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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 301

ページ: 301

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【欄外】    豊橋市史談  (王政復古と吉田藩)                    五百七十四 【本文】       なる人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く西郷(さいごう)と大久保(おほくぼ)で其間(そのあひだ)には又(ま)た坂本龍馬(さかもとりうま)等(ら)を初(はじ)め斡旋(あつせん)の労(らう)を取(と)るものが       あつて次第(しだい)に筑前(ちくぜん)に流寓中(りうぐうちう)の三 條公(でうこう)初(はじ)めとも謀議(ぼうぎ)を通(つう)ずるようになつたのであるが長藩(てうはん)は勿論(もちろん)芸藩(げいはん)其(その)       他(た)土州藩(どしうはん)を初(はじ)め各藩(かくはん)とも連絡(れんらく)を通(つう)じて漸(やうや)く討幕(とうばく)の気焔(きえん)が上(あが)つたので之(これ)が王政復古(おうせいふくこ)の発端(ほつたん)とも云(い)ふべき       であるモツトモ其(その)茲(こゝ)に至(いた)るに付(つい)ては変転波瀾(へんてんはらん)は極(きは)めて甚(はなはだ)しく到底(たうてい)之(これ)を簡明(かんめい)直截(ちよくさい)に一 言(ごん)以(もつ)て申述(まをしの)ぶる 《割書:薩長芸三藩|の大同盟》  事は出来(でき)難(がた)い次第(しだい)であるが兎(と)に角(かく)薩長芸(さつてうげい)の三 藩(はん)が先(ま)づ大同盟(だいどうめい)をなして以来(いらい)は幕府(ばくふ)の運命(うんめい)は日(ひ)に縮(ちゝ)まら       むとするの形勢(けいせい)と相成(あひな)つたのである然(しか)るに当時(たうじ)此(この)緒藩(しよはん)の謀議(ぼうぎ)に加(くは)はつたものゝ内(うち)で土佐侯(とさこう)山内容堂(やまうちようどう)       は元来(がんらい)徳川氏(とくがはし)の為(ため)に大封(たいふう)を得(え)て大藩(たいはん)に列(れつ)したる家(いへ)であるから薩長(さつてう)二 藩(はん)とは自(おのづか)ら異(ことな)る事があるので如何(いか)       にも討幕説(とうばくせつ)には賛成(さんせい)が出来(でき)ないと云(い)ふので一 度(ど)京都(けうと)に出(い)で此(この)謀議(ぼうぎ)中(ちう)に加(くは)はつたにも拘(かゝは)らず中途(ちうと)から病(やまひ)       と称(せう)して帰藩(きはん)したのである此(この)時(とき)同藩士(どうはんし)中(ちう)で板垣退助(いたがきたいすけ)等(ら)は三百 年(ねん)来(らい)大権(たいけん)を掌握(せうあく)し来(きた)つた幕府(ばくふ)を倒(たほ)すのに       は到底(たうてい)口舌(こうぜつ)を以(もつ)て成(な)し得(う)べきものではないと云(い)ふので西郷(さいごう)等(ら)の説(せつ)に与(くみ)したが後藤象次郎(ごとうせうじらう)は飽(あく)まで藩主(はんしゆ)の       説(せつ)を助(たす)けて平和(へいわ)の間(あひだ)に事を了(れう)したいと云(い)ふので大(おほい)に斡旋(あつせん)する所(ところ)があつたのである然(しか)るに其(その)説(せつ)は終(つひ)に容(い)       れられず薩長芸(さつてうげい)三 藩(はん)は何処迄(どこまで)も相連合(あひれんごふ)して討幕軍(とうばくぐん)の準備(じゆんび)を進行(しんかう)することとなつたので容堂(ようどう)は大(おほい)に之(これ)を憂(うれ) 《割書:土佐藩の建|白》  ひ遂(つひ)に其(その)年(とし)の十月四日(慶応(けいおう)三年)後藤象次郎(ごとうぞうじらう)等(ら)を大阪(おほさか)に遣(つか)はして建白書(けんぱくしよ)を幕府(ばくふ)に上(たてまつ)り以(もつ)て大政奉還(たいせいほうくわん)       の事を勧告(くわんこく)せしむるに至(いた)つたのであるソコで将軍(せうぐん)慶喜(よしのぶ)は其(その)意見(いけん)を松平慶永(まつだひらよしなが)初(はじ)め在京(ざいけう)の諸侯(しよこう)に需(もと)めたが       自(みづか)ら深(ふか)く決心(けつしん)する処(ところ)があつて其(その)十四日 桑名侯(くはなこう)松平定敬(まつだひらさだよし)を遣(つか)はして大政奉還(たいせいほうくわん)の事を上奏(ぜうそう)せしめたのであ       る此(この)時(とき)緒藩(しよはん)の議論(ぎろん)は実(じつ)に区々(くゝ)であつて決(けつ)する処(ところ)なく紀州藩(きしうはん)の如(ごと)きは其(その)藩士(はんし)を二 條摂政(でうせつせい)の処(ところ)へ遣(つか)はして       朝廷(てうてい)の意向(いかう)を窺(うかゞ)つたる処(ところ)摂政(せつせい)に於(おい)ては慶喜(よしのぶ)の大政奉還(たいせいほうくわん)の奏上(さうせう)は御許可(おんきよか)なかるべしとの旨(むね)を答(こた)へられた       と云(い)ふ事であるが一 方(ほう)に於(おい)ては小松帯刀(こまつたてわき)、後藤象次郎(ごとうぞうじらう)は矢張(やはり)二 條家(でうけ)を訪(と)ふて切(しきり)に将軍(せうぐん)の上奏(ぜうさう)が御許可(おんきよか) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       になるように運動(うんどう)したと云(い)ふ事である此(かく)の如(ごと)く緒論(しよろん)区々(くゝ)たる間(あひだ)に岩倉公(いはくらこう)等(ら)は深(ふか)く商議(せうぎ)する処(ところ)があつて       慶喜(よしのぶ)の奏上(さうぜう)を許可(きよか)さるべき順序(じゆんぢよ)を定(さだ)め之(これ)を二 條(でう)摂政(せつせい)に上(たてま)つて速(すみやか)に朝議(てうぎ)を決(けつ)せられむことを請(こ)つたので 大政の奉還 ある此(こゝ)に於(おい)て二 條(でう)摂政(せつせい)も遂(つひ)に決心(けつしん)せられ上奏(ぜうさう)の結果(けつくわ)翌(よく)十五日 慶喜(よしのぶ)を召(め)して政権奉還(せいけんほうくわん)の奏請(さうせい)を允(ゆる)す旨(むね)の       御沙汰書(ごさたしよ)を渡(わた)されたのである       此(かく)の如(ごと)く将軍(せうぐん)の奏請(さうせい)は速(すみやか)に勅許(ちよくきよ)せられ大政(たいせい)は初(はじ)めて朝廷(てうてい)に復帰(ふくき)したのであるが併(しか)し実際(じつさい)に於(おい)ては到(たう)       底(てい)一 朝(てう)一 夕(せき)の故(ゆゑ)を以(もつ)て其(その)実(じつ)が挙(あ)がる訳(わけ)ではない即(すなは)ち諸侯(しよこう)から云(い)ふと孰(いづ)れも徳川氏(とくがはし)に臣属(しんぞく)し来(きた)つたる訳(わけ)       で朝廷(てうてい)に対(たい)しては陪臣(ばいしん)の位置(ゐち)にあるものであるそれのみならず三百 年来(ねんらい)の惰力(だりよく)は容易(ようい)に能(よ)く一 掃(さう)し去(さ)       らるべき訳(わけ)には行(ゆ)かないので依然(いぜん)として実権(じつけん)は矢張(やはり)徳川氏(とくがはし)にあるの観(くわん)があつたのである此(この)場合(ばあひ)に方(あた)り       天下更新(てんかかうしん)の実(じつ)を挙(あ)げむとせば勢(いきほひ)何等(なんら)か徳川氏(とくがはし)に向(むか)つて事実上(じゞつぜう)の打撃(だげき)を与(あた)へねば止(や)まぬと云(い)ふ事にな 討幕の密勅 るは致方(いたしかた)のない事であると思(おも)ふトコロで彼(か)の薩長芸(さつてうげい)三 藩(はん)によつて唱導(せうどう)せられたる討幕(とうばく)の挙(きよ)に対(たい)しては       十月十四日を以(もつ)て一 度(ど)密勅(みつちよく)が小松(こまつ)、西郷(さいごう)、大久保(おほくぼ)、廣澤(ひろさは)等(ら)の手(て)に下(くた)つたのであるが前(まへ)にも申述(まをしの)ぶる如(ごと)       く恰(あたか)も之(これ)と同日(どうじつ)に将軍(せうぐん)は大政奉還(たいせいほうくわん)の奏上(さうぜう)をなしたものであるから此(この)討幕(とうばく)の密勅(みつちよく)も一 時(じ)御見合(おみあは)せと云(い)ふ       事になつたのである而(しか)して朝廷(てうてい)に於(おい)ては漸(やうや)く十二月八日の会議(くわいぎ)に於(おい)て略(ほゞ)各般(かくはん)の方針(はうしん)が定(さだ)められたが総(さう)       裁(さい)には有栖川宮(ありすがはのみや)議定(ぎてい)には仁和寺宮(にんなじのみや)、山階宮(やましなのみや)以下(いか)公卿(くげう)を合(あは)せて都合(つごふ)十 人(にん)が命(めい)ぜられ参与(さんよ)としては大原(おほはら)、       萬里小路(まてのこうじ)、長谷(はせ)、岩倉(いはくら)、橋本(はしもと)の諸卿(しよげう)並(ならび)に尾張(をはり)三 人(にん)越前(ゑつぜん)三 人(にん)薩藩(さつはん)三 人(にん)芸藩(げいはん)三 人(にん)と云(い)ふ割合(わりあひ)に任命(にんめい)せられ       たのである之(これ)と同時(どうじ)に会藩(あいはん)の蛤門(はまぐりもん)警衛(けいえい)、桑藩(さうはん)の公家門(くげもん)警衛(けいゑい)を免(めん)ぜられたがサテ徳川氏(とくがはし)に対(たい)する処分(しよぶん)       はドウするか之(これ)が当面(たうめん)の問題(もんだい)と成(な)つたのである 《割書:徳川氏に対|する処分》  然(しか)るに之(これ)が実(じつ)に困難(こんなん)なる問題(もんだい)で其(その)翌(よく)九日 初(はじ)めて御前(ごぜん)に開(ひら)かれたる会議(くわいぎ)に於(おい)ては最(もつと)も議論(ぎろん)の闘(たゝか)はされた 【欄外】    豊橋市史談  (王政復古と吉田藩)                    五百七十五四

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(王政復古と吉田藩)                    五百七十四 【本文】 なる人は前にも申述べたる如く西郷と大久保で、その間にはまた坂本龍馬等を初め斡旋の労を取る者があって、次第に筑前に流寓中の三條公初めとも謀議を通ずるようになったのであるが、長藩は勿論芸藩その他土州藩を初め各藩とも連絡を通じて漸く討幕の気焔が上ったので、これが王政復古の発端とも言うべきである。もっともそのここに至るについては変転波瀾は極めて甚だしく、到底これを簡明直截に一言以て申述ぶる事は出来難い次第であるが、 薩長芸三藩の大同盟 とにかく薩長芸の三藩が先ず大同盟をなして以来は幕府の運命は日に縮まろうとする形勢と相成ったのである。然るに当時この諸藩の謀議に加わったもののうちで土佐侯山内容堂は元来徳川氏のために大封を得て大藩に列したる家であるから、薩長二藩とは自ずから異なる事があるので、如何にも討幕説には賛成が出来ないということで、一度京都に出でこの謀議中に加わったにも拘らず中途から病と称して帰藩したのである。この時同藩士中で板垣退助等は三百年来大権を掌握し来った幕府を倒すのには到底口舌をもって成し得べきものではないということで西郷等の説に与したが、後藤象次郎は飽くまで藩主の説を助けて平和の間に事を了したいということで大いに斡旋する所があったのである。然るにその説は終に容れられず、薩長芸三藩は何処までも相連合して討幕軍の準備を進行することとなったので、容堂は大いにこれを憂い 土佐藩の建白 遂にその年の十月四日(慶応三年)後藤象次郎等を大阪に遣わして建白書を幕府に上り以て大政奉還の事を勧告せしむるに至ったのである。そこで将軍慶喜はその意見を松平慶永初め在京の諸侯に求めたが、自ら深く決心する処があってその十四日桑名侯松平定敬を遣わして大政奉還の事を上奏せしめたのである。この時諸藩の議論は実に区々であって決する処なく、紀州藩の如きはその藩士を二條摂政の処へ遣わして朝廷の意向を窺った処、摂政においては慶喜の大政奉還の奏上は御許可なかるべしとの旨を答えられたという事であるが、一方においては小松帯刀、後藤象次郎は矢張二條家を訪うて切に将軍の上奏が御許可 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 [不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明][不明] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 になるように運動したという事である。かくの如く諸論区々たる間に岩倉公等は深く商議する処があって慶喜の奏上を許可さるべき順序を定め、これを二條摂政に上って速やかに朝議を決せられんことを請うたので 大政の奉還 ある。ここにおいて二條摂政も遂に決心せられ、上奏の結果翌十五日慶喜を召して政権奉還の奏請を允す旨の御沙汰書を渡されたのである。 かくの如く将軍の奏請は速やかに勅許せられ、大政は初めて朝廷に復帰したのであるが、しかし実際においては到底一朝一夕の故をもってその実が挙がる訳ではない。即ち諸侯から言うといずれも徳川氏に臣属し来った訳で、朝廷に対しては陪臣の位置にあるものである。それのみならず三百年来の惰力は容易によく一掃し去らるべき訳には行かないので、依然として実権は矢張徳川氏にあるの観があったのである。この場合に方り天下更新の実を挙げんとせば、勢い何等か徳川氏に向って事実上の打撃を与えねば止まぬということになるは致し方のない事であると思う。ところで彼の薩長芸三藩によって唱導せられたる 討幕の密勅 討幕の挙に対しては十月十四日をもって一度密勅が小松、西郷、大久保、廣澤等の手に下ったのであるが、前にも申述ぶる如く恰もこれと同日に将軍は大政奉還の奏上をなしたものであるから、この討幕の密勅も一時御見合せということになったのである。そして朝廷においては漸く十二月八日の会議において略ぼ各般の方針が定められたが、総裁には有栖川宮、議定には仁和寺宮、山階宮以下公卿を合せて都合十人が命ぜられ、参与としては大原、万里小路、長谷、岩倉、橋本の諸卿並びに尾張三人、越前三人、薩藩三人、芸藩三人という割合に任命せられたのである。これと同時に会藩の蛤門警衛、桑藩の公家門警衛を免ぜられたが、さて徳川氏に対する処分はどうするか、これが当面の問題と成ったのである。 徳川氏に対する処分 然るにこれが実に困難なる問題で、その翌九日初めて御前に開かれたる会議においては最も議論の闘わされた 【欄外】 豊橋市史談(王政復古と吉田藩)                    五百七十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 574 **Main Text:** were, as previously mentioned, Saigō and Ōkubo. Between them, there were also mediators including Sakamoto Ryōma and others who took on the burden of coordination. Gradually, they began to communicate with Prince Sanjō, who was in exile in Chikuzen, and others in conspiracy. Not only Chōshū domain but also Aki domain and other domains including Tosa maintained contact with each other, and the fervor for overthrowing the shogunate gradually rose—this can be said to be the beginning of the imperial restoration. Of course, the changes and upheavals leading to this point were extremely severe, and it would be quite difficult to explain them simply and directly in a few words. **Alliance of Satsuma, Chōshū, and Aki Domains** In any case, once the three domains of Satsuma, Chōshū, and Aki formed their grand alliance, the shogunate's fate began to shrink day by day. However, among those who joined these domains' conspiracy at the time, Tosa lord Yamauchi Yōdō's house had originally received a large fief from the Tokugawa and ranked among the great domains, so there were naturally differences from Satsuma and Chōshū. He could not agree with the anti-shogunate theory under any circumstances, so despite once coming to Kyoto and joining this conspiracy, he claimed illness midway and returned to his domain. At this time, among his fellow domain retainers, Itagaki Taisuke and others believed that overthrowing the shogunate, which had held supreme power for three hundred years, could not possibly be accomplished through words alone, so they sided with Saigō's faction. However, Gotō Shōjirō thoroughly supported his lord's position, wanting to settle matters peacefully, and made great efforts at mediation. However, his position was ultimately not accepted, and the three domains of Satsuma, Chōshū, and Aki decided to unite completely and proceed with preparations for an anti-shogunate army. Yōdō was greatly troubled by this, **Tosa Domain's Memorial** and finally on October 4 of that year (Keiō 3), he sent Gotō Shōjirō and others to Osaka to submit a memorial to the shogunate, advising the return of political power to the emperor. Thereupon, Shogun Yoshinobu sought opinions from Matsudaira Yoshinaga and other lords in Kyoto, but having made a deep decision himself, on the 14th he sent Kuwana lord Matsudaira Sadayoshi to memorialize about returning political power to the emperor. At this time, the arguments of various domains were truly diverse with no resolution. Domains like Kishū sent their retainers to Regent Nijō to inquire about the court's intentions, and the regent answered that Yoshinobu's memorial for returning political power would not receive imperial approval. On the other hand, Komatsu Tatewaki and Gotō Shōjirō visited the Nijō house and earnestly worked for the shogun's memorial to receive imperial approval. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his draft is nearly complete... [Text unclear] **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper. **Main Text:** They worked for such approval. While various opinions were thus divided, Iwakura and others held deep consultations and determined the proper sequence for approving Yoshinobu's memorial, submitting this to Regent Nijō and requesting that court deliberations be decided quickly. **Return of Political Power** Here, Regent Nijō finally made his decision, and as a result of the memorial, on the following 15th, Yoshinobu was summoned and presented with an imperial edict approving his request to return political power. Thus the shogun's request was quickly granted imperial permission, and political power returned to the court for the first time. However, in reality, such results could not be achieved overnight. From the lords' perspective, they had all been vassals of the Tokugawa house and occupied the position of sub-vassals relative to the court. Moreover, the inertia of three hundred years could not easily be completely swept away, so real power still appeared to remain with the Tokugawa. In this situation, to achieve the reality of national renewal, it became inevitable that some kind of actual blow must be dealt to the Tokugawa house. Therefore, regarding the anti-shogunate movement advocated by those three domains of Satsuma, Chōshū, and Aki, **Secret Imperial Edict for Overthrowing the Shogunate** a secret imperial edict was once issued on October 14th to Komatsu, Saigō, Ōkubo, Hirosawa and others. However, as previously mentioned, on the very same day the shogun memorialized about returning political power, so this secret edict for overthrowing the shogunate was temporarily suspended. At court, various policies were finally determined at the meeting of December 8th. Prince Arisugawa was appointed as president, Prince Ninnaji and Prince Yamashina along with court nobles—totaling ten people—were appointed as councillors, and as consultants, nobles Ōhara, Madenokōji, Hase, Iwakura, and Hashimoto were appointed along with three from Owari, three from Echizen, three from Satsuma domain, and three from Aki domain. At the same time, Aizu domain was relieved of guarding the Hamaguri Gate and Kuwana domain was relieved of guarding the Court Noble Gate. Now, what to do about punishment for the Tokugawa house became the immediate problem. **Treatment of the Tokugawa House** However, this was truly a difficult problem, and at the meeting held before the emperor for the first time on the following 9th, this was the most hotly debated issue. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 575