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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 40

ページ: 40

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【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十二 【本文】       からソレ等(ら)の事実(じじつ)と対照(たいせう)して右(みぎ)の文書(ぶんしよ)が天文十六年のものであると云ふ事は明(あきら)かである従(したがつ)て去年(きよねん)於吉(よしだ)        田城粉骨(ぜうにおいてふんこつ)の儀(ぎ)云々(うんぬん)とあるのは之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に述(の)べた十五年の吉田(よしだ)攻(ぜめ)と相対(あひたい)して益々(ます〳〵)其(その)事実(じじつ)を確(たしか)むること       が出来(でき)るのみならず三 州(しう)御陣な番(ごぢんばん)御苦労(ごくらう)云々(うんぬん)等(とう)の文意(ぶんい)より見れば昨年(さくねん)以来(いらい)安芸守(あきのかみ)は吉田城に留(とゞめ)て之(これ)を守(しゆ)        護(ご)して居つたものとも思(おも)はれるさサテ田原(たはら)に於(お)ける戸田氏は此(この)戦(たゝかい)に於て一 時(じ)敗亡(はいぼう)に皈(き)した状態(ぜうたい)となつた 《割書:田原戸田と|二連木戸田》  のであるが此処(こゝ)が田原(たはら)戸田と二 連木(れんぎ)戸田と判然(はんぜん)両家(れうけ)の相分(あひわか)れた処で其後(そのご)前(まへ)に述(の)べた康光(やすみつ)の弟(おとゝ)忠政(たゞまさ)が西       三河で松平氏の為(ため)に忠義(ちうぎ)を立(た)て子(こ)忠次(たゞつく)を経(へ)尊次(たかつぐ)の時に及び家康(いへやす)の為(ため)に再(ふたゝ)び田原に封(ほう)せられて諸侯(しよこう)の列(れつ)       に入つたのが所謂(いはゆる)後世(こうせい)の田原戸田になるので維新(ゐしん)の当時(とうじ)下野国(しもつけのくに)宇都宮(うつのみや)の城主(ぜうしゆ)であられたのは即(すなは)ち其(その)末(まつ)        孫(そん)である又(ま)た二 連木(れんぎ)に城(しろ)を搆(かま)へた冝光(よしみつ)は幸(さいはひ)に此(この)天文十五十六 両度(れうど)の戦(たゝかひ)に影響(えいけう)を受(うけ)なかつたので依然(いぜん)        其(その)城(しろ)を保(たも)つて居(を)つたのであるが此家(このいへ)が即(すなは)ち二 連木(れんぎ)戸田であるので其(その)子孫(しそん)は維新(ゐしん)当時(とうじ)信州(しんしう)松本(まつもと)の城主(ぜうしゆ)で       あつたのである尚(な)ほ申添(もうしそ)へたいのは政光(まさみつ)の弟(おとゝ)吉光(よしみつ)の事で此人(このひと)は天文十六年 田原(たはら)落城(らくぜう)後(ご)田原(たはら)在(ざい)の加治(かぢ)に 浪の上戸田 居つたが後(のち)又(ま)た二 連木(れんぎ)に移(うつ)つて永禄(えいろく)八年九月廿五日に死去(しきよ)したので八 名郡(なぐん)浪(なみ)の上(うへ)の正円寺(せうゑんじ)に葬(ほうむ)つたの       である俗(ぞく)に浪(なみ)の上(うへ)の戸田と呼(よ)ぶのは即(すなは)ち此人(このひと)の家(いへ)である       ● 補遺(●●) 牧野古白(○○○○)の(○)戦死(○○○)に(○)就(○)て(○)          牧野古白(まきのこはく)の戦死(せんし)は永正三年の十一月三日で之(これ)    に   就(つい)ては今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)と松平長親(まつだひらながちか)逆襲(ぎやくしう)説(せつ)との二         説ある事は既(すで)に前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述べた如くであるが此年(このとし)の八月廿日から廿二日にかけて今川(いまがは)松平(まつだひら)         二氏の間(あひだ)に矢矧川(やはぎがは)の戦(たゝかひ)があつて今川(いまがは)勢(ぜい)が不利(ふり)となり遂(つひ)に軍(ぐん)を今橋(いまはし)迄(まで)収(をさ)め次で駿河(するが)に引退(ひきの)いたの         で此(この)戦(たゝかひ)に古白(こはく)は今川(いまがは)勢(ぜい)に属(ぞく)して居(を)るから寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)が古白(こはく)戦死(せんし)に関(かん)して松平長親(まつだひらながちか)逆襲(ぎやくしう)説(せつ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百五十二号附録   ( 明治四十四年五月九日発行 ) 【本文】         を取(と)つたのは従(したが)ふべきであると云ふ事も之(これ)亦(ま)た其(その)章(せう)に於て申述(もうしの)べた如(ごと)くである併(しか)し額田郡(ぬかたぐん)桑子村(くわこむら)          妙源寺(めうげんじ)の文書(もんしよ)を引(ひ)いて尚(な)ほ其(その)間(あひだ)に疑(うたがひ)の存(ぞん)することも又(ま)た当時(とうじ)申述(もうしの)べて置いた処である然(しか)るに其後(そのご)         三 上文学博士(かみぶんがくはかせ)並(ならび)に文学士(ぶんがくし)渡邊世祐氏の好意(こうゐ)によつて東京文科大学(とうけうぶんくわだいがく)史料編纂係(しれうへんさんかゝり)所蔵(しよぞう)の文書(もんしよ)で此(この)事実(じじつ)         に対し頗(すこぶ)る証拠(せうこ)となるべきものを見(み)ることを得(う)るに至(いた)つたのである之(これ)は史料編纂係(しれうへんさんかゝり)に於ても偶然(ぐうぜん)に          得(え)られた文書(もんしよ)で又た極(きは)めて最近(さいきん)の事である而(しか)して此(この)文書(もんしよ)の所持者(しよぢしや)は美作国(みまさかのくに)の人で伊達某(だてなにがし)と云つて          古(ふる)くは旧(きう)仙台侯(せんだいこう)の伊達氏(だてし)と祖先(そせん)を一にする家であると伝(つた)へられて居るが此(この)文書(もんしよ)は即(すなは)ち其(その)祖先(そせん)の伊(だ)          達蔵人丞(てくらんどのぜう)と云ふ人が永正(えいせう)年中(ねんちう)三河国に住(ぢう)して今川氏の為(ため)に働(はたら)いたので今川氏親(いまがはうぢちか)並(ならび)に北条早雲(ほうでうさううん)から          与(あた)へられた感状(かんぜう)である今(いま)其(その)全文(ぜんぶん)を掲(あ)ぐれば左(さ)の如(ごと)くである          於今度三州陣抽而令粉骨由候神妙尤感悦候於向後弥可走廻候段喜悦候猶朝比奈弥三郎可申聞候          恐々謹言            十一月十六日                  氏     親 (花押)               伊 達 蔵 人 丞 殿          今度於参州十月十九日合戦当手小勢之処預御合力候祝着候御粉骨無比類の段屋形様に申入候猶          ゟ朝比奈弥三郎方可有伝聞候恐々謹言            十一月十一日                    宗       瑞               伊 達 蔵 人 丞 殿          右(みぎ)の内(うち)宗瑞(そうずゐ)とある文書(もんしよ)は段々(だん〴〵)に調査(てうさ)して見ると不思議(ふしぎ)なことには既(すで)に三 河古文書(かはこぶんしよ)と云ふ書物(しよもつ)の中(なか)に          収録(しうろく)せられて居るので旧来(きうらい)既(すで)に世に知(し)られて居(を)つたものと見(み)ゆるのである而(しか)して前(ぜん)の氏親(うぢちか)の文書(もんしよ) 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十二 【本文】 からそれらの事実と対照してこの文書が天文十六年のものであるということは明らかである。従って「去年吉田城において粉骨の儀」云々とあるのは、これもまた前に述べた十五年の吉田攻めと相対して益々その事実を確かめることができるのみならず、「三州御陣番御苦労」云々等の文意より見れば、昨年以来安芸守は吉田城に留めてこれを守護していたものとも思われる。 さて田原における戸田氏はこの戦いにおいて一時敗亡に帰した状態となったのであるが、ここが田原戸田と二連木戸田と判然両家の相分かれた処で、その後前に述べた康光の弟忠政が西三河で松平氏のために忠義を立て、子忠次を経、尊次の時に及び家康のために再び田原に封せられて諸侯の列に入ったのが所謂後世の田原戸田になるので、維新の当時下野国宇都宮の城主であられたのは即ちその末孫である。 また二連木に城を構えた宜光は幸いにこの天文十五・十六両度の戦いに影響を受けなかったので、依然その城を保っていたのであるが、この家が即ち二連木戸田であるので、その子孫は維新当時信州松本の城主であったのである。 なお申し添えたいのは政光の弟吉光の事で、この人は天文十六年田原落城後田原在の加治にいたが、後また二連木に移って永禄八年九月二十五日に死去したので、八名郡浪の上の正円寺に葬ったのである。俗に浪の上の戸田と呼ぶのは即ちこの人の家である。 ● 補遺 牧野古白の戦死について 牧野古白の戦死は永正三年の十一月三日で、これについては今川氏親攻撃説と松平長親逆襲説との二説ある事は既に前章に詳しく申し述べた如くであるが、この年の八月二十日から二十二日にかけて今川・松平二氏の間に矢矧川の戦いがあって今川勢が不利となり、遂に軍を今橋まで収め、次で駿河に引退いたので、この戦いに古白は今川勢に属しているから、寛政重修諸家譜が古白戦死に関して松平長親逆襲説 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百五十二号附録   ( 明治四十四年五月九日発行 ) 【本文】 を取ったのは従うべきであるということも、これもまたその章において申し述べた如くである。しかし額田郡桑子村妙源寺の文書を引いて、なおその間に疑いの存することもまた当時申し述べて置いた処である。 然るにその後三上文学博士並びに文学士渡邊世祐氏の好意によって、東京文科大学史料編纂係所蔵の文書で、この事実に対し頗る証拠となるべきものを見ることを得るに至ったのである。これは史料編纂係においても偶然に得られた文書で、またた極めて最近の事である。 そしてこの文書の所持者は美作国の人で伊達某といって、古くは旧仙台侯の伊達氏と祖先を一にする家であると伝えられているが、この文書は即ちその祖先の伊達蔵人丞という人が永正年中三河国に住して今川氏のために働いたので、今川氏親並びに北条早雲から与えられた感状である。今その全文を掲げれば左の如くである。 「今度三州陣において抽んでて粉骨せしめ候由、神妙尤も感悦候。向後において弥々走り廻るべく候段、喜悦候。なお朝比奈弥三郎申し聞くべく候。恐々謹言   十一月十六日                  氏親(花押)         伊達蔵人丞殿」 「今度参州において十月十九日合戦、当手小勢の処、御合力を預かり候、祝着候。御粉骨比類無きの段、屋形様に申し入れ候。なおより朝比奈弥三郎方伝聞有るべく候。恐々謹言   十一月十一日                    宗瑞         伊達蔵人丞殿」 この内宗瑞とある文書は段々に調査して見ると、不思議なことには既に三河古文書という書物の中に収録されているので、旧来既に世に知られていたものと見ゆるのである。そして前の氏親の文書 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十三

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion     (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          52 【Main text】 Therefore, comparing with these facts, it is clear that this document dates to Tenbun 16. Consequently, the passage "regarding last year's devoted efforts at Yoshida Castle" corresponds with the previously mentioned attack on Yoshida in the 15th year, further confirming these facts. Moreover, from the meaning of phrases like "hardships of garrison duty in Mikawa Province," it appears that Aki-no-kami had been stationed at Yoshida Castle since the previous year to guard it. Now, the Toda clan at Tahara fell into a temporarily defeated state in this battle, but this was the point where the Tahara Toda and Ninrengi Toda clearly separated into two distinct houses. Subsequently, the previously mentioned Tadamasa, Yasumitsu's younger brother, demonstrated loyalty to the Matsudaira clan in western Mikawa, and through his son Tadatsugu, by the time of Takatsugu, was again enfeoffed at Tahara by Ieyasu and entered the ranks of feudal lords. This became the so-called later Tahara Toda, whose descendant was the lord of Utsunomiya Castle in Shimotsuke Province at the time of the Meiji Restoration. Also, Yoshimitsu, who built his castle at Ninrengi, fortunately was not affected by these battles of Tenbun 15 and 16, so he continued to maintain his castle. This house was the Ninrengi Toda, whose descendants were the lords of Matsumoto Castle in Shinano Province at the time of the Meiji Restoration. I would also like to add regarding Yoshimitsu, the younger brother of Masamitsu. After the fall of Tahara in Tenbun 16, this person lived in Kaji in the Tahara area, but later moved to Ninrengi and died on the 25th day of the 9th month of Eiroku 8, so he was buried at Shōen-ji temple in Nami-no-ue, Yana district. What is commonly called the Nami-no-ue Toda is precisely this person's house. ● Supplement: Regarding the Death in Battle of Makino Kohaku The death in battle of Makino Kohaku occurred on the 3rd day of the 11th month of Eishō 3, and regarding this, there are two theories - the Imagawa Ujichika attack theory and the Matsudaira Nagachika counterattack theory - as I have already explained in detail in the previous chapter. However, from the 20th to the 22nd of the 8th month of this year, there was a battle at the Yahagi River between the Imagawa and Matsudaira clans, where the Imagawa forces became disadvantaged and finally withdrew their army to Imahashi, then retreated to Suruga. Since Kohaku belonged to the Imagawa forces in this battle, the Kansei Chōshū Shokafu's adoption of the Matsudaira Nagachika counterattack theory regarding Kohaku's death in battle 【Left page】 【Margin】 Sanyō Shinpō No. 3752 Supplement   (Published May 9, Meiji 44) 【Main text】 should be followed, as I also stated in that chapter. However, I also mentioned at that time, citing documents from Myōgen-ji temple in Kuwako village, Nukata district, that doubts still remained in this matter. Subsequently, through the kindness of Dr. Mikami and Literature Scholar Watanabe Seisuke, I was able to examine documents in the collection of the Historical Materials Compilation Office of Tokyo Imperial University that serve as considerable evidence for these facts. These are documents that the Historical Materials Compilation Office obtained by chance, and this is also a very recent development. The owner of these documents is a person from Mimasaka Province surnamed Date, who is said to belong to a family that shares ancestors with the Date clan of the former Sendai domain. These documents are letters of appreciation given by Imagawa Ujichika and Hōjō Sōun to his ancestor, Date Kurando-no-jō, who lived in Mikawa Province during the Eishō period and worked for the Imagawa clan. The full texts are as follows: "Regarding this Mikawa campaign, your distinguished devoted efforts are most admirable and gratifying. That you will continue to work energetically in the future is also cause for joy. Asahina Yazaburō will inform you further. With fear and respect, humbly stated.   November 16th                  Ujichika (seal)         Lord Date Kurando-no-jō" "Regarding this time in Mikawa Province, the battle on October 19th - though our forces were small, we received your military support, which was most welcome. Your incomparable devoted efforts have been reported to our lord. Asahina Yazaburō will convey further information. With fear and respect, humbly stated.   November 11th                    Sōzui         Lord Date Kurando-no-jō" Among these, the document signed "Sōzui," upon gradual investigation, strangely appears to have already been included in a book called "Mikawa Old Documents," so it seems to have been known to the world previously. And the earlier document by Ujichika 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion     (Ninrengi Castle and the Toda Clan)          53