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【欄外】
豊橋市史談 (王政復古と吉田藩) 五百七十六
【本文】
る処(ところ)であつたが結局(けつきよく)は慶喜(よしのぶ)をして官位(くわんゐ)を退(しりぞ)き土地(とち)人民(じんみん)を返納(へんのう)せしむる事と相成(あひな)つたのである然(しか)るに之(これ)
には尾(び)、越(ゑつ)、土(ど)三 藩(はん)の周旋(しうせん)があつて一 時(じ)尾越(びゑつ)両藩主(れうはんしゆ)に一 任(にん)さるゝ事と相成(あひな)つたのであるが其日(そのひ)は丁度(ちようど)
長藩(てうはん)の前隊(ぜんたい)が入京(にふけう)して其(その)十一日には九 門(もん)内外(ないぐわい)見廻(みまは)りの役(やく)を命(めい)ぜられたと云(い)ふ訳(わけ)であるが其(その)又(また)廿七日に
は三 條公(でうこう)初(はじ)め奔竄中(ほんざんちう)の諸卿(しよげう)がイヨ〳〵復官(ふくくわん)の上(うへ)入京(にふけう)せられたと云(い)ふ次第(しだい)であつたから益(ます〳〵)非(ひ)徳川(とくがは)とも云(い)
ふべきものゝ勢(いきほひ)は滔天(たうてん)の有様(ありさま)と相成(あひな)つたのである当時(たうじ)岩倉卿(いはくらけう)等(ら)は前将軍(ぜんせうぐん)が何時迄(いつまで)も退官(たいくわん)納地(のうち)の実行(じつかう)
をなさゞる(おい)ては朝廷(てうてい)の方(はう)から其(その)事(こと)の実行(じつかう)を命令(めいれい)すべしと云(い)ふ意気込(いきごみ)で既(すで)に草案(さうあん)まで出来(でき)たと云(い)ふ
次第(しだい)であつたが之(これ)等(ら)の事が漏洩(ろうえい)したる結果(けつくわ)益(ます〳〵)麾下(きか)及(およ)び会桑(あひさう)緒藩(しよはん)の憤激(ふんげき)する処(ところ)となつたので之(これ)等(ら)のもの
は挙(こそつ)て薩長(さつてう)二 藩(はん)を撃(う)たんとする勢(いきほひ)を示(しめ)し慶喜(よしのぶ)も其(その)鎮撫(ちんぶ)には最(もつと)も力(ちから)を竭(つく)したが容易(ようい)には納(おさ)まりがつかぬ
《割書:慶喜大阪城|に退く》 ので慶喜(よしのぶ)の考(かんがへ)では寧(むし)ろ一 時(じ)大阪城(おほさかじよう)に退(しりぞ)き衆心(しゆうじん)の鎮定(ちんてい)を俟(ま)つたる上(うへ)更(さら)に上京(ぜうけう)して退官(たいくわん)納地(のうち)等(とう)の事を奏(さう)
請(せい)するに如(し)かずと決心(けつしん)し遂(つひ)に二 条城(でうじよう)を抜(ぬ)け出(い)でゝ大阪(おほさか)に下(くだ)るに至(いた)つたのである然(しか)るに此(この)官位(くわんゐ)並(ならび)に領地(れうち)
返上(へんぜう)の事は益(ます〳〵)紛糾(ふんきう)を重(かさ)ねて爾後(じご)愈(いよ〳〵)議論(ぎろん)紛々(ふん〳〵)たる有様(ありさま)であつたが折角(せつかく)大阪城中(おほさかじようちう)に於(おい)て一 時(じ)平和論(へいわろん)が
勝(かち)を占(し)めむとしたるにも拘(かゝは)らず当時(たうじ)江戸(えど)より達(たつ)したる薩邸(さつてい)攻撃(こうげき)の急報(きふほう)は又々(また〳〵)之(これ)をして激昂(げきこう)せしむるに
《割書:江戸に於け|る薩邸の攻|撃》 至(いた)つたのである此(この)薩邸(さつてい)攻撃(こうげき)の事と云(い)ふのは元来(がんらい)江戸(えど)に於(お)ける薩藩士(さつはんし)の暴行(ばうかう)が原因(げんゐん)であつて警衛(けいえい)の緒藩(しよはん)
は之(これ)を取締(とりしま)る為(た)めに大目付(おほめつき)の伝令(でんれい)によつて其(その)藩邸(はんてい)を砲撃(ほうげき)したる事である然(しか)るに薩摩浪士(さつまらうし)の一 部(ぶ)は包囲(はうゐ)
中(ちう)より遁(のが)れて品川沖(しながはおき)に碇泊(ていはく)して居(を)つた処(ところ)の薩艦(さつかん)に投(とう)じたのであるが同(おな)じく品川海(しながわかい)にあつた幕艦(ばくかん)は之(これ)を
追撃(つひげき)して遂(つひ)に摂海(せつかい)の入口(いりぐち)までもやつて来(き)たと云(い)ふ次第(しだい)である而(しか)して此(この)薩邸(さつてい)攻撃(こうげき)のあつたのは十二月廿
四日 夜(よ)の事で此(この)報(ほう)が大阪(おほさか)に達(たつ)したのは十二月 晦日(みそか)の事である此(こゝ)に於(おい)ては一 度(ど)平和論(へいわろん)に帰(き)せむとした処(ところ)
の大阪(おほさか)に於(おい)ても又々(また〳〵)殺気(さつき)を以(もつ)て充(み)たさるゝに至(いた)つた訳(わけ)で遂(つひ)には彼(か)の伏見鳥羽(ふしみとば)の一 戦(せん)をも激成(げきせい)したる始(し)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千六百六十三号附録 (大正三年五月十二日発行)
【本文】
末(まつ)と相成(あひな)つたのである
前(まへ)にも申述(まをしの)べたるが如(こと)く大阪(おほさか)に於(おい)ては一 時(じ)平和論(へいわろん)が勝(かち)を得(え)たのではあるが孰(いづ)れも近日(きんじつ)に於(お)ける朝廷(てうてい)の
措置(そち)を以(もつ)て偏倚(へんき)なりとせざるものなく結局(けつきよく)真(しん)の朝旨(てうし)にはあらずして薩賊(さつぞく)等(ら)の陰謀(ゐんばう)に出(い)づるに相違(さうゐ)ない
から速(すみやか)に君側(くんそく)の姦(かん)を清(きよ)めねばならぬと主張(しゆてう)したのであるが丁度(ちようど)十二月の晦日(みそか)に江戸(えど)からは大目付(おほめつけ)瀧(たき)
川具知(がはとものり)が兵(へい)を率(ひき)ゐて着阪(ちやくはん)し且(か)つ江戸(えど)に於(お)ける薩藩士(さつはんし)の暴状(ばうぜう)並(ならび)に其(その)藩邸(はんてい)攻撃(こうげき)等(ら)の事(こと)を報告(ほうこく)したので忽(たちま)ち
上洛(ぜうらく)の議(ぎ)を決(けつ)し以(もつ)て君側掃攘(くんそくそうぜう)の挙(きよ)に出(い)でむとしたのである
《割書:慶喜上洛せ|んとす》 明(あ)くれば慶応(けいおう)四 年(ねん)即(すなは)ち後(のち)に明治(めいぢ)と改元(かいげん)されたる年(とし)であるが其(その)正月(せうがつ)朔日(ついたち)前将軍(ぜんせうぐん)慶喜(よしのぶ)は入朝(にふてう)せんとて兵備(へいび)
を整(とゝの)へ二日 大阪(おほさか)を発(はつ)し三日 入京(にふけう)の予定(よてい)であつたが先(ま)づ瀧川具知(たきがはとものり)を先発(せんぱつ)として討薩表(とうさつへう)を携(たづさ)へて上京(ぜうけう)せし
《割書:伏見鳥羽の|戦》 めたのであるモツトモ此(この)挙(きよ)が慶喜(よしのぶ)の本意(ほんい)なりしや否(いな)やは極(きは)めて疑問(ぎもん)であるが兎(と)に角(かく)幕軍(ばくぐん)は此時(このとき)伏見鳥(ふしみと)
羽(ば)の両道(れうどう)より進(すゝ)むだのである然(しか)るに之(これ)が薩長(さつてう)等(ら)の連合軍(れんこふぐん)と衝突(せうとつ)して一 戦(せん)に及(およ)び脆(もろ)くも幕軍(ばくぐん)の敗(はい)に帰(き)し
た事(こと)は今更(いまさら)私(わたくし)が申述(まをしの)べずとも既(すで)に諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の如(ごと)くである併(しか)し此時(このとき)薩長(さつてう)方(がた)に於(おい)ても到底(たうてい)此(この)一 戦(せん)を
以(もつ)てかく迄(まで)に奇勝(きせう)を得(え)むとは思(おも)はなかつたので或(あるひ)は乗輿(ぜうよ)を奉(ほう)じて山陰道(さんゐんどう)より広島(ひろしま)に出(い)で万(まん)一 戦争(せんそう)が数(すう)
年(ねん)に亘(わた)り如何(いか)なる困難(こんなん)に遭遇(そうぐう)するとも幕府討滅(ばくふとうめつ)の業(げう)は之(これ)を大成(たいせい)せねばならぬと云(い)ふ大決心(だいけつしん)を固(かた)めて居(を)
つたのである之等(これら)は誠(まこと)に容易(ようい)ならぬ意気込(いきごみ)であつたと云(い)はねばならぬ
然(しか)るに慶喜(よしのぶ)は既(すで)に此(この)一 戦(せん)に於(おい)て形勢(けいせい)の我(われ)に非(ひ)なるを看取(かんしゆ)し且(か)つ今回(こんくわい)の事(こと)が仮令(たとへ)我(われ)より戦端(せんたん)を開(ひら)いたと
云(い)ふでないにしても兎(と)に角(かく)最初(さいしよ)より奉(ほう)ぜし天朝尊奉(てんてうそんほう)の趣旨(しゆし)には反(はん)したるには相違(さうゐ)ない此(この)事(こと)は深(ふか)く遺憾(ゐかん)
《割書:慶喜海路江|戸に皈る》 とする処(ところ)であると云(い)ふので六日に令(れい)を伝(つた)へて諸軍(しよぐん)を大阪(おほさか)に退却(たいきやく)せしめ自(みづか)らは其夜(そのよ)竊(ひそ)かに城(しろ)を出(い)で八 軒(けん)
屋(や)より苫船(とまぶね)に乗(ぜう)じて天保山沖(てんぽうざんおき)に至(いた)り翌日(よくじつ)開陽艦(かいやうかん)に転乗(てんぜう)して遂(つゐ)に江戸(えど)に向(むかつ)て海路(かいろ)逃去(たうきよ)したのである
【欄外】
豊橋市史談 (王政復古と吉田藩) 五百七十七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(王政復古と吉田藩) 五百七十六
【本文】
る処であったが、結局は慶喜をして官位を退き土地人民を返納せしめる事と相成ったのである。然るにこれには尾張、越前、土佐三藩の周旋があって一時尾張・越前両藩主に一任される事と相成ったのであるが、その日は丁度長州藩の前隊が入京して、その十一日には九門内外見廻りの役を命ぜられたという訳であるが、その又二十七日には三條公初め奔竄中の諸卿がいよいよ復官の上入京せられたという次第であったから、益々非徳川とも言うべきものの勢いは滔天の有様と相成ったのである。当時岩倉卿等は前将軍が何時までも退官納地の実行をなさないにおいては朝廷の方からその事の実行を命令すべしという意気込で、既に草案まで出来たという次第であったが、これ等の事が漏洩したる結果益々麾下及び会津・桑名諸藩の憤激する処となったので、これ等のものは挙って薩摩・長州二藩を撃たんとする勢いを示し、慶喜もその鎮撫には最も力を尽くしたが容易には納まりがつかぬので、
慶喜大阪城に退く
慶喜の考えでは寧ろ一時大阪城に退き衆心の鎮定を俟ったる上更に上京して退官納地等の事を奏請するに如かずと決心し、遂に二条城を抜け出でて大阪に下るに至ったのである。然るにこの官位並びに領地返上の事は益々紛糾を重ねて爾後愈々議論紛々たる有様であったが、折角大阪城中において一時平和論が勝を占めんとしたるにも拘らず、当時江戸より達したる薩摩邸攻撃の急報は又々これをして激昂せしむるに至ったのである。
江戸における薩摩邸の攻撃
この薩摩邸攻撃の事というのは元来江戸における薩摩藩士の暴行が原因であって、警衛の諸藩はこれを取り締まる為めに大目付の伝令によってその藩邸を砲撃したる事である。然るに薩摩浪士の一部は包囲中より逃れて品川沖に碇泊していた処の薩摩艦に投じたのであるが、同じく品川海にあった幕艦はこれを追撃して遂に摂津海の入口までもやって来たという次第である。而してこの薩摩邸攻撃のあったのは十二月二十四日夜の事で、この報が大阪に達したのは十二月晦日の事である。ここにおいては一度平和論に帰せんとした処の大阪においても又々殺気をもって充たされるに至った訳で、遂には彼の伏見鳥羽の一戦をも激成したる始
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千六百六十三号附録 (大正三年五月十二日発行)
【本文】
末と相成ったのである。
前にも申述べたる如く大阪においては一時平和論が勝を得たのではあるが、いずれも近日における朝廷の措置を以て偏倚なりとせざるものなく、結局真の朝旨にはあらずして薩摩賊等の陰謀に出づるに相違ないから、速やかに君側の奸を清めねばならぬと主張したのであるが、丁度十二月の晦日に江戸からは大目付滝川具知が兵を率いて着阪し、且つ江戸における薩摩藩士の暴状並びにその藩邸攻撃等の事を報告したので、忽ち上洛の議を決し以て君側掃攘の挙に出でんとしたのである。
慶喜上洛せんとす
明くれば慶応四年即ち後に明治と改元されたる年であるが、その正月朔日前将軍慶喜は入朝せんとて兵備を整え二日大阪を発し三日入京の予定であったが、先ず滝川具知を先発として討薩表を携えて上京せしめたのである。もっともこの挙が慶喜の本意なりしや否やは極めて疑問であるが、
伏見鳥羽の戦
とにかく幕軍は此時伏見・鳥羽の両道より進んだのである。然るにこれが薩摩・長州等の連合軍と衝突して一戦に及び、脆くも幕軍の敗に帰した事は今更私が申述べずとも既に諸君が御承知の如くである。しかしこの時薩摩・長州方においても到底この一戦を以てかく迄に奇勝を得んとは思わなかったので、或いは乗輿を奉じて山陰道より広島に出で、万一戦争が数年に亘り如何なる困難に遭遇するとも幕府討滅の業はこれを大成せねばならぬという大決心を固めていたのである。これ等は誠に容易ならぬ意気込であったと言わねばならぬ。
然るに慶喜は既にこの一戦において形勢の我に非なるを看取し、且つ今回の事が仮令我より戦端を開いたということでないにしても、とにかく最初より奉ぜし天朝尊奉の趣旨には反したるには相違ない、この事は深く遺憾とする処であるということで、
慶喜海路江戸に帰る
六日に令を伝えて諸軍を大阪に退却せしめ、自らはその夜窃かに城を出で八軒屋より苫船に乗じて天保山沖に至り、翌日開陽艦に転乗して遂に江戸に向って海路逃去したのである。
【欄外】
豊橋市史談(王政復古と吉田藩) 五百七十七
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 576
**Main Text:**
[continued from previous page] but ultimately it was decided that Yoshinobu should retire from his official position and return his lands and people. However, this involved mediation by the three domains of Owari, Echizen, and Tosa, and was temporarily entrusted to the lords of Owari and Echizen. On that very day, the advance guard of Chōshū domain entered Kyoto, and on the 11th they were ordered to patrol inside and outside the nine gates. Furthermore, on the 27th, Prince Sanjō and other nobles who had been in exile were finally restored to office and entered Kyoto. Thus the anti-Tokugawa forces grew to towering proportions. At that time, Iwakura and others were determined that if the former shogun did not carry out his retirement and land surrender, the court should order the implementation of these measures from its side, and they had already prepared a draft. However, when these matters leaked out, his retainers and the domains of Aizu and Kuwana became increasingly indignant, and these forces showed their determination to attack the two domains of Satsuma and Chōshū. Although Yoshinobu made every effort to pacify them, they could not be easily calmed.
**Yoshinobu Withdraws to Osaka Castle**
Yoshinobu decided it would be better to temporarily withdraw to Osaka Castle, wait for popular sentiment to settle, and then return to Kyoto to petition for retirement and land surrender. He finally left Nijō Castle and went down to Osaka. However, the matter of returning official positions and territories became increasingly complicated, and discussions became more and more confused. Just when peaceful arguments seemed about to prevail in Osaka Castle, urgent news of the attack on the Satsuma residence from Edo once again aroused great anger.
**Attack on the Satsuma Residence in Edo**
This attack on the Satsuma residence was originally caused by the violent behavior of Satsuma domain retainers in Edo, and the domains responsible for security bombarded the residence on orders from the senior inspector to control them. However, some Satsuma rōnin escaped from the siege and fled to Satsuma ships anchored off Shinagawa, but shogunate ships also in Shinagawa Bay pursued them all the way to the entrance of Settsu Bay. This attack on the Satsuma residence occurred on the night of December 24th, and news of this reached Osaka on December 31st. At this point, even Osaka, which had once seemed inclined toward peace, was again filled with murderous intent, ultimately leading to the激成 [激成 appears to be an error - likely 激成 meaning "bringing about"] of the Battle of Fushimi-Toba.
**Margin:**
Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper No. 4663 Supplement (Published May 12, Taishō 3 [1914])
**Main Text:**
[continuation] end.
As previously mentioned, peaceful arguments had temporarily gained the upper hand in Osaka, but all parties considered the court's recent measures to be biased, concluding that they were not true imperial will but certainly came from the conspiracies of the Satsuma rebels, and argued that the evil influences around the emperor must be quickly purged. Just on December 31st, Senior Inspector Takigawa Tomonori arrived in Osaka with troops from Edo and reported on the violent behavior of Satsuma retainers in Edo and the attack on their residence, so they immediately decided to go to Kyoto to undertake the purging of evil influences around the emperor.
**Yoshinobu Attempts to Go to Kyoto**
The dawn of Keiō 4 (later renamed Meiji) arrived. On New Year's Day, former Shogun Yoshinobu prepared his military forces intending to enter the court, planning to leave Osaka on the 2nd and enter Kyoto on the 3rd. He first sent Takigawa Tomonori ahead carrying a proclamation against Satsuma. Whether this action was truly Yoshinobu's intention is highly questionable, but
**Battle of Fushimi-Toba**
in any case, the shogunate army advanced along both the Fushimi and Toba routes at this time. However, this force clashed with the allied armies of Satsuma, Chōshū and others, and the shogunate army was ignominiously defeated—as you all already know, I need not elaborate on this. However, even the Satsuma-Chōshū side had not expected to achieve such a remarkable victory in this one battle. They had been prepared to escort the emperor via the San'in Road to Hiroshima, and had firmly resolved that no matter what difficulties they might encounter even if the war lasted for years, they must accomplish the great task of destroying the shogunate. This showed truly extraordinary determination.
However, Yoshinobu already recognized from this one battle that the situation was not in his favor, and even though he had not initiated hostilities, it was undeniable that this contradicted the principle of imperial reverence he had maintained from the beginning—he deeply regretted this.
**Yoshinobu Returns to Edo by Sea**
On the 6th he ordered all armies to withdraw to Osaka, and that night he secretly left the castle, boarded a small boat at Hakkenja, reached the offing of Tenpōzan, transferred to the Kaiyō warship the next day, and finally fled to Edo by sea.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 577