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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 37

ページ: 37

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【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十六 【本文】       も多年(たねん)疎々(うと〳〵)しくなつて居(を)つたのであるが今度(このたび)清康(きよやす)が東三河に攻(せ)め入(い)りて吉田の牧野氏(まきのし)を敗(やぶ)つたので直(たゞ)       ちに田原に押寄(おしよ)せたのである併(しか)し旧交(きうこう)の厚(あつ)かりし此(この)二 家(け)の事であるから忽(たちま)ち樽俎折衝(そんそせつせう)の間(あひだ)に和親(わしん)が温(あたゝ)       まつたので清康(きよやす)は僅(わづか)三日の後に再(ふたゝ)び吉田に引返(ひきかへ)したのである併(しか)し何(いづ)れの記録(きろく)を見ても此時(このとき)の事に就(つい)て       は田原(たはら)の戸田は風(かぜ)を望(のぞ)むで降参(こうさん)したと云ふような事になつて居るから私(わたくし)も先(さ)きにソウ云ふ語気(ごき)を用(もち)い       たので筆記(しつき)に残(のこ)つて居るが之(これ)は矢張(やはり)語弊(ごへい)であるから茲(こゝ)に正(たゞ)して置(お)きたいと思(おも)ふ然(しか)るに天文四年には清(きよ)      康(やす)横死(わうし)の事がありそれから松平家(まつだひらけ)には内乱(ないらん)があつて清康(きよやす)の子(こ)広忠(ひろたゞ)は他国(たこく)に流寓(るぐう)し其六年 漸(やうや)く国に皈(かへ)る 《割書:戸田金七郎|再び吉田城》 を得(ゑ)たる事は之(こ)れ亦(ま)た先(さ)きに述(の)べた如(ごと)くであるが其年(そのとし)(距今三百七十四年)金七郎は謀略(ぼうりやく)を以(もつ)て復(ま)た吉 《割書:に拠る|   》  田城の守将(しゆせう)牧野傳兵衛を遂(お)つて之(これ)に代(かは)つたのである而(しか)して其十年には冝光(よしみつ)が二 連木城(れんぎぜう)を修築(しうちく)して之(これ)に        拠(よ)つたと云ふのであるから戸田氏(とだし)一 門(もん)の勢力(せいりよく)は復(ふたゝ)び此(この)地方(ちほう)に振(ふる)つた次第(しだい)である        尚(な)ほ此処(こゝ)に重(かさ)ねて御話(おはなし)して置(お)きたいのは此(この)金七郎と云ふ人の事で之(これ)は前(まへ)にも申述(もうしの)べて置(お)いた如く多(おほ)く       の書物(しよもつ)に憲光(のりみつ)の二 男(なん)であるとなつて居(を)るがドウモ系図(けいづ)の上(うへ)からは憲光(のりみつ)の二男に金七郎と云ふ人は見当(みあた)       らぬのである吉田城主考(よしだぜうしゆこう)の如きは橘(たちばな)七郎 宣成(のぶなり)の事であろうと記(しる)して居るが只(た)だ藩翰譜(はんかんふ)系図(けいづ)にのみは        明(あきら)かに宣成(のぶなり)を以(もつ)て金七郎として居(を)るのである然(しか)るに寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には却(かへつ)て康光(やすみつ)が金七郎と云つた事       が記(しる)してある併(しか)し此(この)金七郎は到底(とうてい)康光(やすみつ)では理屈(りくつ)に合(あ)はぬのである宣成(のぶなり)と云ふ人にしても矢張(やはり)天文十年       六月十八日に死去(しきよ)して居る処から見(み)ると齟齬(そご)する点(てん)がある様に思ふ併(しか)し朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)に「金七郎は渥(あつ)        美郡(みぐん)田原(たはら)の城主(ぜうしゆ)戸田弾正忠康光(とだだんぜうちうやすみつ)が一 族(ぞく)なれば康光(やすみつ)が指揮(しき)をうけて当城(とうぜう)を守(まも)りしなるべし」とあるは誤(あやま)       らざる処(ところ)である 《割書:康光の女婚|嫁   》 サテ以上(いぜう)述(の)べた如き有様(ありさま)で経過(けいくわ)したのであるが天文十年には康光(やすみつ)の女が松平広忠(まつだひらひろたゞ)に嫁(か)したので戸田 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際  □                       □ 【左頁】 【欄外】    豊橋市史談 【本文】       家と松平家(まつだひらけ)とは姻戚(ゐんせき)の関係(かんけい)を重(かさ)ねた訳(わけ)になつたのであるモツトモ広忠(ひろたゞ)は先(さ)きに刈谷(かりや)の城主(ぜうしゆ)水野忠政(みづのたゞまさ)の       女を娶(めとつ)て竹千代(たけちよ)を生(う)むだので之(これ)が即(すなは)ち後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)となつたのであるが忠政(たゞまさ)死去(しきよ)の後(のち)其子(そのこ)信元(のぶもと)は広忠(ひろたゞ)        内室(ないしつ)の兄(あに)であつたにも拘(かゝは)らず松平家(まつだひらけ)と絶(た)つて当時(とうじ)其(その)敵国(てきこく)であつた尾張(をはり)の織田氏(をだし)に欵(かん)を通(つう)じたのである       ソコで広忠(ひろたゞ)は怒(いか)つて遂(つひ)に其(その)妻(つま)水野氏を離縁(りゑん)したのであるソレは天文十三年の事であるが此(この)水野氏(みづのし)と云       ふ人は中々(なか〳〵)の女丈夫(ぢよぜうぶ)で之(これ)が後(のち)に至つて伝通院(でんつうゐん)と諡(おくりな)され東京(とうけう)小石川(こいしかは)の伝通院(でんつうゐん)と云ふ寺(てら)は其為(そのため)に建立(こんりう)され       たものである康光(やすみつ)の女は即(すなは)ち其(その)跡(あと)へ嫁(か)したので田原御前(たはらごぜん)と称(せう)せられたのであるが男子(だんし)はなかつたので 《割書:今川義元吉|田城を略取》  ある此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたが如何(いか)なる訳(わけ)か天文十五年の十月に今川義元(いまがはよしもと)は天野安芸守(あまのあきのかみ)と云ふ人などを 《割書:す|天野安芸守》   寄越(よこ)して此(この)吉田城(よしだぜう)を攻撃(こうげき)し戸田氏の手(て)から之(これ)を奪(うば)つたのである此事(このこと)は勿論(もちろん)藩翰譜(はんかんふ)などにも載(の)つて居る       が朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には        十月 戸田(とだ)金七郎 某(ぼう)吉田城(よしだぜう)に住(ぢう)して今川家(いまがはけ)に属(ぞく)せしが此頃(このころ)叛(そむ)くにより広忠(ひろたゞ)君(きみ)義元(よしもと)と共に御出陣(ごしゆつぢん)ありて         攻(せ)め給(たま)ふ此時(このとき)石川式部(いしかはしきぶ)某(ぼう)酒井将監忠賀(さかゐせうげんちうが)等(ら)はげしく戦(たゝか)ひ遂(つひ)に落城(らくぜう)す       とあつて此時(このとき)松平氏(まつだひらし)も亦(ま)た今川氏に加勢(かせい)して戸田氏を攻(せ)めた事になつて居る吉田城主考(よしだぜうしゆこう)にも矢張(やはり)之(これ)と        同(おな)じ説(せつ)が記(しる)されて居(を)るので当時(とうじ)既(すで)に松平戸田二氏の間(あひだ)は釁(きん)を生(せう)じたものと思(おも)はれる而(しか)して私が先(さ)きに       吉田の地名(ちめい)の事を説(と)いた時(とき)一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置いた天野文書(あまのぶんしよ)の内(うち)今川義元(いまがはよしもと)より此(この)天野安芸守(あまのあきのかみ)に与(あた)へた咸状(かんぜう)        即(すなは)ち「今橋城(いまはしぜう)小口(こぐち)取寄(とりよせ)候(そうろう)時(とき)了念寺(れうねんじ)え云々(うんぬん)」とあるのは実(じつ)に此時(このとき)のもので考証(こうしよ)に資(し)すべきものと思(おも)ふから        重複(ぢうふく)を厭(いと)はず此処(こゝ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)ぐる事(こと)とする        今度三州今橋之城小口取寄候時了念寺え可相移候由成下知候処不及異儀最前馳入堅固相踏候旨大功        之至感悦申候今月十五日辰刻同城外搆乗崩之刻不暁宿成へ乗入自身盡粉骨殊同名親類被官以下蒙疵 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十六 【本文】 も多年疎遠になっていたのであるが、今度清康が東三河に攻め入りて吉田の牧野氏を破ったので直ちに田原に押し寄せたのである。しかし旧交の厚かったこの二家の事であるから、たちまち酒宴での交渉の間に和親が温まったので、清康はわずか三日の後に再び吉田に引き返したのである。しかしいずれの記録を見てもこの時の事については田原の戸田は風を望んで降参したというような事になっているから、私も先にそう云う語気を用いたので筆記に残っているが、これはやはり語弊であるからここに正して置きたいと思う。然るに天文四年には清康横死の事がありそれから松平家には内乱があって、清康の子広忠は他国に流浪し、その六年漸く国に帰ることを得たる事はこれまた先に述べた如くであるが、その年(距今三百七十四年)金七郎は謀略をもって復た吉田城の守将牧野伝兵衛を追ってこれに代わったのである。そしてその十年には宜光が二連木城を修築してこれに拠ったというのであるから、戸田氏一門の勢力は復びこの地方に振るった次第である。 なおここに重ねてお話して置きたいのはこの金七郎という人の事で、これは前にも申し述べて置いた如く多くの書物に憲光の二男であるとなっているが、どうも系図の上からは憲光の二男に金七郎という人は見当らないのである。吉田城主考の如きは橘七郎宣成の事であろうと記しているが、ただ藩翰譜系図にのみは明かに宣成をもって金七郎としているのである。然るに寛政重修諸家譜には却って康光が金七郎と云った事が記してある。しかしこの金七郎は到底康光では理屈に合わないのである。宣成という人にしてもやはり天文十年六月十八日に死去している処から見ると齟齬する点がある様に思う。しかし朝野旧聞裒稿に「金七郎は渥美郡田原の城主戸田弾正忠康光が一族なれば康光が指揮をうけて当城を守りしなるべし」とあるは誤らざる処である。 さて以上述べた如き有様で経過したのであるが、天文十年には康光の女が松平広忠に嫁したので戸田家 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其の博大なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 と松平家とは姻戚の関係を重ねた訳になったのである。もっとも広忠は先に刈谷の城主水野忠政の女を娶って竹千代を生んだので、これが即ち後に徳川家康となったのであるが、忠政死去の後その子信元は広忠内室の兄であったにも拘らず松平家と絶って、当時その敵国であった尾張の織田氏に款を通じたのである。そこで広忠は怒って遂にその妻水野氏を離縁したのである。それは天文十三年の事であるが、この水野氏という人は中々の女丈夫で、これが後に至って伝通院と諡され、東京小石川の伝通院という寺はその為に建立されたものである。康光の女は即ちその跡へ嫁したので田原御前と称せられたのであるが、男子はなかったのである。 このような事情であったが、如何なる訳か天文十五年の十月に今川義元は天野安芸守という人などを寄越してこの吉田城を攻撃し、戸田氏の手からこれを奪ったのである。この事は勿論藩翰譜などにも載っているが、朝野旧聞裒稿には 「十月 戸田金七郎某吉田城に住して今川家に属せしが此頃叛くにより広忠君義元と共に御出陣ありて攻め給う。此時石川式部某、酒井将監忠賀等はげしく戦い遂に落城す」 とあって、この時松平氏もまた今川氏に加勢して戸田氏を攻めた事になっている。吉田城主考にもやはりこれと同じ説が記されているので、当時既に松平戸田二氏の間は隙を生じたものと思われる。そして私が先に吉田の地名の事を説いた時一寸申し述べて置いた天野文書の内、今川義元よりこの天野安芸守に与えた感状、即ち「今橋城小口取り寄せ候時了念寺え云々」とあるのは実にこの時のもので考証に資すべきものと思うから、重複を厭わずここにその全文を掲ぐる事とする。 「今度三州今橋之城小口取寄候時了念寺え可相移候由成下知候処不及異儀最前馳入堅固相踏候旨大功之至感悦申候今月十五日辰刻同城外搆乗崩之刻不暁宿成へ乗入自身盡粉骨殊同名親類被官以下蒙疵 【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十七

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          46 【Main text】 had been estranged for many years, but when Kiyoyasu invaded eastern Mikawa and defeated the Makino clan of Yoshida, he immediately pressed toward Tahara. However, since these were two houses with deep old friendship, peace was quickly restored through negotiations over sake, and Kiyoyasu returned to Yoshida after only three days. However, since all records describe this incident as the Tahara Toda surrendering at the sight of approaching forces, I previously used such language and it remains in my notes, but this is misleading language that I wish to correct here. Then in Tenbun 4, Kiyoyasu died suddenly, and after that there was civil war in the Matsudaira house, with Kiyoyasu's son Hirotada wandering in exile in other provinces and finally returning to his domain in the sixth year, as I mentioned before. In that year (374 years ago), Kinshichirō used strategy to drive out Makino Denbei, the defender of Yoshida Castle, and took his place. And in the tenth year, Yoshimitsu renovated Ninrengi Castle and established himself there, so the power of the Toda clan was restored in this region. I would like to discuss again the matter of this Kinshichirō, who, as I mentioned before, is recorded in many books as Norimitsu's second son, but somehow no person called Kinshichirō appears as Norimitsu's second son in the genealogies. Works like the "Study of Yoshida Castle Lords" suggest he might be Tachibana Shichirō Nobushige, but only the Hankanfu genealogy clearly identifies Nobushige as Kinshichirō. However, the Kansei Revised Family Genealogies record that Yasumitsu was called Kinshichirō. But this Kinshichirō could not possibly be Yasumitsu for logical reasons. Even regarding the person called Nobushige, there seem to be discrepancies since he died on June 18, Tenbun 10. However, the Chōya Kyūbun Hōkō states: "Kinshichirō was a relative of Toda Danjōchū Yasumitsu, lord of Tahara Castle in Atsumi District, so he probably defended this castle under Yasumitsu's command," which seems correct. Now, things proceeded as described above, but in Tenbun 10, Yasumitsu's daughter married Matsudaira Hirotada, so the Toda house 【Margin】 Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his draft nears completion 【Left page】 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion 【Main text】 and the Matsudaira house formed a marriage alliance. Of course, Hirotada had previously married the daughter of Mizuno Tadamasa, lord of Kariya Castle, and she bore Takechiyo, who later became Tokugawa Ieyasu. However, after Tadamasa's death, his son Nobumoto, despite being the brother of Hirotada's wife, broke with the Matsudaira house and allied with the Oda clan of Owari, which was their enemy at the time. So Hirotada became angry and finally divorced his wife from the Mizuno clan. This happened in Tenbun 13, and this Mizuno lady was quite a formidable woman who was later posthumously named Den'tsūin, and the Den'tsūin temple in Koishikawa, Tokyo was built in her honor. Yasumitsu's daughter married in her place and was called Tahara Gozen, but she bore no sons. Under these circumstances, for some reason in the tenth month of Tenbun 15, Imagawa Yoshimoto sent Amano Aki-no-kami and others to attack Yoshida Castle and seize it from the Toda clan. This incident is of course recorded in the Hankanfu and other sources, but the Chōya Kyūbun Hōkō states: "Tenth month: Toda Kinshichirō was residing in Yoshida Castle and belonged to the Imagawa house, but recently rebelled, so Lord Hirotada and Yoshimoto jointly launched an expedition to attack. At this time, Ishikawa Shikibu and Sakai Shōgen Chūga and others fought fiercely and the castle finally fell." This indicates that the Matsudaira clan also assisted the Imagawa in attacking the Toda clan. The same theory is recorded in the "Study of Yoshida Castle Lords," so it appears that a rift had already developed between the Matsudaira and Toda clans by this time. When I explained the place name Yoshida earlier, I briefly mentioned a commendation letter from the Amano documents that Imagawa Yoshimoto gave to this Amano Aki-no-kami, namely "When Imahashi Castle's outpost was captured, to Ryōnenji..." This actually dates to this time and should serve as evidence for research, so despite the repetition, I will include the full text here: "This time when the outpost of Imahashi Castle in Mikawa Province was captured, orders were given to relocate to Ryōnenji temple. Without objection, you rushed in at the very beginning and held firm positions, which is a great achievement and brings me great joy. On the 15th of this month at the hour of the dragon, when the outer fortifications of the same castle were breached, you rode into the dawn encampment, personally exerted every effort, and especially your relatives and retainers suffered wounds..." 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          47