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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 311

ページ: 311

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【欄外】    豊橋市史談  (王政復古と吉田藩)                    五百九十四 【本文】        失 思召被為立候様仕度十年之後思召被為立候ては迚も難相成事と奉存候先立は人を制しおくるれ        は人の為ニ制せらるの古語も御座候此事深く御思慮可被遊候様奉存候来二月 将軍家御上洛は無御        滞可被為済候得共外国之憂も蒔候事ニ御座候間数十年之後ニは如何相成可申も難斗若大事ニ及候後        は必 将軍家は古河公方の如く孤立ニ可被為成其時 大君兵食を養 将軍家を補佐し城を要害之地        ニ搆籠城被為遊静ニ時を伺義兵を挙させられ 徳川家恩顧之大小名を招せ給はゝ誰人も不来は御座        有間敷候其兵を集め不順之者を亡し京都ニとらせられ西国之兵を追払        天子を尊ひ京都ニ守護職を置再 将軍家を関東え移し奉る時は寔ニ天下之大忠臣ニして 大君ニも        伯業為成可給や如此大業のならせ給へき事を不為遊空く孤城を守らせられ自尽し給事に難ケ敷事と        奉存候間不省愚意奉申上候多罪々々恐々謹上 《割書:穂積清軒幕|府の翻訳方|に任ぜらる》  先(ま)づこんな議論(ぎろん)を唱(とな)へた人(ひと)もあつた事(こと)が分(わか)るのであるが之(これ)に反(はん)して彼(か)の太田錦城(おほたきんじよう)の子(こ)清軒(せいけん)の如(ごと)きは此(この)       頃(ころ)(文久(ぶんきう)二三 年(ねん)の頃(ころ))は既(すで)に六十八九 歳(さい)であつたがまだ钁鑠(しやくかく)たるもので「堯舜之憂民也数以人倫、孔子       之学出於堯舜」と云(い)ふような文章(ぶんせう)で矢張(やはり)上書(ぜうしよ)して居(を)るのであるそれ等(ら)これ等(ら)を比較(ひかく)して見(み)ると頗(すこぶ)る其(その)       思想(しさう)の懸隔(けんかく)に於(おい)て趣味(しゆみ)を感(かん)ずる次第(しだい)であるが尚(なほ)此処(ここ)に申述(まをしの)べて置(お)きたいのは穂積清軒(ほづみせいけん)の事(こと)である清軒(せいけん)       の事(こと)に就(つい)てはヅット前章(ぜんせう)の外交問題(ぐわいかうもんだい)と吉田藩(よしだはん)と云(い)ふ処(ところ)で其(その)生(お)ひ立(た)ちを申述(まをしの)べて置(お)いたのであるが清軒(せいけん)       は万延(まんえん)元年(がんねん)即(すなは)ち二十五 歳(さい)の時(とき)に阿州(あしう)の藩主(はんしゆ)高畑(たかはた)五 郎(らう)と云(い)ふ人(ひと)の処(ところ)で蘭書(らんしよ)の研究(けんきう)を卒(を)へて家(いへ)に帰(かへ)つた       のであるモツトモ前章(ぜんせう)に於(おい)て申述(まをしの)べて置(お)いたる如(ごと)く此(この)高畑(たかはた)の塾(じゆく)と云(い)ふのは江戸(えど)の番町(ばんちよう)にあつたのであ       るが清軒(せうけん)の家(いへ)は北新堀(きたしんぼり)で藩(はん)の中屋敷(なかやしき)にあつたのである然(しか)るに清軒(せうけん)が蘭書(らんしよ)を学(まな)ぶ頃(ころ)には反対(はんたい)が多(おほ)かつた       ので到底(たうてい)藩学(はんがく)の傍(かたはら)に之(これ)を習得(しふとく)すると云(い)ふが如(ごと)き事(こと)は困難(こんなん)であると云(い)ふので遂(つひ)に藩主(はんしゆ)から暇(ひま)を請(こ)つて 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       高畑(たかはた)の塾(じゆく)に身(み)を投(とう)じたものであるソコで帰家(きか)の後(のち)も只(たゞ)閑居(かんきよ)して蘭書(らんしよ)の研究(けんきう)に余念(よねん)がなかつたのであるが       何分(なにぶん)にも之(これ)を応用(おうよう)すべき時(とき)を得(え)ないので頗(すこぶ)る怏々(おう〳〵)として楽(たのし)まなかつたのである其中(そのうち)に病(やまひ)に罹(かゝ)つて褥裡(じよくり)       の人(ひと)となつたが又(ま)た母(はゝ)を喪(うしな)つたりして悲嘆(ひたん)の結果(けつくわ)余程(よほど)の重患(じうくわん)に陥(おちゐ)つたのである漸(やうや)くにして其後(そのご)病(やまひ)は癒(い)       へたが爾来(じらい)終(つひ)に薬餌(やくじ)を断(た)つに至(いた)らなかつた然(しか)るに其後(そのご)幕府(ばくふ)に於(おい)ては御承知(ごせうち)の如(ごと)く軍艦操練所(ぐんかんさうれんじよ)を設(もを)けて       洋書(ようしよ)の読(よ)めるものを集(あつ)め翻訳方(ほんやくかた)に任(にん)じたのであるソコで清軒(せいけん)も亦(ま)た叔父(おぢ)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)の推薦(すいせん)で之(これ)に任(にん)ぜ       られる事(こと)になつたのであるが其時(そのとき)幕府(ばくふ)から藩(はん)に通達(つうたつ)せられた書付(かきつけ)が大河内家(おほかうちけ)の記録(きろく)に残(のこ)つて居(を)る即(すなは)ち       左(さ)の如(ごと)くである        文久二壬戌年閏八月十三日        一左之御書付御用番板倉周防守様え御留守居御呼出ニて御渡                               松平伊豆守家来                                  穂  積  清  七  郎         右御軍艦操練所翻訳方出役可被申付候御扶持方五人扶持一ヶ月金三分宛被下間其段も可被申付         候御軍艦奉行可被談候       右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)で清軒(せいけん)は文久(ぶんきう)二 年(ねん)八月十三日 幕府(ばくふ)の軍艦操練所(ぐんかんさうれんじよ)翻訳方(ほんやくかた)と成(な)つたのであるが何分(なにぶん)にも当時(たいじ)は       まだ蘭学(らんがく)の話(はなし)などは容易(ようゐ)に藩中(はんちう)に容(い)れられないので藩邸内(はんていない)に家族(かぞく)と雑居(ざつきよ)して居(を)るのも面白(おもしろ)くないと云(い)       ふ処(ところ)から妻(つま)と共(とも)に根岸(ねぎし)に別居(べつきよ)する事(こと)と相成(あひな)つたのである当時(たうじ)清軒(せいけん)が同僚(どうれう)の近藤(こんどう)、堀江(ほりえ)二 人(にん)と共(とも)に軍艦(ぐんかん)       奉行(ぶぎよう)に建白(けんぱく)したものがあるが之(これ)も其(その)時代(じだい)に於(お)ける思想(しさう)を知(し)るの一 端(たん)と成(な)ると思(おも)ふから左(さ)に掲載(けいさい)したい       と思(おも)ふ 【欄外】    豊橋市史談  (王政復古と吉田藩)                    五百九十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(王政復古と吉田藩)                    五百九十四 【本文】 失うことがないよう思い立たれるようにしていただきたい。十年後に思い立たれても、とても成り立たないことと存じます。まず人を制する者が遅れれば、人のために制せられるという古語もございます。このことを深く御思慮なさるよう存じます。来二月の将軍家御上洛は滞りなく済まされるでしょうが、外国の憂いも蒔かれていることでございますので、数十年後にはいかなることになるか計り知れません。もし大事に及んだ後は、必ず将軍家は古河公方のように孤立なさるでしょう。その時、大君が兵食を養い、将軍家を補佐し、城を要害の地に構え籠城なさり、静かに時を伺い義兵を挙げられ、徳川家恩顧の大小名を招き給えば、誰一人来ない者はないでしょう。その兵を集め、不順の者を滅ぼし、京都にとらせられ、西国の兵を追い払い、天子を尊び、京都に守護職を置き、再び将軍家を関東へ移し奉る時は、真に天下の大忠臣であり、大君にも伯業をお成しになるでしょう。このような大業をお成しになれることをなさらず、空しく孤城を守らせられ自尽し給うことは嘆かわしいことと存じますので、不省の愚意を申し上げます。多罪々々恐々謹上 (穂積清軒が幕府の翻訳方に任ぜらる)まず、こんな議論を唱えた人もあったことが分かるのであるが、これに反してあの太田錦城の子清軒のような人は、この頃(文久二、三年の頃)は既に六十八、九歳であったが、まだ矍鑠たるもので「堯舜の民を憂うるや数もて人倫に、孔子の学堯舜より出づ」というような文章で、やはり上書をしているのである。それらこれらを比較してみると、頗るその思想の懸隔において趣味を感ずる次第であるが、なおここに申し述べておきたいのは穂積清軒のことである。 清軒のことについては、ずっと前章の「外交問題と吉田藩」というところで、その生い立ちを申し述べておいたのであるが、清軒は万延元年、即ち二十五歳の時に阿州の藩主高畑五郎という人のところで蘭書の研究を終えて家に帰ったのである。もっとも前章において申し述べておいたように、この高畑の塾というのは江戸の番町にあったのであるが、清軒の家は北新堀で藩の中屋敷にあったのである。しかるに清軒が蘭書を学ぶ頃には反対が多かったので、到底藩学の傍らにこれを習得するというような事は困難であるというので、遂に藩主から暇を請うて 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 高畑の塾に身を投じたものである。そこで帰家の後も、ただ閑居して蘭書の研究に余念がなかったのであるが、何分にもこれを応用すべき時を得ないので、頗る怏々として楽しまなかったのである。その内に病に罹って褥裡の人となったが、また母を喪ったりして悲嘆の結果、余程の重患に陥ったのである。漸くにして、その後病は癒えたが、爾来終に薬餌を断つに至らなかった。 しかるに、その後幕府においては御承知のように軍艦操練所を設けて洋書の読めるものを集め、翻訳方に任じたのである。そこで清軒もまた叔父中島三郎助の推薦でこれに任ぜられることになったのであるが、その時幕府から藩に通達された書付が大河内家の記録に残っている。即ち左のようである。   文久二壬戌年閏八月十三日   一、左の御書付、御用番板倉周防守様へ御留守居御呼出にて御渡し                   松平伊豆守家来                      穂  積  清  七  郎   右、御軍艦操練所翻訳方出役申し付けらるべく候。御扶持方五人扶持一ヶ月金三分宛下され間、その段も申し付けらるべく候。御軍艦奉行談ずべく候 右のような訳で清軒は文久二年八月十三日、幕府の軍艦操練所翻訳方となったのであるが、何分にも当時はまだ蘭学の話などは容易に藩中に容れられないので、藩邸内に家族と雑居しているのも面白くないというところから、妻と共に根岸に別居することと相成ったのである。当時清軒が同僚の近藤、堀江二人と共に軍艦奉行に建白したものがあるが、これもその時代における思想を知る一端となると思うから、左に掲載したいと思う。 【欄外】 豊橋市史談(王政復古と吉田藩)                    五百九十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 594 **Main Text:** You should resolve not to let this opportunity slip away. If you wait ten years to make this decision, it will be too late to accomplish anything. There is an ancient saying that "those who control others first, but delay, will be controlled by others." I believe you should consider this matter deeply. The Shogun's journey to Kyoto next February will likely proceed without incident, but since foreign troubles have also been sown, it is impossible to predict what may happen in several decades. Should a great crisis occur, the Shogun will inevitably become isolated like the Koga Kubō. When that time comes, if Your Lordship maintains military provisions, assists the Shogun, fortifies a strategic position, takes refuge in the castle, quietly waits for the right moment, raises a righteous army, and summons the great and small daimyo who owe gratitude to the Tokugawa house, surely none would fail to come. Gathering these forces, destroying the disobedient, taking Kyoto, driving out the western armies, honoring the Emperor, establishing a Protector office in Kyoto, and returning the Shogun to Kantō - this would make you truly the great loyal retainer of the realm, and Your Lordship would achieve great accomplishments. Rather than failing to undertake such great works and instead vainly defending an isolated castle until committing suicide, which would be lamentable, I humbly submit my unworthy foolish opinion. Many sins, many sins, with fear and trepidation, respectfully submitted. (Hozumi Seiken is appointed to the Shogunal Translation Office) First, we can see that there were people who advocated such arguments, but in contrast, someone like Seiken, the son of Ōta Kinshirō, who was already sixty-eight or sixty-nine years old at this time (around Bunkyū 2-3), was still vigorous and was still submitting memorials with phrases like "When Yao and Shun worried about the people, they used human relationships as their standard; Confucius's learning came from Yao and Shun." Comparing these various viewpoints, one finds the disparity in thought quite fascinating. What I would like to discuss here is the matter of Hozumi Seiken. Regarding Seiken's background, I described his upbringing in the earlier chapter "Foreign Affairs and Yoshida Domain." Seiken completed his Dutch studies under someone named Takahata Gorō, a domain lord of Awa Province, in Man'en 1 (1860) when he was twenty-five, and returned home. As I mentioned in the previous chapter, Takahata's academy was located in Banchō, Edo, while Seiken's home was in the domain's middle residence in Kitashinbori. However, when Seiken was studying Dutch, there was much opposition, making it impossible to pursue these studies alongside domain education. Eventually, he requested leave from the domain lord and **Margin:** Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now the manuscript is nearly complete **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper **Main Text:** enrolled in Takahata's academy. After returning home, he lived in quiet retirement, devoted entirely to Dutch studies, but since he had no opportunity to apply this knowledge, he was quite discontented and unhappy. During this time, he fell ill and became bedridden. He also lost his mother, and as a result of his grief, he fell into serious illness. Eventually he recovered, but from then on he never stopped taking medicine. Later, as you know, the Shogunate established the Naval Training Institute and gathered those who could read Western books to serve as translators. Seiken was also appointed to this position through the recommendation of his uncle Nakajima Saburōsuke. The document sent from the Shogunate to the domain at that time remains in the Ōkōchi family records, as follows: Bunkyū 2, Year of the Water Dog, Intercalary 8th Month, 13th Day 1. The following document was handed over when the domain representative was summoned by Duty Magistrate Itakura Suō-no-kami: Retainer of Matsudaira Izu-no-kami Hozumi Seishichirō The above person shall be appointed to serve in the Naval Training Institute Translation Office. He shall receive a stipend of five-person rations and three bu of gold per month. This shall be arranged. Consult with the Naval Magistrate. Thus Seiken became a translator at the Shogunal Naval Training Institute on the 13th day of the 8th month of Bunkyū 2. However, since talk of Dutch learning was still not easily accepted within the domain at that time, and living together with his family in the domain residence was unpleasant, he and his wife moved to separate lodgings in Negishi. At this time, Seiken, together with his colleagues Kondō and Horie, submitted a memorial to the Naval Magistrate. I believe this also provides insight into the thinking of that era, so I would like to include it below. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 595