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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 39

ページ: 39

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【欄外】 豊橋市史談□□□□□(二連木城と戸田氏)□□□□□□□□□□五十 【本文】        角(かく)一 般(ぱん)に通(とほ)つて居る遠江(とほとふみ)の潮見坂(しほみざか)では全(まつた)く道理(どうり)に合(あ)はぬ事になると思(おも)はれる又(また)藩翰譜(はんかんふ)にも此時(このとき)の事情(じぜう)       は詳(くは)しく書(か)いてあつて中(なか)に竹千代を奪(うば)つたのは政光(まさみつ)であると云ふ一 説(せつ)も載(の)つて居るが浪(なみ)の上(うへ)戸田系譜(とだけいふ)       にも同様(どうよう)の記事(きじ)がある併(しか)し之(これ)亦(ま)た疑問(ぎもん)でドウしても時代(じだい)から推(お)して康光(やすみつ)と云ふ説(せつ)が事実(じじつ)であると信(しん)ぜ 戸田尭光  られるモツトモ校正余録(こうせいよろく)には康光(やすみつ)は其頃(そのころ)退隠(たいゐん)して家を其(その)長子(てうし)尭光(たかみつ)に譲(ゆづ)つたので即(すなは)ち此(この)事件(じけん)の当事者(とうじしや)は        尭光(たかみつ)であるが其(その)謀主(ぼうしゆ)たるものは矢張(やはり)康光(やすみつ)であると論(ろん)じて居る此(この)説(せつ)は一 層(そう)的確(てきかく)であると思(おも)はれるが一 方(ぽう)       には此(この)尭光(たかみつ)と云ふ人は冝光(よしみつ)の前名(ぜんめい)でソレと同一人であると云ふ説(せつ)が行(おこな)はれて居る寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)の如       きも前(まへ)に掲(かヽ)げた系図(けいづ)の如く康光(やすみつ)の長子(てうし)を冝光(よしみつ)として居るので尭光(たかみつ)と云ふ人は見(み)へて居らぬ併(しか)しながら        尭光(たかみつ)と冝光(よしみつ)とは何処迄(どこまで)も別人(べつじん)で之(これ)には種々(しゆ〴〵)な証拠(せうこ)のある事である現(げん)に渥美郡(あつみぐん)老津村(おひつむら)の太平寺(たいへいじ)に存(ぞん)せる       文書(ぶんしよ)に「天文十三年甲辰十二月十六日 孫(まご)四 郎(らう)尭光(たかみつ)」と云ふのがあるが此(この)孫四郎と云ふ名称(めいせう)は田原(たはら)戸田       氏の嫡男(ちようなん)が代々(だい〴〵)称(とな)へたもので冝光(よしみつ)は初(はじ)めから甚(じん)五 郎(らう)と云つたのであるからソレと之(これ)とは自(おのづか)ら違(ちが)はね       ばならぬ殊(こと)に冝光(よしみつ)は初(はじ)め牛久保の加治村(かぢむら)に住(ぢう)して後(のち)に二 連木(れんぎ)の城(しろ)を修築(しうちく)して移(うつ)つたのであるから田原(たはら)        城(ぜう)は長子(てうし)の尭光(たかみつ)が襲(つ)いで冝光(よしみつ)の方(はう)は二 男(なん)であつたと云ふ校正余録(こうせいよろく)の説が益々(ます〳〵)事実(じじつ)らしくなる又(ま)た康光(やすみつ)       は田原城(たはらぜう)をば其(その)弟(おとゝ)の光忠(みつたゞ)に譲(ゆづ)つたのであると云ふ説(せつ)があるが光忠(みつたゞ)と云ふ人は総左衛門(そうざゑもん)と称(せう)して別家(べつけ)の        筋(すじ)で右衛門光高(うゑもんみつたか)に至つて絶家(ぜつけ)したのであるから其(その)説(せつ)の誤(あやまり)なることは明(あきらか)であると思(おも)ふ又た此(この)光忠(みつたゞ)を庄左(せうざ)        衛門(ゑもん)と称(せう)したと記(しる)したものが多(おほ)くあつて校正余録(こうせいよろく)も亦(ま)た其(その)流(りう)であるが庄左衛門(せうざゑもん)と称(せう)したのは光忠(みつたゞ)の兄(あに)       で康光(やすみつ)の弟(おとゝ)に当(あた)る忠政(たゞまさ)の事である之(これ)は寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)の系図(けいづ)が正(たゞ)しいと信(しん)ずる而(しか)して当時(とうじ)戸田家と松       平家とは舅(しうと)姑(しうとめ)の間抦(あひだがら)であるのに戦国(せんこく)の習(ならひ)とは云ひながら何故(なにゆへ)に此(かく)の如(ごと)く竹千代を奪(うば)ふと云ふような        挙(きよ)に出(い)でたのであるか朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には天文十五年 吉田城(よしだぜう)合戦(かつせん)の条(くだり)に「此時(このとき)力盡(ちからつ)きて今川家に降(くだ)りし 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       かど翌(よく)十六年 竹千代(たけちよ)君(ぎみ)を奪(うば)ひ奉(たてまつ)りしは全(まつた)く此時(このとき)の鬱憤(うつぷん)より起(おこ)りしものにや考(かんが)ふべし」と記(しる)してある        然(しか)るに校正余録(こうせいよろく)に於(おい)ては当時(とうじ)康光(やすみつ)は到底(とうてい)今川氏の頼(たの)むに足(た)らざるを観波(くわんぱ)し自身(じしん)は勿論(もちろん)ドウかして松平       氏をも織田氏(をだし)の方(はう)に依(よ)らしめたいものであると云ふので遂(つひ)にかゝる挙(きよ)に出(い)でたのあろうと弁明(べんめい)して        居(を)る        兎(と)も角(かく)右(みぎ)の訳(わけ)で竹千代を奪(うば)ひ之(これ)を敵国(てきこく)たる織田氏(をだし)に送(おく)つたのは今川氏(いまがはし)に於ても打捨(うちす)て置(お)かれぬと云ふ 田原落城  事になつて又々(また〳〵)天野安芸守(あまのあきのかみ)を以(もつ)て其年(そのとし)の九月 田原(たはら)を攻撃(こうげき)せしめて五日に戦(たゝかひ)があつたのである而(しか)して       田原は遂(つひ)に落城(らくぜう)に及(およ)むだのであるが天野文書(あまのぶんしよ)の内(うち)に此時(このとき)義元(よしもと)の参謀(さんぼう)たる雪斎(せつさい)長老(てうらう)から安芸守(あきのかみ)に贈(おく)つた        書翰(しよかん)がある之(これ)は前(まへ)にも度々(たび〴〵)申述(もうしのべ)て置いたので其(その)全文(ぜぶん)は左(さ)の如(ごと)くである        其後は久不申通候仍今度於田原御働之様子承誠以無比類儀に候則御感状被遣候又去年於吉田之城御        粉骨之儀是又愚僧存知之分不残申上候三州御陣番御苦労無申計候今少之儀候間御奉公肝要存候猶重        而可申候恐惶謹言          十一月十四日                 駿州臨済寺住持                                     雪   斎             天 野 安 芸 守 殿                     御 宿 所        此(この)文書(ぶんしよ)にも亦(ま)た年号(ねんごう)がないので矢張(やはり)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があるが天文十六年の九月五日に田原(たはら)攻(ぜめ)のあつた事並(ならび)に        此(この)天野安芸守(あまのあきのかみ)が之に与(あづか)つた事は此時(このとき)別(べつ)に義元(よしもと)から天野に贈(おく)つた感状(かんぜう)か残(のこ)つて居るので証拠(せうこ)立(だ)てられる       モツトモ余(あま)り繁雑(はんざつ)に渉(わた)るから其(その)感状(かんぜう)は此処(こゝ)に掲載(けいさい)せぬが尚(なほ)其他(そのた)にも確実(かくじつ)なる根本史料(こんぽんしれう)があるのである 【欄外】 豊橋市史談□□□□□(二連木城と戸田氏)□□□□□□□□□□五十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (二連木城と戸田氏)          五十 【本文】 とにかく一般に通っている遠江の潮見坂では全く道理に合わない事になると思われる。また藩翰譜にもこの時の事情は詳しく書いてあって、中に竹千代を奪ったのは政光であるという一説も載っているが、浪の上戸田系譜にも同様の記事がある。しかしこれまた疑問で、どうしても時代から推して康光という説が事実であると信じられる。 もっとも校正余録には康光はその頃退隠して家をその長子尭光に譲ったので、即ちこの事件の当事者は尭光であるが、その謀主たるものはやはり康光であると論じている。この説は一層的確であると思われるが、一方にはこの尭光という人は宜光の前名でそれと同一人であるという説が行われている。寛政重修諸家譜の如きも前に掲げた系図の如く康光の長子を宜光としているので、尭光という人は見えていない。 しかしながら尭光と宜光とはどこまでも別人で、これには種々な証拠のある事である。現に渥美郡老津村の太平寺に存する文書に「天文十三年甲辰十二月十六日 孫四郎尭光」というのがあるが、この孫四郎という名称は田原戸田氏の嫡男が代々称えたもので、宜光は初めから甚五郎と言ったのであるから、それとこれとは自ずから違わねばならぬ。 殊に宜光は初め牛久保の加治村に住して後に二連木の城を修築して移ったのであるから、田原城は長子の尭光が襲いで宜光の方は二男であったという校正余録の説が益々事実らしくなる。 また康光は田原城をばその弟の光忠に譲ったのであるという説があるが、光忠という人は総左衛門と称して別家の筋で、右衛門光高に至って絶家したのであるから、その説の誤りなることは明らかであると思う。またこの光忠を庄左衛門と称したと記したものが多くあって、校正余録もまたその流であるが、庄左衛門と称したのは光忠の兄で康光の弟に当たる忠政の事である。これは寛政重修諸家譜の系図が正しいと信ずる。 そして当時戸田家と松平家とは舅姑の間柄であるのに、戦国の習いとは言いながら何故にかくの如く竹千代を奪うというような挙に出でたのであるか。朝野旧聞裒稿には天文十五年吉田城合戦の条に「この時力尽きて今川家に降りし 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 かど翌十六年竹千代君を奪い奉りしは全くこの時の鬱憤より起こりしものにや考うべし」と記してある。 然るに校正余録においては当時康光は到底今川氏の頼むに足らざるを観破し、自身は勿論どうかして松平氏をも織田氏の方に依らしめたいものであるというので、遂にかかる挙に出でたのであろうと弁明している。 とにかく右の訳で竹千代を奪い、これを敵国たる織田氏に送ったのは、今川氏においても打ち捨て置かれぬということになって、また々天野安芸守をもってその年の九月田原を攻撃せしめて五日に戦いがあったのである。そして田原は遂に落城に及んだのであるが、天野文書の内にこの時義元の参謀たる雪斎長老から安芸守に贈った書翰がある。これは前にも度々申し述べて置いたので、その全文は左の如くである。 「その後は久しく申し通さず候。よって今度田原において御働きの様子を承り、誠に以て比類無き儀に候。則ち御感状を遣わされ候。また去年吉田の城における御粉骨の儀、これまた愚僧存知の分残らず申し上げ候。三州御陣番御苦労申し計るべからず候。今少しの儀に候間、御奉公肝要に存じ候。なお重ねて申すべく候。恐惶謹言   十一月十四日          駿州臨済寺住持                      雪斎   天野安芸守殿       御宿所」 この文書にもまた年号がないので、やはり種々の説があるが、天文十六年の九月五日に田原攻めのあった事並びにこの天野安芸守がこれに与った事は、この時別に義元から天野に贈った感状が残っているので証拠立てられる。もっとも余り繁雑に渉るから、その感状はここに掲載せぬが、なおその他にも確実なる根本史料があるのである。 【欄外】 豊橋市史談 (二連木城と戸田氏)          五十一

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          50 【Main text】 In any case, the commonly accepted Shiomizaka in Tōtōmi Province would be completely unreasonable. The Hankanfu also describes the circumstances of this time in detail, including one theory that it was Masamitsu who seized Takechiyo, and similar accounts appear in the Nami no Ue Toda Genealogy. However, this is also questionable, and judging from the period, I believe the theory naming Yasumitsu is factual. However, the Kōsei Yoroku argues that Yasumitsu had retired by that time and transferred the house to his eldest son Takamitsu, so while Takamitsu was the actual perpetrator of this incident, Yasumitsu was still the mastermind behind it. This theory seems more accurate, but there is also a prevailing theory that this person called Takamitsu was the former name of Yoshimitsu and they are the same person. Works like the Kansei Chōshū Shokafu, following the genealogy presented earlier, list Yasumitsu's eldest son as Yoshimitsu, so no person named Takamitsu appears. However, Takamitsu and Yoshimitsu are definitely different people, and there is various evidence for this. Indeed, there is a document preserved at Taihei-ji temple in Oitsu village, Atsumi district, stating "Tenbun 13, Year of the Wood Dragon, 12th month, 16th day, Magoshirō Takamitsu." This title Magoshirō was traditionally used by successive eldest sons of the Tahara Toda clan, while Yoshimitsu was called Jingoro from the beginning, so these must naturally be different people. Particularly since Yoshimitsu initially lived in Kaji village of Ushikubo and later renovated and moved to Ninrengi Castle, while Tahara Castle was inherited by the eldest son Takamitsu and Yoshimitsu was the second son, the theory in Kōsei Yoroku becomes increasingly plausible. There is also a theory that Yasumitsu transferred Tahara Castle to his younger brother Mitsutada, but Mitsutada was called Sōzaemon and belonged to a branch family line that became extinct with Uemon Mitsutaka, so I think the error of this theory is clear. Many sources record this Mitsutada as being called Shōzaemon, and Kōsei Yoroku follows this tradition, but the one called Shōzaemon was Tadamasa, who was Mitsutada's elder brother and Yasumitsu's younger brother. I believe the genealogy in Kansei Chōshū Shokafu is correct. Given that the Toda and Matsudaira families were related as in-laws at the time, why did they undertake such an act as seizing Takechiyo, even considering the customs of the Warring States period? The Chōya Kyūbun Hōkō records under the Tenbun 15 Yoshida Castle battle: "Having exhausted their strength at this time and surrendered to the Imagawa house, 【Margin】 Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi city history for over a year, and now as his draft is nearly complete... 【Left page】 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion 【Main text】 the seizure of Lord Takechiyo the following year, Tenbun 16, should be considered as arising entirely from the resentment of this time." However, the Kōsei Yoroku explains that Yasumitsu had observed that the Imagawa clan could not be relied upon at all, and not only for himself but somehow wanting to make the Matsudaira clan also depend on the Oda side, he finally undertook such an action. In any case, for the reasons stated above, seizing Takechiyo and sending him to the enemy Oda clan could not be left unpunished by the Imagawa clan, so they again had Amano Aki-no-kami attack Tahara in the ninth month of that year, with battle occurring on the fifth day. Tahara finally fell, and among the Amano documents there is a letter sent by Sessai, the elderly advisor who was Yoshimoto's chief strategist, to Aki-no-kami at this time. As I have mentioned this repeatedly before, the full text is as follows: "I have not communicated for a long time since then. Therefore, hearing of your activities at Tahara this time, it is truly an incomparable matter. Accordingly, a letter of appreciation has been sent. Also regarding your devoted efforts at Yoshida Castle last year, I have reported everything I know about this to the abbot. Your hardships serving on garrison duty in Mikawa Province are beyond description. As there remains only a little more, I believe loyal service is essential. I will speak of this again later. With fear and respect, humbly stated.   November 14th           Abbot of Rinzai-ji Temple in Suruga Province                       Sessai   Lord Amano Aki-no-kami       At your lodgings" This document also lacks a year designation, so there are various theories about it as well, but the fact that the attack on Tahara occurred on the fifth day of the ninth month of Tenbun 16 and that Amano Aki-no-kami participated in it can be proven by a separate letter of appreciation that Yoshimoto sent to Amano at this time. However, as it would be too complicated to include, I will not reproduce that letter of appreciation here, but there are other reliable primary historical sources as well. 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          51