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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 34

ページ: 34

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【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十 【本文】       いのである抑(そも〳〵)此(この)宗光(むねみつ)と云ふ人は三 条家(ぜうけ)の庶流(ちよりう)で内大臣(ないだいじん)公保(きみやす)の子であるが一 説(せつ)には大納言(だいなごん)公治(きみはる)の子に        実興(さねおき)と云ふのがあつて此人(このひと)が近江国(あふみのくに)に寓居(ぐきよ)し其子の実光(さねみつ)と云ふ人が初(はじ)めて三河に来(きた)り田原に住(ぢう)して外(がい)        家(け)の号(ごう)十田を冒(おか)し後(のち)に戸田と改(あらた)めたので之(これ)が即(すなは)ち宗光(むねみつ)の父(ちゝ)であるとしてある併(しか)し此説(このせつ)は公卿補任(くげほにん)など       の記事(きじ)から比較(ひかく)してドウモ事実(じじつ)と符号(ふごう)せぬので矢張(はやはり)前説(ぜんせつ)が正(たゞ)しいようである又(ま)た実光(さねみつ)と云ふ名は宗光(むねみつ)        最初(さいしよ)の名(な)であると云ふのは校正余録(こうせいよろく)の説(せつ)であるが之(これ)は従(したが)ふべきであると思(おも)ふ而(しか)して宗光(むねみつ)は最初(さいしよ)尾張国(をはりのくに)        海東郡(かいとうぐん)戸田に住(ぢう)したので戸田氏を名乗(なの)つたのであるという云ふ説(せつ)があるが之(こ)れ亦(ま)た全(まつた)く証拠(せうこ)がないので信(しん)       ずる事が出来(でき)ぬ然(しか)れ共(ども)宗光が三 河国(かはのくに)碧海郡(へきかいぐん)の上野(うへの)に来(きた)り戸田弾正(とだだんぜう)の後(あと)を襲(おそ)ゐて戸田孫次郎と称(せう)し後(のち)に        弾正左衛門尉(だんぜうざゑもんのぜう)と改(あらた)め松平和泉入道信光(まつだひらいづみにふどうのぶみつ)の女を娶(めと)つたと云ふ事は種々(しゆ〴〵)な証拠(せうこ)のある事で余(あま)り繁雑(はんざつ)に渉(わた)る       から一々 此処(こゝ)には論(ろん)ぜぬが信(しん)ずべきであると思(おも)ふ後(のち)宗光(むねみつ)は渥美郡の大津(おほつ)に移(うつ)り住(ぢう)したが之(これ)は浪上(なみのうへ)戸田       氏 家伝(かでん)及びニ三の記録(きろく)にあるので文明八年の事(こと)であるとなつて居る当時(とうじ)田原(たはら)には一 色兵部少輔義遠(しきへうぶせうゆうよしとほ)と       云ふが居(を)つて文明十三年四月朔日に死(し)した人で其事(そのころ)は渥美郡(あつみぐん)大久保(おほくぼ)の長興寺(てうこうじ)並に東観音寺(ひがしかんおんじ)等(とう)の記録(きろく)に       見ゆる処であるが宗光(むねみつ)は又(ま)た此(この)一 色氏(しきし)の後(あと)を享(う)けて初(はじ)めて田原に根拠(こんきよ)を搆(かま)へたのである即(すなは)ち長興寺(てうこうじ)と       云ふ寺(てら)は一色氏 菩提(ぼだい)の為(ため)に文明十四年 宗光(むねみつ)の建立(こんりう)したもので之(こ)れ亦(また)長興寺の記録(きろく)其他(そのた)に載(の)つて居る処       であるかゝる訳(わけ)であるから前(まへ)に述(の)べた如(ごと)く宗光が田原(たはら)に住(ぢう)したのを明応(めいおう)年中(ねんちう)となすのは当(とう)を得(え)ないので       ドウしても之(これ)は文明十三四年頃でなくてはならぬ道理(どうり)になるのである従(したがつ)て明応(めいおう)の初(はじめ)に至つて田原の城       を其子(そのこ)憲光(のりみつ)に譲(ゆづ)り宗光(むねみつ)自身(じしん)には更(さら)に二連木に築城(ちくぜう)して之(これ)に移(うつ)り住(ぢう)したのであると云ふ説(せつ)が有理(もつとも)と思(おも)は       るゝのである之(これ)は矢張(やはり)校正余録(こうせいよろく)の詳論(せうろん)する所であるが此(この)戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)と云ふ書物(しよもつ)は前(まへ)にも屡々(しば〴〵)申(もうし)        述(の)べた如くで吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云うふのも亦(ま)た此(この)書物(しよもつ)中(ちう)の一部であるが合計(ごうけい)十四 冊(さつ)ある総(すべ)て写本(うつしほん)で原本(げんほん)は戸(と) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百三十四号附録   ( 明治四十四年四月十八日発行 ) 【本文】 《割書:戸田家系|校正余録》    田子爵家(だしゝやくけ)(松本侯)の所蔵(しよざう)である天保(てんぽう)年間(ねんかん)戸田家の臣(しん)鈴木重諧(すゝきじうかい)と云ふ人の撰(せん)で十ケ年許りを費(つひや)して居る        様子(ようす)であるが実(じつ)に細密(さいみつ)に調査(てうさ)したもので議論(ぎろん)も概(がい)して正確(せいかく)と認(みと)められるので戸田氏の研究(けんきう)をする人は        是非(ぜひ)一度は参考(さんこう)とする必要(ひつえう)があると思(おも)ふ、サテ此(この)宗光(むねみつ)と云ふ人がまだ碧海郡(へきかいぐん)の上野(うへの)に居(を)つた頃(ころ)寛正(かんせい)六        年(ねん)に松平信光(まつだひらのぶみつ)と共(とも)に三河の一 揆(き)を平(たひら)げた事があるが之(これ)は有名(ゆうめい)な話(はなし)で前章(ぜんせう)にも一寸 申述(もうしの)べて置(を)いたので       ある然(しか)るに其時(そのとき)に述べたのは誠(まこと)に簡単(かんたん)であるのみならず筆記(しつき)の上(うへ)から見(み)ると少(すこ)しく語弊(ごへい)もあつたよう       に思(おも)ふから訂正(ていせい)旁々(かた〴〵)重(かさ)ねて此処(こゝ)に概説(がいせつ)したいと思(おも)ふ蓋し此事(このこと)を記(しる)せるもので最(もつと)も確実(かくじつ)なるは例(れい)の蜷川(にながは)        親元(ちかもと)の日記(につき)であるが此(この)日記(につき)中(ちう)寛正六の処に 親元(ちかもと)を初(はじ)め室町幕府(むろまちばくふ)の伊勢貞親(いせさだちか)並に蜷川淳親(にながはあつちか)等(とう)が宗光と        信光(のぶみつ)とに与(あた)へた奉書(ほうしよ)の文案(ぶんあん)が幾通(いくとほり)も載(の)つて居るのである而(しか)して其中(そのなか)には孰(いづ)れも被官(ひかん)十田弾正左衛門尉(とだだんぜうざゑもんのぜう)        宗光(むねみつ)又(また)は被官(ひかん)松平和泉入道(まつだひらいづみにふどう)と云ふように書(か)いてある然(しか)るに今川記(いまがはき)には此(この)両人(れうにん)の事(こと)を三河国の御家人(ごけにん)と        記(しる)してあるので藩翰譜(はんかんふ)などにも説(せつ)があるが兎(と)に角(かく)之(これ)は室町幕府(むろまちばくふ)から云ふと御家人(ごけにん)で而(しか)して伊勢貞親(いせさだちか)の        被官(ひかん)であつたと云ふのが定説(ていせつ)のようである殊(こと)に宗光(むねみつ)は寛正(かんせい)六年四月の十七日には京都(けうと)に上(のぼ)つて室町幕(むろまちばく)        府(ふ)の御供衆(おんともしう)伊勢兵庫貞宗(いせへうごさだむね)に行逢(ゆきあ)つて居る其時(そのとき)に蜷川掃部助淳親(にながはかもんのすけあつちか)から其(その)領地(れうち)三 河国(かはのくに)額田郡(ぬかたぐん)大平(おほひら)の代官(だいかん)を 《割書:寛正六年|三河一揆》    托(たく)せられたのである然(しか)るに三河の国侍(こくじ)丸山中務丞(まるやまなかつかさぜう)大庭次郎左衛門(おほばじらうざゑもん)などゝ云ふ者(もの)等(ら)が額田郡(ぬかたぐん)の井(ゐ)の口(くち)と       云ふ処に立(た)て籠(こも)つて狼藉(ろうぜき)を働(はたら)いたので当時(とうじ)の守護(しゆご)細川成之(ほそかはなりゆき)から兵を出して之(これ)を攻(せ)め落(おと)し丸山(まるやま)は此時(このとき)打(うち)        死(じに)したが其他(そのた)の大将株(たいせうかぶ)のものは勿論(もちろん)余党(よとう)が散乱(さんらん)して容易(ようい)に始末(しまつ)が付(つ)かぬ其上(そのうへ)宗光(むねみつ)と信光(のぶみつ)とは寧(むし)ろ之(これ)等(ら)       のものを隠匿(ゐんとく)する疑(うたがひ)があると云ふので細川成之(ほそかはなりゆき)から伊勢貞親(いせさだちか)の処へ依頼(いらい)になつたソコで五月の廿六日       付を以(もつ)て貞親(さだちか)から其(その)追捕(つひほ)の事を宗光(むねみつ)信光(のぶみつ)両人(れうにん)へ申送(もうしおく)り更(さら)に淳親(あつちか)からも宗光へ申送つたので余党(よとう)の内(うち)丸(まる)        山(やま)某(なにがし)は大平(おほひら)に於て宗光の為(ため)に討たれ大庭(おほば)は深溝(ふかみぞ)に於(おい)て信光の手で討取(うちと)られ宗光(むねみつ)信光(のぶみつ)から其(その)首(くび)を京都(けうと)に 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十 【本文】 いのである。そもそもこの宗光という人は三条家の庶流で、内大臣公保の子であるが、一説には大納言公治の子に実興というのがあって、この人が近江国に寓居し、その子の実光という人が初めて三河に来て田原に住し、外家の号十田を冒し、後に戸田と改めたので、これが即ち宗光の父であるとしてある。しかしこの説は公卿補任などの記事から比較してどうも事実と符合しないので、やはり前説が正しいようである。また実光という名は宗光の最初の名であるというのは校正余録の説であるが、これは従うべきであると思う。而して宗光は最初尾張国海東郡戸田に住したので戸田氏を名乗ったのであるという説があるが、これまた全く証拠がないので信ずる事が出来ぬ。然れども宗光が三河国碧海郡の上野に来て戸田弾正の後を襲いて戸田孫次郎と称し、後に弾正左衛門尉と改め、松平和泉入道信光の女を娶ったという事は種々な証拠のある事で、余り繁雑に渉るから一々ここには論ぜぬが、信ずべきであると思う。後、宗光は渥美郡の大津に移り住したが、これは浪上戸田氏家伝及び二三の記録にあるので文明八年の事であるとなっている。当時田原には一色兵部少輔義遠というのが居て、文明十三年四月朔日に死した人で、その事は渥美郡大久保の長興寺並びに東観音寺等の記録に見える処であるが、宗光はまたこの一色氏の後を享けて初めて田原に根拠を構えたのである。即ち長興寺という寺は一色氏菩提のために文明十四年宗光の建立したもので、これまた長興寺の記録その他に載っている処である。かかる訳であるから、前に述べた如く宗光が田原に住したのを明応年中とするのは当を得ないので、どうしてもこれは文明十三四年頃でなくてはならぬ道理になるのである。従って明応の初に至って田原の城をその子憲光に譲り、宗光自身はさらに二連木に築城してこれに移り住したのであるという説が有理と思われるのである。これはやはり校正余録の詳論する所であるが、この戸田家系校正余録という書物は前にも屡々申し述べた如くで、吉田城主考というのもまたこの書物中の一部であるが、合計十四冊ある。すべて写本で原本は戸 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百三十四号附録   (明治四十四年四月十八日発行) 【本文】 《割書:戸田家系校正余録》 田子爵家(松本侯)の所蔵である。天保年間戸田家の臣鈴木重諧という人の撰で、十ケ年許りを費やしている様子であるが、実に細密に調査したもので、議論も概して正確と認められるので、戸田氏の研究をする人は是非一度は参考とする必要があると思う。さてこの宗光という人がまだ碧海郡の上野に居った頃、寛正六年に松平信光と共に三河の一揆を平げた事があるが、これは有名な話で前章にも一寸申し述べて置いたのである。然るにその時に述べたのは誠に簡単であるのみならず、筆記の上から見ると少しく語弊もあったように思うから、訂正旁々重ねてここに概説したいと思う。 けだしこの事を記せるもので最も確実なるは例の蜷川親元の日記であるが、この日記中寛正六の処に親元を初め室町幕府の伊勢貞親並びに蜷川淳親等が宗光と信光とに与えた奉書の文案が幾通も載っているのである。而してその中にはいずれも被官十田弾正左衛門尉宗光又は被官松平和泉入道というように書いてある。然るに今川記にはこの両人の事を三河国の御家人と記してあるので藩翰譜などにも説があるが、とにかくこれは室町幕府から云うと御家人で、而して伊勢貞親の被官であったというのが定説のようである。殊に宗光は寛正六年四月の十七日には京都に上って室町幕府の御供衆伊勢兵庫貞宗に行逢っている。その時に蜷川掃部助淳親からその領地三河国額田郡大平の代官を 《割書:寛正六年三河一揆》 託せられたのである。然るに三河の国侍丸山中務丞、大庭次郎左衛門などという者等が額田郡の井の口という処に立て籠もって狼藉を働いたので、当時の守護細川成之から兵を出してこれを攻め落とし、丸山はこの時打ち死にしたが、その他の大将株のものは勿論余党が散乱して容易に始末が付かぬ。その上宗光と信光とは寧ろこれ等のものを隠匿する疑いがあるというので、細川成之から伊勢貞親の処へ依頼になった。そこで五月の廿六日付を以て貞親からその追捕の事を宗光、信光両人へ申し送り、さらに淳親からも宗光へ申し送ったので、余党の内丸山某は大平において宗光のために討たれ、大庭は深溝において信光の手で討ち取られ、宗光、信光からその首を京都に 【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十一

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          40 【Main text】 Indeed. Now, this person Munemitsu was from a branch family of the Sanjō house, being the son of Inner Minister Kimiyasu, but one theory states that Dainagon Kimiharu had a son named Saneoki, who took up residence in Ōmi Province, and this person's son, Sanemitsu, was the first to come to Mikawa and live in Tahara, adopting the maternal family name "Toda" (originally written as "Jūda") and later changing it to Toda, making him Munemitsu's father. However, when compared with records such as the Kuge Bunin, this theory does not seem to correspond with the facts, so the previous theory appears to be correct. Also, the theory that Sanemitsu was Munemitsu's original name is found in the Kōsei Yoroku, and I think this should be accepted. There is also a theory that Munemitsu first lived in Toda in Kaitō District, Owari Province, and thus took the name Toda clan, but this also has absolutely no evidence and cannot be believed. However, that Munemitsu came to Ueno in Hekikai District, Mikawa Province, succeeded to the position of Toda Danjō, called himself Toda Magojirō, later changed to Danjō Saemon-no-jō, and married a daughter of Matsudaira Izumi Nyūdō Nobumitsu is supported by various evidence. Since it would be too complicated to discuss each point here, I won't elaborate, but I believe it should be accepted. Later, Munemitsu moved to Ōtsu in Atsumi District, and according to the Namiue Toda clan family records and two or three other records, this occurred in Bunmei 8. At that time, there was someone named Isshiki Hyōbu-shōyū Yoshitō living in Tahara, who died on the first day of the fourth month of Bunmei 13. This is recorded in the records of Chōkōji temple in Ōkubo, Atsumi District, and Higashi-Kannon-ji temple, among others. Munemitsu then succeeded the Isshiki clan and first established his base in Tahara. Namely, the temple called Chōkōji was built by Munemitsu in Bunmei 14 for the repose of the Isshiki clan, which is also recorded in the records of Chōkōji and elsewhere. For these reasons, as I mentioned before, dating Munemitsu's residence in Tahara to the Meiō period is inappropriate, and it must logically be around Bunmei 13-14. Therefore, the theory that at the beginning of the Meiō period he handed over Tahara Castle to his son Norimitsu while Munemitsu himself built a new castle at Ninrengi and moved there seems reasonable. This is what the Kōsei Yoroku discusses in detail, and this book called "Toda Family Lineage Correction Records," as I have mentioned repeatedly before, includes the "Study of Yoshida Castle Lords" as one part, totaling fourteen volumes. They are all manuscript copies, and the original is in the possession of the Toda 【Left page】 【Margin】 San'yō Shinpō No. 3734 Supplement   (Published April 18, Meiji 44) 【Main text】 《Side note: Toda Family Lineage Correction Records》 Viscount family (Matsumoto lord). It was compiled during the Tenpō period by a retainer of the Toda house named Suzuki Jūkai, who seems to have spent about ten years on it. It is an extremely detailed investigation, and the arguments are generally recognized as accurate, so I think anyone studying the Toda clan should definitely refer to it at least once. Now, when this person Munemitsu was still living in Ueno, Hekikai District, he joined with Matsudaira Nobumitsu in Kanshō 6 to suppress a Mikawa uprising. This is a famous story that I briefly mentioned in the previous chapter. However, what I described then was truly simple, and looking at the written record, there seem to have been some misstatements, so I would like to make corrections and provide an overview here again. Indeed, the most reliable record of this matter is the diary of the famous Ninagawa Chikamoto. In this diary, in the section for Kanshō 6, there are many drafts of official documents that Chikamoto and others from the Muromachi shogunate, including Ise Sadachika and Ninagawa Atsuchika, sent to Munemitsu and Nobumitsu. In all of these, they are written as "retainer Toda Danjō Saemon-no-jō Munemitsu" or "retainer Matsudaira Izumi Nyūdō." However, the Imagawa-ki records these two as "gokenin of Mikawa Province," so there are theories in the Hankanfu and elsewhere, but in any case, from the Muromachi shogunate's perspective, they were gokenin and retainers of Ise Sadachika, which seems to be the established theory. In particular, on the seventeenth day of the fourth month of Kanshō 6, Munemitsu went up to Kyoto and met with Ise Hyōgo Sadamune, an attendant of the Muromachi shogunate. At that time, he was entrusted by Ninagawa Kamon-no-suke Atsuchika with the position of deputy administrator of his domain, Ōhira in Nukata District, Mikawa Province. 《Side note: Kanshō 6 Mikawa Uprising》 However, Mikawa provincial warriors such as Maruyama Nakatsukasamaru and Ōba Jirōzaemon and others fortified themselves at a place called Inokuchi in Nukata District and committed violent acts. The guardian at the time, Hosokawa Nariyuki, sent troops to attack and defeat them. Maruyama was killed in battle at this time, but the other leaders and of course the remaining party scattered and were difficult to deal with. Moreover, there was suspicion that Munemitsu and Nobumitsu were rather hiding these people, so Hosokawa Nariyuki made a request to Ise Sadachika. Therefore, on the twenty-sixth day of the fifth month, Sadachika sent word to both Munemitsu and Nobumitsu about pursuing them, and Atsuchika also sent word to Munemitsu. As a result, among the remaining party, a certain Maruyama was killed by Munemitsu at Ōhira, Ōba was captured and killed by Nobumitsu's forces at Fukamizo, and Munemitsu and Nobumitsu sent their heads to Kyoto. 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          41