さつてう)の和親(わしん)が成(な)つたと云(い)ふに止(とゞ)まらず全(まつた)く天下(てんか)の大勢(たいせい)を一 変(ぺん)したもの       と云(い)ふべきものであつた即(すなは)ち之(これ)迄(まで)は只(たゝ)各藩(かくはん)の運動(うんどう)、有志(いうし)の周旋(あつせん)、朝紳(てうしん)の云為(うんぬ)と云(い)つた処(ところ)が皆(みな)個々(こゝ)に勢力(せいりよく)が       分(わか)れて或(あるひ)は革命(かくめい)を叫(さけ)び或(あるひ)は暴力(ばうりよく)を振(ふる)ふとも何等(なんら)統(とう)一のなき事(こと)で先見(せんけん)もなければ根底(こんてい)もなく云(い)はゞ急躁(きふそう)       無謀(むばう)の挙(きよ)が多(おほ)かつたのであるが之(これ)では到底(とうてい)兵馬(へいば)の大権(たいけん)を持(も)つて居(を)る幕府(ばくふ)を倒(たほ)す程(ほど)の大勢力(たいせいりよく)を作(つく)り出(いだ)す       事(こと)は出来(でき)なかつたであろうと思(おも)ふ然(しか)るに時勢(じせい)の進運(しんうん)は忽(たちま)ち此処(こゝ)に一 大(だい)動機(どうき)を与(あた)へて急転直下(きふてんちよくか)全国(ぜんこく)は為(ため)       に風靡(ふうび)し遂(つひ)に伏見(ふしみ)の一 戦(せん)を以(もつ)て明治(めいぢ)の大維新(だいゐしん)を見(み)るに至(いた)つたと云(い)ふ事(こと)は結局(けつきよく)此(この)二 藩(はん)の連和(れんわ)が成(な)つた処(ところ)       に起因(きゐん)するもので勢(いきほひ)と云(い)ふものは実(じつ)に不可思議(ふかしぎ)のものであると思(おも)ふのである 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千六百五十二号附録     (大正三年五月五発行) 【本文】             ⦿王政復古と吉田藩       薩長(さつてう)二 藩(はん)の連和(れんわ)は忽(たちま)ちにして天下(てんか)の大勢(たいせい)に変動(へんどう)を及(およ)ぼしたものである事は前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)くであ       るが而(しか)も此(この)連和(れんわ)の講(こう)ぜられたと云(い)ふことは長州(てうしう)再征(さいせい)が失敗(しつぱい)に終(おは)つた一 原因(げんゐん)にも相成(あひな)つて居(お)ることと思(おも)はれ       る而(しか)して此(この)再征(さいせい)中(ちう)将軍(せうぐん)家茂(いへしげ)は慶応(けいおう)二年七月十九日を以(もつ)て病(やまひ)の為(ため)に大阪城(おほさかじよう)に於(おい)て薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたのであ       るが年歯(ねんし)僅(わつか)に廿一 歳(さい)で子(こ)もなかつたのであるから一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が其後(そのあと)を継(つ)ぐ事に相成(あひな)つたのである但(たゞ)し軍(ぐん)       職(しよく)をも共(とも)に襲(つ)ぐべきや否(いな)やに就(つい)ては内部(ないぶ)に於(おい)て二 説(せつ)に分(わか)れて幕閣(ばくかく)は勿論(もちろん)会桑(あひさう)二 藩(はん)は切(しきり)に其(その)襲職(しうしよく)を希望(きぼう)       したのであるが越前藩(ゑちぜんはん)の如(ごと)きは之(これ)に反対(はんたい)したとの事である特(とく)に岩倉(いはくら)、中御門(なかみかど)両公卿(れうくげう)の如(ごと)きは親王(しんおう)一 人(にん)       を擇(えら)み奉(たてま)つて将軍宣下(せうぐんせんげ)を請(こ)はむと画(はか)られたと云(い)ふ程(ほど)であつたが当時(たうじ)は其(その)時機(じき)未(いま)だ至(いた)らなかつたのであ       る而(しか)して尾張慶勝(をはりよしかつ)等(ら)の奏請(さうせい)もあつて其年(そのとし)の十二月五日 勅使(ちよくし)は二 条城(でうじよう)に臨(のぞ)み慶喜(よしのぶ)に対(たい)して将軍(せうぐん)の宣下(せんげ)が 《割書:孝明天皇の|崩御》  あつた事は之(これ)亦(ま)た前(まへ)に申述(まをしの)べたる如(ごと)くである然(しか)るに恐(おそ)れ多(おほ)くも其年(そのとし)十二月十二日から主上(しうぜう)の御脳(おんなやみ)みが       あつて其(その)廿五日には遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)と相成(あひな)つたのである然(しか)るに其(その)当時(たうじ)は長州(てうしう)再征(さいせい)に対(たい)し止戦(しせん)の事には成(な)つて       居(を)つたが未(いま)だ何(なん)とか判然(はんぜん)たる処置(しよち)が付(つ)かないので兵庫(へうご)開港(かいかう)の問題(もんだい)と共(とも)に二 大問題(だいもんだい)として残(のこ)つて居(お)つた       のである即(すなは)ち此(この)二 問題(もんだい)に関(くわん)しては其後(そのご)も種々(しゆ〴〵)なる曲折(きよせつ)を見(み)たがソウコウするる間(あひだ)に幕府(ばくふ)に取(と)つては極(きはめ)め       て不満足(ふまんぞく)ながら慶応(けいおう)三年正月廿三日に至(いた)り解兵(かいへい)の令(れい)が出(いで)て征長(せいてう)の事は一 段落(だんらく)となり又(ま)た兵庫(へうご)開港(かいこう)の方(はう)       も同年五月廿四日を以(もつ)て全(まつた)く解決(かいけつ)することと成(な)つたのである 《割書:岩倉西郷等|の計画》  之(これ)より先(さ)き彼(か)の岩倉具視(いはくらぐし)は一 時(じ)黜罰(ちつばつ)せられて洛北(らくほく)岩倉村(いはくらむら)に蟄居(ちつきよ)の身(み)と成(な)つたのであるが之(これ)が実(じつ)       に識見(しきけん)非凡(ひぼん)の人で勤王(きんおう)の誠心(せきしん)により所謂(いはゆる)回天(くわいてん)の大策(たいさく)を計画(けいぐわく)したのである而(しか)して之(これ)と謀(はかりこと)を通(つう)じたる主(おも) 【欄外】    豊橋市史談  (王政復古と吉田藩)                    五百七十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(薩長二藩の連合)                    五百七十二 【本文】 時機であるという意見を持つに至ったのである。 そしてその頃は長州においてもまた恰も正論党が勢力を得た時で、あくまでも幕府の権力を打破し王政を恢復し以て天下を一統しなければならぬという議論が盛んであったのである。しかしながらこの事は実に天下の大業であるから、到底一藩の力でよくこれを成就し得るや否やは自身といえども前途甚だ心配せざるを得ない場合であったのである。そこでこれを成し遂げるには諸藩中において最も有力なる薩藩と相連和する必要があるということは自然々々に識者の間に認められるに至ったのであるが、しかもこの多年相嫉視し来たりし薩長二藩をして遂によく相連和せしむるに至ったものは筑前土佐等諸藩の媒介を初め種々なる波瀾曲折のあった事ではあるが、蓋し土州の藩士坂本龍馬の如きは其の成功者として最も有力なりしものと言わねばならぬのである。 坂本龍馬が薩州の西郷、長州の木戸等が間に往来して極力二藩の連合を画した事は私が今ここで詳しく申述ぶる必要もないのであるが、帰する処この二藩の連合協約がなって互いに修好使を送り懽然として相結ぶに至ったということは独りこの薩長の和親が成ったというに止まらず、全く天下の大勢を一変したものというべきものであった。即ちこれ迄は只各藩の運動、有志の周旋、朝紳の云為といった処が皆個々に勢力が分かれて或いは革命を叫び或いは暴力を振るうとも何等統一のなき事で先見もなければ根底もなく、いわば急躁無謀の挙が多かったのであるが、これでは到底兵馬の大権を持っている幕府を倒すほどの大勢力を作り出す事は出来なかったであろうと思う。然るに時勢の進運は忽ちここに一大動機を与えて急転直下全国はために風靡し、遂に伏見の一戦をもって明治の大維新を見るに至ったということは結局この二藩の連和が成った処に起因するもので、勢いというものは実に不可思議のものであると思うのである。 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千六百五十二号附録     (大正三年五月五発行) 【本文】 ◎王政復古と吉田藩 薩長二藩の連和は忽ちにして天下の大勢に変動を及ぼしたものである事は前章に申述べたる如くであるが、しかもこの連和の講ぜられたということは長州再征が失敗に終った一原因にも相成っていることと思われる。そしてこの再征中将軍家茂は慶応二年七月十九日をもって病のために大阪城において薨去と相成ったのであるが、年歯僅かに廿一歳で子もなかったのであるから一橋慶喜がその後を継ぐ事に相成ったのである。ただし軍職をも共に襲ぐべきや否やについては内部において二説に分かれて、幕閣は勿論会桑二藩は切にその襲職を希望したのであるが、越前藩の如きはこれに反対したとの事である。特に岩倉、中御門両公卿の如きは親王一人を択み奉って将軍宣下を請わんと画られたという程であったが、当時はその時機未だ至らなかったのである。そして尾張慶勝等の奏請もあってその年の十二月五日勅使は二条城に臨み慶喜に対して将軍の宣下 孝明天皇の崩御 があった事はこれまた前に申述べたる如くである。然るに恐れ多くもその年十二月十二日から主上の御脳みがあってその廿五日には遂に崩御と相成ったのである。然るにその当時は長州再征に対し止戦の事には成っていたが未だ何とか判然たる処置が付かないので、兵庫開港の問題と共に二大問題として残っていたのである。即ちこの二問題に関してはその後も種々なる曲折を見たが、そうこうする間に幕府にとっては極めて不満足ながら慶応三年正月廿三日に至り解兵の令が出て征長の事は一段落となり、また兵庫開港の方も同年五月廿四日をもって全く解決することと成ったのである。 岩倉西郷等の計画 これより先き彼の岩倉具視は一時黜罰せられて洛北岩倉村に蟄居の身と成ったのであるが、これが実に識見非凡の人で勤王の誠心により所謂回天の大策を計画したのである。そしてこれと謀を通じたる主 【欄外】 豊橋市史談(王政復古と吉田藩)                    五百七十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Alliance of Satsuma and Chōshū Domains) 572 **Main Text:** had arrived at this opinion regarding the timing. At that time, Chōshū was also experiencing the rise of the Orthodox Party to power, with vigorous arguments that they must thoroughly break the shogunate's authority, restore imperial rule, and thereby unify the realm. However, since this was truly a great undertaking for the nation, even they themselves could not help but worry greatly about whether one domain alone could accomplish this. Therefore, it naturally came to be recognized among knowledgeable people that to achieve this goal, it was necessary to ally with Satsuma domain, the most powerful among all domains. However, bringing these two domains of Satsuma and Chōshū, which had been mutually hostile for many years, to finally achieve alliance involved various complications and twists, including mediation by domains like Chikuzen and Tosa. Among these, Tosa domain retainer Sakamoto Ryōma must be recognized as the most influential successful mediator. The fact that Sakamoto Ryōma traveled between Saigō of Satsuma and Kido of Chōshū, working with utmost effort to orchestrate the alliance of the two domains, need not be detailed here. However, when this alliance agreement between the two domains was concluded and they sent goodwill ambassadors to each other, joyfully uniting, this did not merely signify the friendship between Satsuma and Chōshū, but completely transformed the great trends of the nation. Until then, the movements of various domains, the activities of patriots, and the actions of court nobles were all divided into individual forces. Even when calling for revolution or employing violence, there was no unity—lacking foresight and foundation, mostly consisting of rash and reckless actions. With such an approach, it would have been impossible to create the great power necessary to overthrow the shogunate, which held supreme military authority. However, the progress of the times suddenly provided a great catalyst here, and in a dramatic turn, the entire nation was swept along, ultimately leading to the great Meiji Restoration through the Battle of Fushimi. This all originated from the alliance of these two domains, demonstrating that momentum is truly a mysterious force. **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kon'ya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4,652 Supplement (Published May 5, Taishō 3 [1914]) **Main Text:** ◎ Imperial Restoration and Yoshida Domain As stated in the previous chapter, the alliance of Satsuma and Chōshū domains immediately brought about changes in the great trends of the nation. Moreover, this alliance is believed to have been one cause of the failure of the second Chōshū expedition. During this expedition, Shogun Iemochi died of illness at Osaka Castle on July 19, Keiō 2 (1866), at the young age of only twenty-one and without children, so Hitotsubashi Yoshinobu succeeded him. However, regarding whether he should also inherit the military position, there were two schools of thought within, and while the shogunate council and naturally the Aizu and Kuwana domains strongly hoped for his succession to military office, domains like Echizen opposed it. Court nobles like Iwakura and Nakamikado even planned to select an imperial prince and request his appointment as shogun, but the time had not yet come. Through the petition of Owari Yoshikatsu and others, on December 5 of that year, an imperial messenger visited Nijō Castle and the shogun appointment was granted to Yoshinobu. **Death of Emperor Kōmei** was made as previously mentioned. However, most regrettably, from December 12 of that year His Majesty fell ill, and on the 25th he passed away. At that time, while a ceasefire had been achieved regarding the second Chōshū expedition, no clear resolution had yet been reached, so along with the issue of opening Hyōgo port, these remained as two major problems. Various complications continued regarding these two issues, but eventually, though extremely unsatisfactory for the shogunate, on January 23, Keiō 3 (1867), orders for troop withdrawal were issued, bringing the Chōshū campaign to a conclusion, and the Hyōgo port opening was also completely resolved on May 24 of the same year. **Plans of Iwakura, Saigō and Others** Prior to this, Iwakura Tomomi had been temporarily punished and confined to Iwakura village in northern Kyoto. He was truly a person of extraordinary insight who, through his sincere loyalty to the emperor, planned the so-called great strategy to transform heaven. The main [collaborators] who conspired with him... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 573