Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 36

ページ: 36

翻刻

【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十四 【本文】       り五年前であるから全久院(ぜんきうゐん)の創立(さうりつ)が弘治二年では三世 巧安(こうあん)の住職(ぢうしよく)した日はない訳(わけ)になるので従(したがつ)て此(この)説(せつ)       は益々(ます〳〵)信(しん)ぜられぬ事になるそれのみならず二世の光国(こうこく)は全久院(ぜんきうゐん)を三世の巧安(こうあん)に譲(ゆづ)つた後(のち)信濃国(しなのゝくに)に瑞光(ずゐこう)       院(ゐん)渥美郡(あつみぐん)振草(ふりくさ)に長養院(てうようゐん)と云ふ寺を開(ひら)いて居るがこ此(この)長養院(てうようゐん)にあつた古鐘(かね)は天文十一年 巧安(こうあん)の鋳(い)る処で光       国の銘(めい)であると云ふことが全久院(ぜんきうゐん)十七世 万里和尚(ばんりおせう)の説(せつ)に記(しる)されて居る而(しか)して信濃国(しなのゝくに)下伊那郡(しもいなぐん)新野村(にひのむら)の二        善寺(ぜんじ)と云ふ寺に存(ぞん)して居る棟札(むなふだ)には         肯天文二年癸巳菊月初六日前永平 瑞光現住光国舜玉叟書(●●●●●●●●●●)      と云ふのがある之等(これら)の事実(じじつ)に依(よ)れば長養院(てうようゐん)の出来(でき)たのが少(すくな)くも天文十一年 以前(いぜん)で光国(こうこく)が瑞光院(ずいこうゐん)に移(うつ)つ      たのは天文二年 以前(いぜん)になるので従(したがつ)て此時(このとき)全久院(ぜんきうゐん)は既(すで)に三世 巧安(こうあん)の代(だい)であるから全久院が天文二年より       も尚(なほ)ズツト以前(いぜん)から存在(ぞんざい)したものであると云ふ事は証拠(せうこ)立(だ)てられるのである尚(なほ)其上(そのうへ)に此説(このせつ)を有力(ゆうりよく)なら     しむるのは全久院(ぜんきうゐん)に現存(げんぞん)せる光国(こうこく)自写(じしや)の仏書(ぶつしよ)で其(その)多(おほ)くは永正(えいせう)年間(ねんかん)のものである之等の点から推測(すいそく)する       と矢張(やはり)全久院の建立(こんりう)は前に申述べた如く冝光(よしみつ)の創建(さうけん)ではなくて宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)其子(そのこ)の憲光(のりみつ)が父(ちゝ)の為に建(こん)        立(りう)したので其(その)年代(ねんだい)は明応(めいおう)の末年(まつねん)又は永正の初年にありとするのが穏当(おんとう)であると信(しん)ぜられるのである従(したがつ)       て此(この)事実(じじつ)から論及(ろんきう)する縁故(えんこ)のない処に寺を建(た)つる筈(はづ)はないから二 連木城(れんぎぜう)こそ全久院(ぜんきうゐん)の創建(さうけん)以前(いぜん)即(すなは)ち 《割書:全久院と二|連木城との》   少(すくな)く共(とも)明応(めいおう)の初年(しよねん)に方(あた)つて宗光の築(きづ)いたものでそれを天文十年に至(いた)つて冝光(よしみつ)が修築(しうちく)したのであると云 《割書:関係|  》    ふ説(せつ)が正(たゞ)しいように信(しん)ぜられるのであるモツトモ全久院(ぜんきうゐん)に対(たい)しても冝光(よしみつ)住居(ぢうきよ)の後(のち)大(おほい)に伽藍(がらん)を興(おこ)したも       ので夫(それ)は又た証拠(せうこ)のある事(こと)であるがら其(その)修築(しうちく)の時が即(すなは)ち弘治二年であつたものと信(しん)ぜられるのである       サテ宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)は前に述べた如く憲光(のりみつ)が田原を襲(つ)いだのであるが此人(このひと)は弾正忠(だんぜうちう)と称(とな)へたので永正三       年 今橋(いまはし)が落城(らくぜう)して牧野古白(まきのこはく)戦死(せんし)の時は即(すなは)ち此人(このひと)が田原の城主(ぜうしゆ)であつたのである然(しか)るに落城(らくぜう)後(ご)の今橋(いまはし)は 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百四十号附録   ( 明治四十四年四月二十五日発行 ) 【本文】       戸田金七郎と云ふ人が守(まも)つたので此(この)金(きん)七 郎(らう)は即ち憲光(のりみつ)の二 男(なん)であると云ふ事は諸種(しよしゆ)の記録(きろく)に見ゆる処 戸田憲光  であるが其頃(そのころ)の戸田氏は余程(よほど)盛(さかん)であつたもので藩翰譜(はんかんふ)にも創業記(さうげうき)を引(ひ)いて「田原(たはら)を初(はじ)め二 連木(れんぎ)今橋(いまはし)等(とう)       の城(しろ)を併(あわ)せ領(れう)して其(その)嫡男(ちようなん)右近尉(うこんのぜう)政光(まさみつ)は二連木にあり二 男(なん)金七は今橋(いまはし)にあり」と云ふように記(しる)されてあ       る而(しか)して此(この)憲光(のりみつ)と云ふ人は法名(ほうめい)を全忠(ぜんちう)と云つたが一 般(ぱん)に永正十年十一月朔日 田原(たはら)に於(おい)て逝去(せいきよ)し矢張(やはり)長(てう) 戸田政光   興寺(こうじ)に葬(ほうむ)つたことに伝(つた)へられて居る併(しか)し事実(じじつ)は永正十三年から仝十五年の間(あひだ)の頃(ころ)に田原城(たはらぜう)をば其子(そのこ)の右(う)        近尉(こんのぜう)政光(まさみつ)に譲(ゆづ)つて自(みづか)らは知多郡(ちたぐん)の河和(かはわ)に移(うつ)り住(ぢう)し其処(そこ)にて逝去(せいきよ)したもので少(すくな)くも大永七年迄は存生(ぞんせい)し       たのである今(いま)も尚(な)ほ河和(かはわ)に全忠寺(ぜんちうじ)と云ふのがあつて之(これ)は政光(まさみつ)が父(ちゝ)の為(ため)に建立(こんりう)したものであるとの事で       あるかゝる次第(しだい)で政光(まさみつ)は父に継(つい)で田原城(たはらぜう)の主(しゆ)となつたが程(ほど)なく渥美郡(あつみぐん)の仁崎(にさき)に隠居(ゐんきよ)して田原をば其子(そのこ) 戸田康光  の弾正小弼康光(だんぜうせうひつやすみつ)に譲(ゆづ)つたのである然(しか)るに前章(ぜんせう)にも申述(もうしの)へた如く大永の初年(しよねん)に当(あた)て古白(こはく)の子(こ)成三(しげかづ)等(ら)が起(おこ)       つて再(ふたゝ)び今橋城を取(と)つたので金七郎は止(や)むを得(え)ず此処(こゝ)を退(しりぞ)くに至(いた)つたのであるが其後(そのご)牧野氏(まきのし)の勢力(せいりよく)は        漸(やうや)く強大(けうだい)となつたので戸田氏に於(おい)ても寧(むし)ろ之(これ)と和(わ)を結(むす)むだ様子(ようす)が見へる然(しか)るに享禄(けうろく)二年に至つて牧野(まきの)        氏(し)の一 族(ぞく)は松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に敗亡(はいぼう)に皈(き)するに至つたのであるが元来(がんらい)此(この)田原(たはら)の戸田氏と松平氏(まつだひらし)とは親密(しんみつ)な       間柄(あひだがら)で前にも申述(もうしの)べて置いた通りであるから宗光(むねみつ)以来(いらい)両者(れうしや)間(かん)の和親(わしん)は変(かは)る事がなく現(げん)に文亀(ぶんき)元年(がんねん)大樹(だいじゆ)        寺(じ)の連書(れんしよ)と云ふ有名(ゆうめい)な文書(ぶんしよ)の中には田原孫次郎家光(たはらまごじらういへみつ)と云ふのが松平家(まつだひらけ)一 統(とう)の中に加(くは)はつて連署(れんしよ)して居       るのである此(この)家光(いへみつ)と云ふ人に就(つい)ては説(せつ)があるが憲光(のりみつ)の兄弟(けうだい)であると云ふのが正(たゞ)しい様(よう)に思(おも)ふ兎(と)に角(かく)此(かく)       の如(ごと)き訳(わけ)であつたが永正(えいせう)三年今川氏の侵入(しんにう)に方(あた)つては憲光(のりみつ)が初(はじ)めて之(これ)に加担(かたん)したので一時は松平氏と        敵味方(てきみかた)の事になつたが程(ほど)なく松平今川二氏の間(あひだ)が和睦(わぼく)になつたから松平(まつだひら)戸田(とだ)二 氏(し)の間(あひだ)も自然(しぜん)旧態(きうたい)に復(ふく)       したのである然(しか)るに松平氏は長親(ながちか)の子(こ)信忠(のぶたゞ)の代(だい)となつて国人(こくじん)が服(ふく)せざる状態(じやうたい)であつたから此(この)二 家(け)の間 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十四 【本文】 り五年前であるから、全久院の創立が弘治二年では三世巧安の住職した日はない訳になるので、従ってこの説は益々信じられない事になる。それのみならず二世の光国は全久院を三世の巧安に譲った後、信濃国に瑞光院、渥美郡振草に長養院という寺を開いているが、この長養院にあった古鐘は天文十一年巧安の鋳る処で光国の銘であるということが全久院十七世万里和尚の説に記されている。そして信濃国下伊那郡新野村の善寺という寺に存している棟札には 「天文二年癸巳菊月初六日前永平瑞光現住光国舜玉叟書」 というのがある。これらの事実によれば、長養院の出来たのが少なくも天文十一年以前で、光国が瑞光院に移ったのは天文二年以前になるので、従ってこの時全久院は既に三世巧安の代であるから、全久院が天文二年よりもなおずっと以前から存在したものであるという事は証拠立てられるのである。なおその上にこの説を有力ならしむるのは全久院に現存せる光国自写の仏書で、その多くは永正年間のものである。これ等の点から推測すると、やはり全久院の建立は前に申し述べた如く宜光の創建ではなくて、宗光逝去の後その子の憲光が父のために建立したので、その年代は明応の末年又は永正の初年にありとするのが穏当であると信じられるのである。従ってこの事実から論及すると、縁故のない処に寺を建つる筈はないから、二連木城こそ全久院の創建以前、即ち少なくとも明応の初年に当たって宗光の築いたもので、それを天文十年に至って宜光が修築したのであるという説が正しいように信じられるのである。もっとも全久院に対しても宜光住居の後大いに伽藍を興したもので、それは又証拠のある事であるから、その修築の時が即ち弘治二年であったものと信じられるのである。 さて宗光逝去の後は前に述べた如く憲光が田原を襲いだのであるが、この人は弾正忠と称えたので、永正三年今橋が落城して牧野古白戦死の時は即ちこの人が田原の城主であったのである。然るに落城後の今橋は 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百四十号附録  (明治四十四年四月二十五日発行) 【本文】 戸田金七郎という人が守ったので、この金七郎は即ち憲光の二男であるということは諸種の記録に見ゆる処であるが、その頃の戸田氏は余程盛んであったもので、藩翰譜にも創業記を引いて「田原を初め二連木、今橋等の城を併せ領して、その嫡男右近尉政光は二連木にあり、二男金七は今橋にあり」というように記されてある。そしてこの憲光という人は法名を全忠といったが、一般に永正十年十一月朔日田原において逝去し、やはり長興寺に葬ったことに伝えられている。しかし事実は永正十三年から同十五年の間の頃に田原城をばその子の右近尉政光に譲って自らは知多郡の河和に移り住み、その処にて逝去したもので、少なくも大永七年迄は存生したのである。今もなお河和に全忠寺というのがあって、これは政光が父のために建立したものであるとの事である。 かかる次第で政光は父に継いで田原城の主となったが、程なく渥美郡の仁崎に隠居して田原をばその子の弾正小弼康光に譲ったのである。然るに前章にも申し述べた如く大永の初年に当たって古白の子成三等が起って再び今橋城を取ったので、金七郎は止むを得ずここを退くに至ったのであるが、その後牧野氏の勢力は漸く強大となったので戸田氏においても寧ろこれと和を結ぶだ様子が見える。然るに享禄二年に至って牧野氏の一族は松平清康のために敗亡に帰するに至ったのであるが、元来この田原の戸田氏と松平氏とは親密な間柄で、前にも申し述べて置いた通りであるから、宗光以来両者間の和親は変る事がなく、現に文亀元年大樹寺の連書という有名な文書の中には田原孫次郎家光というのが松平家一統の中に加わって連署しているのである。この家光という人については説があるが、憲光の兄弟であるというのが正しい様に思う。兎に角このような訳であったが、永正三年今川氏の侵入に当たっては憲光が初めてこれに加担したので一時は松平氏と敵味方の事になったが、程なく松平今川二氏の間が和睦になったから松平戸田二氏の間も自然旧態に復したのである。然るに松平氏は長親の子信忠の代となって国人が服せざる状態であったから、この二家の間 【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十五

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          44 【Main text】 which is five years before, so if Zenkyūin was founded in Kōji 2, there would be no time for the third generation Kōan to serve as head priest, making this theory even more unbelievable. Moreover, after the second generation Kōkoku transferred Zenkyūin to the third generation Kōan, he established temples called Zuikōin in Shinano Province and Chōyōin in Furikusa, Atsumi District. According to the theory recorded by the seventeenth generation priest Banri of Zenkyūin, the old bell at this Chōyōin was cast in Tenbun 11 by Kōan and bore Kōkoku's inscription. And there is a ridge-beam inscription preserved at Zenji temple in Niino Village, Shimoina District, Shinano Province that reads: "Tenbun 2, year of Mizunoto-mi, ninth month, sixth day, former Eiheiji, Zuikō current resident Kōkoku Shungyoku-sō wrote" Based on these facts, Chōyōin was built at least before Tenbun 11, and Kōkoku moved to Zuikōin before Tenbun 2, so at this time Zenkyūin was already in the generation of the third priest Kōan. Therefore, it can be proven that Zenkyūin existed much earlier than Tenbun 2. What makes this theory even more credible is that Buddhist writings in Kōkoku's own hand still exist at Zenkyūin, most of which date to the Eishō period. From these points, it can be inferred that the establishment of Zenkyūin was not, as mentioned before, founded by Yoshimitsu, but rather built by his son Norimitsu after Munemitsu's death for his father's spiritual repose, and it would be reasonable to believe that this occurred in the late Meiō period or early Eishō period. Therefore, based on these facts, there would be no reason to build a temple in a place with no connection, so Ninrengi Castle must have been built by Munemitsu at least in the early Meiō period, before the founding of Zenkyūin, and then renovated by Yoshimitsu in Tenbun 10. This theory seems correct. Of course, regarding Zenkyūin as well, after Yoshimitsu's residence there, the temple buildings were greatly expanded, and there is evidence for this, so it is believed that this renovation took place in Kōji 2. Now, after Munemitsu's death, as mentioned before, Norimitsu succeeded to Tahara, and since this person was called Danjōchū, when Imahashi fell and Makino Kohaku died in battle in Eishō 3, this person was the lord of Tahara Castle. However, after the fall, Imahashi was 【Left page】 【Margin】 San'yō Shimbun No. 3740 Supplement  (Published April 25, Meiji 44) 【Main text】 defended by a person called Toda Kinshichirō, and this Kinshichirō was Norimitsu's second son, as can be seen in various records. The Toda clan was quite prosperous at that time, and the Hankanfu, quoting the Sōgyōki, records: "Ruling over castles including Tahara, Ninrengi, Imahashi, etc., with the eldest son Ukon-no-jō Masamitsu at Ninrengi and the second son Kinshichi at Imahashi." This Norimitsu's Buddhist name was Zenchū, and it is generally transmitted that he died at Tahara on the first day of the eleventh month of Eishō 10 and was buried at Chōkōji temple. However, the facts are that around Eishō 13 to 15, he transferred Tahara Castle to his son Ukon-no-jō Masamitsu and moved to Kawawa in Chita District, where he died, living at least until Daiei 7. There is still a temple called Zenchūji in Kawawa today, which is said to have been built by Masamitsu for his father. Under these circumstances, Masamitsu succeeded his father as lord of Tahara Castle, but soon retired to Nisaki in Atsumi District and transferred Tahara to his son Danjō-shōhitsu Yasumitsu. However, as mentioned in the previous chapter, in the early years of Daiei, Kohaku's son Shigekazu and others rose up and retook Imahashi Castle, so Kinshichirō was forced to withdraw from there. After that, the Makino clan's power gradually grew stronger, so it appears that the Toda clan sought to make peace with them instead. However, in Kyōroku 2, the Makino clan was defeated and destroyed by Matsudaira Kiyoyasu. Originally, the Tahara Toda clan and the Matsudaira clan had intimate relations, as I mentioned before, so the friendly relations between the two sides had not changed since Munemitsu's time. Indeed, in the famous document called the Daijuji joint letter from Bunki 1, someone called Tahara Magojirō Iemitsu is included among the Matsudaira family members and co-signed the document. There are theories about this Iemitsu, but I think it is correct that he was Norimitsu's brother. In any case, this was the situation, but when the Imagawa clan invaded in Eishō 3, Norimitsu initially supported them, so temporarily the Matsudaira became enemies, but soon the Matsudaira and Imagawa made peace, so relations between the Matsudaira and Toda naturally returned to their former state. However, the Matsudaira clan, under Nobuyasu son of Nagachika, was in a state where the local lords would not submit, so between these two houses 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          45