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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 38

ページ: 38

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【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十八 【本文】        頭可討捕之條各別紙遣感状申候誠以度々軍功神妙之至也弥可抽忠勤之状如件          十一月廿五日                    義    元(判)            天 野 安 芸 守 殿        此(この)文書(ぶんしよ)で見ると今川勢(いまがはぜい)は十一月の十五日に外搆(がいこう)乗(の)り崩(くづ)しの為(た)め黎明(れいめい)から吉田城(よしだぜう)の攻撃(こうげき)に取(とり)かゝつたも       のと見(み)へる然(しか)るに之(これ)に年号(ねんごう)がないので種々(しゆ〴〵)の説(せつ)がある吉田博士(よしだはかせ)の地名辞書(ちめいじしよ)の如きは之(これ)を天文十四年の       ものとなし尚(なほ)一 通(つう)の雪斎(せつさい)より送(おく)つた文書(ぶんしよ)と同時(どうじ)であるとして居(を)るが之(これ)は全然(ぜん〴〵)誤(あやまり)であると思(おも)ふ私は此(この)        義元(よしもと)の文書(ぶんしよ)は天文十五年 吉田城(よしだぜう)攻撃(こうげき)当時(とうじ)のものに相違(さうゐ)なく尚(なほ)一 通(つう)の雪斎(せつさい)の文書(ぶんしよ)は其(その)翌(よく)十六年で田原城(たはらぜう)        攻撃(こうげき)の時(とき)のものであると確信(かくしん)する雪斎(せつさい)の文書(ぶんしよ)に就(つい)ては後(のち)に詳説(せうせつ)するが此(この)義元(よしもと)の文書(ぶんしよ)に就(つい)ては朝野旧聞(てうやきうぶん)        裒考(ほうこう)にも天文十五年の条(くだり)に於(おい)て「按(あん)ずるに此(この)文書(ぶんしよ)年(とし)を記(しる)さゞれとも今橋(いまはし)落城(らくぜう)の時のものなれば今年(こんねん)な       るべし是(これ)による時(とき)は十一月に及(およん)で落城(らくぜう)ありしなり」と記(しる)されて居(を)るのであるモツトモ私(わたくし)が先(さ)きに吉田       の地名(ちめい)の事を御話(おはなし)した時 此(この)文書(ぶんしよ)を二 通共(つうとも)に天文十六年のものであると申述(もうしの)べたようになつて居(を)るのは        言葉(ことば)の足(た)らぬ所(ところ)であるから其事(そのこと)に御承知(ごせうち)を願(ねが)いたいのである 《割書:康光竹千代|を奪ふ》  ソコで其(その)翌(よく)天文十六年に至(いたつ)て更(さら)に一 事件(じけん)が起(おこ)つたのであるソレは有名(ゆうめい)な話(はなし)で竹千代(たけちよ)が今川氏(いまがはし)に質(しち)とな       つて駿河(するが)の国(くに)に行(い)かうと云ふのを此(こ)の田原(たはら)の戸田が途中(とちう)で奪(うば)つたと云ふ事抦(ことがら)であ る其時(そのとき)竹千代は六歳       であつたが之(これ)に就(つい)ても説(せつ)は色々(いろ〳〵)ある松平記(まつだひらき)には         田原(たはら)住人(ぢうにん)戸田弾正(とだだんぜう)弟(おとゝ)戸田(とだ)五 郎(らう)と申者(もをすもの)志本見坂(しほみざか)にて竹千代(たけちよ)殿(どの)の乗物(のりもの)を奪(うばひ)とり船(ふね)にて尾張(をはり)の国(くに)に参(まい)る       とあるが此(この)五郎と云ふのは政直(まさなほ)の事であるから実(じつ)は弾正少弼康光(だんぜうせうひつやすみつ)の子(こ)でなくてはならぬのである而(しか)し       て徳川実記(とくがはじつき)には 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百四十六号附録   ( 明治四十四年五月二日発行 ) 【本文】         竹千代(たけちよ)君(ぎみ)僅(わづか)に六歳にならせ給(たま)ふを駿河(するが)に質子(しちこ)たるべしとの事(こと)に定(さだ)まり(中略)すべて廿八人 雑兵(ざうへい)五十         余人(よにん)阿部(あべ)甚(じん)五 郎(らう)正宣(まさのぶ)が子(こ)徳千代(とくちよ)(《割:伊予守正|勝なり》)六歳なりしを御遊(おんあそび)の友(とも)として御輿(みこし)に同(おな)じく乗(の)せて遣(つかは)さるゝ        に田原(たはら)の戸田弾正少弼康光(とだだんぜうせうひつやすみつ)は広忠(ひろたゞ)卿(けう)今(いま)の北方(きたかた)の御父(おんちゝ)なれば此(この)御(おん)ゆかりをもて陸地(りくち)は敵地(てきち)多(おほ)し船(ふね)にて         我(わ)が領地(れうち)より送(おく)り申さんと約(やく)し西郡(にしのこほり)より吉田へ入(い)らせ給(たま)ふ所(ところ)を康光(やすみつ)と其子五郎 政直(まさなほ)と心を合(あは)せ御(お)         供(とも)の人々を偽(いつは)りたばかり船(ふね)に乗(の)せて尾州(びしう)熱田(あつた)におくり織田信秀(をたのぶひで)にわたしければ信秀(のぶひで)悦(えつ)大方(おほかた)ならず熱(あつ)         田(た)の加藤図書順盛(かとうとしよじゆんせい)が許(もと)へ預(あづ)けしとぞ       と記(しる)してあつて即(すなは)ち康光(やすみつ)が其子(そのこ)政直(まさなほ)と心を合(あは)せて此(この)吉田(よしだ)で竹千代を奪(うば)つた事になつて居る然(しか)るに彦左(ひこざ)        衛門(ゑもん)の三 河物語(かはものがたり)には         竹千代様(たけちよさま)。御年(おんとし)六歳の御時(おんとき)。シチ物(もつ)トシテ。駿河(するが)得(え)御下向(ごけこう)被成(なされ)ケリ。然(しかる)間(あひだ)西郡(にしのこほり)ニテ。御船(おんふね)ニ召(めさ)        シテ。田原(たはら)エ。アガラセ給日(たまひ)而(て)。田原(たはら)寄(より)駿河(するが)得(え)御下向(ごけこう)可被成(なさるべく)トノ儀(ぎ)成(なり)。田原(たはら)之 戸田弾正少弼(とだだんぜうせうひつ)殿(との)ハ。広忠(ひろたゞ)         之(の)御(おん)タメニハ。御婚成(おんしうとなり)。竹千代様之 御(おん)タメニハ。マヽ祖父(をうぢ)成(なり)。然供(しかれども)。少弼(せうひつ)殿(との)。小田(をだ)之(の)弾正之忠(だんぜうのちう)得(え)。        エイラク(永楽)。□(せん)【前の下に木】。千貫メニ。竹千代様ヲ売(うら)サセラレ給日(たまひ)而(て)。御舟(おんふね)ニ召(めし)而(て)。アツ田ノ宮(たのみや)得(え)。アガラセ給(たま)         日(ひ)。大宮地(だいぐうじ)馮給日(あづかりたまひ)而(て)。明ノ年(あけのとし)迄(まで)御(おはします)       とあつて竹千代(たけちよ)を永楽銭(えいらくせん)千 貫文(ぐわんもん)に売(う)つたと云ふのはドウであるかと思(おも)はるゝが其他(そのた)は先(ま)づ此(この)説(せつ)が事実(じじつ)       に近(ちか)いように信(しん)ぜられるのである殊(こと)に竹千代を奪(うば)つた場所(ばしよ)を汐見坂(しほみざか)となすの説(せつ)は朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも見       へて居るが之(これ)は地形上(ちけいぜう)到底(とうてい)信(しん)ぜられぬ事抦(ことがら)であると思(おも)ふ強(しひ)て潮見坂(しほみざか)と云ふのを臆測(おくそく)すれば今(いま)の豊橋市       外 高師村(たかしむら)福岡内(ふくをかない)に潮満(しほみち)の観音(くわんおん)と云ふのがあるがあの辺(へん)迄(まで)は旧来(きうらい)海(うみ)が入り込(こ)むで居つたのであるから其(その)        辺(へん)をでも呼(よ)むだものともなすべきであろうか元(もと)より之(これ)は当(あ)て推量(すゐれう)で何(な)にも論拠(ろんきよ)はないのであるが兎(と)に 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十八 【本文】 頭を討ち取るべき条、各別に書状を遣わし感状を申し候。誠に度々の軍功神妙の至りなり。いよいよ忠勤を抽んずべき状件の如し。   十一月二十五日                義元(判)    天野安芸守殿 この文書で見ると今川勢は十一月の十五日に外構え乗り崩しのため黎明から吉田城の攻撃に取りかかったものと見える。然るにこれに年号がないので種々の説がある。吉田博士の地名辞書の如きはこれを天文十四年のものとなし、なお一通の雪斎より送った文書と同時であるとしているが、これは全然誤りであると思う。私はこの義元の文書は天文十五年吉田城攻撃当時のものに相違なく、なお一通の雪斎の文書はその翌十六年で田原城攻撃の時のものであると確信する。雪斎の文書については後に詳説するが、この義元の文書については朝野旧聞裒稿にも天文十五年の条において「按ずるにこの文書年を記さざれども今橋落城の時のものなれば今年なるべし。これによる時は十一月に及んで落城ありしなり」と記されているのである。もっとも私が先に吉田の地名の事をお話しした時、この文書を二通共に天文十六年のものであると申し述べたようになっているのは言葉の足らない所であるから、その事にご承知を願いたいのである。 そこでその翌天文十六年に至って更に一事件が起こったのである。それは有名な話で竹千代が今川氏に人質となって駿河の国に行こうというのを、この田原の戸田が途中で奪ったという事柄である。その時竹千代は六歳であったが、これについても説は色々ある。松平記には 「田原住人戸田弾正弟戸田五郎と申す者、志本見坂にて竹千代殿の乗物を奪い取り船にて尾張の国に参る」 とあるが、この五郎というのは政直の事であるから実は弾正少弼康光の子でなくてはならないのである。そして徳川実記には 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百四十六号附録  (明治四十四年五月二日発行) 【本文】 「竹千代君わずかに六歳におなりになるのを駿河に人質たるべしとの事に定まり(中略)すべて二十八人雑兵五十余人、阿部甚五郎正宣の子徳千代(伊予守正勝なり)六歳なりしを御遊びの友として御輿に同じく乗せて遣わされるに、田原の戸田弾正少弼康光は広忠卿今の北方の御父なれば、この御ゆかりをもて陸地は敵地多し船にて我が領地より送り申さんと約し、西郡より吉田へ入らせ給う所を、康光とその子五郎政直と心を合わせ、御供の人々を偽りたばかり船に乗せて尾州熱田に送り織田信秀に渡しければ、信秀悦大方ならず熱田の加藤図書順盛が許へ預けしとぞ」 と記してあって、即ち康光がその子政直と心を合わせてこの吉田で竹千代を奪った事になっている。然るに彦左衛門の三河物語には 「竹千代様。御年六歳の御時。人質として。駿河へ御下向なされけり。然る間西郡にて。御船に召して。田原へ。上がらせ給いて。田原より駿河へ御下向なさるべきとの儀なり。田原の戸田弾正少弼殿は。広忠の御ためには。御舅なり。竹千代様の御ためには。継祖父なり。然れども。少弼殿。織田の弾正忠へ。永楽銭千貫文に。竹千代様を売らせられ給いて。御舟に召して。熱田の宮へ。上がらせ給い。大宮司預かり給いて。明の年まで御座します」 とあって竹千代を永楽銭千貫文に売ったというのはどうであるかと思われるが、その他は先ずこの説が事実に近いように信じられるのである。殊に竹千代を奪った場所を汐見坂となすの説は朝野旧聞裒稿にも見えているが、これは地形上到底信じられない事柄であると思う。強いて潮見坂というのを臆測すれば今の豊橋市外高師村福岡内に潮満の観音というのがあるが、あの辺までは旧来海が入り込んでいたのであるから、その辺をでも呼んだものともなすべきであろうか。元よりこれは当て推量で何にも論拠はないのであるが、とに 【欄外】 豊橋市史談  (二連木城と戸田氏)          四十九

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          48 【Main text】 "heads should be taken, I am sending separate letters to each and expressing my appreciation. Truly, these repeated military achievements are most excellent. You should continue to demonstrate loyal service as described above.   November 25th                Yoshimoto (seal)    Lord Amano Aki-no-kami" From this document, it appears that the Imagawa forces began attacking Yoshida Castle from dawn on November 15th to breach the outer fortifications. However, since this lacks a year designation, there are various theories. Works like Dr. Yoshida's geographical dictionary treat this as being from Tenbun 14 and claim it is contemporary with another document sent by Sessai, but I think this is completely wrong. I am confident that this document from Yoshimoto is definitely from the time of the Yoshida Castle attack in Tenbun 15, while the other document from Sessai is from the following year, Tenbun 16, during the attack on Tahara Castle. I will explain the Sessai document in detail later, but regarding this Yoshimoto document, the Chōya Kyūbun Hōkō also records under Tenbun 15: "Upon examination, although this document does not record the year, since it concerns the fall of Imahashi, it must be from this year. According to this, the castle fell in the eleventh month." However, when I previously discussed the place name Yoshida, I seem to have stated that both documents were from Tenbun 16, which was insufficient language, so I ask your understanding on this matter. Then in the following year, Tenbun 16, another incident occurred. This is the famous story of how the Toda of Tahara seized Takechiyo while he was traveling to Suruga Province as a hostage to the Imagawa clan. Takechiyo was six years old at the time, but there are various theories about this as well. The Matsudaira Records state: "Toda Danjō's younger brother, a man called Toda Gorō who lived in Tahara, seized Lord Takechiyo's palanquin at Shimomi-zaka and went by ship to Owari Province." But this Gorō refers to Masanao, so he should actually be the son of Danjō Shōhitsu Yasumitsu. The Tokugawa True Records state: 【Left page】 【Margin】 San'yō Shimbun No. 3746 Supplement  (Published May 2, Meiji 44 [1911]) 【Main text】 "When Lord Takechiyo had barely reached six years of age, it was decided that he should go to Suruga as a hostage... (omitted)... altogether 28 people with over 50 foot soldiers, and Abe Jingoro Masanobu's son Tokuchiyo (who became Iyo-no-kami Masakatsu), aged six, was placed in the same palanquin as a playmate. Toda Danjō Shōhitsu Yasumitsu of Tahara was the father of Lord Hirotada's current wife, so using this connection he promised to send them by ship from his own territory since the land route had many enemy territories. When they entered Yoshida from the western district, Yasumitsu and his son Gorō Masanao conspired together, deceived the escort party, put them on a ship and sent them to Atsuta in Owari Province, delivering them to Oda Nobuhide. Nobuhide was extremely pleased and placed them in the care of Katō Tosho Junsei of Atsuta." This records that Yasumitsu conspired with his son Masanao to seize Takechiyo at Yoshida. However, Hikozaemon's Mikawa Monogatari states: "Lord Takechiyo. At the age of six years. As a hostage. Went down to Suruga. During this time in the western district. He boarded a ship. And landed at Tahara. The plan was for him to go from Tahara down to Suruga. The Lord Toda Danjō Shōhitsu of Tahara was Hirotada's father-in-law and Takechiyo's step-grandfather. However, Lord Shōhitsu sold Lord Takechiyo to Oda Danjōchū for one thousand kan of Eiraku coins. He put him on a ship and had him land at Atsuta Shrine, where the head priest took custody of him until the following year." The claim that Takechiyo was sold for one thousand kan of Eiraku coins seems questionable, but otherwise this account appears closest to the truth. Particularly, the theory that Takechiyo was seized at Shiomi-zaka also appears in the Chōya Kyūbun Hōkō, but I think this is completely unbelievable from a geographical standpoint. If one were to speculate about Shiomizaka, there is a place called Shiomichi Kannon in present-day Fukuoka within Takashi Village outside Toyohashi City, and since the sea formerly extended up to that area, one might suppose it could refer to that vicinity. Of course, this is mere conjecture with no evidence whatsoever, but in any case 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          49