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【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十二
【本文】
送(おく)つたと云ふのが事実(じじつ)の大要(たいえう)である余(あま)り複雑(ふくざつ)になるから一々 之(これ)に関(かん)する文書(ぶんしよ)は掲(かゝ)げぬが此事(このこと)に就ては
諸家(しよけ)の系図(けいづ)に事実の真相(しんさう)を間違(まちが)へて居る処が多いから其(その)大要(たいえう)を述(の)べたのであるモツトモ精細(せいさい)の事は直(ちよく)
接(せつ)親元日記にある文書(ぶんしよ)等(とう)に就て研究(けんきう)すれば自然(しぜん)分明(ぶんめい)になる事と思ふ又(ま)た宗光(むねみつ)の氏(うぢ)を十田と書(か)いてある
十田と戸田 事であるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)其他(そのた)にも之は初(はじ)め十田と称(せう)して後(のち)に戸田と改(あらた)めたのであると記(しる)してある併(しか)
し之は余(あま)り堅(かた)くなり過(す)ぎた説(せつ)であると思ふ当時(とうじ)はかゝる事には殆(ほとん)ど頓着(とうちやく)しなかつたもので勝手(かつて)に当(あ)て
字(じ)を用(もち)いたのである今川義元(いまがはよしもと)を吉光(よしみつ)と書いたのもあればモツト後世(こうせい)で池田輝政(いけだてるまさ)を照政(てるまさ)としたものもある
恐(おそら)くは此(この)類(るい)であろうと思ふ即ち校正余録(こうせいよろく)なども此(この)説(せつ)を取(と)つて居るのである尚(なほ)此処(こゝ)に一寸 御断(おことは)りして置(お)
きたいのは「今橋築城(いまはしちくぜう)と牧野古白(まきのこはく)」と云ふ処で私(わたくし)が此(この)件(けん)に就(つい)て一寸申述べた中(なか)に「此十田と云ふのは当(とう)
時(じ)田原(たはら)に居つた戸田の事(こと)で」となつて居(を)るが当時(とうじ)宗光(むねみつ)はまだ碧海郡(へきかいぐん)の上野城(うへのぜう)に居つたことは前(まへ)にも申述(もうしの)
べた通(とほ)りであるからそれは「当時(とうじ)」とあるのを「其後(そのご)」と訂正(ていせい)して貰(もら)ひたいのである然(しか)るに此(この)宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の年
《割書:宗光逝去の|年月》 月であるが之(これ)は疑問(ぎもん)であつて寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初め諸種(しよしゆ)の系譜(けいふ)には概(おほむ)ね永正五年六月十九日 田原(たはら)に於(おい)
て死(し)すとなつて居るが之(これ)は誤(あやま)りで明応(めいおう)八年五月三日より翌九年七月までの間(あひだ)に逝去(せいきよ)したものであると
云ふのが校正余録(こうせいよろく)の説(せつ)であるそれは何故(なにゆへ)であるかと云ふに明応(めいおう)八年五月三日にはまだ宗光(むねみつ)の名(な)を以(もつ)て
長興寺(てうこうじ)に出した文書(ぶんしよ)があるから当時(とうじ)宗光(むねみつ)は未だ生存(せいぞん)して居つたものと信(しん)ぜられる然(しか)るに其(その)翌年(よくねん)の七月
に其子の憲光(のりみつ)が同寺(どうじ)へ納(をさ)めた板本(はんほん)法華経(ほけけふ)の奥書(おくがき)に
先者全久、夙有願力関妙経之板、厥功末終逝矣、憲光紹家業、而護終其志也、盖酬罔極之恩者也
(下略)
明応九年七月 日 弾正忠藤原憲光敬誌
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【本文】
とあつて尾張国(をはりのくに)知多郡(ちたぐん)羽豆神社(はねづじんしや)の棟札(むなふだ)にも
明応九年庚申八月十二日 願主 藤原朝臣田原弾正忠憲光
と云ふのがある之(これ)によつて見(み)れば明応九年七月には早や宗光(むねみつ)は逝去(せいきよ)した後で憲光(のりみつ)が其後(そののち)を継(つ)いたもの
であると云ふ事は証明(せうめい)さるゝのである私(わたくし)はまだ暇(ひま)がないので此(この)経文(けふもん)も棟札(むなふだ)も実見(じつけん)はせぬのであるが如(い)
何(か)にも此(この)説(せつ)は確(たしか)なるものと信(しん)ぜられる従(したがつ)て明応九年を去(さ)ること九年後の永正五年に宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)せりとの説(せつ)
は誤(あやまり)であると思(おも)ふのである
全久院 ソコで申述(もうしの)べたいのは全久院(ぜんきうゐん)と云ふ寺(てら)の事である全久院(ぜんきうゐん)と云ふ寺は今(いま)も尚(な)ほ二 連木(れんぎ)にあるが元来(がんらい)全久(ぜんきう)
と云ふ名(な)は宗光(むねみつ)の法名(はうめい)であるから此(この)寺(てら)が宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)其(その)菩提(ぼだい)の為に建立(こんりう)せられたものである事は推測(すいそく)
せらるゝのであつて之(これ)には異説(ゐせつ)はないが其(その)建立(こんりう)の時代(じだい)に就(つい)ては中々(なか〳〵)議論(ぎろん)がある寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には之
を冝光(よしみつ)の開基(かいき)としてあつて全久院(ぜんきうゐん)の記録(きろく)の或(ある)ものには弘治(こうぢ)二年 戸田全香(とだぜんこう)の創建(さうけん)であるとしてある全香(ぜんこう)
とは即(すなは)ち冝光(よしみつ)の法名(ほうめい)である然(しか)るに此(この)説(せつ)に就ては大(だい)なる疑問(ぎもん)を挟(さしはさ)まねばならぬと云ふのは元来(がんらい)宗光(むねみつ)の菩(ぼ)
提(だい)の為(ため)に寺を起(おこ)すなれば先(ま)づ其子(そのこ)の憲光(のりみつ)がなさねばならぬと思(おも)ふ殊(こと)に憲光(のりみつ)相続(さうぞく)の時代(じだい)は戸田氏は頗(すこぶ)る
勢(いきほひ)のよい時で寺(てら)の一つ位(ぐらい)建立(こんりう)するのは強(あなが)ちに困難(こんなん)なる事業(じげう)とも思(おも)はれない然(しか)るを五十余年の後(のち)に至
つて其(その)玄孫(げんそん)が初(はじ)めてこれ建立(こんりう)すると云ふのは如何(いか)にも受取(うけと)れぬ事である加之(しかのみならす)全久院(ぜんきうゐん)の記録(きろく)の或(ある)るも
のには大永三未年正月十一日の創建(さうけん)だと書(か)いてある之(これ)も到底(とうてい)信(しん)ぜられぬ説(せつ)であるが抑(そも〳〵)此(この)全久院(ぜんきうゐん)の住(ぢう)
光国禅師 僧(そう)と云ふのは最初(さいしよ)が光国禅師(こうこくぜんし)で此人は自(みづつ)ら二世と称(せう)して其師(そのし)の克補和尚(こくほおせう)を以て開山(かいざん)と呼(よ)むでは居るが
克補和尚(こくほおせう)は住職(ぢうしよく)したものではない而(しか)して光国(こうこく)の次(つぎ)が三世 巧安和尚(こうあんおせう)其(その)次(つぎ)が四世の栄歳和尚(えいさいおせう)であるソコで
三世の巧安(こうあん)は天文廿一年十月朔日の入寂(にふせき)であることは過去帳(くわこてう)の記する処である天文廿一年は弘治(こうぢ)二 年(ねん)よ
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十二
【本文】
送ったというのが事実の大要である。あまり複雑になるから一々これに関する文書は掲げないが、この事については諸家の系図に事実の真相を間違えている処が多いから、その大要を述べたのである。もっとも精細の事は直接親元日記にある文書等について研究すれば自然分明になる事と思う。また宗光の氏を十田と書いてある事であるが、寛政重修諸家譜その他にもこれは初め十田と称して後に戸田と改めたのであると記してある。しかしこれは余り堅くなり過ぎた説であると思う。当時はかかる事には殆ど頓着しなかったもので、勝手に当て字を用いたのである。今川義元を吉光と書いたのもあれば、もっと後世で池田輝政を照政としたものもある。恐らくはこの類であろうと思う。即ち校正余録などもこの説を取っているのである。
なおここに一寸お断りして置きたいのは「今橋築城と牧野古白」という処で、私がこの件について一寸申し述べた中に「この十田というのは当時田原に居った戸田の事で」となっているが、当時宗光はまだ碧海郡の上野城に居ったことは前にも申し述べた通りであるから、それは「当時」とあるのを「その後」と訂正してもらいたいのである。
然るにこの宗光逝去の年月であるが、これは疑問であって、寛政重修諸家譜を初め諸種の系譜には概ね永正五年六月十九日田原において死すとなっているが、これは誤りで明応八年五月三日より翌九年七月までの間に逝去したものであるというのが校正余録の説である。それは何故であるかというに、明応八年五月三日にはまだ宗光の名を以て長興寺に出した文書があるから、当時宗光は未だ生存していたものと信じられる。然るにその翌年の七月にその子の憲光が同寺へ納めた板本法華経の奥書に
「先者全久、夙有願力関妙経之板、厥功末終逝矣、憲光紹家業、而護終其志也、蓋酬罔極之恩者也」
(下略)
明応九年七月 日 弾正忠藤原憲光敬誌
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其の該博なる智識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際
【左頁】
【本文】
とあって、尾張国知多郡羽豆神社の棟札にも
「明応九年庚申八月十二日 願主 藤原朝臣田原弾正忠憲光」
というのがある。これによって見れば明応九年七月には早や宗光は逝去した後で、憲光がその後を継いだものであるという事は証明されるのである。私はまだ暇がないのでこの経文も棟札も実見はしないのであるが、いかにもこの説は確かなるものと信じられる。従って明応九年を去ること九年後の永正五年に宗光逝去せりとの説は誤りであると思うのである。
そこで申し述べたいのは全久院という寺の事である。全久院という寺は今もなお二連木にあるが、元来全久という名は宗光の法名であるから、この寺が宗光逝去の後その菩提のために建立されたものである事は推測されるのであって、これには異説はないが、その建立の時代については中々議論がある。寛政重修諸家譜にはこれを宜光の開基としてあって、全久院の記録の或るものには弘治二年戸田全香の創建であるとしてある。全香とは即ち宜光の法名である。然るにこの説については大なる疑問を挟まねばならないというのは、元来宗光の菩提のために寺を起すなれば先ずその子の憲光がなさねばならぬと思う。殊に憲光相続の時代は戸田氏は頗る勢のよい時で、寺の一つ位建立するのは強ち困難なる事業とも思われない。然るを五十余年の後に至ってその玄孫が初めてこれを建立するというのは如何にも受け取れぬ事である。加之、全久院の記録の或るものには大永三未年正月十一日の創建だと書いてある。これも到底信じられない説であるが、そもそもこの全久院の住僧というのは最初が光国禅師で、この人は自ら二世と称してその師の克補和尚を以て開山と呼んではいるが、克補和尚は住職したものではない。而して光国の次が三世巧安和尚、その次が四世の栄歳和尚である。そこで三世の巧安は天文二十一年十月朔日の入寂であることは過去帳の記する処である。天文二十一年は弘治二年よ
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十三
英語訳
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Ninrengi Castle and the Toda Clan) 42
【Main text】
This is the general outline of the facts regarding sending them to Kyoto. Since it becomes too complicated, I will not present all the related documents here, but I have described the main points because many family genealogies contain errors about the true facts of this matter. For more detailed information, I believe it would become naturally clear through direct study of the documents in Chikamoto's diary and others. Regarding the matter of writing Munemitsu's clan name as "Jūda," the Kansei Chōshū Shokafu and other sources record that it was initially called Jūda and later changed to Toda. However, I think this is too rigid an explanation. At that time, people paid little attention to such matters and freely used phonetic characters. There are examples of Imagawa Yoshimoto being written as Yoshimitsu, and even later, Ikeda Terumasa being written as Terumasa. This is probably of the same type. The Kōsei Yoroku also adopts this theory.
I would like to make a brief correction here regarding the section "The Construction of Imahashi and Makino Kohaku," where I briefly mentioned this matter, stating "this Jūda refers to the Toda who were in Tahara at that time." However, as I mentioned before, at that time Munemitsu was still at Ueno Castle in Hekikai District, so I would like that "at that time" to be corrected to "later."
Now, regarding the year and month of Munemitsu's death, this is questionable. The Kansei Chōshū Shokafu and various other genealogies generally state that he died at Tahara on the nineteenth day of the sixth month of Eishō 5, but this is an error. According to the Kōsei Yoroku theory, he died sometime between the third day of the fifth month of Meiō 8 and July of the following ninth year. The reason for this is that there is still a document issued by Munemitsu to Chōkōji temple on the third day of the fifth month of Meiō 8, so it is believed that Munemitsu was still alive at that time. However, in July of the following year, in the postscript to the woodblock-printed Lotus Sutra that his son Norimitsu donated to the same temple, it says:
"The late Zenkyū had long cherished the wish to create woodblocks of the Wonderful Sutra, but passed away before completing this work. Norimitsu succeeded to the family business and fulfilled his father's will, thus repaying infinite kindness."
(Abbreviated below)
July, Meiō 9 Danjōchū Fujiwara Norimitsu respectfully records
【Margin】
□Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript is nearly complete
【Left page】
【Main text】
And there is also a ridge-beam inscription at Hanezu Shrine in Chita District, Owari Province that reads:
"Meiō 9, year of Kōshin, eighth month, twelfth day Patron Fujiwara no Ason Tahara Danjōchū Norimitsu"
From this, it can be proven that by July of Meiō 9, Munemitsu had already passed away and Norimitsu had succeeded him. Although I have not yet had time to personally examine these sutras and ridge-beam inscriptions, this theory certainly seems reliable. Therefore, I believe the theory that Munemitsu died in Eishō 5, nine years after Meiō 9, is incorrect.
Now I would like to discuss the matter of the temple called Zenkyūin. The temple called Zenkyūin still exists in Ninrengi today, but since Zenkyū was originally Munemitsu's Buddhist name, it can be inferred that this temple was built after Munemitsu's death for the repose of his soul. There is no disagreement about this, but there is considerable debate about when it was built. The Kansei Chōshū Shokafu attributes its founding to Yoshimitsu, and some records of Zenkyūin state that it was established by Toda Zenkō in Kōji 2. Zenkō is Yoshimitsu's Buddhist name. However, great doubt must be cast on this theory because if a temple were to be built for Munemitsu's spiritual repose, it should first have been done by his son Norimitsu. Particularly during Norimitsu's succession, the Toda clan was quite prosperous, and building a single temple would not have been an especially difficult undertaking. For his great-great-grandson to first build it over fifty years later is quite unacceptable. Moreover, some records of Zenkyūin state that it was founded on the eleventh day of the first month of Daiei 3. This is also an unbelievable theory. Now, the head priest of this Zenkyūin was initially Zen Master Kōkoku, who called himself the second generation and referred to his teacher, Priest Kokuho, as the founding abbot, but Priest Kokuho never actually served as head priest. After Kōkoku came the third generation, Priest Kōan, and after him the fourth generation, Priest Eisai. The third generation Kōan died on the first day of the tenth month of Tenbun 21, as recorded in the death register. Tenbun 21 is earlier than Kōji 2
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Ninrengi Castle and the Toda Clan) 43