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【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 五十六
【本文】
るが今橋城(いまはしぜう)は前(まへ)にも述(の)べた如(ごと)く永正二年に落城(らくぜう)したものであるから文亀(ぶんき)元年(がんねん)は築城前(ちくぜうぜん)四年に当(あた)る
ので前(まへ)の如(ごと)く矢矧川(やはぎがは)合戦(がつせん)を文亀(ぶんき)元年(がんねん)とすると当時(とうじ)今川氏(いまがはし)の軍勢(ぐんぜい)が此処(こゝ)迄(まで)引上(ひきあ)げたと云ふ時には果(はた)
して如何(いか)なる状態(ぜうたい)であつたか之(これ)に就(つい)ては又(ま)た更(さら)に新問題(しんもんだい)が起(おこ)る訳(わけ)であるモツトモ当時(とうじ)と雖(いへど)も既(すで)に
此地(このち)が古白(こはく)の勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)であつた事は事実(じじつ)でソレは明応六年に此地(このち)の神明宮(しんめいぐう)を古白が造営(ざうえい)して其時(そのとき)
の棟札(むなふだ)が今(いま)も尚(なほ)存在(そんざい)するのでも証拠(せうこ)立(だ)てらるゝのである右(みぎ)は尚(な)ほ余程(よほど)の研究(けんきう)を要(えう)する問題(もんだい)で速断(そくだん)
は出来(でき)ぬのであるが兎(と)に角(かく)之(これ)迄(まで)に調査(てうさ)した結果(けつくわ)は此際(このさい)申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ尚(な)ほ序(ついで)だか
ら申述(もうしの)ぶるが宗長手記(そうてうしゆき)に「義忠(よしたゞ)帰国(きこく)途中(とちう)の凶事(けうじ)廿余年にや氏親(うぢちか)入国(にふこく)静謐(せいひつ)とはいへども隣国(りんこく)の凶徒(けうと)
等(ら)絶(た)ゆることなし三 河国(かはのくに)境(さかひ)舟方(ふながた)と云ふ山に味方(みかた)あり田原弾正忠(たはらだんぜうちう)、 諏訪信濃守(すはしなのゝかみ)以下(いか)浪人衆(らうにんしう)催(もよほ)し舟方(ふながた)
の城(しろ)討落(うちおと)す城守(しろもり)多末又(たすえまた)三 郎(らう)討死(うちじに)す敵(てき)此(この)城(しろ)を持(も)つ泰以(やすゆき)時(とき)を移(うつ)さず浜名(はまな)の海(うみ)渡海(とかい)して則(すなはち)打落(うちおと)し数輩(すうはい)
討捕(うちとり)則(すなはち)奥郡(おくごほり)過半(くわはん)発向(はつこう)して懸川(かけがは)に皈城(きぜう)」と云ふことがある之(これ)は大永二年の条(くだり)に書(か)いてはあるが昔(むかし)
物語(ものがたり)として記(しる)されたものであるソコで此(この)事実(じじつ)に就(つい)て考(かんが)へて見(み)ると此(この)舟方(ふながた)と云ふ処は今(いま)の雲(う)の谷(や)の
普門寺(ふもんじ)のある山で其(その)当時(とうじ)其処(そこ)に今川氏(いまがはし)の城(しろ)があつたものである然(しか)るに今川氏親(いまがはうぢちか)の父(ちゝ)義忠(よしたゞ)は文明九
年 不慮(ふりよ)の凶変(けうへん)で討死(うちじに)し其後(そのご)国(くに)が乱(みだ)れたがヨウ〳〵 其子(そのこ)の氏親(うぢちか)が入国(にふこく)し漸(やうや)く静謐(せいひつ)に皈(き)したにも拘(かゝは)ら
ず尚(な)ほ隣国(りんこく)に国境(こくけう)を窺(うかゞ)ふものがあつて此(この)舟方(ふながた)の城(しろ)は陥落(かんらく)したものであると云ふことになるのである
而(しか)して此(この)田原弾正忠(たはらだんぜうちう)とあるのは勿論(もちろん)戸田憲光(とだのりみつ)の事で泰以(やすゆき)と云ふのは掛川(かけがは)の城主(ぜうしゆ)朝比奈泰能(あさひなやすよし)の叔父(おぢ)
で今川氏の将(せう)であつたが泰能(やすよし)がまだ年少(ねんせう)であつたので之(これ)を補佐(ほさ)して居(を)つたものである即(すなは)ち宗長手(そうてうしゆ)
記(き)の文(ふみ)と憲光(のりみつ)泰以(やすゆき)など関係者(かんけいしや)の時代(じだい)から推(お)すと此(この)事実(じじつ)は永正十二三年頃の事のように見(み)ゆるので
あるが宗長手記(そうてうしゆき)の記事(きじ)も年代(ねんだい)に関(かん)しては漠然(ばくぜん)として居るので確(たしか)には云ひ兼(か)ぬるのである兎(と)に角(かく)其(その)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百五十八号附録 ( 明治四十四年五月十六日発行 )
【本文】
頃(ころ)憲光(のりみつ)は二 連木(れんぎ)城(ぜう)をも其(その)勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)として居(を)つたのであるから其(その)隣境(りんけう)なる舟方(ふながた)を攻(せ)めたものと信(しん)せ
られる従(したがつ)て前に述べた如く永正(えいせう)三 年(ねん)古白(こはく)の戦死(せんし)を以て今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)に帰(き)し其(その)原因(げんゐん)を憲光(のりみつ)の讒(ざん)
言(げん)であつたと云ふ事にすると戸田氏(とだし)の今川氏(いまがはし)に対(たい)する態度(たいど)は永正(えいせう)の初年(しよねん)だけは相(あい)近(ちかづ)いて居(を)つたも
のと見(み)ねばならぬが其(その)前後(ぜんご)は孰(いづ)れも敵対(てきたい)して居(を)つたものとなすべきであると思ふう右(みぎ)は前(まへ)に述(の)べ
て置(お)いた各章(かくせう)に対(たい)して参考(さんこう)となる事であると思ふから茲(こゝ)に補遺(ほゐ)として付(つ)け加(くは)へた次第(しだい)である
◉今川義元と吉田
扨(さて)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く吉田(よしだ)の城(しろ)は天文十五年に今川義元(いまがはよしもと)の為(た)めに領有(れうゆう)せられ次(つい)で其(その)翌(よく)十六年には田原(たはら)
城(ぜう)も亦(ま)た其(その)占領(せんれう)する処となつたので田原(たはら)戸田(とだ)の一 族(ぞく)は一 時(じ)離散(りさん)するに至(いた)つたのであるが今川家(いまがはけ)からは
新(あらた)に城代(ぜうだい)を此(この)吉田(よしだ)田原(たはら)両城(れうぜう)に置いて東三河を鎮圧(ちんあつ)したのである而(しか)して岡崎(をかざき)の松平氏(まつだひらし)は其(その)当時(とうじ)如何(いか)なる
《割書:松平広忠卒|去》 状態(ぜうたい)であつたかと云ふに天文十八年三月六日に当主(とうしゆ)松平広忠(まつだひらひろたゞ)は年僅(としわづか)に二十四で病(やまひ)を以て卒去(そつきよ)したので
あるが其子(そのこ)の竹千代(たけちよ)は尚(な)ほ尾張(をはり)に抑留(よくりう)せられて居(を)つたのである然(しか)るに今川義元(いまがはよしもと)は屡々(しば〳〵)兵(へい)をに西三河に出
して松平氏(まつだひらし)を助(たす)け尾張(をはり)の織田氏(をたし)と合戦(かつせん)をしたので其(そ)の年(とし)即(すなは)ち天文十八年の十一月には安祥(あんしやう)の城(しろ)に攻(せ)め
寄(よ)せて遂(つひ)に之(これ)を陥(おとしい)れたのである其時(そのとき)安祥(あんしやう)の城(しろ)には織田信広(をたのぶひろ)が居(を)つたが織田氏(をたし)に於(おい)ても信秀(のぶひで)は此春(このはる)既(すで)
に死(し)し信長(のぶなが)が相続(そうぞく)したので此(この)信広(のぶひろ)と云ふのは即(すなは)ち信長(のぶなが)の庶兄(しよけい)であるから此時(このとき)今川方の総将(そうせう)たる彼(か)の雪(せつ) 斎(さい)の計(はか)らいで其(その)信広(のぶひろ)と竹千代(たけちよ)とを互(たがひ)に交換(こうかん)しようと云ふ事を織田家(をたけ)に申込(もうしこ)んだのであるソコで信長(のぶなが)に
《割書:竹千代岡崎|に帰り更に》 於(おい)ても色々(いろ〳〵)考(かんが)ふる処(ところ)があつたのであろうが遂(つひ)に其(その)旨(むね)を承諾(せうだく)して竹千代と信広(のぶひろ)とを交換(こうかん)する事となつた
《割書:駿河に質た|り》 のである即(すなは)ち其(その)年(とし)の十一月十日に笠寺(かさでら)と云ふ処で引渡(ひきわたし)が済(す)むで竹千代は初(はじ)めて故郷(こけう)の岡崎(をかざき)に帰(かへ)る事が
【欄外】
豊橋市史談 (今川義元と吉田) 五十七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 五十六
【本文】
るが、今橋城は前にも述べたように永正二年に落城したものであるから、文亀元年は築城前四年にあたるので、前のように矢矧川合戦を文亀元年とすると、当時今川氏の軍勢がここまで引き上げたという時には、果たしてどのような状態であったか、これについては又た更に新問題が起こる訳である。
もっとも当時といえども、既にこの地が古白の勢力範囲であった事は事実で、それは明応六年にこの地の神明宮を古白が造営して、その時の棟札が今もなお存在するのでも証拠立てられるのである。
右はなお相当の研究を要する問題で速断は出来ないのであるが、兎に角これまでに調査した結果は、この際申し述べて置く必要があると思う。
なお序でだから申し述べるが、宗長手記に「義忠帰国途中の凶事二十余年にや氏親入国静謐とはいえども隣国の凶徒等絶えることなし。三河国境船方という山に味方あり。田原弾正忠、諏訪信濃守以下浪人衆催し船方の城討ち落とす。城守多末又三郎討死す。敵この城を持つ泰以、時を移さず浜名の海渡海して則ち打ち落とし数輩討ち取り、則ち奥郡過半発向して掛川に帰城」ということがある。これは大永二年の条に書いてはあるが昔物語として記されたものである。
そこでこの事実について考えて見ると、この船方という処は今の雲谷の普門寺のある山で、その当時そこに今川氏の城があったものである。然るに今川氏親の父義忠は文明九年不慮の凶変で討死し、その後国が乱れたが、ようやくその子の氏親が入国し漸く静謐に帰したにも関わらず、なお隣国に国境を窺うものがあって、この船方の城は陥落したものであるということになるのである。
そしてこの田原弾正忠とあるのは勿論戸田憲光の事で、泰以というのは掛川の城主朝比奈泰能の叔父で今川氏の将であったが、泰能がまだ年少であったのでこれを補佐していたものである。即ち宗長手記の文と憲光・泰以など関係者の時代から推すと、この事実は永正十二三年頃の事のように見えるのであるが、宗長手記の記事も年代に関しては漠然としているので確かには言い兼ねるのである。兎に角その
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百五十八号附録 ( 明治四十四年五月十六日発行 )
【本文】
頃憲光は二連木城をもその勢力範囲としていたのであるから、その隣境なる船方を攻めたものと信せられる。従って前に述べたように永正三年古白の戦死をもって今川氏親攻撃説に帰し、その原因を憲光の讒言であったということにすると、戸田氏の今川氏に対する態度は永正の初年だけは相近づいていたものと見ねばならぬが、その前後はいずれも敵対していたものとなすべきであると思う。
右は前に述べて置いた各章に対して参考となる事であると思うから、ここに補遺として付け加えた次第である。
◉今川義元と吉田
さて前にも申し述べたように、吉田の城は天文十五年に今川義元のために領有され、次いでその翌十六年には田原城も又たその占領する処となったので、田原戸田の一族は一時離散するに至ったのであるが、今川家からは新たに城代をこの吉田・田原両城に置いて東三河を鎮圧したのである。
そして岡崎の松平氏はその当時いかなる状態であったかというに、天文十八年三月六日に当主松平広忠は年僅かに二十四で病を以て卒去したのであるが、その子の竹千代はなお尾張に抑留されていたのである。
然るに今川義元は屡々兵を西三河に出して松平氏を助け、尾張の織田氏と合戦をしたので、その年即ち天文十八年の十一月には安祥の城に攻め寄せて遂にこれを陥れたのである。その時安祥の城には織田信広がいたが、織田氏においても信秀はこの春既に死し信長が相続したので、この信広というのは即ち信長の庶兄であるから、この時今川方の総将たる彼の雪斎の計らいで、その信広と竹千代とを互いに交換しようということを織田家に申し込んだのである。
そこで信長においても色々考える処があったのであろうが、遂にその旨を承諾して竹千代と信広とを交換する事となったのである。即ちその年の十一月十日に笠寺という処で引き渡しが済んで、竹千代は初めて故郷の岡崎に帰る事が
【欄外】
豊橋市史談 (今川義元と吉田) 五十七
英語訳
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Ninrengi Castle and the Toda Clan) 56
【Main text】
but since Imahashi Castle fell in Eishō 2 as previously mentioned, Bunki 1 would be four years before its construction. Therefore, if we date the Yahagi River battle to Bunki 1 as before, when the Imagawa forces withdrew to this point, what condition was it in at that time? This raises yet another new problem for investigation.
However, it is a fact that even at that time, this area was already within Kohaku's sphere of influence, which can be proven by the fact that Kohaku built the Shinmei Shrine in this area in Meiō 6, and the ridge beam inscription from that time still exists today.
The above is a problem requiring considerable research and cannot be hastily concluded, but I think it is necessary to present the results of investigations up to this point on this occasion.
Incidentally, I should mention that the Sōchō Memoir states: "Twenty-some years after the tragic incident during Yoshitada's return to his domain, Ujichika entered the domain and though it became peaceful, violent groups from neighboring provinces did not cease. There were allies at a mountain called Funakata on the Mikawa border. Tahara Danjō-chū, Suwa Shinano-no-kami and other rōnin assembled and attacked and captured Funakata castle. The castle keeper Tasue Matasaburō died in battle. The enemy held this castle, but Yasuyuki immediately crossed the sea at Lake Hamana, captured it, killed several people, and then more than half of the rear districts advanced and returned to Kakegawa castle." This is written in the section for Daiei 2, but recorded as an old tale.
Considering this fact, this place called Funakata is the mountain where Fumon-ji temple in present-day Unno-ya is located, and at that time there was an Imagawa castle there. However, Imagawa Ujichika's father Yoshitada died in battle in an unexpected incident in Bunmei 9, and though the domain was in disorder afterward, his son Ujichika finally entered the domain and gradually restored peace, yet there were still those in neighboring provinces who sought to spy on the borders, and this Funakata castle fell.
This Tahara Danjō-chū mentioned is of course Toda Norimitsu, and Yasuyuki was the uncle of Kakegawa castle lord Asahina Yasuyoshi and a general of the Imagawa clan, but since Yasuyoshi was still young, he was assisting him. Judging from the text of the Sōchō Memoir and the era of the related persons like Norimitsu and Yasuyuki, this fact seems to have occurred around Eishō 12-13, but since the records in the Sōchō Memoir are vague regarding dates, we cannot say for certain. In any case, at that
【Left page】
【Margin】
San'yō Shinpō No. 3,758 Supplement (Published May 16, Meiji 44)
【Main text】
time, Norimitsu had Ninrengi Castle within his sphere of influence, so it is believed he attacked the neighboring Funakata. Therefore, if we accept the Imagawa Ujichika attack theory based on Kohaku's death in battle in Eishō 3 as mentioned before, and attribute its cause to Norimitsu's slander, then the Toda clan's attitude toward the Imagawa must be seen as having been close only in the early years of Eishō, but hostile both before and after.
The above is added here as a supplement because I believe it serves as reference material for the various chapters mentioned previously.
◉Imagawa Yoshimoto and Yoshida
Now, as I mentioned before, Yoshida castle was taken possession of by Imagawa Yoshimoto in Tenbun 15, and then in the following year, Tenbun 16, Tahara castle also came under his occupation. The Tahara Toda clan temporarily scattered, but the Imagawa family newly placed castle deputies in both Yoshida and Tahara castles to suppress eastern Mikawa.
As for what condition the Matsudaira clan of Okazaki was in at that time: on the 6th of the 3rd month of Tenbun 18, the head of the family, Matsudaira Hirotada, died of illness at the young age of twenty-four, while his son Takechiyo was still detained in Owari.
However, Imagawa Yoshimoto frequently sent troops to western Mikawa to assist the Matsudaira and fought battles with the Oda of Owari. In that year, namely the 11th month of Tenbun 18, he attacked Anjō castle and finally captured it. At that time, Oda Nobuhiro was in Anjō castle, but in the Oda clan, Nobuhide had already died that spring and Nobunaga had succeeded him. Since this Nobuhiro was Nobunaga's elder half-brother, at this time the famous Sessei, who was the general commander of the Imagawa side, proposed to the Oda family to exchange Nobuhiro and Takechiyo.
Nobunaga must have had various considerations, but he finally agreed to the proposal and decided to exchange Takechiyo and Nobuhiro. On the 10th of the 11th month of that year, the exchange was completed at a place called Kasadera, and Takechiyo was finally able to return to his hometown of Okazaki
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Imagawa Yoshimoto and Yoshida) 57