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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 31

ページ: 31

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【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅四 【本文】        風俗(ふうぞく)迄(まで)が目前(めのまへ)に見ゆる様(よう)で頗(すこぶ)る面白(おもしろ)い記事(きじ)であると感(かん)ずるのである「コンコウ」は恐(おそら) は金剛(こんごう)であつて        草履(ぞうり)の事であるが昔(むかし)は板(いた)で作(つく)つた履物(はきもの)があつたので今日の婦人(ふじん)が空気草履(くうきぞうり)でもはいたと云ふ様な訳(わけ)で       あつたのではあるまいかと思(おも)ふそれより清康(きよやす)は吉田に一日 滞在(たいざい)して直(たゞ)ちに田原に押寄(おしよ)せたが田原の戸田       は降参(こうさん)をしたので三日の後(のち)再(ふたゝ)び吉田に引返(ひきかへ)し更(さら)に十日 間(かん)此処(こゝ)に逗留(とうりう)されたとの事である此(この)戦(たゝかひ)に於て        牧野(まきの)方(かた)では所謂(いはゆる)背水(はいすい)の陣(ぢん)を布(し)いたのであるにも拘(かゝは)らず遂(つひ)に失敗(しつぱい)に終(をは)つたのは全(まつた)く河(かは)一つを隔(へだ)てゝ其(その)家(か)        族(ぞく)等(ら)がワイ〳〵と騒(さわ)いだので将士(せうし)は皆(みな)之(これ)に心を引(ひ)かされたが為(ため)であると云ふので此事(このこと)は三 河物語(かはものがたり)にも        記(しる)されてあるが誠(まこと)に味(あじは)ふべき事柄(ことがら)であると思(おも)ふのである        扨(さて)戦(たゝかひ)の話(はなし)はこゝに止(とゝ)むるとして尚(なほ)少(すこ)しく研究(けんきう)を要(えう)するのは前(まへ)の三 河物語(かはものがたり)の文中にもあつた傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ) 新蔵新次   新蔵(しんぞう)新次(しんじ)兄弟(けうだい)四人と云ふ事である傳蔵(でんぞう)は勿論(もちろん)信成(のぶしげ)の事であるが尚(なほ)之(これ)に傳次と云ふ弟(おとゝ)のあつた事は諸説(しよせつ)       の一 致(ち)する処で疑(うたが)ひはないが只(たゞ)新蔵新次の事に就(つい)ては大(たい)なる疑問(ぎもん)である殊(こと)に牛久保密談記(うしくぼみつだんき)には之(これ)を新       三郎新次郎としてあつて「新三郎は討死(うちじに)と云て赤岩(あかいわ)の法言寺(はふごんじ)に退(しりぞ)き後(のち)戸田家を続(つ)ぐ」とある之(これ)は益々(ます〳〵)疑(ぎ)        問(もん)である俗説(ぞくせつ)には之(これ)が大垣戸田氏(おほがきとだし)の祖(そ)であるようにも伝(つた)えるが全然(ぜん〴〵)誤(あやま)りで之に就(つい)ては後(のち)に研究(けんきう)の結果(けつくわ)       を申述(もうしの)ぶるであろうが私(わたくし)は大体(だいたい)に於て藩翰譜(はんかんふ)に         又(また)三 河物語(かはものがたり)に享禄(けうろく)の初(はじめ)に二郎三郎殿吉田の城を攻(せ)められしに牧野(まきの)傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ)新蔵新次 兄弟(けうだい)四人 戦死(せんし)し        て城(しろ)を取(と)られしと云ふ事あり康成(やすなり)の家(いへ)代々(だい〴〵)其(その)初(はじめ)名(な)を新次郎と云ひしかば傳蔵(でんぞう)が子(こ)の後(あと)たるにやあら        んされど傳蔵の後人云ふ所の如きは新三新二の事 詳(つまびらか)ならず吉田の城に戦死(せんし)せし者共(ものども)の事(こと)傳左衛門        尉 父子(ふし)三人 並(ならび)に新二新三と記(しる)せるものゝあれば新二新三二人は傳左衛門尉(でんざゑもんのぜう)が子とは見(み)えずと云ふな        り思(おも)ふに之(これ)等(ら)只(た)だ其(その)一 族(ぞく)にして正(たゞ)しき兄弟(けいてい)なりと云ふにはあらざるべし 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       とあるのを当(あた)れりとなすものである蓋(けだ)し文中(ぶんちう)康成(やすなり)とあるのは長岡家(ながをかけ)の祖先(そせん)で成定(なりさだ)の子(こ)を指(さ)したもので 《割書:信成等の墳|墓》  ある次(つぎ)に信成(のぶしげ)等(ら)の墳墓(ふんぼ)の事であるが三州吉田記には宝飯郡(ほゐぐん)下地町(しもぢてう)水神社の傍(かたわら)に一 叢(むら)の小藪(こやぶ)があつて       之(これ)が即(すなは)ち傳蔵等の墓(はか)であると云ふ事が書(か)いてある成程(なるほど)実地(じつち)を調査(てうさ)して見ると豊橋城址(とよはしぜうし)対岸(たんがん)の地に今も       尚ほ其形(そのかたち)が残(のこ)つて居る又(ま)た吉田城主考(よしだぜうしゆこう)には著者(ちよしや)自身(じしん)其所(そこ)に大(たい)なる松樹(まつのき)があるのを見(み)たと記(しる)して居るが       豊橋市役所で模写(もしや)した元禄(げんろく)年間(ねんかん)の古図(こづ)にも松の木が画(ゑが)いてあるから当時(とうじ)は其通(そのとほり)であつたに相違(さうゐ)ない        併(しか)しながら之(これ)は必(かなら)ず当時に於ける戦死者(せんししや)の屍体(したい)を合埋(ごうまい)したものであろうと思(おも)ふ信成(のぶしげ)等(ら)の死体(したい)は後(のち)に火(くわ)        葬(そう)して龍拈寺(りうねんじ)前(まへ)の墓(はか)に葬(ほうむ)つたとい云ふ事は大恩寺(たいおんじ)の記録(きろく)にあるが此(この)記録(きろく)も割合(わりあひ)に新(あたら)しいもので深(ふか)い研究(けんきう)       をしたのでもないようである併(しか)し二葉松(ふたばまつ)にも        吉田龍拈寺前在牧野田三信成及田次成高小田次成国三墳       と書(か)いてあつて龍拈寺(りうねんじ)正徳(せうとく)二年の書上(かきあげ)にも        即当寺休屋和尚焼香之、為当寺開基、法名者以天清公居士、声外音公庵主、三休位公上座也、総而        牧野一統廟所厳然有寺前、御位牌御老母御影到今存在       とあるので墳墓(ふんぼ)としては此(この)龍拈寺(りうねんじ)のものを正(たゞ)しきものとせねばならぬと思(おも)ふモツトモ此(この)墓地(ぼち)には前(まへ)に        述(の)べた古白(こはく)墳(づか)の外(ほか)に五 輪(りん)の古塔(ことう)が三つ四つ並(なら)むで居(を)つたとの事(こと)で七十歳以上の人は今(いま)も尚(な)ほ記憶(きをく)して       居るとの事であるが今(いま)は只(た)だ朽(く)ちたる古松(ふるまつ)の株(かぶ)と一 個(こ)の石(いし)とが横(よこ)たはつて居るのみで近来(きんらい)何処(いづこ)からか 《割書:信成等の戒|名》  一基の古塔(ことう)を運(はこ)むで墓標(ぼへう)にしてあるが兎(と)に角(かく)三 間(げん)四 方(ほう)許(ばかり)の間(あひだ)は割然(くわくぜん)として旧態(きうたい)が忍(しの)ばるゝのみならず        近年迄(きんねんまで)三四百年にもなるべき大松(おほまつ)が生(お)ひ立(た)つて居(を)つたのである而(しか)して此以天清公、声外音公、三休位       公と云ふ戒名(かいめう)に就(つい)ては之れ亦た説(せつ)があつて少(すこ)しく定(さだ)め難(がた)い点があるが私(わたくし)は以天清公(いてんせいこう)が成三(しげかづ)、声外音(せいぐわいおん) 【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (牧野信成等の戦死)          三十四 【本文】 風俗までが目前に見えるようで頗る面白い記事であると感ずるのである。「こんごう」は恐らく金剛であって、草履の事であるが、昔は板で作った履物があったので、今日の婦人が空気草履でも履いたというような訳であったのではあるまいかと思う。それより清康は吉田に一日滞在して直ちに田原に押し寄せたが、田原の戸田は降参をしたので三日の後再び吉田に引き返し、更に十日間ここに逗留されたとの事である。この戦いにおいて牧野方では所謂背水の陣を布いたのであるにも拘らず、遂に失敗に終わったのは全く河一つを隔ててその家族等がわいわいと騒いだので、将士は皆これに心を引かされた為であるという。このことは三河物語にも記されてあるが、誠に味わうべき事柄であると思うのである。 さて戦いの話はここに止むるとして、尚少しく研究を要するのは前の三河物語の文中にもあった伝蔵・伝次・新蔵・新次兄弟四人ということである。伝蔵は勿論信成の事であるが、尚これに伝次という弟のあった事は諸説の一致する処で疑いはないが、ただ新蔵・新次の事については大なる疑問である。殊に牛久保密談記にはこれを新三郎・新次郎としてあって「新三郎は討死と云って赤岩の法言寺に退き、後戸田家を続ぐ」とある。これは益々疑問である。俗説にはこれが大垣戸田氏の祖であるようにも伝えるが全然誤りで、これについては後に研究の結果を申し述べるであろうが、私は大体において藩翰譜に 「また三河物語に享禄の初めに二郎三郎殿吉田の城を攻められしに牧野伝蔵・伝次・新蔵・新次兄弟四人戦死して城を取られしという事あり。康成の家代々その初め名を新次郎といいしかば伝蔵が子の後たるにやあらん。されど伝蔵の後人いう所の如きは新三・新二の事詳らかならず。吉田の城に戦死せし者共の事、伝左衛門尉父子三人並びに新二・新三と記せるもののあれば、新二・新三二人は伝左衛門尉が子とは見えず」 とあるのを当たれりとなすものである。けだし文中康成とあるのは長岡家の祖先で成定の子を指したものである。 次に信成等の墳墓の事であるが、三州吉田記には宝飯郡下地町水神社の傍に一叢の小藪があって、これが即ち伝蔵等の墓であるという事が書いてある。成程実地を調査して見ると豊橋城址対岸の地に今も尚その形が残っている。また吉田城主考には著者自身その所に大なる松樹があるのを見たと記してあるが、豊橋市役所で模写した元禄年間の古図にも松の木が描いてあるから、当時はその通りであったに相違ない。 併しながらこれは必ず当時における戦死者の屍体を合埋したものであろうと思う。信成等の死体は後に火葬して龍拈寺前の墓に葬ったという事は大恩寺の記録にあるが、この記録も割合に新しいもので深い研究をしたのでもないようである。併し二葉松にも 「吉田龍拈寺前在牧野田三信成及田次成高小田次成国三墳」 と書いてあって、龍拈寺正徳二年の書上にも 「即当寺休屋和尚焼香之、為当寺開基、法名者以天清公居士、声外音公庵主、三休位公上座也、総而牧野一統廟所厳然有寺前、御位牌御老母御影到今存在」 とあるので、墳墓としてはこの龍拈寺のものを正しきものとせねばならぬと思う。もっともこの墓地には前に述べた古白塚の外に五輪の古塔が三つ四つ並んでいたとの事で、七十歳以上の人は今も尚記憶しているとの事であるが、今はただ朽ちたる古松の株と一個の石とが横たわっているのみで、近来何処からか一基の古塔を運んで墓標にしてあるが、ともかく三間四方許りの間は画然として旧態が偲ばるるのみならず、近年まで三四百年にもなるべき大松が生い立っていたのである。而してこの以天清公、声外音公、三休位公という戒名については、これまた説があって少しく定め難い点があるが、私は以天清公が成三、声外音 【欄外】 豊橋市史談  (牧野信成等の戦死)          三十五

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Death in Battle of Makino Nobushige and Others)          34 【Main text】 I feel that this is a quite interesting account where even the customs of the time appear before our eyes. "Kongō" is probably referring to metal clogs - a type of footwear - and since there were wooden clogs in ancient times, it was probably similar to today's women wearing rubber sandals. After this, Kiyoyasu stayed in Yoshida for one day and immediately pressed on to Tahara, but since the Toda of Tahara surrendered, he returned to Yoshida after three days and stayed there for another ten days. In this battle, although the Makino forces had arranged the so-called "back-to-the-water formation," they ultimately failed completely because their family members were making a commotion across the river, which distracted all the officers and soldiers. This matter is also recorded in "Mikawa Monogatari," and I think it is truly a matter worth contemplating. Now, while ending the discussion of the battle here, what still requires some research is the matter of the four brothers Denzō, Denji, Shinzō, and Shinji mentioned in the earlier "Mikawa Monogatari" text. Denzō is of course Nobushige, and that he had a younger brother named Denji is agreed upon by all theories without doubt, but there are great questions regarding Shinzō and Shinji. Particularly in "Ushikubo Secret Discussions," these are given as Shinzaburō and Shinjirō, stating that "Shinzaburō was said to have died in battle but retreated to Hōgon-ji temple at Akaiwa and later continued the Toda family line." This raises even more questions. Folk tales suggest this was the ancestor of the Ōgaki-Toda clan, but this is completely erroneous, and I will present the results of my research on this matter later. I generally consider correct what is stated in "Hankan-fu": "Also in 'Mikawa Monogatari,' it states that in the beginning of Kyōroku, when Lord Jirōsaburō attacked Yoshida Castle, the four brothers Makino Denzō, Denji, Shinzō, and Shinji died in battle and the castle was taken. Since Yasunari's family has traditionally used the initial name Shinjirō for generations, this might be a descendant of Denzō's child. However, what Denzō's descendants say about Shinzō and Shinji is not clear. Regarding those who died at Yoshida Castle, some records mention Densaemon-no-jō and his two sons, along with Shinji and Shinzō, but it appears that the two, Shinji and Shinzō, were not Densaemon-no-jō's children." I believe this to be accurate. The Yasunari mentioned in the text refers to an ancestor of the Nagaoka family, pointing to Narisada's son. Next, regarding the tombs of Nobushige and others, "Sanshū Yoshida-ki" states that there was a small grove beside the Suijin Shrine in Shimoji-chō, Hōi District, which was said to be the grave of Denzō and others. Indeed, when investigating the actual site, its form still remains on the land opposite Toyohashi Castle site. Also, in "Yoshida Castle Lords' Study," the author records having seen a large pine tree there himself, and since pine trees are also depicted in ancient maps from the Genroku period copied by Toyohashi City Hall, it was undoubtedly so at that time. However, I think this must have been where the corpses of those who died in battle at the time were buried together. The bodies of Nobushige and others were later cremated and buried in graves in front of Ryūnen-ji temple, according to Taion-ji temple records, but these records are relatively recent and do not appear to be the result of deep research. However, "Futabamatsu" also states: "At Yoshida Ryūnen-ji front are the three graves of Makino Tazō Nobushige, Taji Naritaka, and Otaji Narikuni" And in Ryūnen-ji's Shōtoku 2 submission it states: "The priest Kyūya of this temple performed incense burning and became the temple's founder. The Buddhist names are Itensei-kōji, Seigaion-kōanji, and Sankyūi-kōjōza. All of the Makino family mausoleum sites are solemnly present in front of the temple, and the memorial tablets and portrait of the elderly mother still exist today." Therefore, I think we must consider the tombs at Ryūnen-ji to be the correct ones. Although at this burial ground, besides the Kohaku mound mentioned earlier, there were said to be three or four old five-ring pagodas standing in a row, and people over seventy still remember this, now there are only the stump of a decayed old pine and one stone lying there. Recently, an old pagoda has been brought from somewhere to serve as a grave marker, but in any case, the area of about three ken square clearly retains its former appearance, and until recent years a great pine that must have been three to four hundred years old grew there. Regarding the Buddhist names Itensei-kō, Seigaion-kō, and Sankyūi-kō, there are also theories about these and they are somewhat difficult to determine, but I believe Itensei-kō was Shigekazu, and Seigaion 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Death in Battle of Makino Nobushige and Others)          35