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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 32

ページ: 32

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【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          卅六 【本文】        公(こう)が信成(のぶしげ)、 三 休位公(きうゐこう)が傳次(でんじ)成高(しげたか)であると信(しん)ずる勿論(もちろん)成高の戒名(かいめう)に就ては古来(こらい)から異説(ゐせつ)はない様(よう)である       が成三(しげかづ)と信成(のぶしげ)とに就ては何(いづ)れを何(いづ)れとも定(さだ)め難(にく)いように両説(れうせつ)になつて居(を)るのである然(しか)るに前章(ぜんせう)に述べ 龍拈寺文書 て置いた龍拈寺(りうねんじ)の始祖(しそ)休屋宗官和尚(きうをくそうかんおせう)自筆(じしつ)の遺書(ゐしよ)中(ちう)に同寺(どうじ)祠堂(しどう)の覚書(おほえがき)があつて「畠五貫文以天受清牧野       田三」と記(しる)してある之(これ)は其(その)当時(とうじ)のもので疑(うたがひ)なき処であるが元来(がんらい)以天受清(いてんじゆせい)が戒名(かいめう)であるのを其人(そのひと)を敬(けい)       して以天清公(いてんせいこう)と云ふので畠五貫文(はけかんもん)は此寺を創立(さうりつ)した時に寄進(きしん)したものと信(しん)せらるゝ点(てん)から考(かんが)ふれば之       は慥(たしか)に成三(しげかづ)に当(あた)ると思ふのである而(しか)して龍拈寺(りうねんじ)には今(いま)尚(なほ)                           声外音公居士           (表)    当寺開基     以天清公上座                           三休位公庵主           (裏)           享禄二巳丑年五月廿八日       と刻(こく)した位牌(ゐはい)があるので幸(さいはひ)に此(この)位牌(ゐはい)が当時(とうじ)のものであつたならば屈竟(くつけう)史料(しれう)であるが如何(いかん)せん時代(じだい)の       上から見て到底(とうてい)当時(とうじ)を去(さ)る遠(とほ)き後世(こうせい)の製作(せいさく)であろうと思(おも)はるゝのである但(たゞ)し正徳(せうとく)二年 書上(かきあげ)以前(いぜん)のもの       ではあると思(おも)ふ             ⦿二連木城と戸田氏        今回(こんかい)は二 連木城(れんぎぜう)と戸田氏の事に就(つい)て申述(もうしの)ぶる順序(じゆんじよ)であるが夫(それ)には又た自然(しぜん)今橋(いまはし)落城(らくぜう)後(ご)の概況(がいけう)から御話(おはなし)       する必要(ひつよう)があると思(おも)ふ扨(さて)前章(ぜんせう)に述(の)べたような訳(わけ)で今橋の築城者(ちくぜうしや)たる牧野氏は松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に一時 滅亡(めつぼう)       の状態(ぜうたい)となつたのであるが其後(そのご)清康(きよやす)は牧野傳兵衛(まきのでんべゑ)と云ふ人をして今橋城(いまはしぜう)を守(まも)らしめて置(お)いたのである 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百二十八号附録   ( 明治四十四年四月十一日発行 ) 【本文】       此(この)傳兵衛(でんべゑ)と云うふのは或(ある)記録(きろく)によると古白(こはく)の弟であるとしてあるが之(これ)は未(いま)だ疑問(ぎもん)と云はねばならぬ併(しか)し       傳蔵の一 族(ぞく)であるには相違(さうゐ)ないので初(はじ)め宝飯郡の益岡(ますをか)と云ふ処に居つたが其頃(そのころ)此人(このひと)が宝飯郡(ほゐぐん)八幡村(やはたむら)の       八 幡社(まんしや)に納(をさ)めた文書(ぶんしよ)があつて之(こ)にも矢張(やはり)平信成(たひらのぶしげ)と記(しる)されてあるが今(いま)も残(のこ)つて居る事と思ふ然(しか)るに宗家(しうか)       と不和(ふわ)の事が起(おこ)つて曩(さき)に款(かん)を松平氏に通じたのである当時(とうじ)田原(たはら)には戸田(とだ)弾正少弼(だんぜうせうしつ)康光(やすみつ)が居り牛久保に       は牧野新次郎貞成等が居つたが孰(いづ)れも和(わ)を清康(きよやす)に需(もと)めたので其他(そのた)西郷(さいごう)の西郷氏 田峯(たみね)野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)を初       め東三河の人々は概(おほむ)ね其(その)旗下(きか)に属(ぞく)するに至つたのである而(しか)して此(この)牧野貞成(まきのさだなり)と云ふ人は彼(か)の長岡(ながをか)牧野家(まきのけ)       の祖先(そせん)新次郎成定の養父(やうふ)であつてズツト前(まへ)に御話(はなし)して置いた牧野成勝(まきのしげかつ)と云ふ人の子であるモツトモ寛(かん)        政重修諸家譜(せいぢうしうしよかふ)には貞成(さだなり)の父を氏勝(うじかつ)としてあるが之(これ)は成勝(しげかつ)の別名(べつめい)であると思(おも)ふサテ清康(きよやす)の勢力(せいりよく)は此の如       き訳で中々(なか〳〵)強大(けうだい)のものであつたが天文四年十二月五日 例(れい)の尾張国(をはりのくに)森山(もりやま)の陣(ぢん)で其(その)臣(しん)の阿部弥(あべや)七と云ふ者       の為に年(とし)僅(わづか)に廿五歳で誤(あやまつ)て殺(ころ)されてしまつたので所謂(いはゆる)森山(もりやま)崩(くづ)れと云ふのは之(これ)であるが松平氏(まつだひらし)は茲(こゝ)に其(その)        主領(しゆれう)を失(うしな)つたのみならず内乱(ないらん)か起(おこ)つたソコで弥七の父(ちゝ)阿部定吉(あべさだよし)は実(じつ)に主家(しゆか)に対(たい)して申訳(もうしわけ)がないと云ふ       ので清康(きよやす)の子(こ)広忠(ひらたゞ)がまだ十歳で仙千代(せんちよ)と云つたのを一 身(しん)に引受(ひきう)け伊勢(いせ)に逃(のが)れて神戸(かんべ)の東條持広(とうぜうもちひろ)に依つ       たのである此(この)持広(もちひろ)と云ふ人は東條(とうぜう)の吉良氏(きらし)で広忠(ひろたゞ)には叔母(おば)の夫(おつと)に当(あた)るのであるが衷心(ちうしん)広忠(ひろたゞ)を庇護(ひご)して        援(えん)を今川義元(いまがはよしもと)に請(こ)つたのであるモツトモ之にも異説(ゐせつ)があつて持広(もちひろ)が死去(しきよ)して其子が広忠(ひろたゞ)に不利(ふり)である       ので広忠(ひろたゞ)は転(てん)じて遠江(とほとおみ)の掛塚(かけつか)に流寓(りうぐう)し遂(つひ)に今川氏に依(よ)るに至(いた)つたのであると云ふ説(せつ)もあるが持広(もちひろ)の死(し)       は実(じつ)は天文八年の十月で広忠(ひろたゞ)が義元(よしもと)に依つたのは天文五年の春であるからドウモ前(まへ)の説(せつ)が正(たゞ)しいよう       である蓋(けだ)し今川氏に於(おい)ても氏親(うじちか)は既(すで)に大永六年六月を以(もつ)て卒(そつ)し其子(そのこ)氏輝(うじてる)が相続(さうぞく)したか之(こ)れ亦(ま)た天文五       年三月を以(もつ)て卒(そつ)したので矢張(やはり)内(うち)に紛擾(ふんぜう)が起つた時に氏輝(うじてる)の弟(おとゝ)は二人共に僧(そう)であつたが終(つひ)に其(その)末弟(まつてい)の方 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          卅七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          三十六 【本文】 公が信成、三休位公が伝次成高であると信ずる。勿論成高の戒名については古来から異説はないようであるが、成三と信成とについては何れを何れとも定め難いように両説になっているのである。然るに前章に述べて置いた龍拈寺の始祖休屋宗官和尚自筆の遺書中に同寺祠堂の覚書があって「畠五貫文以天受清牧野田三」と記してある。これはその当時のもので疑いなき処であるが、元来以天受清が戒名であるのをその人を敬して以天清公というので、畠五貫文はこの寺を創立した時に寄進したものと信ぜられる点から考えれば、これは確かに成三に当たると思うのである。而して龍拈寺には今尚            声外音公居士    (表) 当寺開基 以天清公上座            三休位公庵主    (裏)    享禄二巳丑年五月二十八日 と刻した位牌があるので、幸いにこの位牌が当時のものであったならば屈強の史料であるが、如何せん時代の上から見て到底当時を去る遠き後世の製作であろうと思われるのである。ただし正徳二年書上以前のものではあると思う。 ⦿二連木城と戸田氏 今回は二連木城と戸田氏の事について申し述べる順序であるが、それにはまた自然今橋落城後の概況からお話しする必要があると思う。さて前章に述べたような訳で今橋の築城者たる牧野氏は松平清康の為に一時滅亡の状態となったのであるが、その後清康は牧野伝兵衛という人をして今橋城を守らしめて置いたのである。 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百二十八号附録 (明治四十四年四月十一日発行) 【本文】 この伝兵衛というのはある記録によると古白の弟であるとしてあるが、これは未だ疑問と云わねばならぬ。併し伝蔵の一族であるには相違ないので、初め宝飯郡の益岡という処にいたが、その頃この人が宝飯郡八幡村の八幡社に納めた文書があって、これにも矢張り平信成と記されてあるが、今も残っている事と思う。然るに宗家と不和の事が起こって曩に款を松平氏に通じたのである。当時田原には戸田弾正少弼康光がおり、牛久保には牧野新次郎貞成等がいたが、孰れも和を清康に求めたので、その他西郷の西郷氏、田峯・野田の菅沼氏を初め東三河の人々は概ね其の旗下に属するに至ったのである。而してこの牧野貞成という人は彼の長岡牧野家の祖先新次郎成定の養父であって、ずっと前にお話して置いた牧野成勝という人の子である。もっとも寛政重修諸家譜には貞成の父を氏勝としてあるが、これは成勝の別名であると思う。さて清康の勢力はこのような訳で中々強大のものであったが、天文四年十二月五日例の尾張国森山の陣でその臣の阿部弥七という者の為に年僅かに二十五歳で誤って殺されてしまったので、所謂森山崩れというのはこれであるが、松平氏は茲にその主領を失ったのみならず内乱が起こった。そこで弥七の父阿部定吉は実に主家に対して申し訳がないというので、清康の子広忠がまだ十歳で仙千代といったのを一身に引き受け、伊勢に逃れて神戸の東條持広に依ったのである。この持広という人は東條の吉良氏で広忠には叔母の夫に当るのであるが、衷心広忠を庇護して援を今川義元に請ったのである。もっともこれにも異説があって、持広が死去してその子が広忠に不利であるので、広忠は転じて遠江の掛塚に流寓し遂に今川氏に依るに至ったのであるという説もあるが、持広の死は実は天文八年の十月で、広忠が義元に依ったのは天文五年の春であるから、どうも前の説が正しいようである。けだし今川氏においても氏親は既に大永六年六月を以って卒し、その子氏輝が相続したがこれまた天文五年三月を以って卒したので矢張り内に紛擾が起った時に、氏輝の弟は二人共に僧であったが、終にその末弟の方 【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          三十七

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          36 【Main text】 -kō was Nobushige, and Sankyūi-kō was Denji Shigetaka. Of course, there seems to be no dissenting opinion regarding Shigetaka's Buddhist name since ancient times, but concerning Shigekazu and Nobushige, there are two theories making it difficult to determine which is which. However, in the testament written by the founder of Ryūnen-ji temple, priest Kyūya Sōkan, there is a memorandum about the temple's ancestral hall stating "5 kan of rice fields, Iten-ju-sei, Makino Tazō." This is from that period and is undoubtedly authentic, but since Iten-ju-sei was originally the Buddhist name, and he is respectfully called Itensei-kō, and considering that the 5 kan of rice fields were donated when this temple was established, I believe this certainly corresponds to Shigekazu. At Ryūnen-ji temple, there is still a memorial tablet carved with:            Seigaion-kōji    (Front) Temple founder Itensei-kōjōza            Sankyūi-kōanji    (Back)    Kyōroku 2, Year of the Metal Ox, 5th month, 28th day If this memorial tablet were from that time, it would be excellent historical material, but unfortunately, judging from the period, it appears to be a much later creation from a distant later age. However, I think it predates the Shōtoku 2 submission. ⦿Ninrengi Castle and the Toda Clan This time I shall discuss Ninrengi Castle and the Toda clan, but for this it is necessary to naturally speak first about the general situation after the fall of Imahashi Castle. As described in the previous chapter, the Makino clan, who were the builders of Imahashi, temporarily fell into a state of extinction due to Matsudaira Kiyoyasu, but afterward Kiyoyasu had a man named Makino Denbei guard Imahashi Castle. 【Left page】 【Margin】 San'yō Newspaper No. 3,728 Supplement (Published April 11, Meiji 44) 【Main text】 This Denbei, according to certain records, was said to be Kohaku's younger brother, but this must still be considered questionable. However, he was undoubtedly a member of Denzō's clan, and initially lived in a place called Masuoka in Hōi District. Around that time, this person submitted a document to the Hachiman Shrine in Hachiman Village, Hōi District, which also records the name as Taira Nobushige, and I think it still remains today. However, discord arose with the main family, and he had previously submitted to the Matsudaira clan. At that time, Toda Danjō-shōhitsu Yasumitsu was in Tahara, and Makino Shinjirō Sadanari and others were in Ushikubo, but since all sought peace with Kiyoyasu, the Saigō clan of Saigō, the Suganuma clan of Tamine and Noda, and other people of eastern Mikawa generally came to belong under his banner. This Makino Sadanari was the adoptive father of Shinjirō Narisada, ancestor of the Nagaoka-Makino family, and was the son of Makino Shigekatsu, whom I mentioned much earlier. Although the Kansei Revised Genealogies of Various Families lists Sadanari's father as Ujikatsu, I believe this is an alternate name for Shigekatsu. Now, Kiyoyasu's power was quite formidable for these reasons, but on the 5th day of the 12th month of Tenbun 4, at the famous Moriyama camp in Owari Province, he was mistakenly killed by one of his retainers named Abe Yashichi at the mere age of twenty-five. This is the so-called "Moriyama Collapse," and the Matsudaira clan not only lost their lord but also internal strife broke out. So Abe Sadayoshi, Yashichi's father, feeling he had no excuse to his lord's family, took personal responsibility for Kiyoyasu's son Hirotada, who was still ten years old and called Senchiyo, and fled to Ise to depend on Tōjō Mochihiro of Kanbe. This Mochihiro was of the Tōjō-Kira clan and was Hirotada's uncle by marriage, but he wholeheartedly protected Hirotada and sought aid from Imagawa Yoshimoto. Although there is also a different theory that after Mochihiro died and his son was unfavorable to Hirotada, Hirotada moved to Kaketsuka in Tōtōmi and eventually came to depend on the Imagawa clan, Mochihiro's death was actually in the 10th month of Tenbun 8, and Hirotada's dependence on Yoshimoto was in the spring of Tenbun 5, so the former theory seems correct. Indeed, regarding the Imagawa clan as well, Ujichika had already died in the 6th month of Daiei 6, and his son Ujiteru succeeded him, but he also died in the 3rd month of Tenbun 5, so internal strife arose there as well. At that time, Ujiteru's two younger brothers were both monks, but finally the youngest brother 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          37